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迷宮病棟

蝶道の下で(1)

 のどから胃袋に焼け火箸を差し込まれたようだ。鼻にも口にもつかえたように異物が挿入されている。痛みがじりじりと強くなる。わたしは何度も唸った。唸った声が老人のようにしわがれて、くもった響きであたりをうつ。声を出そうとすると鼻やのどの奥が冷たく焼けて、舌を動かしてもつばを飲んでも自分の体ではないようだ。なにより辛いのは体中に刺さった得体の知れない異物感だった。心臓を小分けにされたような切ない感覚が襲う。涙がにじんだ。
 誰かが耳元で呼んでいる。
「藤木さん、藤木さん」
 頭を振ろうとした。のどの奥で何かがつかえる。不意に凄まじい中年女の声が削岩音のように耳元で割れた。
「一体うちの子になにを言ったの!?」
 飛びあがって短く叫ぶとまぶたが開いた。
 ……景色は映っている……。でも、それがなんだか分からない……。
「ゆか子! ゆか子! 返事して!」
 シューシューという音に混じって母の声がした。
「藤木さん、藤木さん、分かるかい?」
 知らない人の声……。だけど肌色が見える。腕の色。白衣。――肌色が顔の前に伸びてきて、ゴリゴリとなにかを押しあてた。酸素吸入器だ。わたしがあまりに動くので、ずれないように直したのだ。頭が痛い。死にそうだ。
 自殺に失敗したのだと気づくまでには、相当の時間がかかった。こんなに痛くて苦しいなんて。痛みだけで死にそうだ。助けて欲しい。
 今すぐこの痛みをなんとかして。苦しいよ、涙が出る。ただ体の痛みだけで。
 永久に続くのかと思った。

 文字どおり死ぬ思いをして、最も無様な結果を出した。まんいち助かっても歯を食いしばって言うまいと決めていたのに、口が利けるようになると、とうとう看護婦に向かって
「助けて」
 と言ってしまった。

 体の痛みが去ると虚脱しかなかった。ぼやけた頭のかたすみが、さぞかしみんな笑うだろうなと考える。
「死ぬこともできないくせに」
「狂言自殺野郎(男じゃないけど)」
 くらいに言われたあと、
「どうせもともとノイローゼ患者だし」
 というあたりにおさまるだろう。
 帰ってくるつもりで薬を飲んだわけじゃない。ちょっと自殺の真似事をして戻ってきたら世界中が泣きながら悔い改めて、
「ゆか子、これからはもっとお前を大事にするよ」
 なんて、あるわけがない。高校にもなればそれくらいは分かる。そんなくらいでなんとかなる人生だったら、ここまでくる前にとっくになんとかなっているだろう。わたしが死んだら親だって、
「ああ、ゆか子が死んでくれてほっとしたよ。いちおう精神的ダメージはこうむったけれど、世間に恥しくない程度に泣きながら寝てりゃ治るよ」
 そんなものだと思ったのだけれど。
 両親の態度はまるで普通の人のようだった。ごく当たり前に生きてきたのに、急に一人娘に自殺騒ぎを起こされた平凡な会社員と主婦のようだ。出すべくして自殺未遂者を出した家庭の者とは、とても思えない。

 白塗りの天井の薄汚れが、ときおり人の目に見えたり前足のあいだに首を突っ込む豚のように見えたりした。
(“目”に見える)
 不思議な感じだった。こちらの方が「目の形に似ている」と思いながら見ているのであって、向こうに見られているわけではない。当たり前の感性とはこんなものだったのか。ぼんやりしているうちに、右上のうすぼやけた灰色のしみが、猫のように見えてきた。
(猫……)
 わたしはなぜか千絵が死んだことになっていた、あの奇妙な世界のことを思い出していた。
 千絵の背中はわたしが押したようなものだ。さいわい木に引っかかって命はとりとめたものの、二度と会ってはもらえなかった。たった一人の友達さえ汚い言葉で傷つけて、生きる資格もない。そう思って、前々から立てていた計画を実行に移した。
 かなり完璧だと思っていたのに、ひとつだけ誤算があった。むかし実際にあった事件では、確かにあの薬は水に溶けたはずなのだ。コーヒーに溶かし込んで眠らせたあと、被害者を撲殺したんだから。
 錠剤を致死量に達するまで飲もうとすると、途中で吐いてしまうことがある。致死量にいたるまえに眠り込むこともある。失敗しやすい原因はそこにあると、ずっとまえに千絵が教えてくれた。だから充分な量を水に溶かしてひと息に飲もうとしたのに、薬はさっぱり溶けなかった。ペーパーウエイトで叩き割って、粉にしてもダメだ。そのせいでせっかくためた分量の半分以上を失った。仕方なく、くだいたものを夜食にまぜて食べたのだが。水に溶かすのとでは、やはり違う。消化のために胃袋に残ってしまい、洗浄されて吐き出すはめになった。ペースト状にしてゼリーを作れば良かったのに。

