紅い雪の降る夜に〜Bloody snow (1)

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◆この作品の著作権は九条忍さんにあります◆

 求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

(『新約聖書 マタイによる福音書 7章7節〜8節』 抜粋)


 この薄氷《はくひょう》を歩いて行けば、どこにたどり着くのだろうか。たった一人で、振り返っても誰もいない、誰も応えない、自分の足跡さえも埋もれて見えない。
 足先にはいつだって、口の開かない孤独の檻が、私を閉じ込めようとして待っている。くぐったら最後、脱出することは決して不可能なのだから。
(あら、それは可笑しいわ。……だって、私。最初から、出ることなんてできないようにしてたんだもの)
 私が貴方を、私だけの檻に閉じ込めたのだから。私と貴方だけの記念日を、蝋燭《ろうそく》を燈《とも》して穏やかに祝う。二人だけで安息を。ただ切ないほど、それだけのために。

* * *

「サリラぁ。今日はこのまま、裏山の秘密基地に寄って行かない?」
 ナチルのあどけない声が、ケントの通りに今日もさえ渡る。二人の短い影が、砂の混じった素朴な路面に、くっきりと色濃く落ちていた。
 橙色《だいだいいろ》に塗り直したばかりの、小学校の裏門を出たところ。ナチルは、林檎《りんご》のアップリケが刺繍されたミント色の綿鞄を、頭の上で大きく振り回してからくるりと踵を返した。秘密基地といっても、大工仕事ができるわけもない。ログハウスのような大層なものでもなければ、木の上にある少年の秘密小屋といったような、遊び心を加えたものでもない。単に並び立った潅木《かんぼく》の両腕に、粗い麻縄で編まれたハンモックを通した程度のものだが。お気に入りの鞄の中は、今日もどうやら空腹気味のようだ。
 ケントの田舎小道は閑静だ。間道では速い小川が流れ、両脇には濃い緑が深々と生い茂っている。行き交う人はのん気で、舗装されていない一方通行の道を走る車も、自転車ではしゃぐ登下校の子供達がいない時ですら、のんびりとした徐行をやめることはない。バスの到着時刻がたとえ三十分と少しばかり遅れたとしても、停留所に並ぶ乗客は時刻表の看板に目もくれず、おっとりとあくびを噛《か》み潰《つぶ》しているような始末だった。
 昼下がりの陽気に混じって、夏の匂いがぷんと立ち昇っている。土と草と、虫の出す分泌物の匂い。小学校の終業は、腹時計が小腹の限界を少しばかり訴える頃、ようやく待ち切れない鐘を打った。
「いいよ。でも下の店で、チョコやミントキャンディを買ってからにしようよ」
 サリラは少しばかり視線を巡らせ、ひとつ、軽い提案をした。
「え〜っ、めんどくさいよう。そんなの途中に嫌ってほどある、スティグルおじさんの畑から、ちょこっと引きちぎって行けばいいじゃない」
「……何を?」
「えっと、な……じゃなかった、キュウリ」
 間髪を入れないナチルの反応を、サリラは頭の中で黙って反復した。
(キュウリ……ね。え、ちょっと待って。それを、生でむしゃむしゃかじるわけ? いや、もちろん生で食べれるんだけど)
「そもそも、手でもぎ取ったら汚いでしょう」
 泰然と腕組みをしたサリラは、眉間にしわを寄せて考え込む。そして、膝の褪せたジーンズで、ぺたりと草原にしゃがみ込むナチルを冷ややかに見下ろした。こういう場合のサリラが、必要以上に冷静で切り返しに容赦がないことは、ナチルが一番よく思い知らされている。
 多少、世間ずれした感覚も、サリラの家風を思いやれば無理もないことだった。サリラの家は、ケントでも高名な名家のひとつとして数えられていた。たった一代で興した祖父の貿易会社は、ロンドンを拠点として瞬く間に急成長を遂げた。老後の身を沈めるため、この地へ本宅を移したという噂が、まことしやかに流れているが。厳格な家庭で育てられた息子――サリラの父――は、親の取り決めた相手との婚約を、ひとつ返事で承諾したという。祖父の死後、サリラの父はその莫大な遺産を継ぎ、妻と共に村を一望できる本宅へと、居を移したというのだが。温厚なサリラの父親は、今や村一番の公明正大な名士として、住民の信望も厚かった。
 節のある幹に青々と枝を張った、古い鈴懸けの木《プラタナス》の下をくぐる。春には、丸い花を垂らす樹木。鬱陶《うっとう》しいほど繁っているこの木の葉が、全て落として無残な枝ぶりをさらしていたのは、空っ風の吹きすさぶ去年の冬のことだった。通り抜けながら微小で濃密な空気を、ナチルは肺いっぱいに吸い込んだ。
「えっと、あのね。でもさ、胃の中に入れば、きっとみんな同じだと思うんだぁ」
「そういえばママが、お料理した後でいっつも、そんなことよく言ってるわ」
「でしょ、でしょ?」
 ナチルは瞳を輝かせ、手足をばたつかせては何度も頷《うなず》く。
 サリラはナチルと瞳を合わせた後、仰々《ぎょうぎょう》しく溜息をついてみせた。ゆっくりと口を開き、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。一語々々を明確に。
「……ナチルぅ。私が言いたいのは、そういうことじゃなくって。わかってる? 犯罪だよ? かんごくだよ?」
 ナチルは小首を右に傾げ、サリラをきょとんと見つめ返した。
(う〜ん、さすがに……それはないと思うけどな)
 サリラは歳にも似合わず、時に大人までびっくりさせるような、達観した物言いをする。その上、たまに物知りなのか、単に耳年増なだけか、理解に窮する発言も平然とやらかしてくれる。学校の成績も学年で常に一番だし、学力が高いことには変わりはないのだろうが。
「サリラ。細かいことにウルサイ子供は、将来ろくな大人にならないって、パパがこの前言ってたよ」
(大きなお世話なんだけど)
 眉をひそめ、今度はサリラが思う番だった。
「それに、いっつもいい子ちゃんでいたって、疲れちゃうよう」
「いつも悪い子ちゃんでいたって、結局は無駄な体力ばっかり使っちゃって、疲れちゃうと思うんだけどお」
 サリラは、少しばかり意地悪く笑ってみせながら、揶揄《やゆ》する台詞《せりふ》を吐く。二人は一拍ほど置いて、
「譲らないわね」
「譲らないわよ」
 視線をそらさず、一歩たりとも揺らがずに互いの出方をじっとうかがった。
しかしそれも束の間で、はにかみながら軽くコツンと額を合わせた。
「あはははは」
 二人の、無邪気に弾けるような笑い声が、眩《まばゆ》い陽気と混ざり合う。
 これがありふれた日常で、何も疑う余地などありはしなかった。多感な小学三年生のうつろいは足早で、だけど二人の季節は、緩やかに退屈なほど平穏に流れていった。
 瑞々しさと艶のある楕円の葉が、湿っぽい大地に散らばり、踏みしめた靴底に放射された熱を感じる。目の前に、ナチルの背丈より高いハンモックが現れた。右手には取り壊される予定の公園の中で、何をかたどったのか見当もつかない抽象的な形の遊具が数個、いずれも白いペンキを塗られて砂場を取り囲んでいる。ひとりぼっちで忘れられたブランコが、風に背中を押されて物憂げに鳴いた。
 ハンモックの結び目を左手に緩め、サリラは二重《ふたえ》に編まれた箇所に片足をかけた。そして反動をつけて、真ん中に向かい一気に飛び込む。
「で、ここまで来てわざわざやることって、どうせ今日の宿題?」
 まずは仰向けに寝転がり、眩しすぎる蒼天に瞳を閉ざした。続いてうつ伏せに寝返りをうち、足をぶらぶらとばたつかせる。サリラは、愚問を敢えて口にしてみた。
「へへへっ。実はそうなの。授業は、ちゃんと聞いてたんだけどね。分数が、さっぱりわかんないんだぁ」
「ナチル、目を開けながら寝てられるくらい器用だもんね」
「うん、それにかけては自信あるっ。……って、あれ?」
「どうしたのよ?」
 顔を薄っすら青くして、ナチルはバサバサと大慌てで鞄を引っくり返した。サリラも髪を垂らして、鞄の中を深く覗き込んだ。
「……算数の問題集《ドリル》、学校に置いてきちゃった」
「ナチルぅ」
 予想はできたことだが、溜息がナチルの頭上に降ってくる。
(え、だって宿題でしょう?)
「あ、まあ……いいじゃない。きっと神様が、もう充分勉強したから、今日はもういいよって言ってくれてるのよ。神様に、か〜んしゃっ!」
「居眠りしてたのに?」
「うん、してたのに。だってさ、座ってるだけでも立派な勉強なんだもん」
(つまりは、最初《はな》っから勉強する気なんて、これっぽっちもないのね)

