紅い雪の降る夜に〜Bloody snow (2)

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◆この作品の著作権は九条忍さんにあります◆

 風よけのゴーグルをかけヘルメットを被り、背負ったリュックからはほとんどフルボリュームで、お気に入りのラテン音楽《メロディ》が流れている。ナチルは調子っぱずれに歌いながら、傾斜のついた坂道を一気に急降下した。車道を走る車も、真っ青になりそうなスピードで。
 表門をくぐった時には、下校時刻にはいるはずの警備員《ガードマン》の姿は既になく、月明かりがぽっかりとその空間に取って代わっていた。ミリィは一足先に校門を後にし、ナチルとグレンは駐輪場へと向かった。グレンの「送ろうか」という申し出を断り、駐輪場から愛用のマウンテンバイクを引っ張り出す。駐輪記録カードを処理機の投入口へ挟んだ直後、出入り口の鍵《ロック》が見計らったように閉められた。電車通学のはずのグレンが、わざわざ遠回りしてまで付いて来る理由。どうも、いまだに理解に苦しむ。清掃員のおじさんにモップで追い立てられ、終業後にどれだけ話し込んでいたのか、ようやく思い知った。
 ナチルは帰路の途中で、州立公園《パーク》を横切ることを意味のない日課にしている。野外の特設舞台でフラメンコやタンゴの公演を、遠巻きにただ見することを、ちょっとした楽しみにしているだけなのだが。今夜は使用されていないらしく、しんとした夜に通れば昼間とはうってかわって気味が悪い。枯れた草地がタイヤに踏まれ、冬風に縮れている。公園《パーク》を南に横切り、坂の上の三叉路を右手に折れた十五番通り《ストリート》に、ナチルの自宅は建っていた。日中は通風のため開けている二階の窓もぴたりと閉まり、作動していたはずの回転式スプリンクラーも、今は静かに眠っている。
 ナチルは、椎の木でつくった郵便受け《ポスト》を覗いてからマウンテンバイクを車庫に入れ、ヘッドホンを両耳から外した。随分と気の早いクリスマスの飾り電球《ライト》が、倉庫から玄関の下へ引き出されている。ドアを引いて、
「ただいまあ」
 脱いだ靴もろくにそろえず、ナチルはダイニングルームへずかずかと廊下を歩いた。遅い夕飯の匂いが、ガーリックを中心に流れてくる。
「おかえり。おそかったのね」
「うん……ちょっと」
 ナチルの母、メリンダは鍋にかけた火を止めて、ナチルの右脇に抱えられた本を、呆れたようにじっと見つめた。
「なあに。また『異次元生命理論』のレポートがあるの?」
 それだけを口にするとまた向き直り、パイ皮を手際よく切り開いて林檎《りんご》を包んだ。冷蔵庫にあった卵を一つ割り、黄身を取り出してパイ皮の上に塗ってから、ナチルはオーブンに放り込んだ。
(いや、だから……『不条理生命理論』だってば。もう、どうでもいいけどね)
 軽く首を振りながら、ナチルは自答する。常識的な一般人には、説明しようと、どうせ大した違いがないのだろうと。
 本日の献立は、ナチルの好きなアップルパイとポテトサラダ、タイムやフェンネルをふんだんに使ったジェドスープ、それに香ばしいブルステルのガーリック炒めだった。ご機嫌で頬一杯にアップルパイをつめこみ、スープを隙間から流し入れる。欠食児童のような活きのいい食べっぷりは、テーブルを囲んでいた大学《カレッジ》帰りの兄、クイードを本気で唸《うな》らせた。
「これが、花も恥らう乙女のやることか?」
「いいじゃん。兄貴、乙女の対象を間違ってるよ」
 人間の楽しみは、食べる・寝る・遊ぶ、以上終わり。これは真理だと、ナチルは真剣に信じていた。父、トマスの咳払いやクイードの呆れ顔を無視して、ひたすら皿の上だけを見続ける。食べる時に他のことを考えるなんて、それは料理に対して失礼だと、ナチルは本気で思うのだ。
「別にどうでもいいけどな。……ん、お前に手紙来てるぞ。なんか香水みたいな匂いがするけど、宛先間違ってんじゃないだろうなあ」
 クイードが、食卓の端に放置された郵便を、分別している最中のことだった。
「ひつれい(失礼)ね!」
 ナチルはフォークを乱暴に置き、モスグリーンの木立が描かれた封筒をクイードの手から強奪した。なるほど、引き寄せるまでもなく、上品なペパーミントの香りがふわりと広がってくる。封筒の表に書かれた、線の細い流麗な筆記体は、確かにナチルの名前を表していた。
「で、誰からだよ?」
 ナチルはくんと匂って、封筒を裏に返した。
「んとね、ちょっと待ってよ。サリラ・アークイット。サリラ……サ、えっ……懐かしい、サリラからだわ!」
「まあ、サリラちゃん」
「アークイット夫妻のとこの、お嬢さんか」
 トマスとメリンダが急に話に加わり、まるで相談でもしたかのような復唱をする。
「……もう、ちゃんって歳じゃ、ないだろうけどな。へ〜っ、サリラ、あいつかあ。筋よかったもんなあ。美人に育ってるだろうなあ」
