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迷宮病棟

蝶道の下で(2)

 わたしが興奮していることは、傍目《はため》にも分かったはずだ。看護婦さんがとんできた。二十四時間の監視がとけたとはいえ、自殺未遂者へのチェックは厳しい。
「藤木さん、どうしたの?」
「い、息が切れた」
 とっさで言い訳も思いつかない。間抜けなことを口走った。
「どうしてそんなに走ってきたの」
「び、びっくりして。外来で……」
「ううん? 外来で、なあに?」
「友達のお母さんが……。あたしが未遂やったせいで、友達が責任感じて自殺するって。書き置き残して家を出たって。す、す、凄い剣幕で……」
「えっ!?」
 嘘はついていない。電話だというところを、はしょっただけだ。看護婦さんは急いで廊下の向こうへ首を伸ばしたが、
「だいじょうぶだからお部屋で待っててね」
 と言うと、詰め所へ応援を頼みに行った。その姿が角を曲がったのを確認してから、わたしは叫んだ。
「あたしトイレに隠れてる!」
 たたんだ服をガウンの下に抱き込み、廊下を走る。わたしの部屋は一番トイレに近い二人部屋だ。もう一人の患者はロビーに出ており、トイレのわきには階段もある。悪く思わないで欲しい。この階のトイレに隠れるとは言わなかった。
 こんなことができたのも、着替え用にと家から持ってきた安物のトレーナースーツのおかげだった。普段パジャマにしているだけあって、かなりパジャマっぽいデザインだと思う。これで外を歩くのは恥しいが背に腹はかえられない。厚手のカーディガンを羽織ればなんとかごまかしは利くだろう。
 非常階段をおりて、患者や看護婦は使わないエレベーター――業務用の方に乗って一階へ出た。そこには死角がある。職員用トイレだ。運が悪けりゃさっきの看護婦とはちあわせて完全にアウトなのだが、少なくとも患者に会うためにやってきた人間の迷い込む場所ではない。着替えを済ませておそるおそる出ると、すぐ前でガタンと音がした。思わずビビって立ちすくむ。
 五十くらいの男の人が、車椅子の前輪をレントゲン待合のベンチに引っかけて動けなくなっていたのだ。診療時間は過ぎて、残っているのは会計係や薬局の中で片づけをしている人ばかり。そちらの方からは見えない場所だし、第一わたしがここへやって来たのだって、いま時分は人がいないからだ。助けの来るはずはなかった。
「だいじょうぶ?」
 声をかけて車椅子をひく。ガチャンとはでな音がしたかと思うと、こちらの方が振り回されていた。
「アー、アー、いいからアンタ。ちょっと手ェはなして」
 言われたとおりにすると、男の人はなにやら小さくかけ声をかけて方向をかえ、ゆるゆるとバックをはじめた。
「ほれ、まあっすぐ、まっすぐ後ろへ引いてくれや」
「……こう?」
「そうそう。おお、スジいいねお嬢ちゃん。どこの学校?」
「登校拒否」
「そりゃ大変だなあ」
「でももっと大変なの。友達が家出して死ぬ気を起こしてるみたいなんで、探しに行かなきゃならないんです」
 男の人ははううん? と聞き返して首をこちらへねじった。
「からかってんのかと思ったけど……顔色バカに悪いわな」
「だって本当のことなんです!」
 その人はもう一度唸った。
「そんならそと出るついでに、ちょっと俺ば裏口から出してくれ」
「はい?」
「外の空気吸いたいんだけどよ。ほれ、急いでんならすぐ歩って!」(歩って=北海道弁)
 どういう事情か知らないが、これなら外へ出ても怪しまれない。ような気がする。
 車椅子の人は裏口の守衛さんに堂々と会釈をしながら
「ご苦労様です」
 と通った。
「お孫さんと一緒? 今日は十周でもするのかい?」
「十周はさすがにきついわ。七周にしとく」
 わたしは少し混乱していた。この人、分かっているのだろうか。
 車道に面した通りにくると、男の人は車椅子の背についたポケットへ手を突っ込んで、器用に後ろ手で財布を取りだした。
「ほれ、駄賃だ。友達になんかあったかいもんでも食わしてやりなよ。ほかほかの旨いもんでも食べたら、気が変わるかも知れないって」
 折りたたんだ千円札だった。駄賃の口実に手伝いをさせたのだ。
「こんなの悪いです」
 うろたえて断ると、のびやかな調子で押しつけられた。
「嘘じゃないんだろ? 友達探しに行くって。嘘ならいま正直に言いな。駄賃はひっこめてやるから」
「嘘はついてないけど、あたし」
「ほれ、とっとけ」
「あのう、無断外泊しようとしてる、ここの患者なんですけど」
「エエ!?」
 さすがにたまげたようだ。
「だからおじさんが共犯者にされると困るの。あたしには騙されたことにして下さい」
 手をあげてタクシーをとめる。おじさんは慌てて手を振り回した。
「これ、これ、ちょっと!」
「看護婦さんには必ず戻って来るって伝えて下さい」
 
