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迷宮病棟

点滅

 猫たちをかき分けてひたすらに進む。ふらふらになりながら最後の一匹を抱きあげると急に消えてなくなり、小さな光になって指の中をすりぬけた。
「どれが本物のシラブル?」
 鈴のような声が歌ったかと思うと、それきり静かになった。
 床の感触が柔かくなる。懐しい匂いがあたりを満たしていた。木造りの家の匂いだ。頭をあげると継ぎ目のゆるんだ板壁のあいだから、木や草の気配が入りこんできた。晩夏の虫がとぎれとぎれに鳴いている。耳を澄ますと、バッタのはねる音が微かに響いた。
(昔の療養所みたいだな)
 とわたしは思った。小さいころに映画で見たのがこんな感じだった。結核病棟だったろうか。結核はむかし不治の病だった。あまりに流行ったものだから特別な人だけの病気とは言われなかったけれど、最重度の精神病とどちらが恐れられたのだろう。
 心の病は確かに怖い。けれどその怖さのわけを、誰か本当に知っているだろうか。とつぜん通りがかりの人間を刺すかもしれないから? 刺されても加害者は罰を受けず、被害者はなんの保障もされないから? そんなのは皮一枚をとりつくろった言い訳だ。決して他人を傷つけることはないと分かっていても――鍵のかかった部屋に閉じこめられ薬で眠らされていると分かっていても、ひとはその人物を恐れる。それは病人がいつか目覚めて鍵を壊し、誰かを刺すかも知れないからではないだろう。わたしは自分がノイローゼなのでノイローゼ患者を恐れたりはしないが、シラブルの言ったとおり
「使い魔の猫なんかかみついてもやれるのに」
 鍵のかかった部屋で叫んでいる人間なんかを――正確には閉じこめられた人間の「叫び」を恐れる。どのように騒々しくとも、内容がなんであろうとも、殺傷力を持った声など存在しないはずなのに、彼らの叫びはわたしたちの心を刺す。

 気がつくとわたしは、床に座り込んでいた。どこへ行ってなにをするのか、見当もない。顔を両のてのひらに埋めてじっとしていると、呼吸の音がヒューヒューと力なく漏れるのが分かった。
 ――と、その中に虫の音とは言えない何かが侵入するのを感じた。床のきしる音か。最初は気にもとめなかった。何が出てきたとしてもしょせんは作り事だから。けれど――。
(誰か泣いてる?)
 わたし? 思わず息をとめた。しばらくの間があった。
(そら耳?)
 気をとりなおそうとすると、今度ははっきりと幽霊のような声が響いた。体が動かない。声は足音をたてずにゆっくりと近づいてきたかと思うと、やがて顔のまえへ生々しい気配とともに身を寄せてきた。わたしは両手で顔を覆い、廊下へ座り込んだままの姿勢でいた。
 頬に息がかかる。長い髪の毛が首のうえに落ちてきた。悲鳴をあげるどころか息を吸うこともできず固まっていると、なぜか熱いような涙声が
「死なないで……」
 と懇願《こんがん》して消えた。

 どうやら眠ってしまったらしい。なにかがバタバタと窓枠に当たる音で目を覚ました。立ちあがって見ると、夜だというのにすきとおるような瑠璃色のあげは蝶が、ぶつかりぶつかりしているのだった。
「そんなに力いっぱい体当たりなんかして、おまえ痛くないの?」
 呟くように問いかける。
 敵を許さない限りこの迷宮病棟をぬけられず、一生幻覚の中をさまよわなければならないとしたら。
(考えたくもない)
 出口を失った蝶は、ひたすら窓ガラスにぶつかり続けている。
「おまえ、右の羽をちぎられたら左の羽も差し出したりする?」
 誰がそんなことを言い出したのだろう。イエス・キリストだったか。横面を右からひっぱたかれた瞬間に左の頬を差し向けてどうするというのだろうか。世の中には左の頬を向けられたら喜んで打ち、右腕をねじりあげ左の脚は蹴りあげて、軽蔑しながらボロ布《きれ》のようにしてしまう人間は多くいる。水戸黄門の印籠じゃあるまいし、左の頬を向けたら
「恐れ入りました」
 なんてお伽話、ありはしない。
「ねえシラブル」
 わたしは蝶に話しかけた。
「殺されたくなかったら“生殺しにして下さい”って頼めって言うんだよ」
 すると蝶は人の言葉を理解したかのようにすうっとガラスを離れていった。わずかにあいた窓の隙間からするりと外へ忍び出るその動きは、蝶というよりはまるで――。
「猫だっ!!」
 気がつくととんでもない声で叫んでいた。あまりに我を忘れてしまったので、ガラスのはまった窓から頭を突きだそうとしていた。
(ぶつかる!)