 一瞬、隠れたクイードの趣味かとナチルは思い込んだ。フォークをかじりながら、不審そうな上目を向けたが、毒を吐くことも忘れない。
「悪かったわね、ちんくしゃで。ああ、やだやだ。なんで、そういう貧困で猥褻《わいせつ》な発想しかできないわけ?」
「おい、何かとんでもない誤解してるぞ。被害妄想もいいとこだぜ。いいから、さっさと開けろっての」
「は〜い」
 封筒の手触りは軽いもので、そんなに大量の手紙が封入されているようでもない。天井の白熱灯に透かして振ってみたが、カサカサと、どうやら薄いカードのようなものが入っているみたいだ。立ち上がるのも面倒で、ナチルは手近にあった果物ナイフで封を丁寧に切った。
(ここ五年ほど、完全に不精しちゃったからなあ。ひょっとして、怒ってるのかな)
 やはりというべきか、中身は予想を裏切らないカードが一枚であった。黒い細かな切り紙が四方から中央を囲むように貼られ、何やら小柄な花がかたどられているようだけれど。
“親愛なるナチルへ
 来週の月曜日、私の十七歳の誕生パーティに、ぜひご来訪ください。
 久しぶりにゆっくりと、積もる話でもして祝杯をあげましょう。
 To the calm eternal night of only yours and me sake
(貴方と私だけの、聖なる永遠なる夜のために)“
 カードの内側には、万年筆でこのように記されていた。
「なに、何の用だったんだよ? 誕生会? あいつ、まだそんなことやってんのか?」
 クイードが待ちきれないように、横から覗き込んでくる。
「うん、そうみたいなんだけど……」
 ナチルは両腕を後ろ頭で組み、背もたれに背を預けて、そのままずずっと深く沈みこんだ。何がどうというわけでもない。でもカードの花を目にした瞬間に、それじゃあ何が。まるで、自分の中の空洞を生温かい風が駆け巡るような、肌が燻《いぶ》されているような感覚がする。
(昔の誕生日カードっていえば、チューリップの花だったのにな)
 ナチルはカードを口にくわえ、ぷらぷらと振ってみた。そして、右手でカードをはずし、
「お母さん、この毒々しい花。なに?」
 メリンダはカードを手に取り、顔を曇らせて表の模様にそっと触れた。
「本当ね。サリラちゃん、こんな花好きだったかしら?」
 クイードが母親からカードを抜き取り、テーブルに肘をついた格好で、視線の高さまで近づけた。
「ん〜、ローダンゼって、下に小さく書いてあるけどな」
 ローダンゼ。
「そんなの可笑しいわ。だって、ローダンゼってピンクや白の花を揺らす、綺麗で高潔な花よ。そんな、毒々しいイメージからは程遠い花なのに」
 メリンダはもう一度カードを取り返し、腑に落ちないように首をかなり傾げていた。
「納得いかないわあ」
「まあ、そんなことどうだっていいじゃないか。きっとサリラの奴、案外、凡人にはわからない隠れた美術的な才能があるのかもしれないぜ。斬新なアイデアセンスってやつで。俺に、世界に名高いピカソの描いた絵が、全くわからないのと同じでさ」
「……そうなのかしら。新境地? すごいわね、サリラちゃん」
 ナチルは無口に無表情で、口を尖らせてみせる。
(お母さん、そこで兄貴の言うことに同調してどうすんのよ)
「ナチル、あなたそれよりわかってる? パーティなんだから、ジーパンはだめよ」
(あ、そうか。服どうしよう)
 それが、予兆を吹き飛ばしナチルに降りかかる、根本的だけど新たな問題だった。

* * *

 黒皮のジャンパーに、足に密着した黒皮のズボンにブーツ姿。招待客の礼装という格好ではなく、むしろ、気晴らしに夜道をとばしに行く……という出で立ちの彼女は、辺りをきょろきょろと見回した。
 招待を受けてから急な話ではあったが、空席を待ち、なんとか国際線の搭乗券を購入できたナチルは、ロンドン・ヒースロー国際空港に降り立っていた。税関をくぐりぬけ、小型のスーツケースでようやく到着ロビーに抜けたナチルを、グレンが出迎える。グレンは週末より、来月に行なわれる選抜高校《ハイスクール》のサッカー国際交流合宿のため、専属コーチとひとつ上の部長と下見に来ていたのだ。
「お前なあ。イギリスでまで呼び出すなよな」
「だって、一人じゃつまんないんだもん。やっぱり、足になってくれる人がいないとさ。どうせもう用がすんで、観光でもしてたんじゃないの? 男二人でむさ苦しく観光してるより、私に付いて来た方が、絶対に楽しいと思うんだけどなあ」
 ナチルは悪戯《いたずら》っぽく、腰をかがめて笑ってみせた。グレンは図星をさされ、ナチルに気付かれるか気付かれない程度、一瞬だが顔を紅潮させた。しかし、そんなことはお構いないしで、ナチルは続けた。
「で、どこに泊まってるわけ?」
「ロンドン南部の、セルハーストパーク・サッカー場近郊のキャンプ地《ベース》
