黙っていると怒ったように人影が言った。
「なんで返事しないのよ!」
スカートのプリーツをさばいて髪を巻いたコが入ってくる。
「杉山ちゃん、どうしたの」
「このコ」
と、杉山初美があごでこちらを指した。
「話しかけても返事しないの。ムシするんだよォ」
「ホントにィ? ひどぉい」
「ホントだったらこんな人に話しかけたりしないよね。先生が言うから仲良くしようとしてあげてるのに、なあに?」
「このひとのせいでクラス全員いじめの犯人扱いされたよね。みんな傷ついたわ」
声がひときわ高くなった。ひかれるようにクラスの女子がやってきて、窓を背にしたわたしを取り囲んだ。
「なに? また人を傷つけるようなこと言ってるの?」
面白そうに茶化したのが誰だったか思い出せない。おそらくはそのせいだろう。いまの言葉は完全に頭のうえの空中から響いた。しかし、その声自体がクラスメイトの一員だと誰もがごく自然に受けとめているようだ。
「みんな傷ついたよね、きのうの放課後」
初美の腰巾着《こしぎんちゃく》が甲高く同意を求めた。笹井……名前の方はなんだっけ。
「人を怒らせといて、怒られたら先生に言いつければいいと思ってるんだから、このひとほんとに高校生?」
「恥しくないのかな」
「わたし藤木さんのことなんかいじめたことないのに」
女の汗の臭いがコロンに混じってたちのぼってくるのが分かった。
「そうだよね。それなのに反省なんかさせられて」
「なんでわたしが反省しなくちゃならないの? 先生に注意されたじゃない」
うるさいおまえは反省しろ。私語して注意されたんじゃないかと思ってから気がついた。どういうことだろう? 本当に昨日のことのように、こんなに細かい記憶がよみがえってくるなんて。これは現実ではないはずなのに。
三田裕介がサッカーボールを手に教室に入ってくると、こちらのようすに目をとめた。
「おまえらいい加減にしろよ」
杉山初美がふくれっ面をした。
「そうだよねぇ」
笹井が奇妙に納得したような猫撫で声を出す。
「やめないと、また先生にいいつけられちゃう」
「自分の方が先にムシしたんだよ?」
「それでも言いつけられたらおしまいでしょう?」
「それもそうだね」
人垣が割れて散りはじめる。逃げなくては。
囲みから出ていこうとすると、後ろから片桐真美が出てきて内気な笑みを向けた。
「だいじょうぶ?」
手をのべられると涙がにじんでくる。うつむいてそばに行くと、急に腕に痛みがはしった。気を許した瞬間に後ろからつねられたのだ。そうと気づくのに一瞬おくれ、慌てて振り返ったときには誰もこちらを見ていなかった。誰がしたとも分からない。片桐真美の後ろ姿が去っていく。陽動作戦だったのだろうが、証拠はない。ときどき、ほんとうに被害妄想にかかっているのだろうかと自信がなくなる。誰もわたしのような落伍者ではないのだし。
チャイムが鳴った。誰かが低く
「どうして精神科にかかってるからってみんなを振り回すんだよ」
とつぶやいてから席に着いた。
家へ帰って、わたしは泣きながら千絵に電話をかけた。
「もう嫌だ! もう学校なんか行きたくない!」
蝶の一件があってから少しして、わたしたちはお互いに友達のいない者同士だということに気がついた。ほかの子は同じ学校の同じ学年の人間としかつきあえないのに、呼び捨てにさせてくれる年上の他校生が友達だというのは、ささやかな優越感だ。少しの沈黙のあと、千絵が困ったように
「それでも学校へ行こうよ、ゆかちゃん」
と言った。
「だって、明らかにあいつらみんなぐるだったよ。片桐なんか一対一じゃまともにものも言えないくせに、多勢に無勢になったとたんにあんな卑怯なことして! しかも自分の手を汚してないんだよ?」
「そんなこと言っちゃだめだよ。まともにものも言えないとか卑怯とか、ゆかちゃんちょっと激しすぎるんだよ。悪い子じゃないのに、それで損してるのよ。もっと優しい言い方すればだいじょうぶなのに。……ね?」
「どうして? どうして!?」
分からない。
「どうしてあんなひどいことする奴らに、優しいものの言い方なんかしなくちゃいけないわけ? あいつらがあたしに何かひとつでも優しいこと言ってくれたっていうの? 優しくなんかないよ! みんな汚いことしか言わないよ!」
