モンシロ蝶が台所の片隅にとまっていても、親たちはなにも言わなかった。千絵は時々やってきてシラブルを手の上に乗せたり話しかけたりしたものだ。イモ虫を蝶に育てるくらいだから、見かけによらない野生児なんだと信じていたが、実際にはわたし以上に壊れたところのある人だった。
綿に砂糖水をしみこませて蝶に吸わせると教えると、綿に砂糖を振りかけてから水道の流水に突っ込むのだ。
「それじゃ砂糖が流れちゃうじゃない。ダメだよ」
いくら言っても、振りかける砂糖の量を増やしては水に流し、
「吸わないねえ」
とため息をつく。スプーンに山盛り一杯まで振りかけてからようやくシラブルがストローを伸ばすと、得意満面で
「やっぱりお砂糖の量が足りなかったのよ、ね、ゆかちゃん?」
と振り返った。わたしはヒステリーを起こした。
「ちょっと有村さん、そんなちっぽけな綿にしみこませるために、いちいち大さじ山盛りも使ったりして、うちの砂糖をなくするつもり!? 困るってば。わたしがお母さんに怒られるじゃない!」
千絵は幼児のように目を丸くして答えた。
「ごめんなさい。次からはうちのお砂糖を持ってくるから」
「そうじゃないの! コップの中にねえ、水を入れてちょっと砂糖を入れて綿をひたすの。分かる?」
それでも納得しないので実際にやって見せると、しぶしぶやり方のまずさを認めたのだ。
「ゆかちゃんすごいねえ」
「こんなの誰でもできるよ。有村さん、砂糖水の作り方も知らないんだ」
これには答えなかった。ただ悲しそうにため息をついて、
「千絵って呼んでいいよ」
と場違いに言った。
「年上の人を呼び捨てにしたら、お母さんに怒られるもん」
「そしたらお母さんにわたしから話してあげるから」
言葉に迷って顔を見た。おかしな人だ。非常識だ。子供心にもそう思う。
けれど不覚にも知ってしまった。千絵がわたしと同じ傷を持っているということを。友達の誰からも「有ちゃん」だとか「千絵」だとか呼ばれることがない。悪意に満ちた仇名はあっても、愛称はないのだと。
こうして友達になってから五年が過ぎ、千絵は自殺を図った。学校へ戻れと最後の説教をした次の日に。
「それでも学校へ行こうよ、ゆかちゃん」
小鳥みたいなさえずりだった。その無神経さに腹を立てた。
「行けないよ、千絵。行こうとしないんじゃなく、行くことができないんだよ。最初の一歩がどうしても門の中に入っていかないの。信じてよ。どうしてなのか自分でも分からないの……」
「いじめにあっているからなんでしょう?」
と千絵は言った。
「なんとかして、いじめられないようにできないの?」
「なんとかって何をするの? 土下座してみんなに謝ればいいの? 全部わたしが悪うございましたって。そしたらあの連中が『分かればいいんだよ』っていじめをやめてくれるとでもいうの?」
「だから、話し方とか態度とか、変えるように努力したら?」
「努力じゃなんともならないよ! 一度そこへ落ちたら二度とはい上がれないようにできてるんだもの。どんなつまらないミスでも逃さずに捕まえて、『ほらアンタはやっぱり』って言えば、いじめた方が正しいことになるんだもの!」
「言いたくないけどゆかちゃん、自分がうまくいかないこと、なんでも病気のせいにしていない? ノイローゼだといじめられるようなことを言ったりしたりしても許されるって、本気で思ってない?」
違う、千絵。あたし、昔からこうだったわけじゃないよ。ノイローゼだからいじめにあったんじゃなく、いじめのせいでノイローゼになったんだ。さんざんひどいことをして、それで相手が目に見えておかしくなったら、『あの通りおかしい人だからみんなに嫌われるんです』って。いじめにはそういうからくりがある。
「誰だってあたしと同じ目にあえばおかしくなる。医者だってそう言ってるもの」
我ながらなんでこんなところに主治医なんか持ち出すのだろうか。“頭のおかしいゆかちゃん”の自己申告なんか、誰も信じてくれないから? 患者の言うことはぜんぶ妄想にされるけれど、医者が言ったことはぜんぶ事実と認められるから?