 グレンは舌打ちしながら、ぶっきらぼうに答える。
 人使いの荒さに不満を言いながらも、ちゃっかりと出迎えるあたりの人の良さ。しかも部長を放り出して、一日半を丸々つぶしてくれるというのだから、天下一品だ。
 ナチルは皮肉めいた笑みをひらめかせ、グレンに向き直った。
「ミリィじゃなくて、残念だね」
 グレンは話題に取り残され、一瞬、きょとんと目を見開いたが。瞠目《どうもく》して、頭をかき回す。そして、声を押し殺したように渋々と切り出した。
「あのなあ。そういう曲解がどうやったらできるのか、俺には永遠の謎なんだが。なんか、とんでもない誤解をされてるんだよな」
 少しばかりトーンをあげて、声を張り上げる。
「いいか。前にも言ったけど、俺とミリィは単に帰る方向が一緒だってだけだぜ。俺とあいつのどこをどう見たら、そんな勘繰りができるんだ?」
「え〜っ、そんな下手な嘘ついてまで、隠さなくたってもいいのに。大胆なくせ、いらないところで奥手で純情なんだからさ。ミリィには、黙っておいてあげるわよ」
 ナチルはあっけらかんと笑い、グレンの筋骨のついた背中を、ハンドバックでばしばしとはたいた。グレンは、やや前にのめりながら、
「あの、だから……。いや、もういい。なんか、俺がものすごく虚しくなってきた」
(その天下泰平のぼけっぷりは、わざとやってんのか? この、天然勘違い女。お前こそ、いい加減に気付いてくれよなあ)
 鈍痛が頭に染み渡り、なんだか頭を抱え込みたい衝動にかられる。置手紙は残してきたものの、部長に見つからないように、朝早くに起床した。ベースを抜けてきた努力が、今ごろ、疲労となって一気に襲いかかってくる。
「なんか顔色悪いけど、どうしたのよ? やっぱり、ひと肌脱いでほしいの?」
 ナチルは心配そうに腰をかがめて、お茶目に顔を覗き込んできた。
「お前って、たまに残酷だよな。頼むから、それだけはやめてくれ」
 気がつけば、グレンは真剣になって懇願《こんがん》していた。
 グレンは、ナチルの軽いスーツケースを出口に向かって転がした。
「それよりお前、カヴェルせんせのレポートどうしたんだよ。出来上がったのか? 提出は明後日だろ?」
 慣れた口調で、話を微妙に遮る。
「できてないのよぉ。一枚も、一行も! お願い。私にネタをちょうだい!」
 ナチルは瞳を潤ませ、おまけに手を組み合わせてみたりして、グレンにずずいとつめ寄った。
「いや、そんな……俺に迫られても、お前を満足させるような怪奇ネタはないぞ」
「あの……べつに、普通でいいんですけど」
 なんだか、他人の瞳に自分がどう映っているのか、悪気なく真実が語られた瞬間のような気がする。
 ケント州からエリー湖沿いの都市圏、バッファローに引っ越してから、はや月日は光のように経過していた。英国在住は幼少の砌《みぎり》で、言われてみればテムズ川の芸術、国会議事堂(ビッグ・ベン)も、荘厳なるウェストミンスター寺院も、足を踏み入れたことが一度もないことに気付かされる。灯台もと暗しの典型にはまっていることに、ナチルは思わず苦笑した。
 ヴィクトリアステーション、ロンドンから南東に鉄道で約二時間。ケント州は、英国《イングランド》の庭園という異名を戴《いただ》き、古城が多いことでも有名である。グレンの、
「足にでもなるんだったら……って思って来たんだけどさ。電車で移動するしかないんなら、俺って単なる付き添い?」
 というぼやきを、ナチルは自然《ナチュラル》に右から左へと耳を通した。
 コンパートメントの座席で招待状を開き、窓越しに映る久しぶりの英国の冬を見つめてみる。街並みや、車窓の風景はすっかり様変わりしてしまったのかもしれないが、不思議と実感がない。頭の中で、ぼんやりと霧消した形が再構築されないといったようで、雪雲に翳《かげ》った緑も全てが虚ろだ。それよりも、招待カードの黒い花の刻印。時間は経つのに、いまだ言い知れぬ不安のようなしこりが、ざわざわと胸の奥をはびこっているような気がしている。
 ナチルは沈鬱《ちんうつ》な表情で窓をあけ、唐突に口を開いた。
「ねえ、ローダンゼの花って……」
「あん、その禍々しいのがローダンゼ? あり得ないだろ」
 招待状を手に取ったグレンが、手の甲でぱしっと弾いて断定する。
「やけにすぱっと断定するけど、実物を知ってるわけ?」
「いや、知らないけどさ。ミリィの友達《メールフレンド》によれば、花言葉は確か『Eternal love』らしいぜ。なんでも、日本人は花とか宝石とかにわざわざ意味をつけて、浪漫主義《ロマンティック》に演出する趣味があるらしいよな」
「あ、それどこかで聞いたことあるかも。……でも、どこでだったかなあ。確かにあるんだけどなあ」
 ナチルはこめかみの辺りを指でおさえ、目を閉じたまま眉間をくもらせた。
 永遠の愛。
(永遠の愛かあ。でも、私に対してよね? 永遠のって……あれっ?)