どうしても分からない。声をあげて激しく泣きじゃくった。
千絵はなにも言わなかった。受話器の向こうで戸惑っているのが分かる。ひょっとしてわたし、嫌われた? ひとりしかいない友達に? 親ですら分かってくれないのに、千絵に嫌われたら……。
「ゆかちゃん、自分自身のために、そんなに荒れるのはやめようよ。ほんとにこのままだと大変なことになっちゃうよ? こんなに辛いんだから、自分だけは誰かをいじめたりしないって言ってたでしょう? 誰かがいじめられてたら優しくしてあげるんでしょう?」
千絵はひと呼吸いれてからつけくわえた。
「……その心の部分を失ってしまうよ」
頭が真っ白になった。
その部分を失ってしまったら自分自身だと言えるのだろうか? 想像もつかない。いじめなんかやって、苦しんでる人間を見てバカと思う。なにか別の生き物だ。どういう感じなのか考えようとしてもなにも思いつかない。自分をいじめる人間の気持ちなんて、誰にも分かるわけがない。
黙っていると千絵はあやすような口調になった。
「あのひとたちと同じにはならないんでしょう? だったらこれ以上自分を傷つけるのはやめようよ」
「あいつらは傷ついてなんかいないよ。すごくいい気持ちって、いつも顔に書いてある」
受話器から微かなため息が漏れた。悲しみがにじんでいるような弱々しい音で、心臓がどきどきいった。
「それでも学校へ行こうよ。行くのやめたら、負けになっちゃうから……」
電話のあと泣きはらした目を洗っていると、母が仕事から帰ってきて睨んだ。
「あんたまた有村さんのとこへ変な電話かけたんじゃないでしょうね?」
思わずビクリとして
「かけてないよ」
と答えた。
「どうでもいいけど、いい年してあんな恥しい大声で泣きながら人様のうちに電話しないでよ。有村さんのお母さんが心配して電話よこしたんだから」
固い無表情を保ちながら、母は上着をハンガーにかけた。
「有村さんは本当に心の広いお姉さんねえ。だけど、そんなことばかりしてると嫌われちゃうんだから」
体を引きずって登校したのは、千絵に見捨てられたくない一心だった。電話をかけたという事実は消しようがない。謝れば「いいのよ」と言ってくれるだろうけれど、それくらいのことでいまさら相手の心を変えたり取り返したりできるとは思わなかった。できることと言ったら、せいぜい「負けにならないこと」くらいしか思いつかなかったのだ。
一時間目は数学だった。のろのろと席に着こうとしていて、急に両腕の軽さに気がついた。
シラブルが消えている。
どうして今まで思い出さなかったのだろう? これが記憶の中の世界で現実ではないということを。危うく忘れてこちらの世界でまる一日生活してしまった。
呆然とたたずんでいると、数学教師の声が、
「そこにアホらっとつっ立ってる奴」
と言ってわたしを指名した。
「早く席に着けってえの。分かるか? お前だれよ」
「藤木さんです」
「お前か。色々うわさになってたけど、職員室でも。自分で解決しないで先生に甘えたってしょうがないって」
わたしはうつむいて目だけで三田裕介の表情を盗み見た。前方を向いて宙を睨んでいる。なにを思っているのかはうかがえない。
記憶違いでなければ、授業が始まったあと後ろから消しゴムのかけらがとんできてしきりに当たったはずだ。「痛い」と叫んで先生に怒鳴られた。確かそのあと。
何があっても大声を出してはいけない。二の舞になってしまう。まえと違うのはこれから何が起こるか知っていることだ。同じいじめに屈しさえしなければ、流れが変わって呪いから抜けられるのではないだろうか。そこに思い当たると、わたしは歯を食いしばって体を縮めた。
首の柔かいところに最初の一撃が刺さるように命中した。現実ではないにもかかわらず、消しゴムは苛々と痛かった。どう乗り切ったらいい? 出ていこうとしても囲まれるだけだということは経験で分かっている。……とか言ったら父親に
「どうしてやる前から決めるんだ」
と責められるんだろうな。
