少年チームのコーチを引き受けるため、家をここに定めたいと言いだしたのは他ならぬ潜司だ。貧乏養護学校の依頼で、謝礼はない。妻の美代子は不平を言ったが、けっきょく娘とともに荷造りをしてくれた。
エンジンを切って車いすごとリフトで降りる。空き地のそばに目をやると、口を開けてこちらを眺めている子供と視線があった。小学校にはあがっているのだろうか。陽が落ちて暗くなった道ばたに、汚れた針金のようにしゃがんでいる。潜司は
「おう」
とあいさつをした。
「おメエも乗ってみたいか?」
子供は答えなかったが、身障用の改造車に釘づけのようすだ。特別仕様のレーシングマシンか、ロボットのようにとらえたのだろう。潜司は笑った。
「そのうち乗せてやっからよ」
「ほんとう?」
目を輝かせた子供の足元には、奇妙なものがある。金枠《かなわく》のはまったたらいと、木のひしゃくだ。明らかに時代ものだった。奇妙に思って近づいてみると、たらいには水がはってある。水の面には半月よりも太った光が白くにじんでいた。
「なにしてる? 母さん心配してるだろ。ずいぶん暗くなってるぞ」
潜司はなんの気なしに問いかけた。――と、好奇心に満ちた表情がすうっとどこかへ飲みこまれていった。
子供は黙りこくって、水の中の月をひしゃくですくった。
「おメエ、家どこだ?」
「あっち」
あごをしゃくって示されたのは、マンションの二階の窓だ。
「なんだご近所さんかい。おじさん四階さ。母さん仕事? カギでもなくしたのか?」
子供は首を振った。
「月をすくってくるまで、家に入っちゃダメだって……」
「母さんに怒られたんだな。もう遅いからおじさんが玄関のとこまで送ってってやろうか」
細い首がうなだれたまま、いやいやをする。皮膚がまだらになっているのは日焼けのあとかと思っていたが、よく見れば垢で汚れているようだ。
「月の入った水でもかけて、きれいにしなさいって」
「風呂を嫌がったから、そんなこと言われたってことかい?」
子供は突然たちあがって潜司を見た。ほんの少しではあるが、今度はこちらが見おろされる番だ。
「おじさんはなにをする人?」
「なにって、こいつで戦うのよ」
潜司は買いかえたばかりのバスケット用車いすをたたいて見せた。
「戦うの?」
「戦うともさ。必殺わざだって繰り出すんだからな」
「うそだあ!」
「ほんとだって」
「じゃあ見せてよ」
「おう。見てろや」
潜司は屋根つきの駐車場までバックした。
「車いすローリング・クラアーッシュ!」
テレビ漫画のように叫びながら、いすの前輪を持ちあげて回転する。特別に張りかえてもらったとはいえ、床面の摩擦は大きい。いちど回ればいい方なのだが、どういうわけか勢いづいて半回転のおまけがついた。
「へんなのぉ!」
子供はぴょんぴょん飛び跳ねた。
「よしよし。必殺わざ見してやったんだから、もう家へ帰れ。いいな?」
「うん……」
それを言うと歯切れが悪くなる。
「でも、月の水を持っていかないと家に入れてもらえないから……」
いったいどんな親なのだろう? 訝《いぶか》りながらも、潜司は水の入ったひしゃくを子供のまえへ突きだしていた。
「見てみな、ほれ。月ならちゃんと映ってる」
「家に入ったら、なくなっちゃうもん」
「そりゃあ、なくなるべ。月は外にあるもんだからよ。つれて帰るのは檻《おり》に入れるのと同じだ。嫌がって逃げちまうんだな」
子供は唇をかんでうつむいた。
「したらおメエよ、ここで水かけて行ったらいいべ」
潜司はひしゃくを高くあげた。水に映った月を見せるためだ。
「どうだ、きれいか?」
尋ねかけるとこっくりした。細く伸びた腕の先に、ゆっくりと水をかけてやる。子供はしばらく見つめたあとでニコリとした。
「おじさん、ぼくきれいになった?」
「なった、なった」
「家へ入れる?」
「入れるともさ」
「じゃあここで待ってる」
「ええ?」
「お母さんが迎えに来るから、それまでがまんしてなきゃいけないんだよ」
「おいおい」
「いつも暗くなったら来るから。もうだいぶ暗くなったし、そろそろ来てくれないかなあ」