「どこにいった……テストの際の記憶力!」
「どうせ、一夜漬けの記憶力だろ。何かよく知らんけど、さっさとあきらめろ」
 電車はキイッと甲高い声で鳴き、電子《モーター》音は徐々に速度を落としていった。揺れもカタンカタンと滑らかになり、流れる景色も失速して、ふぞろいだった物影も軒並みならび立ち始める。目的地が近いことを告げていた。

 ケントの村は海抜より相当に高く、凍てつく冬は丘陵を鋭利に彩る。視界からひっそりと包み隠れるように白く、白く……どこまでも白く。大地を霞ませるほどに染め、草の芽を眠りへと誘い。ナチルとグレンは電車を降り、バスを乗り継いで凍《こご》えた大地に足を付けた。昼過ぎの村には、やはり懐かしさが溢れていた。
 バス停から人里をくぐり、落葉して枝だけを震わせるポプラ並木の道を通り抜ける。村の中でも少しばかり離れた小高い丘の上に、サリラの家は建っている。人気はない。耳を傾ければ、雪のしんしんと降り積もる音すら聞こえそうな錯覚を覚えた。琥珀色の壁の下には、歓喜の囀《さえず》りを表現した、藍色で描かれた鳥柄の壁画。村でも一、二を競う名家の貫禄《かんろく》は、敷地の広さを差し引いても、この細工だけで充分だと思う。
 ナチルは雪の反射を瞳に映し、両手を一杯に空へと広げた。雪がきらきらと結晶のまま、掌の上に舞い降りる。吸い込んだ空気は肺を浸食し、体の中では、懐かしさが匂いたつ。
「うわあ、ほんとに何ひとつ変わってないわあ」
「すっげえ邸宅。都会じゃ、まずあり得ねえ」
 喜ぶナチルの横で屋敷を見上げ、グレンはしまりなく、あんぐりと口を開いた。そして、ナチルの方をじっと見つめ、
「釣り合わねえよなあ」
 と、口の中でぼそりと呟いた。
「そこ、うるさいよ」
 ナチルはスーツケースをもぎ取り、不機嫌そうにきっぱりと言う。
 インタホンを鳴らしてみる。しかし反応はなく、もう一度鳴らしてみた。やはり、鉄錠のかかった扉の、開かれる気配はない。顔を見合わせ後、ナチルはついに痺れを切らし、握り拳でどんどんと二度ほど叩いてみる。やがてカタンという音がして、扉に据え付けられた覗き窓から、二つの目がきょろりと動いた。こちらの空気を窺《うかが》うように。
「どなた?」
 甘く透明がかった――少し、機械的な気もするが――、忘れもしないサリラの声だ。
「私よ、サリラ! ナチル、ナチルよ!」
「まあ、ナチル? ナチルなのね! 嬉しいわ。やっぱり、来てくれるって信じてた」
「そうよ、当たり前じゃない。ねえ、ここを開けてくれない? さすがに、久しぶりのケントは寒くて」
 ナチルははあっと息を吹きかけ、紅くなった手を覗き窓に向かってこすり合わせた。しかしサリラの目は一層見開いて、さらにきょろりと右にずれる。
「横にいらっしゃるのは、どなた?」
 サリラの問いに視線を交わし、ナチルは元気に答えた。
「ん? ああ、愉快なおまけ一匹」
「おまけって……お前なあ」
 グレンはうな垂れ、脱力したように両膝に手をつく。サリラは覗き窓越しに、目線を頭から爪先までずらし、最後にもう一度、まるで尋問でもするかのような眼光をグレンの顔に向けた。抑揚のない声で、用心深くさらに続ける。
「そうなの。ですが、このパーティは招待状を差し上げた方しか、ご参加いただけないのですが。とても、お家にお泊めするわけには」
 サリラの返答に、二人は反射的に、思わず顔を見合わせる。そこには、隠すことのできない動揺の色が、冷や汗混じりにありありと浮んでいた。
「わ……わかったわ。ねえ、とりあえずここを開けてよ」
 グレンは、ナチルの返事にますます狼狽《ろうばい》した。声をあげる余裕もなく、ナチルの横顔を凝視する。
(ちょっと待てよ。ここまで呼び出しといて、それじゃ、俺はどうなるんだよ)
 ナチルはそんなグレンに、気付いているのかいないのか。傍目《はため》には、しれっとして見える横顔とは裏腹に、また、あの生温かい風を感じていた。頭の隙間を、ちりちりと燻《いぶ》していく感覚を覚える。それは間断なく寒気につながり、背筋をなでては下りて行った。いったい何が、こうまでして自分の中で滞っているのだろう。わからないけれど、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、何かが全身全霊をかけて伝えようとしているような気がする。“キケン”と。言い知れない悪寒を感じ、たまらず両腕を勢いよく擦り付けた。
 何かが違うと風が答える。そういえば、サリラはこんな瞳をしていただろうか。覗き窓なんて、記憶の範囲で最初からあったのだろうか。
