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迷宮病棟

棟内 (2)

 廊下へ座り込んでいるまえを、看護婦が懐中電灯を照らして通り過ぎていった。わたしはとびあがり、床に手をついて立ちあがると、その後ろ姿をながめた。どうやらそのとき、口をあけていたらしい。シラブルが慌てた。
「どうしたんです、呆けたような顔をしたりして! ゆか子さん、大丈夫ですか!?」
 わたしはかえりみて叫んだ。
「シラブル! すぐにあたしたちが最初にいた、一階の廊下へ駆けおりるよ!」
 駆けるといったら猫のほうが速いに決まっている。が、シラブルはこちらの意図をつかみそこねたためか、後ろのほうをよたよたついてくるばかりだった。
「いったいなにに気がついたっていうんです」
 さすがに息が切れる。答えられない。
 すっかり忘れていた。わたしたちの姿が看護婦に見えないことに動転して、そのとき言おうとしていたことを言い忘れたままだったのだ。

 たどりついたときにはへばっていた。廊下にしりもちをついて口で息をする。シラブルはかなりあとからやってきて、おすわりをしていた。
「もう話せますか? なにがあったんです、ゆか子さん」
「この階を回ってみて。――ここ一階に間違いないよね?」
「おりた階段の段数からみても、踊り場の表示からみても、外の景色からみても、一階に違いありませんよ」
「へえ、あんた字も読める猫なんだ」
 わたしは立ちあがって窓から入ってくる光をたよりに一巡した。
「やっぱりだ」
「やっぱりって?」
「一階のくせに外来がない。いきなり入院病棟になってる。あの男の人が出てきたときにすぐに気づくべきだったんだ。
 あんたは猫だから電灯があってもなくても困らないっていうか――そもそも気づかないのかもしれないけれど」
「ああ、そう! その話をしているときにあのひとたちが来たんでしたね」
「つまりこれはほんとうの院内の姿じゃないんでしょう。院内であることは確かだけども」
「迷宮の呪いが完全には解けていないんだ、畜生!」
「畜生?」
「畜生だから畜生だって言ったんですよ、こん畜生!」
 まさか仕返しかシャレのつもりじゃないんだろうな。わたしはシラブルが猫だからそう言ったわけじゃないんだけれど。
「明かりのことに話を戻すけど――二階から四階までは人間の目でも普通に見える明るさだったよね? って、猫には分からなかったかもしれないけれど。はじめはちょっと口にしてみたんだけど、あたし、一階が暗いの、夜の外来だもんなってすぐに思いなおして、二階にあがったら急に明るくなったこと、変に感じなかった。そのうえ五階が妙に暗いのも『いよいよここがあやしい』とか勝手な解釈してて。看護婦さんが患者のようすをみるためじゃなく、廊下を歩くために懐中電灯てらしてるの見て、やっと気がついたわ。
 五階ってキーワードなんじゃないの? ほら、外から見たとき、五階にだけ窓がついているのが見えたでしょう。その五階とおなじ、『病棟にしちゃ暗い』っていう属性が一階にあるっていうのはなんだと思う? 最初に会った患者さんがどこから来たのか確かめるべきだったんだ」
「それはわたしも同罪です。そもそも迷路の解呪を忘れたのが最大のしくじりだったんですから」
「おたがい言うのやめようよ。あたしはノイローゼ患者であんたは臆病な魔女猫だとかっていうの」
「そうですね」
 シラブルの賛同が得られたので、わたしは一階にあるただひとつの光源――非常口ランプを指さした。
「あれ、変じゃない?」
「あのランプ? とくにほかのものと変わりありませんよ」
「ランプ自体は規格どおりなんでしょうけど、かんじんの非常口がないのは?」
 見晴らしのいい一本廊下のどん詰まりだ。行ってみるまでもなくなにもないので、一度もそちらへは行かなかった。
 シラブルの尾が垂直にあがったかと思うと、興奮のあまり震えはじめた。わたしたちは小走りに緑の光源へむかって駆けだしていた。

