わたしは古びたアパートの入り口に立って、ひと呼吸した。低所得者の多く住む市営住宅は、いつ通りかかっても寒々としている。それでも今の季節だけは神様の差別をのがれ、良い光と空気、澄んだ音に包まれる。
入り口におそるおそる首をつっこむと、冷えたコンクリートの匂いがした。互いにのめり込むようなつながりを持ったというのに、千絵の家を訪問するのはこれが初めてなのだ。
千絵が見つかったのは、さびれた駅のホームだった。ようすのおかしいのに気がついて、駅員さんがつれてきた。
脱走騒ぎでさぞかし怒られるだろうと思いながら病院へ戻ると、母が詰所へ入ってきた。ひとめ見てショックを受けた。
一週間もたたないうちに白髪だらけになり、しわも増えすぎている。きのうも見たはずの顔なのになぜ気づかなかったのか、どうしても分からなかった。
母は怒ってはいなかった。ただ疲れたような涙目で、
「お友達には会ったの?」
と尋ねただけだ。わたしは首を振った。
「ごめんなさい。見当ちがいのとこ探してた。千絵、死に場所を探して駅のホームで……」
最後まで言わないうちに母は倒れかけて、棚に背中を打った。
「飛び込んだの!?」
「保護された」
そのままへたりこむと、しばらく何も言わなかった。
電話が鳴っている。看護婦さんがとってしばらく話を聞いていたが、やがて送話口をおさえて振り向いた。
「藤木さん、お友達のお母さんが謝りたいって」
無言で手を伸ばす。受話器を耳にあてるとすすり泣きが聞こえた。
「ゆかちゃん……、千絵のこと助けてくれたんだって?」
一瞬答えられなかった。
「ありがとう……ごめんね。千絵、いま……電話に出られないから、先に謝っておくように言われて……」
わたしが千絵を助けた? そんな事実はない。千絵がわたしをかばっているんだろうか。
「千絵と、話がいつできますか」
おばさんは涙をぬぐったようだった。ザラザラとなでるような雑音が漏れてくる。
「あとでね。千絵と話してくれる? ゆかちゃん」
「ええ」
「じゃあ、あとでね。千絵と友達でいてね、ゆかちゃん」
「あの」
言いながら母をかえりみた。
「お母さん、千絵のお母さんに謝ってくれる?」
母は頭をうなだれた。薄くなったつむじが見える。やがて首を激しく振り、弱々しく呟いた。
「あとで、あとでね」
けっきょく母は、自分の嘘が引き起こした騒ぎについて誰にも謝らなかった。一夜明けると千絵が母親に連れられて見舞いにやってきたのだ。ナースステーションを素通りして、予告なしの訪問だった。
千絵の家は母子家庭だ。こんな騒ぎのあいだでも、なけなしの給料を支払ってくれる勤め先をそうそう休む訳にはいかないのだ、とおばさんは説明した。
「もう今日しか休みがとれなくて。書き入れ時の当番もあるし、これ以上子供たちのことで休むわけにはいかなくて」
わたしは一生懸命千絵の顔を見ようとしたが、千絵は恥じ入るようにうつむいたまま、どうしても頭をあげない。
「子供“たち”っていうのは、うちの子も入っているわけですね」
父は念を押すように言った。
「うちの子のためには、わざわざ休みをとらなくても結構でした」
母子のようすを交互に見ながら、父は口をとがらせていた。顎には梅干しのようなしわが寄っている。拳を固くして丸太のように体をすすめると、つっけんどんに尋ねかけた。
「今日、急に来てくれたっていうことだったんですけれども、娘さんはどういうことだったんですか?」
わたしは思わずベッドを叩いた。
「お父さん、きのう説明したでしょう?」
父は母を睨んで顎でしゃくった。母が顔をしかめてわたしに首を振って見せる。千絵のお母さんはぼんやりとこちらを向いた。どす黒い顔の中で、目だけが変に光っている。答える気があるのかないのか、なかなか反応を示さなかった。息をこらして待っていると、ぎこちなく口が開いた。
