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迷宮病棟

猫のじゅうたん

「みんなどこへ行っちゃったの!?」
 初美が叫んだ。
「ノートが……いまの見た? わたし……」
 しばらくのあいだ、初美は目をおどおどさせながらこちらの表情をうかがっていたが、やがて呟いた。
「わたし頭がおかしくなっちゃったの?」
 意外な質問にめんくらったのはこちらの方だった。どういうふうに答えるべきなんだろうか。「見たってなにを?」と切り返すのが仕返しとしてはベストだと思うのだが。黙っていると、先方は勝手に「見たってなにを?」というせりふを言外に聞いたらしかった。
「ここ、学校から、相当遠いの……かな……?」
 ここ、と言われてあたりを見回すと四方に草原が広がっており、見たことのない研究所風の建物がぽつんと望めるだけだった。
「あたし知らない」
 初美はちょっと絶句した。
「なに、その言い方」
 この迷宮、エンドレスでわたしを苛酷な親や教師やクラスメイト、それに過去の中に閉じこめようというのだろうか。
 あの日の翌朝、校門の前まで行くには行ったが儀式のように敷地のまわりを回りに回って、一歩も中へ入ることができなくなった。なぜ入ることができないのか、自分でも理解することができない。いかに状況が厳しいにせよ足が悪いわけじゃあるまいし、たった一歩を踏み出すことができなくなるなど、想像してみたこともなかった。漫画やテレビの人物に起こるようなことが自分の身に起こったのだと理解するには、恐しく時間がかかった。登校拒否になるということ。

「なんとか言いなさいってば」
 初美はまだしつこく言いつのっていた。このコばかに小さいな。考えてみたこともなかったけれど。実際にはわたしよりも四センチほど高いのだが、ひどく縮んで見える。
 ああそうか。彼女がまだ残っているということは、迷宮が舞台をかえてみたという以外のなんでもないのだ。さきほどからの続きなのだ。へなへなしゃくりあげる程度の反応しかもらえないのでは、魔王だか魔女だかも、呪い甲斐がないのだろう。
「ところであんたはいつ消えるの?」
 わたしは質問してみた。実在しているわけではないのだから、いずれこの幻覚も消えてなくなるはずだ。
「消えろってなによ! また平気で人を怒らせる!」
「あんたはあたしの夢なんだろうから、いつまでも存在するわけじゃないんでしょう」
 これは確実だ。初美はわたしの心の中から材料をとって作られたまぼろしなのだ。たとえそれが呪いによって作られたのだとしても、本物の藤木ゆか子が閉鎖病棟の中で自分勝手に見ているのだとしても、大差はない。
 にもかかわらず、初美は相当怒っていた。
「あんたの怒り方、本物そっくりだよ」
「なに言ってるのバカなんじゃないの? 気違いのくせに」
「本物の杉山初美がなんでこんなところにいるの? ここ、どこだと思ってる? 精神科病棟だよ。しかも一番重症の。あたしがここにいるのは当然だよ。確かに患者だものね」
 初美は黙りこくってわたしの方を向いた。
「で、あんたはいつあたしの仲間になった?」
 初美がなにを見つめているのか測りかねた。わたしの背後にある何かを見ていることは確かなのだが、わたし自身が感じているのは草原と風のみだ。急に初美は手をあげて、あらぬ方を指し示した。
「あれ、あれ。病院の看板が窓から見える。ここどこ? なにこの部屋。牢屋みたい、なにこれ。ねえなに!?」
 わたしは首を振った。
「あたしにはそれは見えない。でも落ち着いたら? あたしに病院の看板が見えないで草っ原が見えているのは、もちろん幻覚症状なのよ。実在の姿が見えているならなにも心配することはない。正常なんだもの。人に頼んでそこから出してもらえば?」
 なぜここで形勢が逆転するのだろう。あとでどんな落とし穴が待っているのだろう。高く持ちあげておけば落ちたときの衝撃も激しいから……たぶん……。
 たとえば杉山初美だと思っているのは実は看護婦で、わたしたちはいま、侵入者として見咎められているのであって……目的を達するまえに追い出されるか、あるいはここの正式なお客さんとして迎え入れられるのか……。ああそうだ、主治医の名前を言ってみようか。輪田心療科・神経科医院の輪田英基院長というのが実在の人物ならば、そこに引き渡してもらうまでのことだ。
 ぼんやり眺めて相手にしないでいると、初美は本気で恐怖したようだった。
「ここどこなの?」
「“あのひと”は病気ではありません」
「は?」
 そのまましばらく待ったが反応はなかった。
「拒食症で入院させられている人がいるでしょう? あのひとのことよ」
 初美は表情をなくして黙っている。なんだ、彼女、看護婦じゃないのか。
「シラブルをどこへやったの?」
 と次に尋ねてみた。
「“しらぶる”?」
「あんたがどっかへやったんじゃないの?」
「どういうつもり? 今度は人を泥棒あつかいするわけ? 最低! 非常識だわよ。だからいじめられるのよ。頭がおかしいんだから、嫌われるの当然だわよ」
 わたしは笑った。
「それ、ここでは通用しないよ。こんな時間にこんなところにいる理由をなんて説明するつもり? さっきまで放課後だったのに、気がついたらここにいました、なんて言うんじゃないでしょうね。そんなこと口走ったら、あんたの言うことなんか誰もまともに聞かなくなっちゃうよ? こんなとこにあたしと一緒にいたって噂が広まったらどう扱われるか知ってるよね。ほら、“藤木ゆか子の仲間”とか言われるんじゃないの?」
 奇妙なことに初美は絶句した。まるで本当に呪いの力でつれてこられたかのように。
「まあ、あたしはあんたが本物の杉山初美だなんて思っちゃないから関係ないけど。あんたはあたしの妄想だから、シラブルをどっかへ隠しちゃったり精神病院にいたり、本物だったら絶対ありえないようなことしてるんだって知ってるわ。本物の杉山を泥棒だなんて訴えたりしないわよ。安心してくれない?」
 風が吹いている。晩夏の草の匂いがする。いつの間にか季節が移っていた。初美は座り込んでしまった。
 いま、目の前に見えるのは遠くの方の建物だけだ。研究所風の丸ドーム屋根を持っている。あてがないのでそこを目指してみることにした。
「どこへ行くの?」
 力なく初美が尋ねる。
「シラブルを探しに行く」
 歩き出すと初美が立ちあがってついてくる気配がした。わたしは振り向いた。
「なんでついてくる? あたしのこと大嫌いなんでしょう? 離れなさいよ」
「でも」
「あたしの仲間だって言いふらしちゃうよ」
 初美の口が開きっぱなしになって呆けた表情になった。本当におかしくなったのかと、一瞬幻覚の身を気づかってしまったが、とにかく相手にしないことだ。
 明るい空と気持ちの良い草原が広がっている。わたしを腰抜けにする、目玉のような窓や立ち枯れてサバトの踊りのように変な格好にうねった木や、暗闇で叫ぶ人の声はない。現実世界よりも幻覚世界で安らぐようでは、もうだめかも知れない。そう考えてから思い当たった。
「あなたでなきゃダメなんです」
 というシラブルのあの言葉、そういう意味だったのか。
「あなたがこの町で唯一、死をも覚悟できるから」
 と言い訳のように継いでいたけれど、本当は
「あなたがこの町で唯一、幻覚ならばこわくないという心の持ち主だから」
 それがおそらく正解なのだ。