 のん気な夏の午後は、ゆるゆると微風にさらわれて過ぎていく。太陽は高く、無駄に陽が長い。秘密基地の小高い丘を駆け下りれば、紅紫色をしたオオアカバナの群生がそよぐ。せせらぎに、反射する光の宝石がきらきらと共鳴しあっていた。
 ナチルとサリラは光の渦へ飛び込んで、両手にすくった水を夢中になってかけ合い戯れた。ナチルは小川の水面を蹴り飛ばし、サリラは水面に舞うスカートの裾を右手でたくっては翻《ひるがえ》し。
「そういえばサリラ。明日のお誕生会で、なにか欲しいものってある?」
 ナチルは期待もせずに、社交辞令として聞いてみた。
「う〜ん、これといって特にないのよねえ」
「サリラ。私なんかがあげなくても、お父さんやお母さんに、いっぱい、買ってもらってるもんね。いいなあ」
「それもそうなんだけど。モノなんかより、実《み》の方が私は嬉しいな」
 サリラの現実主義にナチルが振り回されるのは、とりわけ今に始まったことでもない。使えない物をもらっても後の苦労が増えるだけ、というのが彼女の持論だった。
(つまり、お金ね。でも……サリラの方が、ずっとずっとお金持ちじゃない)
 ナチルは無理難題を吹っかけられた気分になり、大げさに肩をがっくりと落としてみせた。それを見たサリラが、愉快そうにころころと笑う。
「いやぁね、ナチルっ。冗談よぅ。あはははは」
 ナチルは空笑いを浮かべながら、微かに頬を引きつらせた。
(冗談じゃなくて、いま、思いっきり本気だったくせに)
 サリラは、昔から妙なところで笑い上戸な癖に、肝心なところで笑わない。人差し指をぴんと空に立て、
「ママがみんなのおみやげに、ナッツのクッキーとラズベリーケーキ焼いてくれるって言ってたけど」
 と破顔した。
「おばさんのクッキー、おいしいもんね。今年は何人に招待状出したの?」
「六人くらいかなあ」

