姉さまは長いあいだ、なあんにも言わなかった。ほんとに長いあいだ、涙も流さずに考えてた。そうして最後に言ったのさ。
「分かりました、あきらめます」
てな。
「こんな身勝手な女があなたのようなえらい魔女を呼ぶだなんて、救いようのない間違いでした」
そうしてまた、うつむいた。気のせいかも知れねえが、そんとき忌み手使いの顔が、少うし優しくなったような気がしたな。
「わたしはえらくなどない。ただの悪い魔法使いなんだから」
そしたら姉さまが顔をあげて、俺のほうを見たんだ。
思い出すだけでも、心臓が切られるような目だったなあ。
俺、頭のなかのもんが全部すいとられてな。四つんばいになって檻のそばへ行ったんだわ。そのまま格子をはさんで、バカみたいに二人で見合ってよ。
そのうちあの人の口がぱくっと開いていった。
「見たでしょう。わたしはひどい人殺しで、少しも優しくないの」
そう言って、格子をつかんだ俺の手をそうっとなでた。
「忌み手使いに願い事をするときにはね、嘘の願いを言ってはいけないという決まりがあるの。わたし、なんとか嘘をつかないで、あの子たちの幸せのほうが大事ですって言えないかと思ったんだけれど」
――だめだったわ、って言ったんだわな。
俺は痩せ腕をつかんで、必死になって引き寄せた。
「頼むから自分の幸せだけを言ってくれ! 一度だけじゃなく、一生って言うんだ!」
姉さまは小さくいやいやをした。握った手は骨の肌触りがしてな、陽の下にさらされてたのに、不気味なくらいに冷たかった。
「自分だけじゃなく弟も妹も幸せじゃないとだめだ、そうじゃないと絶対幸せになれないって、そう言えばいいじゃないか! それなら嘘じゃないだろう? 嘘じゃないはずだ! 頼む、頼む」
無我夢中でわめきながら、小さい手に何度もほっぺたをこすりつけたさ。叫ぶたんびに、背骨が震えるのが分かった。
どんなに叫んでもあの人はうんと言ってくれない。のどがかれて胸がつかえても黙って首を振るばっかりで、しまいにゃ泣きそうになったよ。
堪《こら》えきれなくなって歯を食いしばってたら、顔に押しあてた指がぴくぴく身じろぎをした。浜にうちあげられた魚の、最後のひと息みたいに。それから手のひらを返して、耳をそっとなでた。
思わず息を呑んだよ。
あの人はな、最初に助けてくれたときと同じように、涙のあとをつけたままで笑っていたんだ。
「崖の木の下で会ったあのときも、わたしたちは泣いていたわね。たった三枚のつくろい物で、あなたはずいぶんかばってくれた。最後の最後まで」
「当たりまえだろ? ずっと助け合ってきたじゃねえか」
「それなのに幸せじゃなくて、ごめんなさいね……」
「なんで謝る!」
あの人は俺の手を引き寄せて、唇を押しあてた。きつく目をつむって震えながら、何回も何回も。
「分かってちょうだい。たとえ人殺しにならなかったとしても、これほどの傷を負ったまま幸せになるなんて、ありっこないの。夢のような御殿に住んでも、世界中の人がうらやむようなご馳走を食べても、目のくらむような服を着て遊び暮らしても、一生苦しみ続けるわ」
波の音が急に遠くなっていった。
「残された家族がどんなに幸せになったとしてもか?」
あの人は黙ってうなずいた。それを見たとき、体じゅうの力がぬけてなにも考えられなくなったんだ。
もいちど頬をなでてくれた手は、かじかんだみたいに冷たかったよ。ずっとずっと握っていたのに、ずっとずっと顔に押し当てていたのに、ちっともあったかくならなかった。
それきり二人で見合っていたら、忌み手使いがゆっくり立ちあがったんだ。
「わたしに願い事をする者は、きれいな心を持たなくてよい。ただ、嘘の望みを言わないこと」
斬りつけるように言って、俺たちを見た。それから空へ向かって叫んだんだ。
「我が心の生みの親! 盟約は結ばれた」
カミナリみたいなすごい音がした。空にひびが入って割れるんじゃないかと思った。そのひびがあたりの木を通って岩を通って、地面にまできて、足もとが崩れるんじゃないかと思った。
気がついたら、女は見たこともないようなきれいな香炉《こうろ》を持っていたよ。俺も仕事がら細工物はいろいろ見たけど、あんな艶のある濃い青はほかにないな。華奢《きゃしゃ》な浮き彫りに金箔がほどこしてあって、王さまの持ち物みたいだった。
女は香炉を格子の隙間から静かに差し入れていった。
「明日の朝には死ぬのよ」
死罪で縊《くび》られると決まった時間に。
姉さまはうなずきもせずに、そうっと目をつむった。俺は慌てて忌み手使いへ向き直ったさ。
「やめてくれ、頼むから!」
命を助けてくれってわめこうとしたら、体じゅうの力がガクンとぬけて、泥砂みたいにその場に倒れこんじまった。
どんなにがんばっても自由が利かねえ! どうなっちまったんだ? 舌もろくに回らないし、じたばたしようにも指の先までいかれてる。
忌み手使いは俺のほうへちょっとだけ目をくれてから、香炉に火をいれた。花みたいな蜜みたいな、甘い匂いがあたりじゅうに漂っていったなあ。じっと嗅《か》いでいると、鼻から頭のてっぺんのほうへ、すうっと涼しい風が通って。夏に林のなかへ入ると、木の匂いがするだろう? なんとも言えないくらいに気持ちがいいだろう? ちょうどあんな感じなんだ。
ああ、ガキん頃に戻ったみてえだなあ……って思ったら頭がぼんやりしてきて、どうにもまぶたが開かなくなっちまった。
ダメだダメだ、俺はあの人を助けるんだ。町の奴らばかりか、見張りまでいなくなったんだから、今しかない。忌み手使いが姉さまをさらったことにして、連れて逃げるんだ。小舟でどっかの岩洞窟へこぎ出して、そこへ隠してって考えながら、頭のもやを晴らそうとして、なんべんもなんべんも力をふりしぼった。
やっとこ開きかけた目のすみっこに姉さまの姿を映したら、うつむいた小さい影が、ぼうっとにじんで白くなっていったなあ。
光みたいにまぶしかったよ。
それがあの可哀想な姿を見た、最後だったのさ。