 突然ランプが激しく輝いて目を灼いた。顔を覆ったままうずくまる。おさえたまぶたの裏に、緑と白が残っている。

 どうにか目をあけたとき、薄明るい病棟の廊下がこれまでとは全く違う姿になって現れた。シラブルは逆毛を立てて鞠《まり》になっている。わたしは抱きあげてささやいた。
「まだ目が治らないの?」
「目をあけてもいいですか? ギラギラしていませんか?」
「もう終わったよ。窓の外を見て!」
 丘の下に、窓明かりが二つ三つ見える。
「五階? ここ、五階ですね?」
 シラブルはよほど嬉しかったと見えて、少しのあいだ風景を眺めていたが、不意に顔をこちらへ向けた。
「ゆか子さん、これが現実に間違いありませんよ。いま、解呪の言葉を思い出しました」
「いま?」
「あなたがわたしにかかった呪いを解いたから。真実の道を見つけてくれたからです。本当はわたし、ここの門のまえで、『わたしたちはいま“あのひと”の前にいる』と唱えるはずだったんです」
 どうりで『わたしたちはいま病院の中にいる』では不完全だったわけだ。
「でもここ、“あのひと”の病室じゃないみたいだよ。もういっぺんその言葉いってみてよ。ぱっと“あのひと”の前に行けるかも」
「呪いがかかっているからこそ解呪の言葉が効力をもつんです。呪いはすでにあなたが解いてしまったんだから、そんな魔法のようなことはできません」
 魔法のようなことって……そもそも呪いをかけたの解いたのって……それを魔法っていうんじゃないのだろうか?
 シラブルが鼻を鳴らして言った。
「ここ、男子病棟のようですね? すぐにも行きましょう」
 歩きだしたシラブルを追いかけながら、わたしはあせっていた。
「まってよ! 病室さがすより、詰所へ行ってさきに『あのひとは病気ではありません』やったほうが早いんじゃないの?」
「シッ! ここは現実ですよ! 患者でもガードマンでもわたしたちの声や姿を確認することができるんですから」
「だからいいんじゃないの」
「“あのひと”が誰か、あなたは知っているんですか?」
「は?」
「“あのひと”って誰のこと、って聞かれたら? その質問にあなた自身が答えなければならないことを忘れたんですか?」
 そんなことを聞いた覚えはない。“あのひと”が誰であるかを見いだせ、というのは解呪がなされた今となっては意味がないはず。言いそうになってなにかがひっかかった。そういえはシラブルは最初に患者に見つかったとき、いま見られてはだめだと取り乱していたようだった。それに――もっと重要ななにか――。
 あたまがぐらぐらしてくる。考えるのはよそう。

 行き止まりにあたってわたしたちは、今度こそめげそうになった。どうやらここは最重度の患者のための施設らしい。階段の入口にも中央ホールへ通じる廊下にも厚いドアが立ちふさがり、外からカギがかけてある。どこへも抜けることができないのだ。
「騒いで開けてもらうほかないんじゃないの」
「そんなことしてどうするんです。つまみだされて終わりですよ。それに、ちょっとぐらい騒いでもなかなか来てもらえないかも分からない。このドア、厚すぎると思いませんか? それに、看護婦さんよりさきに患者さんに聞こえると思いませんか? わたしたちが騒いだら、びっくりして治るものも治らなくなるなんてことにならないでしょうか」
「その点についてはあたしも自信がない」
 言ったとたんにすぐうしろの病室から長く高く叫び声がとどろいた。わたしは肝をつぶしてしりもちをついた。体の震えがとまらない。
「どうやら騒ぎにやられてしまったのはこちらのようですね」
 言いかえす気力もなかった。もしもわたしが猫だったら体の毛をすべて立て、しっぽをおなかへまるめこんでうずくまっていただろう。
 叫び声はかなりのあいだ続いていた。恐怖と悲嘆とがいりまじったような調子だった。だれに命や愛する人をおびやかされているわけでもないだろうに、声の主にとっては叫ぶことによってしか救われないほど耐えがたいものが襲ってくる世界こそ、唯一の現実なのだ。
 シラブルはしきりにわたしの脚や腕に体をすりつけて、恐怖をやわらげてくれた。扉の外にはだれがやって来るという気配もない。
「どうして化けたりしゃべったりする異常な猫のわたしよりも、カギのかかった部屋で叫んでいる人間なんかを恐れるんです?」
 わたしは力なく悪態をついた。
「どうしてって聞くのやめて。あたしがそのことについて自分でも納得できるような明快な答えをだせるのは、病気が治ったときだけよ。それと、あたしが恐れているのは人間じゃなく叫び声。このくらいの説明で手を打ってちょうだい」
 シラブルは変な顔をして黙りこくっていたが、やがて口をきった。
「そういうものなんですか。結構やっかいなんですね」
「え?」
「そういう病気にかかったら、さぞかしやっかいな目にあって、困るんでしょう?」
 真顔で言われると答えずらい。視線をそらして
「そういうこと」
 とつぶやき、目を閉じた。
 まぶたの奥で、わたしは白い蝶になって“あのひと”の窓のまえをひらひらしていた。
「ねえあんた、蝶とか蛾とかに化けられないの」
「あんな複雑なものに? 脚が六本もあるなんて、どの脚をどう曲げてものにつかまるんでしょうね? それに触角の使いかたも分からないし。前脚が羽になったりするのは感覚的に分かるんですけど、ふだんないものが急に増えてももてあましますから」
「ギリギリ妥協して両生類どまりか。ネズミでもイモリでもいいから、人間の目につかないようなすきまから出られない? カギとってきてよ」
「カギとってきて、だれがあけるんですか。こちらへ渡そうにもドアのあいだに隙間はないし、猫は十本指を全部バラバラに動かすなんて、やったことありません」
 そういうものなのだろうか。鳥は単に羽をバタバタさせてるわけじゃなく、風や空気抵抗をよんで微妙なバランスをとっているのではないのだろうか? 猫はそういう動作なんて、それこそやったことはないはずなのに、そのわりには鳥に化けていたような気がする。しかし、シラブルがここで嘘をついてもメリットはない。