 千絵が死んだ夢を見たって不思議ではない。確かにあのとき、彼女の心を殺したのだから。
 ほかにどうすることもできなくて、ベッドから立ちあがった。引導を渡されたっていいではないか? 千絵とのことは、結局なにかの形をつけなくてはならない。ゆっくり歩くとスリッパの音が、まだお前は足をひきずっているよと言っているようだ。
 ひとのいなくなった外来の窓口から、わたしは千絵に電話をかけた。何度コールが鳴っても出ない。呼び出し音以外のすべてものものが、命をとられたように静まり返っている。おそらくは二十回以上もコールを聞いてしまった。
 ――と、突然ブツッと乱暴に受話器のあがる音がして
「もしもしっ!」
 と意気込むような声が耳を刺した。電話をとったときの勢いがあまりに凄かったので、一瞬きられたと思ったくらいだ。
「千絵っ!?」
 叱りつけるような声だった。なんだろう? おどおどしながら名乗る。
「あの、藤木ですけど」
 先方は甲高く叫んだ。
「あらっ! ゆかちゃん生きてたの!?」
 千絵のお母さんだ。分かっていてもビクッとしてしまう。死んで欲しかったと思われても仕方がないのだけれど。
「……生きてました……」
 異常な気配が沈黙になって流れてきた。
「どうして?」
 思わず言葉につまる。
「まだ意識が戻らないんじゃなかったの?」
「ハイ?」
 そういう噂があるのかと納得しかけたとき、向こうは奇妙なことを口走った。
「だってあなたのお母さんが」
「うちのお母さん?」
 つりこまれて自分の親を母と呼ぶのを忘れた。
「何回もあの子が電話しているのに」
「え」
「“うちの子にかまうな”みたいに言ったでしょう? 意識不明で面会謝絶だって」
「いつの話ですか」
「だって今日もでしょう!? あの子が死にかけて、悩みをかかえて話をしたがっているのに、ずっとでしょう? 昨日だって今日だって、あなたが死んだ日から……」
「死んでません!」
 思わず叫ぶと静かになった。
 とんでもないことが起こっている。れっきとした大人が自殺未遂者に向かって、こんな風に続けざまに死という言葉を投げるのは尋常なことではない。体の中で警報が鳴ってなにかが目覚めた。
「すみませんが話が分かりません。なにも聞いていません。どういうことなのか初めから話して下さい!」
 そのあとに続いた言葉がどんな風に言ったものなのか分からないが(明らかに受話器に口を当てて言ったものではなかった)、あんたのせいでとかなんとか呟いたように思える。
「うちの子家出したんですよ。あなたが会ってくれないから。もしもし、聞いてる?」
「だから話が分かりません!」
「千絵がね、あんたが自殺したのは自分のせいだって言って、何度も謝っているのに」
「母が嘘をついて冷たくしたというんですね?」
「だってそうでしょう!?」
「初耳です!」
 気がつくとあたりかまわずわれ鐘のようなような声で喚き散らしていた。
 どういうことなのだ? 拒絶されていたのはこちらの方だ。千絵が未遂をやったとき、直接声を聞くのがこわくて、母に頼んでお見舞いの電話をいれてもらった。そのあと母は言ったのだ。
「あんたはもう有村さんに会っちゃだめだよ。あちらにとってもいいことないよ。分かったわね」
 罰だと思って受け入れた。なのにどうして、相手を避けたのがわたしの方なのか。
「ゆかちゃんが拒否したんじゃないの? どうしてあの子に会ってくれなかったのか、話してちょうだい……」
 泣き出した相手へ向かって、決して優しくはないことを、わたしは口走った。
「おばさんが教えてくれなかったからよ!」
 なんとしてでも被害者モードから抜け出してもらわなければ、まともな情報が得られなくなる。冷静な判断ができる人間からみれば、こちらの発言も負けず劣らずメチャクチャだったのだが、気勢をくじく助けにはなったようだ。ひと呼吸おくれに
「え?」
 と聞き返してきた。
「千絵が来てるってどうして教えてくれなかったの!? ひどい! 大人ってどうしてこうなの!!」
 怒りだけは本物だ。我ながら凄まじい調子だった。
「大人が教えてくれなかったからこうなったんじゃない。千絵を返してよ!!」
 少しの間があった。静かに千絵の母親が言った。怒気を含んではいたけれど。
「縁起でもない。あの子、死んでませんよ」
「あたしだって死んでないよ、おばさん。それよりどうして千絵が家出したって分かったの? 学校じゃないの?」
 夕方ではあるが日没までには時間がある。
「書き置きで……」
「あとを追います。行きそうな場所を教えて」
 この人に心当たりがないだろうことは、見当がつく。
「子供のころ、浜中の海へ行って、そこが……」
 ひどく遠い場所を持ち出してきた。確か千絵が
「『家族旅行をさせてやった』という親のひとりよがりを満たすためだけに連れ回されて、地獄だった」
 と言っていた、十歳のときの遠出だろう。あり得ない。
 しかしそれは、場所以上に重大な情報を含んでいる。書き置きの内容が遺書めいていたということだ。
「海を見に行くって、千絵が書いてるんですね?」
 海のことは書いていない、行き先は全然わからないと千絵のお母さんが悲鳴をあげた。急いで慰めのセリフを吐いて、わたしは病室へ走った。服を取りに行かなければ。
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