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月花散るとき 番外編
《なぎ》の花・2
 酒飲み野郎がパタッと姉さまを殴らなくなったのは、それからしばらくしてからだ。従姉の家だかにあずけてな。酒代にはもう困らないから、娘を殴る必要もないんだって言ってた。バカに機嫌がよかったよ。
 従姉の家っていっても、道を一本はさんだどん詰まりのご近所さんだ。俺は姉さんの手や顔についたあざが少しずつ薄くなって、きれいになるのが嬉しくってね。仕事の行き帰りにわざわざ遠回りをして、水くみを手伝ったり、洗濯してるところに声をかけたりしたもんさ。
 酒飲み親爺の従姉ってのは顔の暗い愛想なし女で、姉さまをこきつかっていたらしいが、それまでの暮らしが暮らしだっただけに、姉さまにとっちゃあなんてことなかったらしい。三日もしないうちから別人みたいに元気になって、最初に遊びに行ったときには、花をくれたよ。家の裏の土手に生えてる花で、名前は分からないけど白いやつだ。ぎざぎざって、たくさん花びらがついてるあれさ。
「ここの土手に生えているのは、他のところのよりもずっとずっと大きいわ」
 って、うきうきしながら手渡してきた。
「そのうち、磯《いそ》の壊れた小舟の近くに、小さい水色の花が咲くわよ。とても可愛くて、わたし大好きなの。少ししか咲かない花だけれど、見つけたらあげるわね」
 ……笑うなよ、兄ちゃん。花なんざ興味もないし、食えるもんでもないとは思ったんだが、そこでいやと言えるもんかい。
 で、俺たちは二人で連れ立って、はじめて散歩をした。磯のほうをなあ。なにしゃべっていいか分からんもんだから、近寄ってくる波しぶきを手ですくったり足で蹴ったりしながら、黙ぁって歩いてたんだわ。照れ隠しに岩場のうえを跳び跳びしてたら、姉さまが急に、きゃあって叫んで飛びついてきた。
「雨ふらしがいたの!」
 ってさあ。
 雨ふらしって、知ってるかい。磯に住んでる、ナメクジの親玉みたいなやつだよ。茶色や黒の体に、虫のタマゴみたいな点々がついてたりするんだ。へたにさわった日にゃ、体じゅうからうすっきみの悪い紫色の汁を出してくるから、姉さまはこれが大嫌いだった。小さいとき、近所の悪ガキに背中に入れられたりして、それで苦手になったらしいな。その悪ガキってえのが例の袖をちぎったハゲ親爺……いやいや、そんときゃもちろんハゲてなかったけど、あいつだったんだとさ。
 俺もそのときまでは、雨ふらしが好きじゃなかった。けどよ、抱きつかれながらあいつが水の底でひらひらしているのを見たら、無性に可愛く思えたよ。ハハ、いい話だろう?

 おや、裏口のほうに誰か来たよ。ちょっと待っててなあ。
 誰だあ?
 ……お、なんだおまえか。夏風邪のほうはよくなったのかい? すっかりいいのか。そりゃあよかった。
 あれ、なにかと思ったら山ブドウじゃないか! ずいぶんたくさんあるな、わざわざ採ってきてくれたのかい? ちょうどのどがかわいてたんだ、ありがとよ。
 ――ハハ。山ブドウのおすそ分けが来たよ。ほらほら、おまえさんも食いな。あいつ、俺が長話の相手をさせるんで、あんたが気の毒になったらしいな。ちょっと行って採ってきてくれたよ。
 おや、なにを勘ぐってるんだい? おいおい、あの女とはなんでもねえよ。あんな顔でもれっきとした亭主もちだ。なんのこたあねえ、俺の妹だわな。
 いやいや、義理のじゃないぞ。お袋の腹から出てきた女だよ。
 ハア、俺にはちっとも似てないって? さっき戸口で会った例のハゲ親爺にそっくりだから、あっちのほうの妹かと思ったって? 気のせいだよ。おかしなことを言って、困った奴だなあ。ブドウを食ったからには、話の続きを聞くんだろう?