 扉の向こう側から、かすかな金属音とナースサンダルの音が近づいてきた。小さな車輪のついた台に注射器や血圧計を乗せて運んでくる、あの音だ。もしやこの病棟に、夜中の点滴や投薬を必要とする人がいるのでは?
 わたしはシラブルにささやいた。
「シラブル! もし看護婦さんがこのドアを開けたら、胸元にとびついて驚かしてくれない? つかまったらダメだからね。彼女が手にカギ束もっていたら、くわえて逃げて絶対に見とがめられないように中央ホールの鉢植えの中において、そのあと彼女を階下へ誘導して! カギが台の上にあったら、ひっかいてでもこっちへ来させずに階下へ誘導。あたしが見つかったらそれで終わりだからね。あんたまさか、人間みたいな超ノロマな生物あいてにひけをとったりしないでしょうね」
「もちろんですとも!」
 わたしは空いている病室に飛びこんだ。車輪は間違いなく近づいてきて止まった。少しの間があった。カギを錠前に差しこむ響きが棟をうつ。
 中年らしい女性の悲鳴に猫の叫びがどろりとかぶった。金属が床に落ちる音が神経にこたえる。
 まずい! こんなはでな騒ぎがあったら、詰所の人が飛んでくる。算段があまかった。わたしはこっそり廊下をのぞいた。床のうえのカギ束が自分から飛びんできたように目にうつった。
「こらっ! あんたどこからはいって来たの!!」
 シラブルが必死に白衣にとびつき、ツメをたてている。早く! 夜勤の仲間がやって来ないうちに、早く! 心臓がなさけないほどおびえている。
 とうとう看護婦は激怒してシラブルを追いかけはじめた。ホールの階段を何やら叫んで駆けおりていく足音が不器用に遠ざかる。
 見つかったらそれまでのこと!
 わたしは床に落ちたカギをひっつかみ、ホールをはさんで男子病棟の真向かいにある女子病棟へ走った。夜勤のだれかがようすを確かめにきたら、一発でアウトだ。七、八個もあるカギを全部ためすだけの時間はあるのだろうか? 次々と錠前に差しこんでいるところをつかまえられたら? 手にした金属の束までが、目に見えるほど震えている。ホールのわずかな明かりをたよりにてのひらへ目をやると――カギのひとつひとつに小さなラベルが貼ってある! 『5F女子』という文字がどうにか読めた。
 動揺しきっているためか、差しこむこともままならない。金属同士がぶつかりあってかすかにうなる。もしやこのカギではないのだろうか? 『女子』と書いてはあるけれど、『病棟』とはどこにもない。
 力まかせににねじこむと、背中へ突きぬけるような音が響いた。ゆっくりやっているひまはない。重いドアを体当たりで押し開き、そっと閉める。詰所にいたらしい看護婦が走りこんできて、
「なにがあったの?」
 と問いかけたのはこのときだった。
 実のところ、扉は閉めきってはいなかった。さすがにこれだけ重いと、どうがんばってもかなり響くに違いない。わたしは正に閉め切る寸前で扉をとめ、全身を使ってささえていた。力負けしてぶざまな結果をだすのがさきか、看護婦たちがホールを去るのが早いか……。これほど体が震えているのでなければ、こんなばかな心配をすることもないのだが。
 ホールの人物は
「なにこれ、どうしたの?」
