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迷宮病棟

棟内 (1)

 奇妙に暗い廊下だった。わたしはさきのほうまで目をやって、明かりを探した。非常ランプの緑が床に反射しているほかは、なにも見えない。
「変じゃない? 病院の廊下って、夜中でももっと明るいもんだよ」
「そうなんですか?」
「ナースコールで飛んでいったら、暗闇でけつまづいて看護婦さんが転んだ、なんて、聞いたことある?」
「わたしは猫だからありません」
「人間の言葉を話す猫のくせして!」
「そうじゃなく、頭で知ってはいても、人間は夜目が利かないということに気を回すのは大変なんですよ」
「…………」
 ありがたくない予感が肺を満たしていた。それをごまかすために辛口をきいたのだが、かえって気力が失せてしまった。
 ――足音が響く。
「だれか来た!」
 看護婦でも患者でもいい。人さえ来てくれれば。身を乗り出そうとするとシラブルが取り乱した。
「待って! だめですゆか子さん、隠れてください。いま見つかっちゃあ」
 もうおそい。わたしたちには隠れる場所などないのだ。

 現れたのは、中年の男の患者だった。べつだんその人が変わったようすをしていたというのではないが、病衣姿を正視するのはいやな気持ちだった。病院支給のねまきって、制服みたいで、いかにも「収容者」という感じだ。こんなものを考案したばか野郎の顔を見てやりたい。
 男の人はわたしたちを見るとわめきだした。
「看護婦さあん、看護婦さあん、オーイ、オーイ」
 患者の声がわたしたちを巻きとってあらゆる壁面に反響する。手が震えた。胸が激しく打って、息が詰まる。わたしは冷や汗をかきながら、左の指を右の手首にあてがった。心臓がどきどきする。息ができない。いくらそう感じても、脈はいつものろい。空気だって、死ぬほどたっぷり吸いこんでいる。
 ナースサンダルの足音が、かすかにかかとを引きずりながら小走りに来る。本番だ! やってきた看護婦に、こんなところへ忍び込んだ理由をどう説明したらいい? それに、患者はほかにもいるのに、“あのひと”だけで通じるのか? シラブルが泣きそうな声で「ああだめだ」とつぶやくのが遠く聞こえた。
 右の角から白い服が現れた。
「大滝さん、どうしたの?」
「あんなところに猫と女の子がいる」
 男の人の指はまっすぐにわたしの鼻のまんなかをさしていた。
「猫と女の子がいるの? どれ」
 看護婦の声は少しも慌ててはいなかった。注意深く患者の示した方向に顔を向けた。
 しかし、視線はわたしたちをとらえてはいなかった。非常口ランプの逆光線で、顔や目の動きを判別することはできなかったが、気配でそれが知れた。しゃがみこんだ腿のところでシラブルがからだを激しくゆする、柔かく熱い感触だけが、わたしにとっての現実だ。
 少ししてアルトの声が響いた。
「猫と女の子がいるのね? 大滝さんには見えるんだ?」
 男の人はまだわたしを示した腕をおろさずにいた。
「かがんでる。あそこに」
「……そう。大滝さんに見えるのは分かるけど、わたしには見えないみたい」
「看護婦さん、見えないのか」
 看護婦はうなずいた。
「きっと暗いせいだと思うけど、見えないみたい」
「いいのか、あれ。追っぱらわなくて」
「大丈夫、なぁんにも悪いことしないから」
「ほんとう?」
 シラブルとわたしは顔を見合わせてから、また向こうへ目をやった。患者と看護婦はいつのまにか向かい合って互いにうなずいていた。そしてすぐに部屋の中へ消えた。
「……狂人はときに賢者の目をもつ、というのがどこかのことわざにありましたね」
「慰めてるの?」
「途方に暮れてるんです。わたしたちを見ることができない看護婦さんに解呪の言葉をいっても、聞こえないんじゃないでしょうか?」
 足元でなにかがガサリといったので、わたしはのどの奥で悲鳴をあげた。シラブルが力なく尋ねる。
「今度はなんです?」
「買物袋。ほら、コンビニで買った、“あのひと”の」
 返事が返ってこない。わたしは軽い衝撃をうけた。シラブルの落胆が思いのほか深い。
「なに呆けてるの!」
 強くささやく。
「病棟のなか堂々と歩いても見つからないんだよ! あたしたちが“あのひと”に食べ物もっていくこと、頭の正常な看護婦や守衛なんかにとめられやしないんだから」
 シラブルは猫の声で鳴いた。
「それに、病気じゃない人にあたしたちの姿が見えないのなら、“あのひと”にだって見えっこないわ。『あのひとにあなたが救い主だと覚られるな』っていう課題を、なんなくクリアできるってことが分かんないの?」
 これは気休めだった。真にうけてシラブルの尾があがるのを見ると、良心が縮んだ。
 急に家族に幽閉されて餓死寸前に追いやられたあげく、やっと出してもらったさきが精神科病棟。そのうえ医者も看護婦も「生理食塩水」とラベルのはってある溶液を点滴するだけ。からだは弱って逃げることもできず、なにを言ってもとりあげられず、黙って死ぬ日を待っている。そんな状態で心を正常に保っていられる人間がいたら奇跡だ。“あのひと”にはわたしの姿が分かるにちがいない。シラブルはかわいそうな猫だから、追いつめられた人間の心境を正確につかむことはできないのだろう。
「ゆか子さんは、思ったより優しいんですね」
 わたしはうなずいた。
「思ったよりってなによ、とか言わないんですか?」
 もう一度うなずく。シラブルは先にたって歩きだした。