 銀行の自動支払機のまえで車をとめてもらうと、わたしはお金を引き出した。母が売店でマンガでも買いなさいと言っておいていった財布に、カードが入っていたのだ。悪いということは分かったがタクシー代は必要だ。第一このかっこうで外を歩いたら、寒さで三十分ともたないだろう。上着だけではなく、防寒用の下着も買わなければならない。
 よせと言ったのに母は自分の誕生日を暗証番号にしたばかりか、家族にそのことをばらしてしまっていた。機械のまえに立つとさすがに心が痛む。マンガでも、なんて言ってくれた親が確かにあるのだ。

 千絵の行き先についてたったひとつある心当たりは、むかし住んでいた家の裏土手にある、小さな林だった。雪解けから中春にかけてが最も美しい。
 近くにあるものはありがたくないというわけか、ほとんどの人は見向きもしない。わたしと千絵と犬の散歩のお婆さんだけが、夕日を見るために登った。わたしが引っ越していなくなったあとも、たまに千絵はお婆さんと話すために足を運んでいたそうだ。その人も亡くなって二年になる。
 林の中の陽あたりの良い場所に、蝶のシラブルは眠っている。真冬に死んだモンシロ蝶を、千絵は雪に埋めてと言った。けれどわたしは、レース型に切った紙にくるんで空き箱に入れ、春まで保管しておいた。千絵は馬鹿にはしなかった。
「ゆかちゃんありがとう」
 そう言って、蝶道の見分け方を教えてくれたのだ。
 行きさえすれば思い出すと信じていたのに、小学校時代の記憶は薄い。似たような切り株がたくさんあって、判別に困る。途方に暮れて芽吹いたばかりの木々を見つめた。
(せめてもう少し緑が出てきていれば)
 焼けつくようにそう思った。シラブルを埋めた場所は、アゲハの蝶道の下にある。蝶道というのは蝶の習性と植物の生え方によって決まるものだから、やっと雪がなくなったばかりの林で見分けることはできない。記憶だけがたよりだった。
「千絵!」
 思い切って呼んだ。
「千絵! 千絵! あたしだよ! いるなら返事して!」
 林はそれほど大きくないはずだ。時間はかかるが、一周することはできる。息を切らせながら何度も呼んだ。
 陽が落ちる。にじんだ赤が山の端にかかった。頭の中が静かになる。千絵の名前を忘れてしまったようだった。
 目のはしにちらりと白いものが飛んでいくのが映った。陽を浴びて金にも銀にも見える。ひらめくような光だった。
「蝶々……」
 思わず振り向いたが、何もない。
(今はモンシロの飛ぶ時期じゃない)
 おおかた気のせいか、紙くずでも見間違ったのだ。ぼんやり立っていると、木の根のそばを、何かの影が通りすぎた。猫?
「シラブル!」
 わたしは呼んで追いかけた。分かってはいる。ただの野良猫だ。茶色のしまがついている。鱗粉《りんぷん》のように薄く輝くアイボリーグレーのぶち。あんな猫はどこを探したっていはしない。
 それでもすがってはいけないだろうか? 蝶の幻影やありふれた猫のあとを追うわたしを、人は患者と呼ぶのだろうか?
 土手を登りきったところに見えたものは、見覚えのある切り株だった。千絵がナイフでつけた目印もある。どうして導かれたのか分からないけれど――目眩のするような感覚だった――ここに違いない。
「千絵!」
 何度も叫んで見回した。あたりには誰もいない。幻の蝶も野良猫もいない。湿った土の匂いが肺の中をかけめぐる。太陽の光が消えてゆく。目の下にはわたしたちの住む町があった。
 そのときはっきりと分かった。空の下でたくさんの人間が呼吸をつむいでいる。千絵も初美も裕介も、そして親や教師たちも、同じ大気に懐《いだ》かれているのだ。
 この瞬間に何人の人間が町を見ているのだろう。音を聞いているのだろう。町の呼気は甘いだろうか、切ないだろうか。
 風が急に冷たくなる。そっと目を閉じた。耳の中で天を割るような声が
「思い出して下さい。千絵さんは生きています」
 と言い、澄んだ水のような瞳がまぶたの奥からこちらを見た。

 不意にブワンという唸りとともに、後ろへ飛ばされるような突風が起こった。必死で踏みとどまったが背骨をぬかれたようだ。地面に吸い込まれて落ちたと思った。まぶたが開かない。異常な感覚の中で、わたしはまだ夢を見てる、と胸のあたりへ囁いた。
 右の耳のすぐそばで、男の人が叫ぶ。
「お客さん、お客さん! 危ないからこっちへ戻って!」
 生々しさにぎょっとして、思わず呻《うめ》くと目が開いた。

 青みを帯びた景色の中を、薄汚れた田舎電車が遠く滑ってゆく。微かにワーンと長引く音が、心臓をなでていった。
(あのひとを助けて下さい)
 願わずにはいられない。
(誰かあのひとを助けて下さい)
 千絵を。
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