 と唸ると仲間を集めて男子病棟の患者を確認し、廊下にちらばった医療器具を拾いはじめたらしい。受け皿にむぞうさに物を投げこむようすが分かった。割れた注射器や薬ビンの始末でかなり騒々しく、おかげで音にまぎれてドアから手をはなすことができた。
 よりによって閉鎖病棟に猫がいたのだから、大騒ぎになった。幸いシラブルはうまくやったらしい。つかまえたとか追い出したとかいう話はない。床のかたづけをすませて看護婦たちが詰所へ戻ったあと、すぐに小さく
「ゆか子さん!」
 と呼ぶ声があった。そっと扉をあけてやると、羽ばたきの音がして、スズメが肩にとまった。
「さ、閉めて! 内側からカギをかけたら、すぐに“あのひと”をさがすんです。男子病棟の見回りがおわったら、つぎはこっちですからね」
 言われたとおりにすると、スズメは飛びおりざま猫になって着地した。
 カギがなくなったことを、どう解釈されるだろうか? 人間の侵入に気づかれるおそれはある。守衛室へでも行けば合い鍵はもちろんあるだろう。女子病棟にはいってこられるのは時間の問題だ。
 どうやって“あのひと”に救い主だと覚られずに食事をあたえるか、まだ考えていなかった。うつうつと歩きながら最初の病室をのぞいたとたん、わたしは考えこんだ。
「いましたか?」
「あたし彼女の顔しらない。でもうっかりしてたけど、ここ、カギかかっているんだよね、個室に。見つけたとして、どうやってなかにはいる?」
 盗んだカギ束を示して見せる。
「このなかにはないみたいだ」
 シラブルは沈黙した。抱きあげて窓からなかの人物を見せてやる。患者は部屋のすみに腹ばいになって伏しており、のろのろと動いていたが顔はいっこうに確認できなかった。
「とにかく、見られるだけ見ましょう」
 いちいち抱きあげるのがめんどうなので、わたしはシラブルをかかえたまま次の病室へ行こうとした。シラブルはもぞもぞした。
「おろしたほうがいい?」
「いいえ」
「むりしなくていいよ」
「時間がきれたんです。それに」
 シラブルは目を閉じた。
「わたしは臆病な猫なんです。役立たずでも見捨てないでください」
「は?」
 腕のなかで柔かい体がけいれんを起こしはじめていた。時間がきれた? 役立たずで見捨てる? なにを言っているんだろう。
「シラブル?」
 小声で呼ぶ。返事がない。
「どうしたのシラブル。ぐあいが悪いの?」
 けいれんがはげしくなってくる。
「許してください、ゆか子さん。わたしはあなたのことをさんざん言ったけれど、ほんとうはどうしようもないほどダメな猫なんです。許すと言ってください」
「なに言ってるのか分かんないよ。困ったことがあるなら言ってみてよ。臆病なんかお互いさまだって。卑下するのよそうって言ったんじゃないの。なにがこわいのシラブル。シラブル!」
 シラブルの震えがとまった。
 わたしは急に、自分が真夜中の病棟にひとり猫を抱いて立っていることに気がついた。あたりは静かだった。
「シラブル?」
「にゃ」
 シラブルは返事をした。頭にふれるとのどを鳴らした。
「なんとか言いなさいよ!」
 頬が腕にすりつけられる。知らずにあとじさった。
 わたしが抱いているのは、ただの猫だったのだ。
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