 二階にあがると急に明るくなった。順繰りに階段をのぼりながら、病室をのぞいて歩く。シーツをかぶって寝ている人の顔などは、なかなか分からない。三回ほどナースコールをされた。一人だけ「いつものあいつ」と訴える患者があった。
「あいつがいつもいろいろ言ってくるの、あいつ。『とうとう正体あらわしたな!』って言って、監獄へぶちこんでやれ!」
 わたしたちは慌てて逃げた。殺意というのがどんな感じのするものか、肌で分かってしまったから。
「『いつもいろいろ』って、彼女の幻覚は一体なにを言ってくるんでしょうね」
「監獄へぶちこんでやりたくなるようなことだと思うよ。
 それよりシラブル。あんたさっきから女子病棟ばかり見て歩いてるけど、“あのひと”は女なの? ……っていう質問してもいい?」
「“あのひと”は女性です」
「やっと手がかりをくれた」
「知ってたんじゃないんですか? ゆか子さん、わたしが“あのひと”のことを初めて話したとき、“あのひと”のことを“彼女”と言いませんでしたか?」
 なにやら変な気分になった。どうしてそう思ったのだろう? 知っていたはずはないのに。それを考えはじめると、頭にもやがかかって風景がゆがみ、目をあけているのがつらくなってきた。頭痛がする。わたしはこめかみをおさえながら答えた。
「拒食症っていう言葉から女を連想しただけ。ただ、よく考えてみたら“あのひと”は病気じゃないんだから、男ってこともありうると思って。
 知ってたんじゃないですかって、どういうこと? どうしてあたしが、“あのひと”のことを知ってることになるの?」
 言ったとたんにめまいや頭痛がひくのが分かった。
「さあ、どうしてでしょうね」
 シラブルの言い方には不機嫌がにじみでていた。なんの説明もうけずに“あのひと”が何者かを推察する義務が、わたしにあるとでもいうのだろうか。猫の言うことはどうも分からない。
 やがて最上階――五階へたどりついた。
 あたりが急に暗くなる。いよいよだ。残っているのはわずか十数室。遅くとも二十分後には “あのひと”を見つけられるはず、と思ったのだが……。