「この子、猫を飼ってやれないって言ったら急に家を飛び出して」
全員が言葉を失った。
まれに聞く奇妙な自殺報道はこういうことだったのだろうか。子供が首をつった理由を、「約束していた旅行に連れて行ってもらえなかったから」「お気に入りのアニメが終わってしまったから」などと言う。幼いゆえの衝動性だと専門家は説明するけれど、どこか嘘くさい。親に約束を守ってもらえるかどうかを試して、自分が必要とされているかどうかの判断をしなければならない子供の立場って、どういうものだろう。自分の居場所なんかどこにもないんだと諦めかけたとき、わずかに残された隙間のようなものが好きなテレビを見ている瞬間だったというのだろうか? 本当にそんな理由で死ぬのなら、よっぽど虐待されていたに違いない。いずれにしても彼らは馬鹿だったのではなく、切羽つまっていたんだと思う。
猫発言の意味をはかりかねて戸惑っていると、沈黙を破って千絵が怒鳴った。
「なに言ってるの、猫が飼えないからって人間が死ぬわけないじゃない!」
おばさんはビクッとうつむいた。
「なんでそんな恥しい言い訳するの? ゆかちゃんのせいにしたり猫のせいにしたり、あんまりよ。ゆかちゃんに謝ってよ!」
消灯台の安時計の音が、そこにいる全員をまな板に乗せて刻んでいるようだ。不意に頭がぐらぐらしてきた。馬鹿になったと思った。
(わたしのせいじゃないの? 千絵)
尋ねたいのに口が開かない。千絵は叩きつけるように叫んだ。
「お母さん、わたしのこと生まなきゃ良かったって言ったじゃない!」
おばさんは急に八十歳の老人になったようにわたしたちから目をそらした。耳が遠いから、呆けているからこみいった会話はできないのだ、同情してくれとでもいうように。
しばらくすると、疲れたような呟きがポツリと漏れた。
「お前、人様のまえで親のことそんな風に言うもんじゃないのに」
目の前が白くなるような衝撃だった。
千絵には千絵の理由があったのだ。
友達の気持ちは手にとるように分かっている。わたしを傷つけた償いをしようとしていたに違いない、などとはおごった見当違いだった。
それでも千絵は親だからというだけの理由であの人を愛し、友達だからというだけの理由で再びわたしに会うという。
アパートの階段を昇り、ドアのまえに立つ。うす汚れた表札が“有村”を示しているのが不思議な印象だ。千絵にも住処《すみか》があったのか。あたりまえのことなのに、なぜ衝撃を受けるのだろう。
呼び鈴を押すと、四十過ぎの女の人がドアを開けた。色は黒く、感じられる歳のわりにはしわが多い。首に走った筋がぴくぴく動いている。普通なら痛々しいと言われてもおかしくはない細った体からは、言い表せない何かが照射されている。これが千絵の叔母さんなのだろう。よく見れば、どことなく千絵に似ていた。
「いらっしゃあい」
大きくドアを開けすぎて前のめりになりながら、女の人は言った。
「こんにちは」
「ほれ千絵ちゃん、お友達。あんた待ってたでしょ」
「ちょっと待って!」
子供のように叫んだかと思うと、ばたばた音をたてて千絵が姿を現した。
「ゆかちゃん来たの? はいって、はいって」
いつもの態度からは考えられないはしゃぎように驚いて、お土産の花束を差し出したまま硬直してしまった。
「あー、……」
「なに?」
「これ……」
「あ、ありがとう。仏壇に供える花を持ってきてくれたのね」
ちょっと壊れたような声色で千絵は礼を言った。わたしは苦笑した。
「あんたなんでこれが仏花なのさ」
おばさんがすっぱりと叱りつける。
「お部屋に飾る花でしょうに。ほれ、赤いリボンのスイトピー」
「千絵が好きだっていうから、テーブルに飾ってケーキと紅茶って言ったでしょう!」
「そうだっけ? あ、紅茶っ! 叔母ちゃん、紅茶っ!」
千絵が騒ぎ立てた。
「なんなの?」
「紅茶買い忘れたの。すぐ行ってくるから!」