 ためらいながら、時には振り返りながら、夢見がちに幸福の階段を一歩ずつのぼっていく。着実に。こんな無邪気な季節が終わりを告げることもなく、いつまでも、どこまでも、ひたすらに連なっていくだけだと思っていた。ナチルが、遥か異国の地――米国《アメリカ》のバッファロー――に引っ越してしまったあの日までは。そう、全てが瓦解《がかい》し砂上の楼閣《ろうかく》だったと、偽りの仮面に気付いた、決別のあの日までは……。

* * *

 ナチルの姿がケントから消えて、気がつけば、七年もの月日が流れてのことだった。
 居間の暖炉にくべられた薪が乾き、ばきっと腰から砕け飛ぶ。サリラは「馬鹿ね、あまりにも愚かだわ」と、幾度も頭の中で反芻《はんすう》した。
(でも……救いようもないくらい、愚かで嘘つきだったのは……それは、きっと私自身だわ)
 今どき落ち目の薄っぺらな映画監督ですら、きっと撮影の承諾なんてしないだろう、とんだ茶番の三文劇《ホームドラマ》
 樫《かし》で造られた、木目が流れるように美しいアンティークテーブルの上で、コルクの抜かれていない四十年もののワインが、氷で冷やしたグラスと揃《そろ》えて並べられていた。地下の倉庫では、年代もののワインがまだまだ山のよう眠っている。どれもこれも、父親が財産にあかせて、全国から取り寄せたものばかりだ。
(どうして貴方は、いなくなってしまったのかしら。いつだって、吐息を感じるくらいの傍らで、大気のように側にいてくれたのに)
 サリラは人差し指の爪でグラスを弾き、まだ祝杯には早すぎると判断する。
(そうよ、一人でどうする気なの。私ったら、せっかちなんだから。だって、もう決めてしまったんですもの。祝杯は、蝋燭《ろうそく》の静謐《せいひつ》なともしびを囲んで二人で。二人だけの記念日にするって)
「私が招待してあげるって、決めたのよ。一夜限り、忘れられない夢の宴にね」
 サリラの、青みがかった黒い澄んだ瞳が、ちらりと揺れる。冷涼な笑みを口元に宿し、弾力のあるソファーからゆっくりと腰を浮かせた。
 正面の白壁には、イエスキリストの亡骸《なきがら》を抱く、聖母マリアのピエタが掛《か》かっている。その左横には、村一番の腕のたつ職人に作らせたという、十字架の細工を散りばめたステンドグラスがはめ込まれていた。格調高い書棚の向かいでは、暖炉の炎が煌々《こうこう》と揺らめいている。
 サリラは姿見に、自分の姿を映した。
 柔らかな右肩は晒《さら》され、左肩にはレースの肩紐《かたひも》が蝶の結びで止められている。足首まで伸びるロングのタイトスカートには、腿までの大胆なスリットが入っていた。漆黒のサテンのナイトドレスは体に密着し、光沢ある生地の上からは、彼女のなだらかな曲線美が余すことなく薫っていた。豊満な胸、腰のくびれ、スリットから見え隠れするしなやかな脚線。どこをとっても、彼女の甘美な息づかいが漂っている。
 ブラシで亜麻色の長い髪を、何度も丁寧にすく。右手首を翻し、いつもより念入に、いつもより艶《あで》やかに。唇に紅を、睫《まつげ》にはマスカラを、仕上げにはフランス製の香水をふる。そしてガーターベルトに、あれを仕込むことを忘れはしなかった。
(あれが、この鏡像のことなら……。もし、鏡の向こうの現実だったら。私だって、こんなことしなくてすんだのに)
 自虐的な笑みをこぼす。どれだけ切望しても、叶わないこともある。どれだけ渇望しても、差し伸べられない手もある。“願う”だけでどれだけ待っていても、自分で歩まなければ。
(そうね。私には、ちゃんと二本の足があるもの。たとえ両腕が切り取られたとして、足だけしか残されていないとしても)
「泣きじゃくっていた非力な私は、とっくの昔に死んだのよ。私は……強《したた》かになりたい。ならなくちゃいけないの」
 サリラはぜんまい仕掛けの柱時計を確認し、短針がまだ十一の数字に半時ばかり届いていないことに気付く。焦燥にかられ追いつめられている時こそ、時間というものは無性に鈍く過ぎていくものだ。
 本棚のガラスの引き戸を開け、読みもしない文学全集の隙間から、手を奥へと差し入れた。この全集を除けば、右横から陳列されている順番はあべこべで、何とも奇妙な混合物だ。高尚も下世話も、ごった煮に詰め込まれている。小説、戯曲、歴史書、旅行記。ぼろぼろのペーパーバックが分厚いハードカバーに挟まれ、けばけばしいベストセラーがメルヘンと混じり合っていた。秩序も目的もなく、つまりは購入した順番から、手当たり次第に拡張させていったというふうだ。内装《インテリア》のようなものだから、おかげで誰も移動させたりはしない。
 だからこういったことも気に止める者もいないと、サリラは底意地悪く貼りついたような笑みを浮かべた。そのまま、濃紺の背表紙に銀糸で刺繍された分厚いアルバムを、ほとんど習慣的に一冊引き抜く。