 カタリと覗き窓が閉まり、ギイッと重苦しく扉は内側に開かれた。白い手袋に、淡い萌黄色《もえぎいろ》をした絹のロングドレスをまとい、サリラは靴底を床に響かせる。裾は、華やかなレース仕立てになっている。先刻まで見せていた、異常なまでの警戒心が嘘のように、サリラは淡く微笑んだ。外に積もった雪が照り返り、彼女の顔を病的なまでに白く浮き立たせる。
「いらっしゃいませ。遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
 サリラはうって変わった最高の笑顔で、はきはきと二人を出迎えた。つい今しがたまでされていた、問答の残滓《ざんし》も消えていないのに。ナチルは豹変《ひょうへん》ぶりについていけず、無意識だが一歩あとずさった。
 グレンも一連の異様な空気を察知してか、弱々しくナチルに尋ねた。
「それじゃあ俺、近くで紹介してもらって宿《モーテル》にでも泊まるよ。積もる話もあるだろうから、帰りの飛行機の時間も考えて、そうだな、明日の朝五時頃に迎えに来たらいいよな?」
「う、うん……」
 ろくすっぽう話も聞かず、ナチルは首を適当に縦へ振る。しかしサリラは強引に、事態を抑止した。ひとつの案を、グレンに提示することによって。
「わざわざ宿《モーテル》にお泊りにならなくても、隣の叔父と叔母の家を使ってくださいな。せっかく遠方からいらしてくださった、ナチルの彼氏《ボーイフレンド》ですもの。宿に泊まらせるなんて、そんな非情なこと……。ちょっと離れてますが、都合よく二人とも留守にしてることですし。自由に使っていただいて、結構ですが」
 グレンは、百八十度変わった待遇に動転し、一瞬だが不審そうな渋面をうかべた。そして、救いを求めるような瞳をナチルに送ったが……。
「サリラ? なんか激しく誤解してるようだけど」
「違うのかしら?」
「違うわよ!」
 ナチルは、力いっぱい首を左右に振りぬく。
(お前。なにも、そこまでむきになって否定しなくても)
 グレンは少なからず、頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 そんな様子を横目に窺《うかが》って、サリラはうつむき加減に意味ありげな笑みを滲《にじ》ませた。
「では、ボーイさんかしら? さあナチル、こっちへ。奥に、高校《ハイスクール》のご学友を、お招きしているの。皆に紹介するわ。貴方も一緒にどうぞ。後で、ちゃんと案内しますので」
 サリラはゴトリと頑丈そうな錠をさし、柔らかな物腰で踵《きびす》を返した。
 奥に通じる、年季の入ったペルシャ絨毯《じゅうたん》に二人を通した。壁の両面には幾つものドアがあり、部屋の多さを雄弁に物語っている。廊下のガラスケースには、星葉石《せいようせき》を原石から切り出した壷や、その他、高価な調度品。それに、輸入物らしき鷹や象牙の剥製《はくせい》。そこはグレンにとって異色で、息をつめて瞠目《どうもく》するものばかりだった。
 廊下を幾つか左手に折れ、階下に通じる木造の階段を後にする。口をぱくぱくさせているうちに、足を止めることもなく、サリラは平然と直進する。ようやく立ち止まった奥間からは、賑やかな声とバニラエッセンスの香りが漂ってきた。ここまで来て、グレンはある重大なことに気付いた。ナチルのスーツケースをいつまでも引いているのは、お人好しの自分であるという事実に。
(まあ、それでいいんだけどな……)
 再会を素直に喜んでいるナチルの背中に、柔和に目を細める。微かに開いた口からは、わずかに白い歯がのぞいていた。

* * *

 夕陽が西に傾き、吹き抜ける風が、ゆるい水から肌を刺す氷の冷たさへと移る頃。長い廊下を玄関へと向かった友人達は、歩きながら厚手のコートを羽織ったり、マフラーを巻いたり、帰りの身支度を整え始めた。この頃になると、すっかりナチルも打ち解けて、皆の話に無理なく溶け込んでいた。
 グレンを隣家へと送り届けてから、サリラとナチルは友人達を見送りに、玄関から凍える足を踏み出した。
 コートの上からでも、突き刺すような寒気が乱暴に吹き抜ける。
「うわっ、さむっ」
 戸口に立った彼女達は、両肩を竦《すく》めて体を震わせた。
 しばらくの間、室内との温度差にかじかんだ歯を鳴らす。
「今日は楽しかったわ。ほんとよ」
「そうそう、サリラの顔も見れたことだし。だって、ここ一週間ほど、全然、姿を見せてくれなかったじゃない?」
「そうよ、『風邪で休みます』って、一度、先生に連絡したっきりで、私達には何も言ってくれないし。そんなにひどいのかって、みんな心配してたんだから」