 初美が黙ってついてくるのがうっとおしいと思いながらも、わたしは“研究所”目指して歩いていた。途中、何度も下校中の小学生が横切っていった。距離は縮まっているだろうか? ――大丈夫のようだ。わたしはあくびをした。
「どこ行くの?」
 初美がおずおずと尋ねた。
「どこへ行くように見えてるの?」
 さっきから初美はほとんど口を利かないばかりか、こちらの質問にもまともに答えられないようだ。答えないのではなく、質問の意味か答えが分からないという顔をする。
「これは夢なんでしょう?」
「“これ”ってあたしのこと? あたしは夢じゃないよ。あんたの方があたしの妄想なんだから」
「そっちの方がわたしの夢なんじゃないの!」
 ようやくいつもの初美らしい見下すような調子が出た。
「そうだとしても、あたしは驚かないよ。あたしの方がこの道にかけちゃ、あんたより先輩だからね」
 急に後ろから手がのびて、腕をつねりあげた。
「痛い、なにするの!」
 どうせ相手はまぼろしなんだから。お返しに両腕をつねって突き倒してやった。初美は信じられないという顔をしてから自分の腕をなでて、
「痛い」
 と呟いた。
「だったらあたしは本物だよ。ついて来ないでよ、うっとおしい! あんた正常なんでしょう? まともな人間なんでしょう? それがご自慢だったでしょう? だからあんなに嬉しそうにひとのこと気違い呼ばわりしたんでしょう? 早く歩いて自分の足でこの病院を出て行きなさいよ、かんたんでしょうに!」
 疲れがたまっていらいらしていた。お腹だってすいている。妄想の初美などにかまっているヒマはない。シラブルを探さなければ。
 気がつくとわたしはずいぶん初美のことをいじめていた。どうせ本物じゃないんだから。なにを言っても、次の日にクラスメイトに言いふらされて仕返しを受けることはないんだから。はじめはちょっと腹にたまった言葉をぶつけただけだったのだが。
「自分がやられて辛かったんだから、ひとにはしない」
「仕返しなんて真似は、死んでもしない」
「あいつらと同類にはならない」
 そんなの嘘だ。何度も自分に言い聞かせてきたけど、嘘だった。
 不意に目指していたはずの“研究所”がゴムのように背伸びをして空気に溶け、霧に姿をかえた。蛇のようにくねくねとうねって迫ってくる。わたしはのどの奥でうめき声を押し潰した。
 霧の蛇はすぐそばまで来るとうすぼんやり立ちあがり、髪の長い女の姿をとった。
「……その心の部分を失ってしまうよ」
 思わず振り向くと、初美が不思議そうに見返している。こちらの幻覚は見えないのだろう。霧は散った。