立ち話のあいだにも、夕闇は夜に姿をかえようとしていた。さすがに放っておけなくて、何度もうながしたが子供は帰ろうとしない。いいつけを守れないことを、よほど恐れているのだ。
思いきって二階の呼び鈴を押そうか。どうにも感心しない親のようだが、やりようはある。
「お宅のお子さんが、車いすを押してくれまして」
礼を言って頭をさげれば、近所のてまえ、笑って迎えるしかないはずだ。この体も妙なところで役に立つ。潜司は子供の腕をたたいた。
「おじさんさっき必殺わざ出したから疲れたべや。ちょっと押してくれ」
声をかけるとうなずいた。
初めて車いすを見たような者に、まともな手伝いができるはずはない。コントロールは自分でしなければならないだろう。そのつもりで頼んだのに、押し方は意外に素直でうまかった。
「おメエ筋いいぞ!」
肩ごしに振り返ってほめてやる。子供は横いっぱいに口をひろげて笑った。いすの前輪が転がるたびにきらきら光った。発電の原理を使ったアクセサリータイヤだ。
「すっげえ、ピカピカ!」
はしゃいだ声が叫ぶ。
「かっこいいべ?」
「こんど乗せてくれるんだよね?」
「おう」
約束すると、首をかしげて嬉しそうに覗きこんだ。
道をはさんだはす向かいに、コンビニエンス・ストアの明かりが見える。ちょっと寄って肉まんでも買ってやろうか。手伝ってもらったという口実が、ほんとうらしくなる。潜司はベルトポーチから小銭入れを出して中身を確認した。折りたたんだ千円札が一枚はいっている。マンションの入り口にいすが進むと、自動ドアがうぅんと呻《うめ》いた。
「ちょっと待った、寄り道してくれや」
言いながら振り向いて、次の言葉を失った。子供の姿が見えなかったのだ。
「おい、どこへ行った?」
向き直って呼びかける。一秒まえまでそこにいたはずだ。車いすがひとりでにスロープをのぼるわけはない。しかし、一瞬で身を隠せるような場所がないのも事実だ。走り去る足音は? ――聞いていない。
得体の知れない不安に駆られて、潜司は怒鳴った。
「ほれボウズ、隠れてないで手伝えや!」
宅配便のトラックが、うなりをあげて過ぎてゆく。かんたんの声がるるると響いた。
「どこへ行った?」
必死になって探し回ったが、月と外灯ばかりが白く浮かんで、人の気配は消えていた。
二階の部屋の住人は、口をそろえてそんな子供は知らないと言う。
「五、六歳の子供なんて、ここにはいないわよ。どっかよそから来たんでしょう?」
台所で茶碗を拭きながら、美代子は自信たっぷりだ。十六戸だての小さなマンションで、主婦には家庭の中身がつつぬけなのだろう。潜司はうなった。
「なあ美代子。ひしゃくに月をすくって帰れなんてよ、継子いじめみたいだべな」
「まさか。あんがいその辺から母親が迎えに出てきて、走って帰ったんじゃない?」
美代子は軽く決めつけた。それは推測というより願望であったかも知れない。カーテンをめくって空き地に目をやると、たらいとひしゃくがとり残されていた。
時代が巻き戻ったような古道具のそばで、夜の虫が鳴いている。何ができるというわけでもないのに、気がつくと破れたバラ線のまえにいすを転がしていた。黄色の花が重たげに首を振る。そこだけ光をはらんでいるような、柔らかい色だ。さっきまでこんなところに咲いていただろうか。思い出そうとしたが、分からない。
「月に似ている花だわな」
つぶやいて潜司は空をあおいだ。花の名は待宵草《まつよいぐさ》という。
暗くなれば迎えが来る。そう言って待っていた子供の姿が浮かんできて、潜司は花に顔を近づけた。
「待ってるうちに花になっちまったんじゃねえよな? ちゃんと家に帰ったな?」
話しかけて見つめると、花はかすかに震えていた。まるで呼吸をしているようだ。気配があるような気さえして、思わず頭をふった。
もういちどあんな目をした者に出会ったら、こんどこそ暖かい食べ物を買ってやる。その日が来るまで、千円札は持ち歩くとしよう。小銭入れを車いすの背ポケットにうつし、潜司は後ろ手にそっとなでた。
あいさつがわりに水をすくって、花の黄色にそそぎかける。雑草に埋もれたたらいの中で、花と月とが薄く光ってゆれた。
【おわり】 2003.8.18