「そうよね、水臭いわよね」
 彼女達はサリラに向き直り、マフラーの下から口々に不平を並び立てた。
「ごめんね。来週からはちゃんと、学校に行くから」
 うっすらと頬を染め、はにかんだふりを続けながら、サリラは答えた。
「ナチル。あなたにも会えて楽しかったわ。でも、なんか意外ね。サリラに、こういった友達がいたなんて」
 彼女達の一人が、ナチルに上品な笑顔を向けながら、不躾《ぶしつけ》な感想を率直にぶつけてきた。
「えっ、そうかなあ」
 ナチルはサリラの顔を静かに窺《うかが》い、続けて自分の姿に目を移す。艶《なまめ》かしい長い髪、大雑把《おおざっぱ》に切りそろえた短い髪。大人な誘惑の女性、ちょこまかとした小動物。豊満な胸、対してぺちゃぱい……。
(あ、なんか虚しくなってきた)
 無駄なあがきだというグレンの言葉に、軽い殺意すら覚える。そもそも比較することが根本的な間違いであり、クイードの予想が的を射ていたことを、否が応にも認めざるを得ない。と同時に、クイードがここにいないことに感謝すらしたが。
「それじゃあね、サリラ。ナチルも」
「またね」
 彼女達は振り返りながら、何度も手を振った。
 ナチルとサリラは、扉の前で丘を下る影を見送った。大地を踏みしだく踵は、しゃりしゃりと薄皮の氷を砕く。頭の影すらすっかり見えなくなるまで、手を振りながら立ち尽くしていた。
「ええ、また……いつかね」
 彼女達の話し声も完全に届かなくなった頃、サリラの表情は、微笑から何も映さない無表情へと、徐々に変化を終えていた。
 サリラは奥歯にものが挟まったような、少しばかり決まりの悪い返事を返した。かき消えるような細い声で、語尾に奇妙な言葉を付け加えたのを、隣に立っていたナチルは、聞き逃しはしなかったが。ナチルは違和感を覚えたものの、器用に気を取り直し、わざと耳にしなかったふりを続けた。
「サリラ。心配してくれる、いい友達もってるじゃない」
「……いい友達かぁ。そうね。ほんとに、そうだったらいいんだけどね」
「えっ?」
「……皆、父に気に入られたいだけよ。とっくに慣れてるし、別に、もうどうだっていいんだけどね」
 サリラは、自分で口にした言葉を払い流すように、勢いよくナチルに体を向けた。零《こぼ》れるような笑みを、瞳に輝かせる。
「そんなことより、ナチル。ほんとに嬉しかったわ。何年になる?」
 唐突に、囁きにも似た声色でサリラが尋ねた。
「え、何が?」
「ナチルが、バッファローに引っ越してからよ」
「あっ、ああ……そのことか。えっと、四年の終わりには引っ越したから、七年かな」
「そう、もう七年になるのね。私の時は、あの頃から止まったままだわ」
「何よ、それ?」
 はじめ、なしの礫《つぶて》だったことに立腹しているのかとも思った。まだ小学四年生だった頃に父親の転勤が決まり、ナチルはバッファローへと居を移した。新居を構えた当初は、平均して週に一度は手紙を送ったが、見知らぬ街に新しい学校、期待の生活。目まぐるしく流れ去る毎日に駆り立てられ、いつしか、書いた手紙を投函することすら忘れてしまっていた。
「でも驚いたわ、いきなり誕生パーティの招待状が届くんだもの。あの頃のように、ずっと続けてたの?」
「いいえ、そんなもの……あんな茶番劇、中学からやめたわよ。二年の時にやめちゃった。でもプレゼントだけは、飽きもせず毎年くれたわ。父がね」
「それじゃ、なんでまた急に?」
「ふふふ、貴方に会いたくなったの。だって、全てが終わったんですもの。この喜びを、幸せだった昔を一緒に過ごしたナチルとって思って。だって私は、あの頃に戻ることができたことだし」
 そう言ってサリラは、ささやかな笑い声を鼻に浮かべた。片足に重心を乗せ、両手を後ろ手に組み、軽快に踵《きびす》を返す。
「何よぉ……もったいぶった言い方するわね。それとも、何かこの後に、とっておきのお楽しみでもあるの?」
「あら、いい勘してるじゃない。私達はね、この後にメインディッシュを食べるのよ」
 サリラは前を向いたまま、首だけを傾げナチルに振り向いた。涼やかに目元を細め、人差し指を唇にあてる。そして、続けた。
「でもね。実は……準備に、かなりの時間がかかりそうなのよ」
「へえ、手の込んだ料理なのね。新手の郷土料理とか? それは楽しみ」
「う〜ん、昨日から食材の用意にはかかってるのだけれど、食べられるのは夜を回って遅くからかしらね。まだ仕上があるから、食卓の準備でもしててくれる? 蝋燭と火の用意も、よろしくね」