こんなことを考えている場合ではない。分かってはいるのだが思考が利かない。消しゴムが嫌だ。何度も何度も小さな痛みが走って、小虫が体中の肉を少しずつをついばんでいくようだ。少しずつ殺されていくようだ。痛い。痛い。痛い。
わたしは全ての怒りをこめてヒステリックに叫んでいた。
「痛いっ!!」
「うるさい!」
間髪いれずにクラスの秀才が応じる。教師が睨んだ。
「藤木! なんなのよお前、どういう声だしてるんだ!」
あたりがシーンとして、次にくすくす声が漏れた。
「いま笑った奴、手ぇあげろ!」
再び沈黙が落ちた。頭がガンガンする。羽虫のたくさん飛ぶような音が鼓膜の奥にヂィン、ヂィンと響いてくる。分かってはいる。この頭痛も耳鳴りもまぼろしだ。心の作りあげた幻想なのだ。それでも涙が出るほど痛い。どうしようもなく耳に障る。気が変になりそうだ。もうなっていると他のみんなは言うけれど。
理性とは裏腹に、ほかの全ての部分があの日のわたしを演じ続けた。
「消しゴムぶつけないで! だれ? ぶつけてくるの」
泣きながら喚《わめ》いていると教師のようすが少しおかしくなって、ちょっと黙りこくった。
「おい、ほんとにぶつけてきた奴いるんだろうな?」
頭の中の音がとまった。わたしは思わず口をあけて相手の顔を凝視した。涙を流すことも忘れていた。
「誰も見てません」
後ろから男子の声が言った。笑い声さえたたない。
嘘だ。さっきは笑ったじゃないか。わたしが消しゴムをぶつけられて嫌がっていたのを、面白がって見ていたからではないのか? どうして誰もなにも言わないのだろう? みんなで謀って……無言のうちに通じ合って……真面目な顔をして黙っているに違いない。
…………きっとそうだと思う…………。
凍りついていると三田裕介が沈黙を破った。
「先生、授業を続けましょう」
教師は
「うん」
と言ったあと無表情に目をくれて、わたしに見せるためだけに首を傾げた。
シラブルがいない。シラブルさえいれば、この世界で正しいのは自分の方だと確信できる。猫がしゃべる方が正しいのだ。いじめだの登校拒否だの神経症患者だのが存在する世界の方が、いまは幻覚なのだと。
ホームルームの前に、職員室へ呼ばれた。担任が眉間にしわを寄せて座れと言った。
「藤木、先生聞いたぞ」
何を? 黙っていると椅子を回して前屈みになる。こちらへ迫ってくるようで、気持ちが悪い。
「どうしてあんなことするんだ」
「あんなこと……?」
「昨日、杉山が仲間に入れようとして話しかけたのに、無視したってみんな言ってたぞ」
「あのひとはいじめの首謀者です……」
体中の力が抜けて、弱々しい声にしかならない。いましゃべっているのは、本当にわたしなのだろうか。
「だから反省して仲良くしようとしてるんだろう」
そんなこと急に信じられるわけがあるだろうか。仕返しを恐れて口が利けなくなっただけなのだ。でも……、そんなことを言ったところで「口が利けなくなるなんて大げさな」という反応が帰ってくるだけだろう。もう疲れた。
「だって、現にあのとき、つねられたんですよ」
「本当なのか、それ?」
「本当です」
涙がにじんだ。
「誰に」
「誰にって……」
一瞬くちごもった。後ろからやられたので分からない。そんな簡単な説明すら言葉にするのが難しく、すぐには出てこない。
「嘘なのか」
ショックを受けて完全に言葉を失うと、担任はこれで決まったと思ったようだ。
「先生もう嫌だぞ、藤木。今日だって誰かに消しゴムをぶつけられたって大騒ぎしたとかって。あとでみんなにも聞いたけれど、そんなの誰も知らないって言ってたぞ」
「みんなが嘘をついているんです」
「みんなか」
「そうですよ……」
「いくらなんでも全員ってことはないだろう? おとといだってお前、全員がいじめに荷担してるわけじゃないって言ってたのに、今日は全員なのかよ」
「そんなの告げ口したら自分がやられるからに決まってるじゃないですか」
「先生いくらなんでもそうは思わないな。よく見てみろ。いい奴だっているぞ。お前、三田なんかいつもかばってくれるって言ってただろ? 感謝してるんだろ? 三田もか? 三田も今日は嘘をついたんだな?」
はいとは言えない。でも、どうして?
