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迷宮病棟

白い蝶

 空き部屋のベッドのかげに、わたしはへたりこんでいた。シラブルはしつけのいきとどいた座敷猫のようにおとなしい。頭の芯が熱くなる。溶けそうで痛い。処置なしだった。疲れてもいた。目を閉じると、侵入者の立場も忘れて、半ばとろとろとなる。
 まぶたの中で、とりとめのない影がいくつも浮かんでは融合し、新しい影を生み出していく。
 あるときには教師だったり、むかし死んだ幼な馴みだったり、四歳のときお化けと間違えて泣き出したてるてる坊主だったりした。不意に、てるてる坊主の白が二つにちぎれて、綿とモンシロ蝶になった。飛び散ったくずが雪になって降りしきる。小学五年の十一月だ。と、わたしは思った。

 玄関に入るとどうした加減でか、カーテンの裏にモンシロ蝶がこっそりとまっていた。冬の空気にあたって動くことすらできないほどに凍えてはいたが、カーテンにつかまっていられるということは、とりもなおさず生きている証拠でもある。
 羽を傷つけないように、胸をつまんで居間へ運び、ストーブをつけた。まれに季節はずれはあるものとはいえ、蝶が外から舞い込む気温では決してないはずだ。二十日ほどで根雪になることは間違いないのだから。
 テレビをつけると奥様番組が、夫婦共稼ぎの家で育った子供がどんな影響を受けるかについて、奇妙に華々しく論議している。古くさそうなおばさんが、画面に向かって
「鍵っ子」
 と言った。
 チャイムが鳴った。セーラー服に薄いコートをはおった中学生が、震えながら粉雪の中に立っている。引き戸を開けてやると、小さい声で
「蝶々を見た?」
 とつぶやいた。
「いま、茶の間であっためてる」
「よかった、生きててくれて」
 涙ぐんでいる。変なお姉さんだ。
「あのね、あなたのお父さんとお母さんは蝶々が嫌い? ここのおばさんは農家で育ったっていうから、虫は平気だと思ったんだけど、モンシロのイモムシって、よく考えたらせっかく作ったキャベツを食べちゃうでしょう。蝶は嫌い?」
 わたしは首を振る。
「蝶もトンボもカエルも好きだよ、うちのお母さん」
 相手はもじもじした。
「育ててくれるかな?」
「きっと見せたら喜ぶよ」
 カバンの中からはちみつのパックを取りだすと、その人はそっと差し出した。
「これ、食べさせてあげて」
「はちみつ? こんなのダメだよ」
「どうして? だって」
「足がベトベトになってくっついちゃうじゃない。大きいくせに、知らないの?」
「でも、蝶のエサは花の蜜だもの」
「体がはちみつまみれになるじゃない。気門がふさがったら、息つまって死んじゃうってば。綿に砂糖水をしみこませて吸わせるんだよ。あたしやったことあるもん。お姉さんはあるの?」
 中学生はムキになった。
「でも、あの子をイモムシから育ててあげたの、お姉さんなのよ。蝶道だって見分けられるんだから」
「チョウドウ?」
「蝶々が通る道のこと……。そこで待ってると、来るよ」
 わたしは急に尊敬した。
「ほんとう?」
「ウソじゃないもの。でも、イモムシのときはベッドの下へビンを隠しておいたら見つからなかったのに、蝶になったら飛ぶんだもの。お母さんがキャーキャー叫んで、丸めた雑誌で追っかけ回して殺そうとするの」
「お姉さん、うちの玄関にしのびこんで蝶々をおいていったの?」
「郵便受けから入れてあげたの。でも、雪が降り出したから死んだんじゃないかと思って」
「ぜんぜんだいじょうぶ」
 うけあうと、またその人はもじもじした。
「あの子に会いたいんだけど……」
「うちのお母さん、知らない人は部屋へあげちゃダメだって」
「ちょっとだけ」
「あたし、友達だって入れたことないもん。お父さんとお母さんが怒るから。うちの中を他人に見せたりしちゃダメなんだよ。知らない?」
 お姉さんは黙ってしまった。息をつめて長いことわたしの顔を見ていた。
「蝶々は入れてもだいじょうぶ?」
「絶対だいじょうぶ。虫は好きだから。お姉さんの代わりに育ててあげる」
「ありがとう! お嬢ちゃん、六年生?」
「五年生」
「名前は?」
「ゆか子。お姉さんは?」
 カバンからメモを取りだして、お姉さんはシャープペンシルで長々と書きつけた。住所も電話番号も、学校名も組も書いてあった。有村千絵、と名前だけが大きく力強かった。
「お願いね、ゆかちゃん。ごめんね」
 お姉さんは行きかけて振り返り、
「本当にはちみつはいらない?」
 と尋ねた。

 そういえば人生最初の自殺未遂はあのできごとの二、三ヶ月まえだったと思う。あんまりたわけた方法をとったのでかすり傷ひとつ負わなかったけれど。
 わたしは我に返った。足音を聞いたのだ。シラブルを腹にかかえ、ベッドの下へもぐるようにして息を殺した。合い鍵を使って見回りに来たのだろう。金属皿に注射器や消毒綿を入れて運んでいるようすだ。たぶん、個室の鍵も持っているのに違いない。人間の進入などは疑ってもみなかったのか、わたしたちが隠れている空部屋には目もくれなかった。耳を澄ましていると足音が微妙に変化して、角を曲がったらしく思えた。そうして長い時間をかけて遠ざかってゆき……。
 ちょっと待ってよ! わたしは半身を起こそうとしてベッドのパイプに涙が出るほど頭を打ちつけた。
 いまの看護婦、どこへ行った? 病棟にはこんなに長いこと足音の響きを堪能できるほどの奥行きはないはずなのに。あの足音を信じれば、最上階は下よりも異常に突出していることになる。そんな頭でっかちの建物を造る設計技師がどこにいるだろう。まだ迷宮は解かれてはいないのだ。
 猫が丸くなって目を閉じている。わたしは抱きあげてそっと廊下をうかがった。足音は消えて看護婦は戻ってこなかった。
「シラブル、行くよ」
 にぶい明かりに照らされて、病棟全体が呼吸をしているように見えた。行き止まりには鎖錠のかかった窓があり、ガラスの中には黒い金属の格子がぬりこめられている。木と沢の向こうに町並みがあった。
 不意に人間の息が首にかかり、誰かがわたしの肩をつかんだ。
「藤木さん、なに見てるの」
 
 金縛りにあったようにしばらくは動くことができなかった。声の主を見るのがこわい。振り向かずにすむのなら、永久に無視していたい。これは現実じゃないんだから。
「なに黙りこくってんの」
 乱暴に腕を引き寄せられて、嫌でも背後を見ずにはいられなかった。人影がわたしを睨んで立っている。

 もっと普通の迷路にして欲しい。そしたらいずれたどりつくのに。確かにわたしを足止めするのにこれほど良い策はないだろうけれど。
 ここが学校になるなんて。
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