苛立ちを隠そうとするような膨らみが千絵の頬に現れた。
「またお医者さんを弁護にたてるの? 病気を理由にすればなんでも通るなんて間違ってるよ。ゆかちゃん、言い訳なんかやめて学校へ行こうよ」
千絵の背丈はわたしにくらべてさほど高くはない。なのにこのとき、小鼻が膨らむのが下から見えた。わたしは笑った。
「千絵はいま、優越感を感じてる」
「どういう意味?」
「精神科患者の烙印も、登校拒否の烙印も、いじめられっ子の烙印も押されたことがないから、ゆか子には説教ができると思ってるんだ」
「もういい加減にしてよ!」
頭のどこか片隅が、「このセリフは激怒させただろうな」と他人事のようにつぶやいた。
「だけど本当は烙印を押されたことがないんじゃなくて、押されたことがバレてないと思い込んでるだけだよね?」
「なに言ってるのよ……」
「確かに千絵はあんな病院へはかかったことがないかも知れない。学校には行っているよね。だけどこれまでの人生の中で、一度もいじめられっ子をやったことがないと言ったら、それは嘘だと思う」
千絵の表情がすっと消えた。
「言われたことあるはずだ。『そんな性格だもの、あんたいじめられるわ。やられる方にも問題あるんだよね』って言われて、傷ついたことが確かにあった。それが見抜けないほどあたしがばかだと思うの、千絵?」
「だから努力するんじゃない! そりゃあ、言われてすごく辛かったわよ? だけどみんなの言うことよく考えて、色々やりかた変えたらなんとかなるわよ。どうしてそれをやろうとしないの?」
「それは嘘だ! 今だってほんのちょっと力のバランスが崩れれば、いつだってあたしと同じところに転落する部類じゃない。『このさき何があっても、いつもいつまでも、ゆかちゃんを見おろし続けることができる』だなんて、余裕ぶっこいてるんじゃないわよ!」
こちらを向いた顔から血の気がひいていった。かたちの良い眉がつりあがって、口を開いたときには言葉が少し震えていた。
「そういう考え方だからだめなんでしょう? 人の言うことを素直に聞いて、悪いとこ直そうとしないからだめなんでしょう? みんながゆかちゃんのためを思って言っているのに、自分は絶対悪くないと思いこんでるからだめなのよ。人のせいにしてるからだめなのよ」
「そう。じゃあ千絵は思ったんだね、あんたそんな性格だからダメなのよ、とか言われたときに。『ああ、このひとわたしのためを思って言ってくれてるんだわ。思いやりがあるからこそ、いじめられて当然だなんて言えるのよね。分かったわ、素直に言うこと聞いとこう』
それであんたの性格は直ったの? その人たちの愛情のおかげで? よかったじゃない、千絵。絶交しよう」
「どうしてそうなるの!?」
「努力しないでいじめられっ子おりる方法が、ひとつだけあるってことだよ! 性格なんかなんにも直さなくていいよ。自分より弱いヤツ見つけてやってやればいいんだ。自分だって一歩まちがえばいじめられるような人間だってことこっそり隠して、他の弱いヤツに言ってやればいい。『あんた、いじめられてるの? 仕方ないよね、そういう性格だもん』」
千絵は両手を握りしめて激しく息を吸い込んだ。
「だってそうじゃない!」
「嘘つきっ!!」
耳の奥がガンガン鳴った。頭蓋骨が割れてしまったようだった。
「今は千絵の方が安全かも知れない。だけどもののはずみであんた自身があたしの位置までたたき落ちたとき、何が残るか考えたことあるの? あたしは優しい言葉なんかかけてやらないよ。いじめる連中はひどい、可哀想になんて、絶対言ってやらないよ!