 挟まれている写真の多くは、ごく平凡な家族像そのものだ。
 一枚目は、父親、母親の家族三人と隣家に住む親戚で、豊穣祭《ほうじょうさい》の晩餐《ばんさん》を祝った写真。微笑ましい団欒《だんらん》の肖像だった。七面鳥を焼いて、日々の糧への感謝を神に捧げて。胡椒《ペッパー》をかけるか、赤ワインで蒸すか。父親と母親が、幼稚な口論をしていたような気もする。確か、こんな話だった。
「どうしてお前は、いつもそんな軟弱な味をつけるんだ」
「どうしてもこうしても、これが私の家の伝統だったのよ」
「なに言ってるんだ、ワイン蒸しの方がうまいに決まっているだろ」
「あなたこそ、ふざけたこと言わないで。胡椒《ペッパー》の方が、隠し味が引き出せるのよ。ねえ、どう思う?」
 父と母がにこやかに向き直り、サリラの意見を一応仰いでみる。逡巡《しゅんじゅん》した。そんなどうでもいいことをと思いながら、サリラは額にうっすらと汗の玉を浮かべ、
「そんな、こだわらなくてもいいんじゃない? 要は食べれたらいいんだし」
 したり顔で、さらりと適当な返事を返す。叔父は豪快な下ネタを喜んでは七面鳥にかぶりつき、叔母は饒舌《じょうぜつ》な口から下品に唾をまき散らしていた。
「あなた、今夜は何時に寝るの?」
「いつもと同じ、十一時だ」
 母は「そうですか。早く休んでくださいね」と、台本を棒読みするような芝居を続ける。
(嘘つき。知ってるくせに。全部、何もかも、始めから終わりまでずっと覗いてるくせに)
 二枚目は、誕生日の贈り物に父からもらった黒のドレスを、シャッターの前で着せて見せているところ。フラッシュを浴びた頬は紅潮し、肩を竦《すく》め全身を固まらせた。モデルのように、中央に立つ。指図されるがままに、そっとスカートを捲《めく》り、ためらいがちにスリットから足を覗かせてみる。父は、鼻息も荒く異常なまでに興奮し、母は黙ってうつむき、叔父や叔母は眼を細めて、揶揄《やゆ》する言葉を投げかけた。
「よく似合ってるよ」
「アマのモデルコンテストにでも、応募してみたらどうだい」
「いやいや、ミスコンもいけるんじゃないかねえ」
(この人達は知っている。全部、知っているんだ。知っていて、わざと私にこんなことを)
 三枚目は中学二年の夏。斜陽を背に、サーフボードを抱えて、ビーチで撮ったトールとの写真。しっとりと潮を含んだ濃密な夕風に、髪をたなびかせていた。
「ねえ、もう嫌なの。耐えられないのよ。後は、警察に駆け込むしか」
「だから、どうしたんだよ」
「でも、それは両親が許してくれないのよ」
 トールはサリラの逼迫《ひっぱく》した顔に、呆然としていた。
「お願い、あなたしか助けてくれる人がいないの」
「理由を話してくれないと、俺にだってわからないよ」
「でも、きっと聞いたら……あなたは私のことを嫌いになるわ」
「そんな、あり得ないよ。俺が君を嫌いになるなんて」
(信じていたのに。その言葉だけを、ひたすら信じていたのに……。話した私が、バカだったって言うの?)
「そうよ、私は縋《すが》るところを見誤った。そんなもの、私には最初から用意されていなかったんだわ。愚かなのは私。愚かという真実を、知らなかったのもどうしようもない私」
 サリラは曲げた指を口にあて、咽喉《いんこう》からしぼりだすような笑い声をもらした。
 アルバムはやがて、何も挟まれていない、空白の最後の頁まで進んだ。いつだって耐えたと、自分を諭すように言い聞かす。飢えた獣が獲物をじわじわと追いつめるように、近づいてくる不快な足音も。抑え切れない強欲に、忠実にもれた下卑《げび》た息づかいも。カチャリと捻《ひね》られる、ドアノブの金属音も。内側から鍵をかけても、ドアは外側から開かれることなど、早くに学習してしまっていた。それでも、たとえ無力な抵抗だと罵《ののし》られても、掛《か》けずにはいられなかった。まだ“叫ぶ”ということが、どういうことなのか、理解していなかった幸せな頃までは。毛布を頭まですっぽり被って、すぐに終わる、楽しかった過去の記憶だけを辿《たど》ればいいと、自分に必死で暗示をかけた。瞼《まぶた》の裏に焼きついた、天井の模様を思い起こしながら。
(楽しかった記憶なんてあるの? ……私にだってあるわ)
 小学校の裏山にあった秘密基地が、下ったところに横臥《おうが》していた小川のせせらぎが、耳に残って離れなかった。それでも瞳から涙を溢《あふ》れさせながら、声だけは聞かせまいと歯を食いしばり、手を握りしめて耐えていた。摩滅《まめつ》した歯も、消えない傷の掌も、勲章なのだと誇りに変えて。
 壁一枚を隔てた向こうから、サリラは凝視されていることを感じていた。でも、どうして見ているだけなのか。それだけは、聞くことができなかった。聞いてしまうことが、怖かった。そこで何かが途切れてしまうようで、亀裂から吹き上げるゴウという風の音が聞こえるようで。
 きっと認めたくなかっただけで、悟ってしまっていたのかもしれない。
 ――この狂った家族ごっこにしがみ付かなければ、もう呼吸の仕方も思い出せなかったのだと。