 わたしは頭を下げて振り向かないようにしながら歩いた。あてはない。霧に姿を変えた建物の跡地をめざすほかには。
 さくさく草を踏む音がついてくる。平らにならしたところしか歩いたことがないのか、ばかに乱れたリズムだった。息も切らしているようだ。
「おいて行かないで、おいて行かないで」
「のろま!」
 いつも言われていたことを言ってみる。気持ちが良かった。このままいじめる側に安住できるなら、こんなに平穏なことがあるだろうか。
 スズメが小さく囁きながら頭のうえを飛んでいった。
「ゆかちゃん、その心の部分を失ってしまうよ」
 何も感じない。わたし解放されたよ。楽になった。もう戻りはしない……。
 初美の声がべそをかく。
「お腹すいたよ。なにか食べる物はないの?」
「うざったらしいわねえ」
「もっとゆっくり行こうよ」
「あんた、あたしの妄想でしょう? あたしが新幹線のようなスピードで走っても、ついて来れないわけがないのよ。うるさいから黙って歩きな」
 幻聴はおとなしくなった。気のせいか気配が薄くなっている。まぼろしとしての本分を自覚したのだろう。足音も聞こうと思うときしか聞こえなくなった。結構なことだ。――が、
「ササちゃん!」
 と、初美が嬉しそうに呼んだときにはぞっとなってしまった。とりまきの笹井なんとかは、初美よりも性質の悪い人間だ。いつもクラスのナンバーツーで、女王様の首が何度すげかえられても、変わらずいつも二番手だ。笹井が誰かを嫌いになれば、まわりがいじめに動き出す。女王の方は他人に動かされているのに、自分の方こそみんなを動かしているのだと信じて君臨しているようだ。つねづね不思議だった。笹井のような存在に見込まれる人間というのは、自分の意志でひとを嫌いになることができないのだろうか。だとしたら、自分のオリジナルな感性で誰かを好きになることもできないはずなのだが。
 振り向くと初美は懸命にどこかへ向かって手を振っていた。その姿は生彩を失くし、コントラストも弱々しく、足元には影を欠いている。声には波のような雑音が混じっていた。
「ササちゃあん、ササちゃあん……」
 呼びかけている方向へ目を向けても、とりまき達の姿はなかった。初美は急に泣き出して、
「やっぱりわたしが弱虫のせいなの?」
 と力なく呟き、左の手首をじっと見つめた。そのおかしな目つき、しぐさには見覚えがある。
「どうしたの?」
 初めて自分からまぼろしにかまってやった。
「ナイフ持ってない?」
 黙っていると、彼女は制服のポケットをしきりにいじくり回し、やがて
「あった」
 と言って取りだした。ざりざりと音がして刃が出張る。これでなんの役に立つのかというほどに錆びていた。
「あんた、そんなもので自殺でもするつもり?」
 呆れて聞いたが彼女は答えず、必死になって刃を左の手首にあてがっている。妙な気分になった。

 そういえばいままで忘れていたが、小学校のときにこれと同じようなことが流行っていた。カッターナイフで自分の手首に切り傷をつけ、何本つけられたかを自慢し合うのだ。このときすでに遊びの仲間には入れてもらえない身だったので、傍観者で良かったのだが、異常なことが始まっているのは理解できた。パニクりながら担任と親に
「あんなことしていいの?」
 と言ったが教師はとりあわず、母親にいたっては
「そんなことしたらダメでしょう!」
 とわたしを怒鳴っただけだった。……違うよお母さん、あたしがやってるんじゃないよ。クラスの中で流行ってるんだよ。……だったら手を見せなさい。……やってないならいいけど、そんなことやるんじゃないの。いいの? 分かった? 分かったら返事しなさい! ……とかなんとか、そういう展開だったはずだ。
 その半年もまえ自殺未遂の告白をしたときには、散歩の話でも聞いているような表情を守り通し、こちらを見ようともしなかったくせに。もしも娘の手首に本当に傷がついていたのなら、見せなさいとも言えない女なのだろう。