 食材の用意……、ケントの街でもわりと標高の高い場所に位置するサリラの家だ。周囲にあるのは親戚の家くらいで、徒歩で行ける距離ではあるが、隣接しているわけでもない。この地を去った時、バゼル叔母さんの家にはちょうどひとつになる赤ん坊がいたと、ナチルは記憶している。そしたら今は、遊びたいざかりの八歳。しかしグレンを連れて屋内を踏んだ時、家族総出の外出にしても、まるで家自体が眠りについているような……気配というものが感じられなかった。鬱蒼《うっそう》とした陰影だけを刻んでいた。
 ナチルは、心に引っかかっていた疑問を、口にしてみた。
「ねえ。そういえば、おじさまとおばさまは? 今日はお出かけなのよね?」
 サリラは足を止め、ナチルに背を向けたまま淡々と答える。
「ええ、父と母は、叔母達と一緒に外出してるわ。遠く、そう、ここからとても遠い場所にね」
「ふうん、そうなの」
 ナチルは、微妙に腑に落ちない返事を口先で返した。
 これ以上の思考を封じ、厨房に入っていくサリラの背を見送る。空には薄雲がたなびき、再び雪雲を誘い始めていた。

* * *

 サリラは火を吐き出す窯《かま》の前に腰を落とし、鍋に刺された木棒をゆっくりとかき回していた。石の隙間に挟まれた火は燃え盛り、大鍋の底を力強く照らす。サリラは手でそろりそろりと、湯の調子を測るように一心に回し続けた。沸き立つ湯の中には、外気に一昼夜晒《さら》した、極上の食材が泳いでいる。
「窯《かま》で圧力をかけるのもいいけれど、それじゃつまらないじゃない? やっぱり、溶けて朽ちていく様子が目で見れないとだめよ」
 ぼこぼこと泡をたてる湯に沈んだ物体は、やがて水面に顔を出す。体毛はずるりと抜け落ち、膨張した表皮が風船のように広がっている。
「私って親切よね。神火で炙《あぶ》られる前に、ちゃんと湯で煮て慣らしてあげるんだから。そうよ、清めてあげてるのよ。礼くらい、言って欲しいものね」
 額には汗の玉が浮き立ち、瞳は陶然《とうぜん》と酔い痴れている。興奮してわずかに開かれた口からは、無意識のうちに荒い息が漏れていた。
 木棒で、表皮をぐしゃりと一息に突き刺す。
 何度も擦り合わせ、ふやけた皮を削《そ》ぎ落としていく。外へと開けるように。
「そろそろ、いい具合かしらね。早くしないと、夜の宴に間に合わないわ。後は、どの部分を料理に使うかという……。そう、これはとても重要な問題よ」
 サリラは勢いを増す火にバケツの水をかけ、鍋をコンクリートの床に下ろした。どろりとした液体を見つめ、腕を組んで思索を巡らす。
(やっぱり、あそこしかないわ)
「せめてもの情けで、同じ部分を仲良くお皿に並べてあげるわ」
 そして定められた場所へと、視線を這《は》わす。閉じられた、入り口の向こうへ。
「待っててね、ナチル。今日は、極上の祝杯になりそうよ」
 煮立った湯に、白い食材は浮んでは沈んでいく。サリラは、対流する湯の中へ金バサミを突っ込み、高々と宙に掲げた。ふたつの黒い窪《くぼ》みは、ぽかりと虚空を見据える。
 ガシュッ ガシュッ
 金槌《かなづち》の先端から伝わる鈍い快感に、彼女は口の端を両側に引き開いた。そして何度も、幸せそうな含み笑いを浮かべていた。

* * *

「もう、遅いなあ」
 食器を食卓に並べた後、ナチルは小学生の時にサリラと写したアルバムを掘り返し、食事の広間で順番から捲《めく》っていた。しかし、感慨にふけっていた写真の山も、集中していると、あっという間に目を通し終わってしまう。
 サリラは厨房で、今も料理の仕上げをしていた。温かいうちに食べられるよう、最後の煮込みは目の前で公開するらしいが。
 ナチルは、薄手のハイネックセーターの上から、客室のクローゼットに掛けていた、皮のジャンパーに袖を通した。中庭には、一年を通して花の咲き乱れる温室が、昔と変わらない顔で構えてある。温室の脇を通り過ぎ、屋敷の裏手に通じるガラス戸をくぐり、そのまま丘に通じる裏道へと抜けた。家の中だけでは退屈するだろうからと、一度は厨房から顔を出したサリラが、外の雪でも見てくるようにと強く勧めたからだ。
 唐草《からくさ》模様にも似た、精巧な細工の飾り門を、両手で外へと押し開く。
 ナチルの吐く息は白く、夜も遅くを回った空からは冬の使者が舞い降りる。急激な外気の冷たさが、頬を桃色に染め上げていった。
 夕暮れ時から降りだした雪はすっかりと積もり、辺り一面に銀世界を描いていた。
 ケントの雪は、優しい。都会の雪と違って、遠慮がちなたたずまいを持っているとナチルは噛《か》み締めた。昔はこの雪原で、サリラとよく冗談まじりに戯れたものだ。