 時計の針が十一の高さにやって来て、鐘の音が思考を引き戻す。それは不必要なほど大きな音で、悪夢の夜を打ち鳴らした。
「行くわ」
 サリラは頬を奇妙に引きつらせ、油性の太いマジックで、走り書きのような文字を手荒に殴り入れる。最後の頁に、血のような朱色で。
“The end of a false dream.Have a good night forever.(偽りの夢の終焉。おやすみ、永遠に)”
 サリラは、砥いだばかりの純銀のペーパーナイフを突き立て、そのまま真横に、縦に、斜めにがむしゃらに切り裂いた。最後の背が、骨ひとつでわずかばかり、つながっているほどまでに。それすらも両手で引き破り、肩で喘息《ぜんそく》のような息を繰り返す。
「七面鳥が僕を食べた。“地の肉”の蝶が舞い、雨のような血が僕に降る。ざあざ、ざあざと僕を探して、父さんが三十回、僕をめったうち。後ろにいた母さんが、僕を続いてめったうち」
 玲瓏《れいろう》な声で、悠然と歌った。
 炎の明かりが、ちろちろと滲《にじ》むステンドグラスに向かって、サリラは続けた。 今度は、粘着質な声色で。
「ほら、あんたが信仰した神よ。それで助かるものならば、精一杯、泣いて縋《すが》ってみるがいい」
 瞳をそっと閉ざした。
「いいわ。私が、代わりに祈っといてあげる。あんたのためなんかじゃないけど」
 両の手を胸の前で組み合わせ、床に跪《ひざまず》く。

「神よ、貴方のご加護を。全ての罪と穢れをお許しください。願わくば、福音の起こり来たらんことを。この迷える子羊に、永遠《とわ》の慈しみと祝福を。アーメン……なんてね」