「そんなこと言うのか、ひどい奴だな。嘘をついているのか? それとも本当にやられたと思いこんでいるのか?」
不意に激しい怒りが突きあげた。
「先生、ノイローゼ患者は気違いじゃありません。そんなことも知らないで、なに言ってるんですか!!」
「だったらそんな気違いのような声を出すな、被害妄想を治せ!」
その声は開け放した職員室のドアから廊下じゅうに響き渡った。わたしはふと覚った。自分から好んで精神科通いをいいふらす者はない。限られた大人と千絵しか知らない事実を、誰が学校じゅうに触れ回ったのか分からなかったのだ。こいつが犯人だったのか。故意にいいふらしたわけではなくても、開け放した窓やドアの近くで声も落とさずに。
最初に秘密を漏らしたのが他の誰かだったとしても、わたしには同じことだ。
教室に戻ると、知らずに机に伏せて泣き出していた。どうせなら教室の人間が怯えて飛びすさり、
「藤木は本当に気違いになった」
と口走るくらい派手にやりたかったが、気力がない。泣いていると、どこからともなく担任の声が降ってきた。
「ちょっと遅くなって悪かったが、ホームルームを始める。静かにしろ。藤木はほっといていいからな」
何かのきしる音が響く。
「夏休みの自由課題に面白いのがあった。三田のノートにクラス全員の長所が書いてあったんだな。お前ら勉強だけが人生勉強じゃないぞ。三田はよく見てる。先生も、ここに書いてあることは全部まったくそのとおりだと思うぞ」
ぼんやりした頭で、なんとかしてこのあと何が起こったのか思い出そうとしたのだが、しびれたようにそこの記憶だけがまひしていた。
生徒がいっせいに立ちあがる。つられるようにふらふらと立ちあがった。あとをついていくと、教卓のまわりに人だかりがしていた。何があったんだっけ? そうだ、三田裕介のノートだ。目立たないようにみんなの頭のあいだから覗くと、出席番号順にクラス全員の名前が書いてあり、短くコメントがついていた。
『杉山初美。はきはきして快活。リーダーシップがある。』
他の人の目を借りて見ればそうなのか。
どの行にも簡潔に、三田裕介の目を通して見たクラスメイト像が書かれている。
これが健康な心の持ち主の、生きた世界なのか。すべての人間が美しく力強い世界が。
……藤木……は、後ろの方にあるはずだ。思いながらもわたしは他のみんなのように手を伸ばして自分の名前をめくって見ることはせず、誰かが偶然そこを開けるのを待った。そしてなぜかふと、藤木ゆか子の文字が開いた左ページの一番上に載っていたことだけをぼんやり思い出していたのだった。
男子の手がは行の最後の頁をめくった。
『藤木ゆか子。理解不能。』
順にめくられたノートの右端が白紙になる。白だけがくるくると回転しながら大きくなり、クラスのみんなを飲み込んでから閉じた。ぼんやりととり残されているのが、わたしとなぜか杉山初美だった。