サンダルをつっかけて出ていこうとする千絵を呆れて見ていると、おばさんは優しく肩に手をかけてひきとめた。
「いいからいいから。お客さんを中に入れるまえに言うもんでないよ、そういうことは。叔母ちゃん買ってきてあげるから二人とも中へ入ってなさい。お土産も持ってくるからね」
まるで小学生の母親だと思いながら、つい後ろ姿に見入ってしまった。
「いい叔母さんだね」
「うん。好きなの。ゆかちゃんと会うのもすぐ許してくれたし」
対話がちょっと途切れた。両親はわたしたちをひきあわせると心中するかも知れないと思っている。だからこそ、嘘をついてまで千絵との接触を阻止しようとしたのだ。そんなことはしないからと強く言うと、悲しそうにため息をついて口を利かなくなった。そうすることによって、今までどおり娘を閉じこめておけると思ったのだろう。
「ゆかちゃんのお母さんは許してくれたの?」
「全然。でもあたし、もう一度だけは千絵に会わなきゃならなかった」
テーブルにスイトピーを飾りながら、わたしたちは柔かい花びらの色合いに見入っていた。
「千絵のお母さんは、少しはいいみたい?」
そっと口を切ると、花瓶の向きを整えていた手がピクリと動いた。ちょっとしてから千絵は首を振った。
「内科に入院しているけれども、主治医の先生は精神科なの」
「心療内科……」
「ウン。堂々と看板はあげていないけど、そういう病室だから」
作り笑いが沈んでいる。子供を送り込まずに自分が精神科にかかっただけ偉いじゃないか、とは、思っても言えないせりふだった。
千絵のお母さんが倒れたのは、あの騒ぎのすぐあとだ。女手ひとつで育ててくれた母親が家から消えると、千絵はとたんに元気になった。開放感と罪悪感のあいだを行き来して、少し疲れたみたいに見える。
「ねえゆかちゃん、ゆかちゃんもわたしがあの人から離れた方がいいと思う? 自分のことは自分でさせて、あれこれ心配してやらない方がいいと思う?」
千絵の目がわたしを見た。
「カウンセラーの先生がそう言うの」
「好きにしたらどうかな」
「そっか」
「きっとあたしたち、誰にどう言われても最後は自分の好きなようにしか生きない人種なんだよ。ふだんは弱虫をやってるくせにね。こんなつもりじゃなかった、こんなの望んだことじゃないって喚いて、諦めるなんてまっぴらごめんだと思ってる。
それが悪いこととは思わない。ただ――死なないように気をつけないと」
わたしたちは長いこと黙りこくっていた。凍っていた時間がゆるやかに巻き戻っていく。
「千絵、傷つけてごめんね」
その言葉を口にすると、奇妙な脱力感におそわれて座っているのも辛くなるほどだった。千絵は一瞬、目をつむった。
「傷つけたの、わたしの方だと思ってた」
「違う。千絵のせいじゃないよ」
馬鹿なわたしたちには優越感が必要だった。千絵はわたしをノイローゼで登校拒否で、自分が助けてやらなきゃダメな子だと思い、わたしは千絵を、年上のくせにわたし以上にアンバランスで、可哀想な母子家庭の出だとあわれむ。それは確かに友情ではない。だけど欲しいものを諦める努力は、得るための努力以上にくたびれるし報われないのだ。
だったらもう一度チャレンジしたっていいではないか? もっとましな友情を得るために。
「ごめんねゆかちゃん。お母さんがひどいこと言って。ゆかちゃんに言われたことはショックだったけれど、いまでは自分が悪かったって分かってるの」
千絵は頭をたれた。
「ごめんね……」
目のまえで体が小刻みに震えだした。
「わたしが飛び降りたのって、やっぱり生みの親に否定されたせいだったの。ゆかちゃんの方こそわたしのせいだったのに、ごめんね」
わたしはそっと千絵の腕に手をかけた。
「ねえ千絵」
お願いだから振り払わないで。少しのあいだだけ。
「学校へ行くか行かないかは、あたしが決めるよ」
