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迷宮病棟

シラブルという名の猫

 そのころわたしは登校拒否生徒だった。
 自然に恵まれていれば、率直で力強くてあとくされのないぶつかりあいで子供が育つなんて、嘘だ。町は空と緑に恵まれ、受験戦争のかげもうすい。
「学校へ行こうよ」
 わけ知りにさとす友人を嘘つきとなじり、絶交状態に落ちたのがひと月まえのことだった。

 ベッドのうえから窓に目をやると、丘へ向かって国道が黒ヘビのようにうねっていた。夜闇に浮かぶ外灯のきらめきが、見るたび滲《にじ》んで胸を刺す。
 きのうの朝の診察で、精神科の医者は見すかすように言った。
「ゆか子さん、この薬はね、たくさんためておいて一気に飲んでも死ぬことはできませんよ」
 ひょっとするとそのとおりなのかもしれない。この薬は効き目が弱い。けれど気休めのビタミン剤ではない。れっきとした睡眠薬だということは市販の本で確認ずみだ。二週間分ほどもあれば、車に排気ガスをひきこんで飲むという手もある。真冬に家一件見あたらない郊外へ行って飲めば、凍死できるだろう。――もっともいまは冬ではないけれど。問題があるとしたら、薬を飲んでから判断能力を失うまでに、どのていどの時間が必要なのか見当がつかないことだ。睡眠薬は助かりやすい。狂言に見られるのだけは絶対にいやだ。
 結局これを使うのはあきらめたほうがいいのかもしれないと思ったとき、窓が鳴った。