そのとき千絵のまわりに残っているのは、あたしじゃない。
『あんたなんか、やられて当然だよ。素直に言うこと聞いて、その変な性格を直しなさい。あんたのためを思って言ってるんだからね』
そういう連中だけが残ってる!」
「ゆかちゃんはそういう性格だからいじめられるのよ!」
「そんなものしか友達にできなかったくせに!」
千絵は黙った。目を見開いて、急に馬鹿になったようだった。
「千絵の嘘つき。偉くなったような錯覚にひたりたいからって、お説教ばかりして。本当はあたしを救いたいんじゃなくて、自分の無力感を救いたいんでしょう? まともな人間に見られたければ、いますぐ『いじめられっ子って、要するにいじめられるような性格だから悪いわけでしょう?』だとか、へらへら笑って言える人たちの仲間になりなよ。それがいちばん安全だよ。性格なおす必要、なんにもないじゃない。
だけど賭けてもいい。そんな友達、千絵にはぜったい作れっこないよ。自分自身が同じ言葉で傷つけられたから。そんなセリフを吐く人間が相手のためを思っているなんて、本気で信じたことは一度もないから。
なのになんでそんな嘘をつくの? いじめられてるヤツをとっ捕まえて、『あんたなんかいじめられて当然の人間』って言ったら、少しは強くなったような気分になれるの? そういう気がするだけでしょう? 実際はどうよ。
弱いままだよね? 弱いままだと、またやられちゃうよね? それでいいの、千絵。あんたは欲しくないの? いじめられっ子でもすごく変なヤツでも、それでも生きていこうって言ってくれる誰かが欲しくないの? 手っとり早く自分より弱いヤツ見つけて、それだからダメなんでしょう、って言いながらこの先ずっとやっていくの?」
遠くの方でカラスが鳴いた。微かに響いたその声は奇妙に軽く乾いている。陽にあたって色あせてしまったのだろう。千絵はうつむいた。言って欲しい。本当はどう思っているのかを。
いくら待っても答えはなかった。わたしは体中の力をふりしぼって叫んだ。
「その道を選ぶなら、友達やめようよ!」
千絵は両手で顔を覆った。たったいちど激しくしゃくりあげる音が響いたかと思うと、ほとんど体当たりのようにドアを開けて出て行った。その姿を目にしたのが最後だった。
嘘つきの千絵。人には逃げるなと言っておきながら、人生からの大逃走を試みた。
白い鳥が支配する世界の中で、初美の苦しげな声だけが続いている。猫が最後の質問を投げた。
「あの蛍を助けてあげないんですか、ゆか子さん」
わたしは弱く首を振った。
「それはあの鳥が決めるよ。初美が死んだらあいつのせい。その気があるなら、あたしが殺せと言っても拒否することができるじゃない」
わたしは小鳥の姿をしたものを見あげて言った。
「それをやらないのはあんた自身のせいだよ。ねえ?」
急にインコが落ち着きを失い、きょときょとし始めた。戸惑いを払うように大きく羽ばたく。羽毛が一枚落ちてきた。
「あたしはあんたの責任をあんた自身に返そうと思う。さっきから蛍を殺しているのはあんたなんだから、その罪は自分で処理したらいいわ。迷宮にとどまるのはあんた自身でもあるんだから」
鳥はくちばしをはなした。蛍が弱々しく泣きながら点滅して逃げていった。それまでとはうって変わった細い声が漏れた。
「………なんて言ったの?」
「全部あたしが決める。誰を許して誰を許さないか。あのひとを助けるか、助けないか。
あたしは自分を許さない。助けようとも思わない」
鳥の口が開いた。次の瞬間、凄じい悲鳴がその咽からほとばしった。
「どうして助けてくれないの!?」
「あたしを頼ったのが間違いだったんだよ。所詮はなんの役にも立たない、病んだ人間なんだから」
「許してくれないの!?」
「あたしに“あのひと”は救えない。あんたが自分でやればいい」
鳥の目がわたしを見た。わたしも鳥を見た。焼けつく痛みが激しい感情をともなって食道を這いあがる。
「あんただ、千絵! 学校へ戻れ、逃げるなって説教した。友達だって信じてたのに、バカッ」
わたしは叫んで手にした箱を力いっぱい投げつけた。鳥は硬直したように羽を広げたまま、動こうとしない。とがった箱の角が胸に当たった。
「痛いっ!」
白い影がはじけとんだかと思うと、散り膨らんで人の姿になった。落ちる! 思わず両手で顔を覆うと、ドーンと鈍い音がした。たて続けに金属音が凄じい響きをまき散らして消えた。