 果てを知らない広漠《こうばく》とした雪原に、ナチルは足跡を刻んだ。
白く覆われた大地を踏みしめ、一歩、また一歩と深く歩き出す。幾重にも連なり合う、純白の丘は小さく波打ち、しらしらと降り注ぐ月明かりの下で静寂を生み出していた。
「どう、ケントの雪は懐かしい?」
 少しばかり建てつけが甘い門は、ぎいと音をあげた。足元の裾を引きずり、サリラが姿を現す。体の曲線《ライン》が一際映える、漆黒のドレスにショールを纏《まと》い。氷雪に深く、足を沈めた。
 ナチルの双眸《そうぼう》は、吸い寄せられることが定められていたように、サリラの容貌《ようぼう》に釘付けとなった。雪の硬質な白と、含みをはらんだ、黒のコントラスト。相反する色合いは、決して交わることがないけれど。妙に、説得力をもった一体感がある。ナチルの奪われた瞳は、その強い吸引力に、そらすことができなかった。
 ナチルは掌を胸の前で叩き合わせ、恍惚《こうこつ》とした表情を素直に浮かべた。
「……うわあ、素敵。どうしたの? そのドレス」
 サリラは躊躇《ちゅうちょ》することもなく、しれっとした顔で答える。
「父がね、去年の誕生日プレゼントにくれたのよ。もう今年はくれないけれど」
「どうしてよ? でもいいじゃない、そんな素敵な贈り物もらえるなんて。私の父親なんて、ケーキを買ってくることすら忘れてるし。娘の歳すら、数えてるのか怪しいものよね」
「それでいいじゃない。よければこんなドレス、いくらだってあげるわよ。同じ型のサイズ違いなんて、クローゼットの中で腐るほど防臭剤と眠ってるんだから」
 何の感慨もなさげに、サリラは平然と言ってのけた。
(サリラってば……この贅沢《ぜいたく》者。物持ちすぎるのも、実は考えものよね)
 感謝という感覚が、きっと麻痺《まひ》してしまっているのだと、ナチルは密かに思った。
 彼女達は肩を並べて、雪原の大地に足を降ろしていた。言葉もなく腰を落ち着け、遥か遠くに伸びる白銀の地平線を、陶酔《とうすい》したように見つめながら。
 最初に沈黙を破ったのは、サリラの方だった。
「穢《けが》れていない雪の影は、青いのよ。灰色じゃないの」
 か細い両腕を前に広げ、ほくそ笑みながら口に乗せる。
 雪は儚《はかな》げに、ふっくらとした頬を撫《な》でる。どんよりとした、雲の波間より。
「昼でも夜でも青いの。青い影を落とした雪原が誰もいない夜に、ほら、そこに……ただあるだけ」
 白い粉雪が風にさらわれながら、息を潜めて厚い闇へ寂々《じゃくじゃく》と舞う。刻《とき》の凍った空間に、ゆっくりと音もなく降り続くように。
「でもね、雪の表は純粋。裏は死の象徴なのよ。純粋なものは矛盾を含み、人間はいつだって、その不純を抱えなければ生きていけない。純粋なものには、紙一重で裏があるって……ねえ、そう思わない?」
 サリラはそう言って、幸せそうに笑む。天空を見つめて立ち上がり、ショールの右端を指に絡め、スカートの裾をたくりながらくるくると深雪に舞った。サリラの髪にも腕にも脚の上にも、温かな雪が休むことなく、ちらちらと舞い落ちていた。つられてナチルも立ち上がるが、突飛な話にさっぱり頭がついていかない。言葉も紡ぐこともできず、ただ後ろで、立ち尽くすことしか。
 やがてサリラは視線を大地に落とし、くるりと裾を翻《ひるがえ》した。彼女の顔を、ささやかな月光が青白く染め上げていた。掌の上の結晶は溶けることなく、一夜の月明かりを絡ませている。
 サリラは満面の笑みを、神妙な笑みに移し、
「大雪でね、空港が閉鎖された夜、父は足止めされて……帰って来れなかったの。でね、その日、母とケーキを初めて焼いたのよ。本当に美味しかった」
 言葉を切って、さらに続ける。
「本当なのよ。あんなに美味しいもの、食べたことなかったんだもの」
「そうよね、自分でつくったケーキはまた格別よね。どんなに黒く焦《こ》げてたって……わかるなあ、その気持ち」
 ナチルは小学校から帰った後、母親と一緒にわくわくしながら開けた、オーブンの温かい香りを思い出した。
 一拍ほど間をとって、
「そうね。でも、そういう……意味、じゃ……ないのよ」
 サリラは強調するように、言葉をゆっくりと区切ってみせた。吐息がかかるくらいの耳元で、面白半分に、言葉遊びをしているようにも感じたけれど。それが勘違いだとわかったのは、そう言ったサリラの眼光だった。瞳は遥か彼方を射抜き、口元には鋭い冷笑をひらめかせていたのだ。

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