目を開けると病室だった。点滴台が床に倒れてびんが割れている。足元にもぞもぞ動く虫のような人影がひとつ。老人のようにまばらに乱れた長い髪の下から薄汚れた病衣がのぞく。袖口から骨の形をした腕がにゅうっと伸びた。破れた袋から散らばったマシュマロを口に運んでいる。
「千絵?」
わたしは呼びかけた。“あのひと”は答えない。顔をあげようともしない。
生々しい空気があたりに満ちて、すぐには自分を取り戻せなかった。足音が廊下を小走りに近づいてくる。ドアが開いた。
「どうしたの?」
白い看護帽がまぶしい。顔を覗かせたのは、わたしといくらも違わないような若い人だった。
「誰っ!? どこから入ってきたの? こんなところで何してるの!」
一瞬するべきことを忘れかけたが、心を落ち着かせて近づいていった。
「こんな時間に忍び込んですみません。聞いて欲しいことがあったんです」
看護婦さんは息を飲んで
「だからって――」
と言いかけた。わたしはその腕にすがった。
「あのひとは病気ではありません。あのひとを助けて下さい!」
光が水のような紋を描いてふりそそいだ。高く澄んだ音とともに、まわりを囲んでいたすべての風景がはじける。風が頬に当たった。木と土の匂いを運んで、静かに唸る。
気がつくとわたしは、病院の屋上に立っていた。車の音が遠く響く。葉をつけるのはまだ先のことだが、やはり木の香は甘かった。アイボリーグレーのぶちをもった猫が、コンクリートの上に乗ってこちらを見ている。
わたしたちはしばらく黙って、久しぶりにかいだような夜の空気を味わった。猫のヒゲが、ときおりかすかに揺れる。街の灯が少しずつぼやけていった。
「ありがとうございます」
魔女猫は言った。
「これでよかったの?」
「あのひとの呪いは解けました」
わたしはそっと頭を振った。
「本当に全部終わったんだろうか」
少しの間があった。
「どうしてそう思いますか」
「あんた言ったじゃない。“あのひと”が誰か、どうして呪われたのか、誰に呪われたのか、その答えを自分自身で見いだせって」
「ええ」
「あたしはなにひとつ謎を解いていないよ。それでどうして終わったと言えるの?」
「解けていますよ。わたしは最初に言いましたよね。あなたでなければダメなんだ、ほかにはいないんだと。迷宮をぬけられたのは偶然なんかではありません。あれでいいんですよ」
「いいわけない! 謎を解いて助けたわけじゃないもの。最後にあそこにいた誰かが “あのひと”だっていうのは誰だって見当がつくよ。だけれどあの鳥がそうだと知ってたわけじゃなかった。あたしは千絵と呼びかけたけれども、そうしか呼べなかったからそう呼んだだけなのよ? “あのひと”が千絵であるはずないわ。千絵は拒食症じゃなかったし、それに……」
涙が頬を伝った。
「もう死んでる……」
猫は立ちあがって顔のそばへ近づいてきた。乗っている段が、ちょうどそんな高さだったのだ。そして目を伏せたあと、ゆっくりと前足をさしのべた。
「あなたが自分を許さない、救われる権利もないと言ったときには、正直もうだめだと思いました」
「……救い主と覚られちゃいけなかったから……」
答えた声が、わずかにしゃくりあげている。
「迫真の演技でした」
「本音だもの。演技力なんか全然なくても、真に迫るくらい簡単にできる。一瞬本気で思ったの。このまま自分を閉じこめようかって」
「千絵さんへの罪滅ぼしに?」
わたしは黙って見つめ返した。
「それほどの感情をおして“あのひと”を助けてくれたんですね。どうしてですか、ゆか子さん?」
白いぶち猫が身じろぐと、ヒゲが揺れた。
「あんたの頼みを聞くかわり、死ぬ前のつかの間の安らぎが欲しいって、あたし言ったよね」
シラブルははっと顔をあげた。
「その交換条件のためだったんですか?」
わたしは笑った。
「いまわのきわにね……誰かを救う夢を見るのもいいなと思ったの」
車の音が何度もゆきすぎた。
「もう一度なでさせて、シラブル。あたしあんたが好きになった」
腕を伸ばすと小さなこうべがたれた。てのひらに柔らかい生き物の感触が走る。わたしたちはそのまましばらく名残りを惜しんでいたが、空の藍が薄くなると時が迫っていることを知らずにはいられなかった。
シラブルが頭をあげてまっすぐに視線をよこし、わたしの名を呼んだ。
「ゆか子さん」
答えようとして、なぜか言葉につまった。その表情がひどく緊張していることに気づいたからだ。
エアポケットに落ち込んだような沈黙のあと、シラブルは再び口を開いた。
「人がなんと言おうとあなたにとっては恐怖でしかないことを、たくさんさせてしまいました。急にいなくなったりして、さぞかし心細かったと思います」
青い目がわたしを見つめる。注意をそらさないと、ぐらぐらするようだ。けれど催眠にでもかかったように視線をはずすことができなかった。
「ゆか子さん、あなたはたったひとことを言うためだけに、ここまで来て下さいましたね?」
つられたように頷く。
「思い出して下さい。千絵さんは生きています」
頭の中が白くなった。千絵が生きてる? そうだったろうか。本当に?
「わたしもこのひとことをあなたに言うためだけにやって来ました。聞いて下さい」
辺りが澄んだ水のように輝きはじめた。世界を包むすべての空気が振動して、美しい猫の声が響いていった。
「ゆか子さん、魔女はあなたです。呪いを解いて下さい! あなた自身がかけた呪いを」
とつぜん足元が飴細工のようにぐにゃりと歪み、体が沈み込んだ。よじれて踊る裸木が視界をおおう。病院の窓明かりに黒目が覗いてこちらを見る。
わたしは叫んだ。
思い出したからだ。シラブルがやってきたのは自殺の計画を練っているときではない。図ってしまったそのあとだった。