数年前、脚を痛めて5ヶ月間も休職するはめになった。たかが肉離れのはずなのに、治ったあともまともに歩くことができなかったのだ。
後遺症だということになってリハビリが開始されたが回復はままならず、よろよろ歩いていると、補装具師(コルセットなどを作る人)が言った。
「沖さん、それじゃサルの歩き方になってしまいますよ。中臀筋《ちゅうでんきん》をきたえないと」
「えっ、中臀筋ってなんですか?」
中臀筋というのは脚のつけ根から腰へかけての両側にある筋肉だそうで、そのときの膝のケガとはなんの関係もないように思われた。
実を言えばこのときの後遺症は内科的な要因が大きくからんでおり、一年以上もたってから、筋トレにいそしんでいる場合ではなかったことが知れた。
しかし「サルはなぜ直立歩行ではないのか?」という長年の疑問を再考するチャンスが与えられたのは、ささやかな収穫といえるだろう。
人間が直立歩行を始めたいきさつと中臀筋の関係は、少しわくわくさせてくれた。
直立歩行の必須条件はいろいろあるらしい。手や骨の問題ばかりがクローズアップされて、あまり華々しく取り上げられはしないが、直立歩行用のきたえぬかれた筋肉を持つことも、そのうちだ。
人間を「正面から」見たときに脚のつけ根が太いのは、発達した筋肉のせいである。チンパンジーの腿《もも》はさほど太くはないし、犬や猫だと「正面から見た」脚はつけ根も足首もほとんど変わらない。中臀筋はまさに直立歩行用の筋肉で、わたしたちは他の動物とは比べものにならないくらいに発達しているのだ。
中臀筋は四足歩行のためには、ほとんど使われない。普通の動物なら、ただ歩いているだけでは発達しないことになる。四本足で歩いていたものが二本足で歩きだすためには、どこかで中臀筋をきたえなければならないのだが、わたしたちの祖先はどこでそんなことをしていたのだろう。
調べるうちに、樹上生活を営むことと、サルとしては中くらいの大きさであること、の二つの条件が、密接な関係にあるという資料に行き当たった。
小さい体であれば、移動する際には枝から枝へと四本足で飛び移ればよい。生まれてから死ぬまでずーっと木の上にいれば、外敵は少ないし食べ物は豊富だし、快適だ。わざわざ地面に降りたり登ったりと、忙しくすることもない。
逆にゴリラほども大きいと、樹上生活はちょっと無理だ。普段の生活は土のうえ。せいぜい低い木に背伸びしながらちょっとよじ登って、葉っぱを食べるくらいが精一杯になる。
チンパンジーぐらいだとどうか。
枝の上から上へ、四本足で飛び移れはしないが、太めの枝にぶら下がって飛び移ることはできる。ぶら下がることによって背骨がまっすぐに伸びるので、立って歩くのには有利な体となった。
一生を木の上で生活できるほど軽くはないが、木登りは得意で、エサだなんだと頻繁に登り降りをくり返す。
四本足で歩く限りは使われない中臀筋は、木の幹を垂直登りするときには、なくてはならない存在となる。わたしたちの祖先はこれで必要な筋肉をきたえ、後足でちょっと歩いたりしはじめたのだろう。
そのほか、立ったときに自然に前を見ることのできる頭のつきかたなど、必要条件はどんどんそろっていった。
どうして人類が後ろ足だけで歩くようになってしまったのか、実はまだよく分からないそうだ。何かの理由で森林に住むことができなくなったとき、完全四足歩行には戻れなかったのだという人もある。
四本足で歩くなら、前足が横に広がらない体の方が安定性があって断然よい。サルや人間のようにぐるぐる回せるなんて、そんなやわな肩はだめだ。そして立ったときに自然に前を向く頭では、四つん這いになったときには逆に前方を向きずらい。これじゃ肉食獣にやられるぞ、というのだ。
事実、木の上でのほほんと暮らしていたサル達は、ヒョウなんかにくらべるとずーっと鈍足になっていた。
「ええい、こうなったら立ったまま歩いてみるかい。体がでかく見えるから襲われずらいのよね」
……なんてシュチュエーションだったかも知れない。
ともあれ……。
よく知られているように、人は二本足で立ったことにより前足が自由になって、道具を作ったり使ったりできるようになった。のどがまっすぐになり、声帯は圧迫から解放された。おかげで複雑な発音をこなし、言葉数も増えて会話は自由自在。脳味噌なんかもきたえられて、不当と言えるほど大きくなった。
……こうしてわたしたちは、すっごくイバって
「直立二足歩行をするのは、地球広しといえども人間だけ!」
などと言えるようになったのである。