*       *       *

 ろくでなしはどこまで行ってもろくでなしだよ。半月ほどたった夕方に、姉さまは酒飲み野郎の家に戻ってきた。あの野郎は人が違ったみたいに両手を広げてな、
「よく帰ってきた、まあ入れ」
 とかなんとか。いやあな予感がしたね。
 姉さまの家から悲鳴があがったのは、その日の晩だった。なんとも言えない気持ちの悪い泣き声がえんえんと続いてね、いつものと全然ちがう感じだった。騒ぎかた自体はそんなにひどくないんだ。たいした大声じゃない。けど、その中にぐっとこもった怨念みたいなものが、えらく神経を逆なでしてきて、とてもじゃないが寝られやしねえ。
 姉さまがひどい目にあわされるのはいつものことだったから、騒ぎがあったからっていちいち止めに行く奴はいなかった。俺だって同じだよ。だけどその時ばかりは我慢がならなくて、真夜中の道ばたに飛び出していったのさ。
 ドンドンドンと家のドアをたたいてな、
「この酔っぱらい野郎! 娘が帰ったとたんにこの騒ぎはなんだ、静かにしろ!」
 と怒鳴ってやった。
 そしたらどういうわけか、いきなりシーンとなってな。人の気配はあるが、物音ひとつしねえ。ドアの向こうから変なねこなで声が、
「こりゃどうも」
 とかなんとか言ったきりだ。騒ぎ続けるなり逆らうなりすれば、ドアを開けて飛びこんで行くってテもある。けど、いきなり静かになっちまったんじゃあ、どうにもできないじゃないか。戸惑ってつっ立っていたら、細目にドアが開いて、親爺の目だけがそっからのぞいた。
「なんでもないんだ、静かにするよ。俺はもう娘を殴らないんだ、知ってるだろう?」

 だけど俺は見ちまったよ。月明かりがさしてな。
 窓際には寝台があって、髪の毛を振り乱して裸の体に掛布を巻きつけた姉さまがいた。ほんの一瞬だがチラリと見えた。
 家へ帰ったら、妹が腕を引っぱって耳もとに口をつけてきた。
「可哀想だから兄ちゃんには黙ってるように言われたんだけれど、あすこの姉さま、じきに売られてくんだって」
 って、言ったわな。ゲス親爺め、売り渡すまえにちょっぴり味見してやろうってえ了見だったんだ。いくら血がつながらないからって。
 妹の話じゃ、人買い連中は半月以上まえに話をつけていたらしいんだ。姉さまの器量がいいので喜んだことは喜んだようだが、顔があざだらけなのを見て買いたたいたんだな。あのバカ野郎は、自分のところに置いたんじゃつい殴っちまうから、あざが消えるまでのあいだということで、従姉の家にあずけたわけさ。

 そんなに惚れてたんなら、ヨメにもらってやりゃあ良かったって? それはできない相談だな。
 ほれ、酔っぱらい親爺が姉さまをよそにあずけたとき、機嫌がよかったって言っただろう。前払いで金をもらったからさ。俺みたいなかけ出しの若造が、どうにかできる額じゃねえ。それに四つも年上で酒乱親爺つきの女なんて、家族も反対だった。お袋の奴は、
「兄ちゃんが可哀想だから」
 なんて言って口止めしてたわけだが、本音はそっちだろう。
「そんなら俺がもらってやる」
 とならないように、なにもかも過ぎて手遅れになるまで待っていたのさ。

 最初の予定では、人買いが姉さまを連れに来るのは、次の日のはずだったそうだ。それが何日も遅れたのは、娼宿が人殺しのヤクザをかくまっているとかいないとか、から騒ぎのせいだった。
 ま、から騒ぎということになってはいるが、事実無根じゃなかったんだろう。もみ消しにてまひまがかかったんじゃないのかい。
 俺は少しだけほっとしたよ。あんなことになったのに、未練がましくほんのちょっとでも先送りになればと思ってたんだなあ。

 ――姉さまにとっては、見ず知らずの男客のほうがましだったんじゃないかって? おまえさん、痛いことを言うね。
 そのとおりだよ。もしも予定どおりの日に連れて行かれていたら、あんなことにはならなかったかも知れねえ。それよりましな人生があったかどうかも、分かりゃしないけど。
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