* * *

 漆黒の夜を穿《うが》ち、かん高い銃声が乾いた部屋に染みこんでいく。サリラの手は冷え切り震えていたが、心の中は薪をくべたばかりの暖炉のように燻《くすぶ》っていた。頬の緩みを右手で押さえ、高鳴る鼓動を左手で押さえる。
(これで、悪夢に苛《さいな》まれることもない。私はもう、自由なんだわ)
 でも、何が自由なのだろう。
 他人を抑圧して、自らを楔《くさび》から解き放つことが。それとも、暴力において他者を排除することだろうか。サリラは苦いため息をこぼし、思考を締め出すことにした。
(もういいのよ、とにかく終わったのだから)
「そうよ、もう終わったんだもの」
 ほろ苦い鉄錆の匂いにも、不思議と嘔吐感はない。項《うなじ》に落ちる髪をはらい流し、横たわる肉へと爪を立てた。盛大に溢《あふ》れる血はシーツを紅く穢《けが》し、清浄な空気に刃を向ける。
 彼女は横たわった体にまたがり、首に爪を繰り返しつき立て、引き裂き、剥《は》がし……むしられた皮膚からは、微かに白い骨が顔を出していた。刻まれた窪《くぼみ》に、鮮血が溜《た》まる。
「馬鹿な男ね。私、貴方に、感じれるはずがないじゃない。恐怖以外にはなにも」
 ゆっくりと首を落とし、唇を近づける。長い髪は頬に柔らかく落ち、そして真っ赤な血潮へと。
「だって、愛せるはずなんてないじゃない。なのに毎日々々、飽きるほど繰り返して」
 泣いて懇願する体を、なめ回す様に陵辱《りょうじょく》した。
(私の間にあったものは、底のない恐怖だけ。それとも、貴方の口にする“アイ”って何?)
 アイというものは、己を充足させるもの、快楽の淵に沈むもの。それが他人をおとしめようと、自らを高める崇高な……それは、違う。
(私は、認めないわ)
「貴方の言うアイは、本当にアイだったのかもしれない。しょせん、アイは自己愛でしかないんだもの。でも私は、棺に仕舞われた愛なんて」
 サリラの唇は奇妙な形にゆがみ、引き剥《む》かれた肉へと静かに重ねる。そのまま強く吸い込み、喉をごくりと鳴らした。生温かい体液がはじめは口の中で、次は清浄な喉の奥を穢《けが》していく。
 この生命の脈動が、体の中に息づいている。それを次に、引きずり出して殺す。
(私に殺せる?)
 少しばかりうつむき、自問を繰り返す。
(……私に殺せる? アレが?)
「殺せる」
 サリラは、毅然《きぜん》と顔をあげて即答した。
「この男、臓腑《ぞうふ》まで腐り切ってるわ。業を背負ってあの世におもむき、神の火にひとりで炙《あぶ》られるがいい。肉の頚木《くびき》から解放された後、骨だけがむき出しになっても、貴方が愛した神は慈しんでくれるかしら?」
 強欲で、貪欲《どんよく》で、いじきたないブタ以下の死肉を。実体をともなわない、心は空っぽの脱け殻を。でもそれこそが、この世の業を背負って行き場を捨てた者にふさわしい。
 サリラは、ガーターベルトからするりとナイフを取り出し、彼の首を後ろにそらせる。そして喉元に突き当て、そのまま横に引き裂いた。ゴプッと嫌な音をたて、鮮血がシーツに飛び散る。
「ふふ……うふふ、あはははは」
 サリラは目を見開き、艶《つや》めいた唇は、高らかに哄笑《こうしょう》をあげた。頭からずっくりとぬれそぼり、白い肌に朱を這《は》わせた己の姿に。
(神火《かむび》の道の終局で、自分の罪業を思い知るがいいわ。振り返った先に、楽園なんてみえるのかしら。貴方が行き着く先は、天国《パラダイス》なんかじゃない。そうよ、決して行かせるものですか)
 サリラは不自然な形で折れ曲がった首元に口をつけ、右手で固定したまま血を啜《すす》る。ちぎれた肉片を口で食《は》み、舌の上で軽やかに転がしてみた。その味は、不思議と甘い蜜の香りがする。
 一時の鐘を打ち鳴らす秒針の音だけが緩慢に、降り積もる雪へと溶け出していた。
「七面鳥が僕を食べた。“地の肉”の蝶が舞い、雨のような血が僕に降る。ざあざ、ざあざと僕を探して、父さんが三十回、僕をめったうち。後ろにいた母さんが、僕を続いてめったうち」
 サリラはささやかに、それでいて甘美に、唄が口をついて出ていた。最初に、そう、息をするより簡単に、子守唄がわりに覚えた唄だ。
 響き渡る足音が徐々に大きさを増し、廊下を真っすぐに駆けてくるのがわかる。一直線に。弾かれるように彎曲《わんきょく》して、ドアが内側へ乱暴に開かれた。
「……っ!! サリラ、貴方、なんてことを!」
 ロアンナは壁に背を沿わせ、膝の力が抜けたようにカーペットの上へ崩れ落ちた。力のこもらない震えた歯で、声に満たない音を、懸命に噛《か》み殺そうとする。蒼白な顔で。それでもどうにか、溢《あふ》れる浅い息を両手で覆った。
「貴方、本当になんてこと……何もそこまで」
 サリラの瞳はぎらりと揺れ、ほくそ笑むように細められた。彼女の華奢《きゃしゃ》な体は、まるで誘われるかのように、ゆらりと起き上がる。唇がうすく、無機質に引かれていた。
「……母さんは、このことを知っていたのよね。知っていて、それでずっとずっと……」
 血でべっとりと汚《けが》した口を、両の端に引き結び、呼吸をおいて冷酷に笑った。
 サリラは、鼻から抜ける涼やかな声で、歌うように囁いた。いや、せせら笑いのように、嘲りのように。上辺に貼り付いた微笑を、引きつらせていただけなのかもしれないが。
 手の中の拳銃をベッドの上にねかせ、血の絡まった髪を、気だるげにかき上げながら立ち上がる。それは宙に吊るされた操り人形《マリオネット》のようで、いつ糸がプツリと切れるかもしれない、怪しい不均衡さがやけに妖艶に見えた。
 脳が肥大したかのような、不快な圧迫感が襲い来る。
(私はこれで、十と六回、殴り付けるの)
 彼女はベッドから滑り出し、黒い影が床に落ちる、ナイトテーブルの横で手を止めた。
「私、苦しかったのよ。ずっと辛かったの……母さんは、いつか助けてくれると思ってた。それなのに。だけど……」
(だけどそんな日が、ついに来ることなんてなかった。)
 サリラはぎゅっと瞳を閉ざし、まるで裁きを下すような口調で、悠然と独白した。ロアンナは彼女の手に握られたものをみて、蒼白な顔を蝋《ろう》のように白くした。首を、左右に激しく振る。
「ずっとずっと、心の中で泣いてた、叫んでた。知ってたのに、どうしてなの?」
「や、やめて……」
「私はずっと一人だった。家でも、学校でも……どこにも居場所なんてなかったのよ。第一こんな体で、どこに行けばよかったっていうの?」
 孤立した心の狭間で、明けることのない雪が陰々と。くる日もくる日も降っていた。感情すらも全て白く塗りつぶそうと、今日みたいに凍てつくような雪が、心の襞《ひだ》にうず高く降り積もる。
「私は白銀の大地を、歩き続けたのよ。誰にも手を差し伸べられず、素足で……ずっと、ずっと、どこまでも一人」
 ロアンナは涙で顔をゆがめながら、壁際に体を逃げるようにずらす。腰を落としたまま、這《は》うようにして。だけど潤ませた瞳は、彼女からそらさず、ひたすらに見つめていた。
「……お願いよ。うっ……、許してちょうだい」
 か細くロアンナは、聞き覚えのある台詞《せりふ》を放った。
(この私に、貴方がそれを言うの? 飽きるほど言い尽くした、この私に対して)
 知らないとは言わせない。もし知らないとでも言うのならば、見えていなかったとでもいうのならば、それは心が義眼だったせいだ。偽りの眼《まなこ》は、時に真実さえも曇らせる。だけど。
「そんなことは、絶対に言わせないわ。私は何度も、助けてって母さんに言ったもの!」
 振りかざした手を垂直に、勢いをつけて振り下ろした。迷いなどは介在しない。驚くほど俊敏に、意外なほど冷静に。思考する螺子のタガが、外れていたからなのか。それとも頭の中も、大地を白く滲《にじ》ませる雪に、すっぽりと覆われていたからなのだろうか。
 無心が静かに降っていた。
(私は、何を見ているというの?)
 確かに見たのだ。白銀の向こうで見える死に、ほんのりと微笑んだ顔を。
 それはこの上もなく幸せそうな、目にしたこともない永遠だった。雪を溶かす春のような、暖かい日差し。
「……ごめ…ん、ね。サリ……ラ」
 サリラの頬を、冷たい水が止めどもなく濡らしては伝う。雫《しずく》をつくっては床に弾け、小さな水たまりをかたどっていた。
(どうして泣いているのかしら、私……。ちっとも、悲しくなんてないはずなのに)
 窓の外では、白く化粧した大地と重い雲の狭間に、雪が冷たく足跡を散りばめていた。