千絵は驚いたように顔をあげた。涙のあとをさらしたままだった。
「あの人たちを許すか許さないかも、あたしが決める。だからもうあのときのことを、自分のせいにしないで欲しい」
春には珍しく、暑いような日だった。開け放した窓の外から、友達と呼び合う子供の声が遠くかすかに入ってくる。空気が暖かさを増すような不思議な響きをはらんでいた。
「千絵、あたし、死にかけているとき千絵に助けてもらったよ。千絵がつらい目にあってるから来て欲しいって、夢の中で言われた。まだ好きな人がこの世に残ってるって分かったの」
千絵は少しのあいだ黙っていたが、やがておずおずと尋ねた。
「だから帰ってきたの?」
「うん……たぶんね。千絵があたしに助けられたなんて、あべこべなんでちょっと辛いわ。あたしが責められないように、とっさに言ったんだろうけれど」
千絵は不意に音をたてて椅子から立ちあがると抱きついてきた。
「嘘じゃないんだよ」
首に巻きついた腕は、ひどく熱かった。
「わたし、確かにゆかちゃんに助けられた」
「まさか」
千絵は体をはなしてわたしを見た。なにを話そうとしているのか見当がつかなかった。
「言っても信じてもらえないと思って黙ってたんだけど、ホームのところに立っていたら、誰かが『あのひとを助けて下さい!』って叫んだの」
「誰かが?」
思わず聞き返した。誰かって誰が? その時刻、わたしは見当ちがいに林の中をうろうろしていた。
「その一瞬があったおかげで、わたし飛び込み損ねたの。おかしなこと言うけれど許してね。ゆかちゃんがそのときどこにいたかは知ってるの。でもわたしはゆかちゃんが止めてくれたと思ってる」
「それは別の誰かだよ。もしあたしが千絵を助けられたんなら嬉しいけど」
千絵は首を振った。
「それでもわたしはゆかちゃんだったと思ってる。だって」
「だって?」
「あのとき、わたしのほかにはホームに誰もいなかったのよ。それを確認してから飛び込もうとしたんだから。駅員さんも不思議がってたわ。誰が知らせたのか分からない、変だ変だって。
わたしはゆかちゃんの声だったと思ってる。声を寄こすだけで精一杯だったんだって。ゆかちゃんは信じなくても、わたしはなぜか信じてるのね」
「そんなことあるはずないのに、千絵……」
そんなこと、あるはずはないのに。けれど言ったとたんに力が抜けて、顔を覆って椅子の中に沈み込んでしまった。
誰だって魔王か魔女なのだ。容赦のないひとことで大切な人にさえ呪いをかける。そうしていつの間にか自分自身を縛ってしまうのだ。
だからこそ解呪の言葉も胸のうちにある。それを見いだす喜びを知った。わたしは魔女でかまわない。
玄関が音をたてて、千絵の叔母さんが帰ってきたようだ。なにやら小さく、金属がカシャカシャいっていた。
「ほれ千絵ちゃん、ちょうどいいタイミングだったから連れてきたよ。あんたのお母さんにも頼まれたし――」
千絵が慌てて立ちあがり、
「まだ連れてきちゃダメ! 先に言ってから」
と制した。
「ゆかちゃんを驚かすんだから」
「ああ、はいはい」
わたしは意味が分からずに振り返った。
「なあに?」
「猫を飼うことにしたの。それでもって、名前をゆかちゃんにつけてもらおうと思って」
わたしはしばらく呆けていた。
「それってもしや、白にアイボリーグレーのぶち猫じゃないでしょうね」
「うーんと、それはねえ」
玄関口から待ちぼうけをくらったおばさんが、
「うす茶にこげ茶のトラ猫!」
と応じた。わたしは思わず吹き出した。
「名前……。あたし、すぐにつけられるよ」
「どんなの?」
その言葉と同時に、ケージをあける音が高く響いた。
太陽の香りが流れ込んであたりを包む。にれの梢の揺れる音。窓枠をはめた光のうえを、柔かい影が駆けてくる。
そしてわたしたちは、シラブルに出会った。
【おわり】 2003.1.19