 これじゃさっきの蝶と同じだ。思わず目をつぶる。しかし、いくら待っても衝撃はこなかった。おそるおそる片目を開けると、壁を通りぬけて外へ出ていることに気づいた。冷たく湿った空気と緑の匂いが肺を満たす。
「助かった」
 蝶々は? いくらきょろきょろしても姿がない。遠くで何かが光った。
(蛍に姿を変えた?)
 ゆっくりと点滅を繰り返しながら左右に振れて遠ざかっていく。
「シラブル!」
 わたしは叫んでメチャクチャに追いかけた。
「シラブル、シラブル、戻ってきなさいよ! どこへ行こうとしてるの!」
 きつい草の香りがぐるぐる体を駆けめぐった。シラブルはすぐ近くにいる。それは初美に姿を変えたのかも知れないし、三田裕介に化けたのかも知れないし、奇妙なドーム型の建物になっていたのかも知れない。よろけながら走っていると、斜め右から強い衝撃がきてはじきとばされた。あまりの痛みにまぶたの中がカッと燃え、涙がにじんだ。息がつまる。どんなにあえいでも空気が体に入ってこない。呼吸のしかたを忘れたと思った。
 本気で死ぬのかと思ったとき、ようやく最初のひと呼吸が肺の中に入ってきた。頭がガンガンして、しばらくは動けなかった。これまでごく当たりまえに、息は鼻や口がするものと思いこんでいたが、そんなものはただの通り道で、肺が膨らんだり縮んだりしてくれなければどうしようもないのだ。少し利口になった。
 ようやく起きあがると、一時的にこうむったダメージの割にはたいしたことがなかったらしく、どこを探っても打ち身のほかに異常はないようだ。恐怖が背中の内側にこもってチリチリと痛む。そっと手を伸ばすと、右前の方に丸い柱のようなものが冷たく触れた。てっきり何かが突き当たってきたものと思ったが、突き当たったのはこちらの方らしい。
(まさかこの柱がシラブルってことはないよね?)