「まさか今度は、『わたしたちはすでに“あのひと”に会っているのに呪いのせいで会っていないと思いこんでいる』なんていう開けゴマがあるんじゃないでしょうね」
「あなたがいま言ったせりふのおかげで、とくになにかが変わったという感じでもありませんが」
「ダメか……」
 廊下の隅にへたり込むようにしてわたしたちは座っていた。座り方にバリエーションなんかないはずの猫までへばって見えるのが、なんだかおかしい。しばらくするとシラブルが口をきった。
「ゆか子さん」
「なあに」
「いえ、あの」
 返事がそれきりになったので目をやると、うつむいて前足をなめている。いつも思うのだが、動物のまつげは本当に長い。
「なにか思い出したの?」
「……あの……、帰ると言わないでくれてありがとうございます」
「契約むすんだからね。帰ったら呪われるんでしょう?」
 猫は前足をおろしてくるりと顔をあげた。
「言うだけだったらタダです」
 思わず笑った。そして止まらなくなってしまった。空気のぬけた声が院内にこだましては消えていく。シラブルは落ちつきなく小さな足踏みを繰り返し、最後になぜかうろたえながら尋ねかけてきた。
「どうしてそんなに笑うんですか?」
「あんたには騙されたわ」
「…………」
「最初はあんたについていって、簡単なせりふを言うだけだと思っていた。なのに急に『あなたが救い主だと知られるな』と注文を入れられて。
 次は『“あのひと”が誰にどうして呪われたのかを自分自身で見いだせ』だったかな。ひょっとして『“あのひと”がどこの誰かを見いだせ』とかいうのも入ってくるわけ?
 そして今はこの迷宮の謎を解いたりもしなけりゃならない。いつの間にこんなに増えたのよ」
 シラブルは長いこと口を利かなかったが、やがて呟いた。
「確かにわたしはあなたを騙しました。そもそもあなたは、迷宮なんて解かなくとも良かったんです。やるべきことは二つだけ。救い主と覚られずに“あのひと”に食べ物を与えること。“あのひと”は病気ではないと看護婦さんに伝えること」
「うん」
「だからわたしが解呪を忘れた時点で、帰ると叫んで構わなかったんですよ。必要な条件をこちらが満たしてやらなかったのだから」
 あいづちを打とうとして止まってしまった。それならあのとき……。
「あたしがヒスを起こして見返りを要求するなんて言わなかったら……」
「あなたは帰ることができたんです」
 わたしはシラブルをまじまじと見た。緊張した猫の輪郭が薄闇に息づいて見える。
「騙された……」
「はい」
「騙された」
「はい」
「騙されたんだ!!」
 シラブルはうつむいた。
「だったら“あのひと”の正体だとか、誰にどうして呪われたかなんて、ぜんぜん関係ないんじゃないの!」
「少なくともあのときは無関係ではありませんでした」
「なんで?」
「わたしが解呪を忘れたから。
 失われた道を取り戻す方法は二つです。ひとつはさっきのようにあれこれ考えて呪文を試してみることです。『わたしたちは病院の中にいる』だとか。ただ、こんな当てずっぽうは滅多にうまくいきません」
「それじゃあ、あとのひとつが……」
「“あのひと”とは誰か、何者に呪われたのか、どうして呪われたのかを自分自身で見いだせ」
 思わず言葉を失くした。シラブルは足踏みするように身じろいだ。
「もちろんわたしは答えを知っています。けれどそれは人から教えられたのであって、自分で見いだしたのではない。だから道を失ったとき、あなたの怒りを利用して担保をこしらえたんです」
「じゃあ病院に入った瞬間に、あんな契約どうでもよくなってるんじゃない」
 消毒薬と得体の知れないすえた臭いとが入り混じって鼻をつく。なんでもないことなのに、少しむせた。
「ゆか子さん?」
「ああ、なに?」
「怒らないんですか?」
 わたしは首を振った。
「きっかけもなく怒ったりはしないから」
 意味をはかりかねたのか、猫はヒゲをピクピクさせた。
「あたしたちは他の人が考えるようなきっかけでは泣きも笑いも怒りもしない。……そういうときがあるから」
 シラブルはしばらく考えていたが、やがて尋ねた。
「ゆか子さんは、どうして死のうとしていたんです」
「いじめにあってノイローゼにかかったからよ」
「あなたが死ななくてもいいのに」
「いじめでおかしくなったのに、もともと頭がおかしいからいじめられても仕方がない奴だって噂をね、振りまかれちゃって。親も学校も、そう信じたかったから簡単に信じた。友達もね」
「そういう人は友達じゃないでしょう?」
「いいこと言うわね、あんた」
「“友達じゃない人”にまでそう言われたからなんですね?」
 ふっと記憶が白くなり、寄りかかった壁が遠くなるような気がした。
「友達だったほうはね……。カッコのいいお説教ばかりして……。ああ友達じゃなかったんだな、もう好きな人なんかこの世にいなくなってしまったと思ったから」
 シラブルは目を伏せて前足をなめた。窓から入る薄明かりの中で、アイボリーグレーのぶちが靄のように光る。
「シラブル、あんたは?」
「はい?」
「どうして仲間の後始末をしてあげることにしたの? 相手のことが気に入っていたから?」
「ああ、そのことですか。最初から気がついているでしょう? わたしには素敵な仲間なんていないって」
「まあね。マブダチのことを“失敗の張本人”なんて冷たい言い方はしないから」
「簡単な理由ですよ。わたしが一番臆病だからです」
 わたしは白いぶち猫の頭をそっとなでた。
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