そりゃもう、すさまじい声だったよ。聞いたとたんに、みんなビクッと飛びあがっちまった。ただの大声じゃないぞ。ほんとに背中にカミナリ入れられたみたいなんだ。あんな声で怒鳴られたら、どんなに性根を据《す》えたとしても、体が勝手に飛びあがっちまう。性根なんか地面に落っことしてるだろうさ。
それから少しのあいだは息をするのも苦しいみたいで、動く気がしなかった。
俺たちが固まったみたいになって立ちんぼしてたら、女は子分をつれてするするとこっちへ歩いてきたよ。女の行くさきは人垣が割れて通り道ができるんだが、その割れ方が気持ち悪くてなあ。体を横にしたりあとじさったりして、みんなが通してやってるんじゃないぞ。人ごみが魚の腹みたいにパクッと割れるんだ。石ころが坂道を転がって場所を変えるみたいに、人間が場所を変える。すぐそばを通ったときには、
「離しておやり」
って、奴隷に言い放つみたいな声が聞こえたよ。そしたら俺を押さえつけてた連中がパッと離れたんだ。
女があいつのわきに立って横目をくれたときには、もうこれは普通の人間じゃねえってみんな分かってた。野郎は自分のもんを握ったまんま、ピクリとも動かねえ。女は言ったね。
「汚らしいわね。しまいなさい」
言われて野郎はしまいはじめた。鼻もあごもいいだけ空のほうを向いて、つまさき立ちになってな。ぐんと後ろにそっくり返ったまんま、またぐらも見ねえでだよ。ありゃあ変なかっこうだったな。
それから女は、姉さまのほうへそうっと体をかがめていったさ。
「わたしを呼んだのはおまえね?」
姉さまは口を開けたまましばらくぼうっと眺めていたんだが、そのうち、
「はい……」
って、消えそうな返事をした。
「来たわ。なにが望みなの」
地面にこするような声音だった。
姉さまは押さえていた額《ひたい》から手をはなすと、まっすぐに女を見た。四方八方を檻にしめつけられて、子ネズミみたいに背中を縮めながらも、ぐっと頭をあげんだ。寝ていたヘビが、急に鎌首もたげるみたいに。
「夢でもいいの。死ぬまえに一度だけ幸せになってみたい」
今にも壊れそうなきしみ声でなあ。聞いたとたんにみんなビクリと黙っちまった。伸びた爪の先っちょで、心臓ひっかけられたみたいだった……。
女は姉さまの顔を長いこと見つめてた。見つめて見つめて、石になったかと思うくらいに見続けたあとで、ようやく口を開いて言ったさ。
「そのためにはおまえのいちばん大切なものを、わたしにくれなければいけないわ。この花をもらうけれど、かまわないわね」
そう言った顔を見ると、さっきまでのおっかなさも、得体の知れなさもまるでないんだ。急に普通の女になっちまったかと思った。
姉さまはふっと黙りこんだあと、色を失くした唇でうめいた。
信じられねえ! この期におよんで迷ったんだ。あんなものすごい助っ人が降ってきて、手前《てめえ》の鼻先に立ってるんだぞ? なんで土手ぶちの花なんか惜しむんだ。命さえありゃあ、あんなのいくらだってモノにできるじゃねえか。明日もあさっても、来年もさ来年も、十年だって二十年だって!
惜しんでくれる心根が嬉しくなかったわけじゃない。だけどどうしても分からんよ。この、この……、肩からはえてるこの手をのばして、自分から不幸をつかみ取ってるみたいだ、そうじゃないか?
あの人はうちしおれたようにうつむいて、涙声で言い訳をしぼったよ。
「だけどこんな汚れた檻に入った花ですもの。なにも罪はないのに、こんなひどい穢《けが》されかたをして」
骨の透けた両手で顔をおおって、それきり口を利かなくなっちまった。
女は小さくうなった。体に巻きつけた肩掛けのうえから腕をなでなで考えこんでたかと思ったら、
「穢れなら、もとへ返せばいい」
って言って、腕組みをしたまま急に俺たちのほうを振り返ったんだ。
いやあ、驚いたのなんのって。
最初はなにが起こったか分からんかったよ。檻のほうから泥みてえなもんが飛んできてよ。びしゃっと音がしたかと思ったら、俺のすぐそばにいた野郎どもが、
「ウワッ!」
って叫んで顔を押さえてるじゃねえか。俺ぁ驚いて飛びのいた。
分かるだろう? 檻の中の小便やら、それで汚れた土やらが、いきなり魔法で飛んできて、やった奴の顔を直撃さ! いやあ、笑った笑った。おかしいや。いま思い出しても腹がよじれるよ! ハハ、ハハ! いい気味だ、ハハハハハ!