 ふとそんな考えが浮かび、手探りで近寄った。柱のようなものを撫でながら
「シラブル? シラブル?」
 と小声で呼ぶ。――と、目の前にすうっと蛍が飛んできた。少しまえまでは月明かりに照らされていたのに急に真っ暗になって、飛び回る小さな光しか見えない。物にぶつかることがこわくて立ちあがることもできず、蛍の導く方へ手探りではいずりながら進む。ずいぶん長い時間に感じた。
 やがて光の点滅は動くのをやめ、宙にとどまってゆっくりと待った。
(綺麗だ)
 息をこらして見つめていると光がにじんで二つになり、その各々がさらに二つになりしてどんどん視界の中へ広がっていった。
 ぼんやり眺めていると、鈴のような声が響いた。
「どれが本物のシラブル?」
 わたしは立ちあがって蛍の中に入った。光のいくつかがまとわりついたり手や服にとまったりした。どの蛍がシラブル? 不意に肩の先からなにかがバタバタと飛んで頬を撫でていった。声も出ない。蝶が一匹混じっていたのだ。鳥の羽ばたきが夜闇に響く。光が強くなりはじめた。少しずつあたりの輪郭がはっきりと浮かんできて、そこが窓ひとつ柱一本ない四角いホールだということが分かった。

 白いインコがなぜか空中にとまっていた。首を傾げてから光のひとつをついばむと、蛍がぎゃっと叫んだ。その声はあまりにも父に似ていた。わたしは尻もちをついた。
「やめて!」
「この蛍はゆかちゃんの知り合いだった?」
 鈴のような声の持ち主は、この鳥だった。
「いまからわたしがこの子たちを全部食べ終わらないうちに見つけないと、シラブルも食べちゃうよ」
 鳥がパッと飛び立って天井の隅へ行き、またぎゃっと押しつぶした声が響いた。思わず両手で耳をふさぎ、目を閉じる。
「食べるのはやめて! やめて! お願いだから」
 すると今度は耳をふさいだ右手の中からぶちっという音とともに蛍の死の叫びが飛びこんだ。
 どうしてわたしは神経症患者なのだろう? 恐怖に囚われると正気を失くしてしまう。なにをすべきか分かっているのに感情のコントロールが利かなくなって、際限なく叫び続けたり腰をぬかして震え続けるしか能がない。
 耳をふさぐと手の中で、目を閉じるとまぶたの中で、蛍が一匹ずつはさみ潰され、叫びをあげては消えていった。
「シラブル! シラブル! 返事をしてよ、お願いだから!」
 泣いて叫ぶと壁の中から大きな犬がほえて飛び出してきた。夜道はこわいからとわたしがせがんで化けてもらった、あの犬だ。犬はそばへ寄ってきて猫のように体をすりつけ、甘えてきた。わたしは思わず抱きしめた。そのあいだにも蛍の悲鳴は感覚をおいて聞こえてきた。
 震えがとまらない。目のまえを奇妙な揺れ方をしながら光の点滅が過ぎてゆく。蛍が飛んでいるのではなく、たくさんの蛍をとまらせた生き物が音もたてずに歩いているのだった。その生き物が急に立ち止まってお座りをすると、じっと何かを待つようにこちらを見た。二つの目が光る。アイボリーグレーのぶち猫だった。
 気がつくと幽霊のように部屋の四隅や壁ぎわに、初美や裕介や先生や、悪夢に出てきたたくさんの人間が立っていた。存在の力を失って声もなく、ただうらめしげに顔を向ける。
 羽ばたきが聞こえ、蛍が叫ぶ。――と、隅に立っていた三田裕介が消えた。鳥が先のとがった舌をぬらぬら覗かせて
「いい気味?」
 と尋ねる。
「そのうちゆかちゃんのキライなあのひとも食べられちゃうかも知れないね?」
「あたしのキライな“あのひと”?」
「そしたらシラブルを助けるどころか、自分だって助けられなくなるんだけど」
 鳥がしゃべっているあいだにも、蛍の声が一度響いた。振り向くといつの間に増えたのか、別の鳥が蛍をついばんでいる。言葉を失うと、さきほどの鳥が飛んできて、爪を食い込ませて肩にとまった。
「痛い!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 からかうようにパッと飛び立つ。インコはしゃべりながらもう一方の鳥に重なり、体の中へ入ってもとの一羽にもどった。
 あの鳥をたたき落としてやる! わたしは腕を振り回し、白い鳥に突進していった。誰が助かるかなど、頭にはない。ただひたすら追い回して