 初美が怖じ気づいてためらい傷もつけられずにいるのを見おろしながら、わたしは
「手首を切るとあのひとたちにかまってもらえるの?」
 と尋ねていた。
 手に無数の傷をつけて見せ合っていたのは不良ではない。いま思い返すと、典型的な目立たない子だったような気がする。リストカットできなかったからといって根性なし扱いはしていなかったようなのだが。
 わたしはもう一度
「自殺でもするの?」
 と言った。ナイフを握った手が肩ごとぶるぶると震えたかと思うと、初美が涙を流しながら見上げていた。
「死にたいの」
 これがわたしのイメージなのか? 杉山初美の?
「死にたいの。だって、あのひとたちに嫌われたら生きていけないんだもの!」
 そう叫ぶと初美は手首めがけてナイフを振りおろした。赤黒いさびが瞬時に銀色に変化して気の遠くなるような光を放った。わたしは叫んで尻もちをついた。
 刃物は人形の手首でも切るように半分以上も肉にくいこみ、初美は血しぶきをあげる腕を高くかざして仲間を呼んだ。
「ササちゃん、ササちゃん、待ってよ! わたしも行くから!」
 あまり強く振ったので、手がちぎれそうになって腕の先でぶらぶらしている。
「やめて! やめてよ!」
「ほら、ササちゃんがこっちに気がついたんじゃないの。見てなさいよ、みんなを連れてきてまたあんたをいじめてやる!」
「行っちゃダメ!」
 見えない方へ向かって駆け出すのを掴んでひきとめようとすると、初美の眼《まなこ》が奇妙に輝いてこちらを見た。
「あんたなんか捨てていってもいいんでしょう?」
「え」
「わたしはあんたの猫じゃないんだから!」
 幻覚は血を飛ばしながら左腕をもうひと振りした。視線の向いた方角に、制服を着た女の子たちの姿がちらりと微笑んで消える。ちぎれた手首が飛んで膝のうえに落ちてきた。確かな重みとなま暖かい感触が広がる。声も出なかった。
「それでも学校へ行こうよ、ゆかちゃん」
「それでも学校へ行こうよ、ゆかちゃん」
 ひっくり返ってうずくまっていると、やがて女の子たちの声は笑いながら潮のように引いていった。

 目を開けると薄暗い廊下にいた。膝の上でガサガサいうものがある。一瞬とびあがりそうになったが、それは“あのひと”のために買ってきた食料の袋だった。
 暗い不安が突きぬけた。
 シラブルはなんと言った?
「わたしたちはいま、“あのひと”の前にいる」
 と唱えるはずだったと。“あのひと”とは誰か、何者によってどんな理由で呪われたのか、それを見いださなければならないと。そして“あのひと”にかけられた呪いというのはせがんでも誰にも食べ物をもらえないことだと。
 杉山初美は――一度だけ――。
「お腹がすいたと言った……」
 なにか食べる物はないの? その質問にわたしはなんと答えたか。

 静まり返ったなかに、時計の秒針だけが微かに息づいていた。
「にゃ」
 とつぜん足に体をすりつけ、ただの猫になったシラブルが姿を現した。夢中で抱いて立ちあがる。話しかけようとして言葉を失った。
 床一面にアイボリーグレーのぶち猫がお座りをし、踏んでくれというように敷き詰められていたからだ。
「こんなのってないよ……」
 抱きしめた猫は、顔をあげると野太い中年男の声で
「殺してなめした敷き皮の方がよかったかい?」
 と言い、胸を蹴ってどこかへ消えた。
「シラブル!」
 わたしは体中の力をふりしぼって叫んでいた。
「答えなさいよ! “あのひと”っていうのは杉山初美のことなの? あいつがあたしの許しをもらわなきゃいけないってことなの!?」
 誰に見咎められようと、どうでもいい。
「それともあたしが呪われてるせいで“あのひと”があいつに見えたの? 出てきなよ、答えなさいよ!」
 自分自身の言葉が骨に響いて恐しい音になり、はね返ってくる。こわい。自分自身の叫びがこわい。
「“あのひと”があいつなら助けたくないよ!」
 床に手をついてうずくまった。
「……あたし、助けたくないよ……」
 
 院内の緑のランプの中で、わたしは泣きながら猫たちを抱きあげては移し、抱きあげては移し、あてもなく廊下を進んでいった。
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