* * *

 自由の大国、米国《アメリカ》のバッファロー、ブレイトン高校。大教室の机に広げたノートの上で、ナチルは上機嫌にリズムをとっていた。さっきより、聞き覚えのある旋律《メロディー》が、何度も頭の中を往復している。
 翡翠《ひすい》の瞳。肩までの黒髪を愛想のないヘアピンで止め上げ、お世辞にも麗しのとは形容できない地味で平均的な容姿。首には濃紺のゴーグルをかけ、擦り切れたジーンズに洗いざらしのトレーナー。足元に転がる、体格にしては大きいアーミー柄のリュックから、ヘッドホンが堂々とはみ出していた。
「それでは、ナチル・リンドール。校舎の屋上まで全力で五往復して、その後にうさぎ跳びをここでやってもらった後の心拍数を測定してもらおうか」
 ナチルは思わず、口に含みかけていたシナモンティーを豪快に吹きだした。前の席に座っていた女の子の頭に、見事に命中する。
(え、なんで私がやらなくちゃいけないわけ?)
 と、中央の教壇に立つ先生に、唖然《あぜん》とせずにはいられない。
「えっと……カヴェル先生。だから、そこで何で私が出てくるんですか?」
 カヴェルは鼻眼鏡を直し、教卓に分厚い事典をでんと開けた。
「先週出してもらった君のレポートが、実に興味深かったからだ。『面妖なイグアナの不純異性交遊』について。あんな斬新な切り口で書いた学生は、ここしばらく見たことがない」
(……面妖って。不純異性交遊って、あれは動物の本能でしょ。じゃなくて、いつの間にそう解釈されてたわけ? フツーに交尾の見解について、俗っぽくあげ連ねただけなんだけど)
 ナチルは噴出する思考をどうにか区切って、ここで改めて核心に気付いた。
(ううん、それよりもなによりも。なんかほめられたって、全然うれしくないし)
 それでも主張は必要だと奮い立ち、ナチルは一応の確認をとってみることにした。
「あの、ちなみに聞きたいんですけど。それって、……心拍数を測ってどうする気なんですか?」
 右頬はひきつり、こめかみから冷たい汗が流れる。
「愚問だ。それを、満月の夜の人狼《ワーウルフ》の心拍数と比較するに決まっている。古来、文献によると、心拍は性行為の後の男性の心電図と、似た波形が出ている。しかし、断固として私は信用していない。なぜ、女性の波形による証明はできていないのか! それは、誰も検証しようとしなかったからだ。理不尽ではないか!」
(いや、そんなこと力説されても、ぜんっぜんわけわかんないんですけど)
「私は論文を書き、財団に研究成果を今年こそ認定してもらうのだ。そうだ、今年こそ我が人生に一点の曇りなし!」
(……だからって、そんなわけのわかんないことに、私を巻き込まないで欲しいんですけど)
 ナチルは首からゴーグルをはずし、脱力した肩をさらにがっくりと落としてみせた。ついでに、溜息もひとつこぼしてみる。
 今更ながら、どうしてこの授業を履修してしまったのかと、時は遅いが後悔してしまうこともたまにある。そう、例えば今日のようなカヴェル先生に熱の入る日だ――先生曰く、天からのお告げがあるらしいが。
 ナチルの通う学校は、バッファローの中心から少し北にはずれた、郊外の私立高校《ハイスクール》だった。校則は一年次から単位取得制となっていて、必修科目を押さえれば、後は好みで自由に選択できるようになっている。生徒の自主性を尊重してという大義名分が仰々しく掲げられているが、今ひとつ定かではない。合格を果たしていた州立高校とさんざん天秤にかけたあげく、ついにはこの高校《ハイスクール》を選んだのだが……決め手は一重《ひとえ》に、学校案内の要綱に掲載されていた、選択科目要綱「不条理生命理論」が面白そうだったからだ。それがまさか、こんなに奇抜で特殊で摩訶不思議な授業だとは思いもしなかったのだが。
 ――学習とは発想力であり、十五歳までの妄想と実験の爆発である。
 ちょっと頭の薄い専任講師、カヴェル・ウィルトンのはた迷惑な私論である。それでは、十六歳を越えれば虚しく萎《しぼ》んでいくだけなのかという最大の疑問には、なぜか誰も立ち向かおうとはしない。
 大学《カレッジ》の助教授くらいに昇進していておかしくない歳ではあるのに、いまだに研究室の助手兼、高校《ハイスクール》の講師でしつこく足止めをくらっている。公益にもならないことに、いつまでたっても子供のように陶酔しているためという噂も流れているが。荒唐無稽《こうとうむけい》な極論を振りかざす先生を筆頭に、自分を含めて生徒も、どうやら独立独歩《マイペース》な変人が多いらしい。この教員あって、生徒ありとでもいうべきか。必須授業でもないのに、自動電子スクリーン設備の整った放射状の大教室が、大きな顔をして使用されていた。出席率は我が校随一で、必修では顔を見たこともない幽霊生徒でさえも、無断欠席をすることは絶対にない。
(人気授業ではあるのよねえ)
「ナチル・リンドール。用意はいいかね?」
「は、はいっ」
 カヴェルの右手には、どこから出してきたのか不明なストップウォッチが、いつしかしっかりと握り締められている。
(ちっ、あきらめてなかったか)
「レディ〜っ(よ〜いっ)」
 靴底の磨り減ったスニーカーを重そうに引きずり、ナチルはイスを後ろに引いた。