「お前が死ね!」
 と叫んだ。
「いいの? わたしがシラブルかも知れないよ?」
「あんたなんかが、あたしのシラブルであるわけないじゃないの! あの子は臆病で可愛い猫なんだから!」
「じゃあ、猫を食べに行こう」
 鳥が飛んで蛍をついばんだ。悲鳴に続いて、母の姿が消えた。
「猫じゃなかったみたいだけれど、いい気味?」
「あたしを傷つけたすべての人を許さなければ、あたしの心を殺すっていうの!?」
「ゆかちゃん、学校へ戻りなよ。人を憎むと自分がダメになっちゃうよ?」
「嘘つきっ!!」
 喚《わめ》いた声が頭のなかを振動して通っていくのが分かる。とても自分の声とは思えない。
「自分が可愛いばかりのお説教! それであたしがまっとうに戻れば、あんた自身がもう無力感に悩まずに済むから言ってるんでしょう! それであたしが言うこときけば、程度の低い人間を救ってやれたと思うから、安心できるんでしょう? ノイローゼで登校拒否の人間を救えたら、あんた自身が少しはましな人間に思えるから」
「それは誰に言っているの、ゆかちゃん?」
「あんただよ、バカ鳥!」
 手にしたコンビニの袋で叩きつけると、鳥は笑いながら逃げていった。かわりに包みに押しつぶされた蛍がぎゃっと言った。先生の姿が消えた。
「とうとう自分で殺したね。あのひとたちと同じになった。ゆかちゃんを傷つけたあのひとと」
 薄くなった闇に小鳥の白い姿がぼうっと浮かびあがっている。わたしは肩で息をしていた。
「シラブルもゆかちゃんも、もう助からないよ。まず猫の魂を食べに行こう」
 鳥は飛び立ち、唸りながら手を振り回すわたしの真上を、変にゆっくり旋回した。そうしてやがて狙いを定めると、矢のように光をとらえた。
 じりじりと苦しげな音をたてて、くちばしの中で蛍があばれる。ぶち猫が口から泡を吹いてもんどりうつ。蛍が猫の声で鳴き叫んでいる。
「やめて! あんたにそんなことする権利はないでしょう。その子を放しなさいったら!」
 思わず食べ物の入った袋を投げつけた。鳥はさすがに驚いたのか蛍を放して逃れた。
「仕方がない。それじゃ、ゆかちゃんを先に始末しちゃうけど、いい?」
 なにもない空気の上に小鳥はちょんととまり、自慢するように羽を広げて空《から》羽ばたきをして見せた。澄んださえずりが空気を満たす。これまで聞いたどんな鳴き声よりも綺麗だった。鼓膜の振動が脳を溶かすようだ。頭を抱えてつっぷすると、女の唸りがねじけるように響き渡った。
 恐怖は限界を超え、喚《わめ》き震えるための体力はこのとき底をついた。残っているのは奇妙に薄れた脱力感だけだ。
 目を開けると鳥の口の中で人間の声がすすり泣き、呻《うめ》いて助けを求めていた。初美が頭を打ちつけて床の上を転げ回っている。鳥の目がわたしを見た。この魂の命乞いをしろというのだ。よろよろと起きあがって猫がわたしを見た。笹井が怯えたような目でわたしを見た。片桐真美が無力感のこもったうつろな目でわたしを見た。残った様々な幻覚が、息を殺して答えを待っている。
 猫が細く
「ゆか子さん――」
 と言った。
「あんたはシラブルじゃないわ」
「あのひとを殺してもいいんですか? あのひとを助けて下さい」
 わたしは首を振った。
「ここがあたしの心の世界だというなら、あたしはもう何百回もあいつを殺してる。呪術師じゃあるまいし、そんなことで本物の人間が傷つくとは思わない」
「助けてくれないんですか」
「助ける必要なんかない!」
「あなた自身も助からないんですよ」
「助からなくてもいい」
「どうして」
「権利がないの。助かる権利も生きる権利もないの。分かってよ……」
 わたしは床に散らばった食べ物の箱や袋を拾い集めた。離乳食の箱にモンシロ蝶が一匹、身じろぎもせずにとまっている。寒さにあたって動けなくなったかのように。そっと胸をつまんで手の上に乗せた。猫が歩いてきて足元に座り、じっと見あげている。わたしは手の中へ向かって話しかけた。
「お前のことを思いだしたわ、シラブル」
 シラブルは千絵の蝶々だった――――。
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