アアー、兄ちゃんごめんよ。あんまりおかしくて涙が出ちまった。
え? なにが言いたいんだい?
ああ……。
まあそうだよ。もちろんそんときゃ、笑いやしなかった。本当を言やあ、笑ったのは今日が初めてだい。
とにかくだよ。檻のまわりの濡れた土くれがボコボコ立ちあがったと思ったら、獣《けだもの》みたいに外道連中を襲いだしたんだ。奴らが女みてえに顔をおおって逃げ出したら、ほかの見物人もいっせいに家をめがけて走り出したさ。まじない師や占い師を見たことはあっても、あんなおっかねえ女は見たことがなかったし、だいいち小便でできた泥なんか誰も食らいたかねえわな。見張りの奴らまですっとんでった。
結局そこに残ったのは忌み手使いの女と子分、檻に入れられた姉さまと、俺だけだった。
女は檻のまえにしゃがんで、首をかしげながら姉さまをのぞきこんだ。
「服も髪もすっかりきれいにしたわ。いやな匂いもなくなったでしょう。このお花はもらうわよ」
姉さまはなんにも答えられねえで、ただただ泣きじゃくってる。俺は思わず、
「花でもなんでもくれてやる! 十倍でも百倍でもつんでくるから、姉さまを逃がしてやってくれ!」
ってわめき散らしたんだ。
女はすごい目つきでにらんできた。
「おまえの願い事など聞いていないわ。うるさくするとハエに姿を変えてしまうよ」
山猫みたいな金色の目が、ぐるぐるゆがんでこっちを見てる。危うくぶるっと震えそうになったが、怖じけたそぶりなんか見せられねえや。ギッと背中をはって、虚勢もはった。
「うるさくても構わねえんだ! 頼むから助けてやってくれ。俺、なんでもするよ」
「おやまあ、うっとうしいこと。そういう空約束をする男ほど、始末におえないものはない。なんならこの場で、おまえがどんなに身勝手な腰抜けか思い知らせてあげようか」
「そんなこと言わねえで、頼むよ!」
必死になってすがりつこうとしたら、後ろから子分の奴がはがいじめにしてきて、
「だめだめ、落ち着かなきゃ」
なんて、からかうみたいに飄々《ひょうひょう》と笑いやがる。その力の強いこと。体中がきしんで、息が止まるかと思った。悲鳴も出なくてじたばたしてたら、人が違ったみたいに姉さまが泣き狂ってなあ。
「やめて! やめて! 持ってるものはなんでもあげるから、その人をひどい目にあわせないで!」
って叫ぶんだわ。
「そら見なよ。あんたのよけいなひと言で、あの娘さんは自分の願い事をあきらめて、あんたの命乞いをする気だぞ」
子分は耳元でそう囁いたあと、突き飛ばすようにして手を離しやがった。つんのめって地面に膝をついたあとも、背中の骨という骨が痛くて、口も利けなかったよ。
女は俺のほうなんかこれっぽっちも見なかった。つぎだらけの肩掛けに腕を巻きこむようにしてな、しゃがんだまま姉さまの顔をじいっとにらむのよ。
「死ぬまえに一度だけ幸せになりたい。それに間違いはないわね」
姉さまは涙をこぼしながらうなずいた。
「ここから助かりたくはないの?」
助かりたいと言って欲しかった。
けれどあの人は、ゆっくりと首を振って。
「仮にこの牢屋から出られたとしても、わたしは海に身を投げて死ぬだけです。母親ばかりか父親までもなくしてしまって、弟や妹はあした食べるものにも困っているわ……」
「それはそうでしょうねえ」
むせぶような声が小さく言った。
「命はどうなってもいいんです……。一度でいいから、本当の幸せってどんな感じか知りたいの」
忌み手使いは金色の目を見開いてな。
「だったらおまえ、弟や妹のあとの幸せを望んだほうがよくはないの?」
凛《りん》と冷たい声だったよ。
「おまえが身を投げて死のうが縊《くび》られて死のうが、たいした違いはない。それで誰が救われるというの? 母を亡くした子供たちから、父親まで奪った罪滅ぼしはしないの?」
姉さまは息を呑んで、馬鹿になったような顔をした。
とても見てられねえ! 唇かんで手前《てめえ》のひざ先にらむのが精一杯だ。松林のむこうから波の打ち寄せる音だけが響いて響いて、聞いてるうちに頭がおかしくなりそうだった。