 ガラスに前足をかけていたのは、一匹の猫だった。そのしぐさが、人間がノックをする姿にあまりにも似ていたので、わたしは窓を開けてやっていた。猫はいきおいあまってつんのめると、すぐに体勢をたてなおして
「ありがとうございます」
 と言った。わたしはそれを聞いて、神経症もきわまったものだ、と考えていた。幻覚があるなんて、どの本にも書いてなかったんだけどな。
 猫はにじりよってきて、ひとことひとことをはっきりと区切って発音した。
「お願いがあるんです、お嬢さん」
 わたしはまだ呆けていたと思う。
「あのひとを救ってほしいんです。時間がない。死にそうだから助けてください。簡単なことです。でもあなたでなきゃダメなんです」
「あたしでなきゃダメ……って、どうして?」
 猫は困惑してうつむき、前足を何度もなめた。
「それはですね、あの……あなたがこの町でゆいいつ、いま現在死をも覚悟できる方だからです」
 わたしは自分でもぞっとするほど場違いな声で笑った。
「あんたねえ、ふつう死を覚悟できるっていうのは自分の信念のためなら死も恐れないような強い奴のこというのよ。生きてることも恐れるような弱々っちい自殺志願者なんか、とんだおかどちがい。とっとと出て行きなさい」
 自分で言ったその言葉を聞くと、涙がでた。
「でもほかにはいないんです。あなたでなければいけない。わたしにはできません。どう言ったら分かってくれるのですか。予言者があなた以外にないと教えてくれたと言ったら来てくれるのですか!!」
 猫は両の前足でわたしの袖にしがみついた。びっくりして思わず体を引いたが、せいいっぱいに伸びてすがってきたので腕に爪をたてられた。後足はつっぱりすぎてけいれんしている。そのようすを見おろしながらわたしは、
「“あのひと”って、あんたの飼い主?」
 と尋ねた。猫は電気にあたったように後ろへ飛びのき、逆毛をたてて否定した。
「違います! 断じて違う。あの、わたし、仲間の失敗のあとしまつをつけなきゃならないです。あのひとが妙な呪いにかかったのは、その仲間のしくじりのせいなので……。
 失敗の張本人は罰をうけなきゃならない。でもわたしがあなたの力を借りてあのひとの呪いを解いたら許してもらえるんです、お願いです! それで――」
 猫は急に言葉を切って前足をなめた。
「あの、どんなしくじりか聞かないでください。あなたに危害がおよびますからね」
 わたしは笑った。
「その説明、いま考えついたわけ? あたしにはあんたが、『ああ言ったら信じてもらえるか、こう言ったら信じてもらえるか』と作り話してるようにみえる」
 向こうはたじろいだが、近づいて真剣な眼でわたしを見た。
「ゆか子さん、わたしの名前はシラブルといいます」
 シラブル。変わった名前だ。そういえば姿も変わっている。からだ全体はともかく、片耳から目にたらした三角巾のような形のぶち模様が、切り紙細工に見えてしまう。アイボリーグレーに銀がところどころ光ったその色は、右肩の上にもはりつけたように唐突におかれてあった。絵の具で作ることは可能な色だけれども、猫の遺伝子はアイボリーグレーをこんなふうには作らないと思う。
「それがどうしたの?」
 突き放すように問いかけると、恐しい顔つきになって背を向けた。物置の屋根へ飛びうつったかと思うとすさまじい勢いで振り返り、
「どうせ死ぬつもりだったクセに!」
 と鳴いた。
「どうせあんたは死ぬんだ。あのひとも死ぬんだ。わたしもひとりぼっちで死んでしまうんだ!」
 猫は闇へ向かって車にひかれでもしたような悲鳴をあげた。それは確かに肉声だった。夢にはない生々しさがあった。わたしはすっかり縮みあがり、神経をまいらせてしまった。恐怖にとりつかれたのだ。
「お願いだからやめてよ!」
 思わず叫んだ。
「あたしになにができるっていうの。あたしにだって死に方を選ぶ権利があるわ。悪魔に食われて死ぬなんてまっぴらよ!」
 わめいたあとから力がぬけて、窓枠につっぷした。しばらく音もなかったが、額のあたりに息がかかるので顔をあげると、猫の青い目がのぞきこでいた。
「化け物退治なんかではありません。ふつうの人間に、ふつうの話をしてくれればいい。それですべてうまくいきます。失敗したら、あなたはベッドへ戻って自殺の方法の続きを考えて、当初の予定どおり死ぬだけです。ちょっと時間を空費することになるだろうけれど、たいした不利益ではないでしょう?」
 黙っていると、猫はきちんと座って説明しはじめた。
「この家のわきを流れる川をさかのぼっていくと、丘の上に白い建物があります」
 精神病院だ。重症の患者ばかりを診ているところで、建設するとき反対運動があった。
「そこにあのひとは収容されています。あのひとは、ものを食べない病気がうんと重いというのが、まわりの人の考えなのです」
「拒食症……?」
 そういう人も入院させるのだろうか、あの病院は。うわさと違うな。
「そう、それですよ! でもあのひとは病気じゃありません。
 あるとき、あのひとの家族はあのひとから食べ物を全部とりあげて閉じこめてしまいました。呪いのせいです。ところが家族は、自分たちがあのひとに食事をあたえていないのだということが分からない。記憶がすりかえられたのです。食べ物をもっていって、なだめたり怒ったり頼んだり、頭がおかしくなるほど毎日がんばっているのに、ひとくちも食べてくれない。そういう記憶にです。
 家族はなにも持たずにあのひとの部屋へ行っているのに、自分じゃ山ほどごちそうを抱えていってるつもりなんです。“食べさせないために”よってたかってあのひとを抑えつけているくせに、“食べさせるために”抑えつけているつもりです。『ひとくちでいいから食べなさい』と言おうとすると、口から『おまえに食わせるものはない』という言葉がでる。そのセリフを言った人間には自分の言葉が、ちゃんと『食べなさい』と聞こえているのです。分かってくれますか?」
「彼女が『なにか食べさせて』って言うと、『お願いだからほっといてよ』と聞こえると……?」
 猫はほっと尾の力をぬいた。
「そうなんです。病院の人も同じです。自分じゃ栄養剤をあたえてるつもりなのに、実際は塩水を点滴してるだけなんです。このままじゃ死んじゃいますよ」
 その話を聞きながら、わたしは自分がものを食べられなくなったときのことを思い出していた。半年ほどまえ、五日間水とアイスクリーム以外はうけつけなくなったことがある。五日目には起きていられなくなった。おなかがすいてすぐにもなにか食べたいのに、アイスクリーム以外の食べ物のにおいをかぐと、吐きそうになるのだ。両親はこの状態を理解しなかったので、泣いて頼んでもアイスクリームはこなかった。電話で医者に泣きついてなんとかなったのだが、(いまだにわたしは、医者がどんな方法であの症状をとりのぞいたのか分からない)電話にたどりつくのも大変な冒険だった。親達は精神科の医者を麻薬とカン違いしていて、『医者に頼るクセがつくと医者中毒になって、一生医者なしでは生きられない精神不具者になる』と信じている。電話を見張ってわたしが主治医と連絡しないように気をつかっていた。週一回の通院を許してもらったのだって、夜中にヒスってわめきちらして、やっとのことだったのだ。そのときのことを思い出したとたんに吐き気がおそってきて、ウェッと言ったきり声を出せなくなってしまった。
 またあの症状が起きたらしい。しばらくはどんなにおなかがすいてもなにも口にできないだろう。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
 うろたえた声が耳元に聞こえる。わたしは猫の言う“あのひと”とやらに、同情を通りこした感情を抱いてしまった。気がつくときれぎれに約束していたのだ。
「こんな状態のあたしがやることだから、うんと簡単なことだけだよ」
 猫の尾がぴいんとあがった。
「まず食べ物を用意してください! そちらがさきです。呪いを解いてもあのひとが餓死していてはおしまいだから。それと、うんと消化が良くて栄養のあるものでないと、あのひとの胃袋はこなしきれないでしょう。服を着て! たったひとこと看護婦さんに『あのひとは病気ではありません』と言ってください。それで呪いが解けるんです!」
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