「おまえさあ、その話で明日から絶対に有名人だぜ」
 ナチルは笑顔を凍らせたまま、微動だにしなかった。
「で、やったの?」
「……うん、やった」
 そう、やってしまったものは過去であり、二度と修正することもできないのだ。三人の間に、痛い沈黙が降りる。南校舎の校庭に広がる、霜の下りた芝生の上を、肩で寒さを吹き飛ばしながら颯爽《さっそう》と歩く。ナチルは耳にヘッドホンをあて、ジョグを回して音量《ボリューム》を手さぐりで引き上げようとしたが、やっぱりやめた。追撃される言葉なんて、音にされなくても充分に推察できるし、心なしか周囲の視線が痛い。しかし、話を無視して後で展開される嫌味の方が、はっきり言って手におえない。
「ばっかだなあ、こいつ」
「折り紙つきで、救いようのないばかね。それより、どうにかならないのかしら。あの煮ても焼いても使えない授業! はっきり言って、神聖な授業料の浪費なのよね」
(いや、何もそこまで手厳しく言わなくても。あれはあれで、面白いことは事実なのよね)
 六時限も終わり、下校時刻の鐘が刻一刻と近づいている。我が校の象徴《シンボル》でもある、砂時計のオブジェに落ちる噴水を背に、バイキング形式で安価が売りのカフェは、放課後を迎えていよいよ賑わっていた。
「まぁまぁ。終わったことは、もういいじゃないか。俺がとってくるよ。で、ナチル。今日は何にするんだ?」
 テーブルのスタンドに立てかけてあったメニューを手渡し、財布をポケットに入れたグレンは、当然のようにナチルの返事を待った。
「あ、まぁたナチルにだけ奢《おご》るわけ? 今日こそは、だまされないからね」
 ミリィは顎《あご》の下で手を組み、可愛らしい顔に似合わない三白眼で責めてくる。
「いやっ、あのっ……別に、奢《おご》ってるわけじゃねえよ。料金は、ちゃんと駐輪場で後払いしてもらってるし」
「ん、でもさ、半分ほど奢《おご》ってくれてるよね」
 ナチルはメニューを捲《めく》りながら、半歩後ずさったグレンに、涼しい顔でとどめを刺した。
(ナチル、頼むから、墓穴掘るようなまねはしないでくれ)
 グレンの額には冷や汗が浮び、心拍数は着実に上昇していた。とりあえず、視線を空の方へと泳がせてみるが、目ざといミリィが見逃すはずもない。グレンの耳たぶを思い切り抓《つね》りあげ、口元へと引き寄せた。
「グレン。どの女性も差別なく、平等に扱わなくちゃね。せっかく無理して築いてきたイメージも、明日になると台無しってことも……私は、あると思うんだけど」
 おしとやかな微笑とは裏腹に、声音には絶対零度の冷たさが渦まいていた。
(わかったよ。俺の負けですよ、まったく)
「はいはい、お嬢様方の仰せのままに。お二人でどうぞ」
「じゃあ、遠慮なく。私はブルーローズと黒すぐりのジャムケーキ特大《スペシャル》サイズ!」
「それしかないわね」
 笑顔で間髪を入れず、弾けるような重唱が返ってくる。ナチルとミリィは大声で、本日のおすすめデザートを即答した。
(お前ら、それはバイキング外だろう。一番高いメニュー、声そろえて言ってんじゃねえよ。ちょっとは、遠慮しろよなあ)
 グレンは軽くよろめきながら、ケーキやクッキーが山のように盛られている、サービスカウンターの隣へと足を運んだ。別料金で注文するオーダーカウンターには、誰ひとりとして列をつくっていない。
「なんかグレン、急に調子わるそうだね。さっきまで、普通だったのに。あ、財布の中、覗き込んだりしてるけど」
 ナチルは怪訝《けげん》に思い、グレンの朝からの行動を思い出していた。ミリィがテーブルの下で、小さくガッツポーズをとっていた……ことを知るよしもない。
 ナチル達は、新作ケーキでお腹も膨れた後――グレンはなぜか水一杯だったわけだが――、廊下に設置された個人用ロッカーへと向かった。自宅で復習をしたりする生徒は奇特で、特別に課題を与えられた科目以外の教材は、大体の生徒が置いて帰る。
 ナチルはしかめっ面で、数学の教科書をロッカーに放りこんだ。続いて、参考文献に指定されている、珍獣論の教科書《テキスト》を取り出した。リュックの口を緩め、そのまま面倒臭げに投げ入れる。
 金色のブルネットをソバージュにした、見め鮮やかなミリィ。ビバリーヒルズ育ちのお嬢様と、周囲は完璧に思い込んでいる。育ちは確かにお嬢様なのだけれど、言動があまり伴わず、はっきり言って、周囲は整った顔に騙《だま》されている……とナチルは思う。サッカー部の副部長であり、頼りになるけれどちょっと間の抜けた、精悍《せいかん》なエースストライカー、グレン。そして平均、平凡、中庸と、容姿において全ての形容詞が、もれなく修飾語につくナチル。妙な取り合わせだが、入学して気がついた時は、なぜかこの輪の中にいた。
 ミリィもグレンも二年次の履修登録日に、そんな授業はやめておけと耳が痛くなるほど説教を繰り返した。履修するなら役に立つ、応用数学にしようと勧誘されていたのだ。しかし、これ以上の数学なんて。四則計算が通り一遍にできれば、生きていくのにことさら困ることもないし、何より無愛想な数字の羅列にそそられるものはない。ナチルは謹んで辞退した。
「けど、来週は体験レポートかあ。ネタ、なんか落ちてないかなあ」
「えっ、またレポートなんか出てるわけ? しかも、体験ってなに?」
「さあ、そんなの私が聞きたいわよ。四連休だから、頭使う暇あったら足使えってことじゃないの? あ〜あ、どっかに笑えるネタ、都合よく転がってないかなあ」
 その時、偶然手に当たった二冊目の教科書《テキスト》が、背を向けて靴の上に落下した。ウイルスが影響を及ぼした特殊文化や、中世の拷問を極端に咀嚼《そしゃく》した、もう絶版になっている入門書だが。
 リュックを右肩にかつぎ、ナチルは陽に焼けた教科書をそっと拾い上げた。復元イラストの頁の端が大きく内側に折れ、まるで選ばれたかのように開かれている。説明文には、このように記されていた。
『孤発性プリオン病のひとつ、クールー。パプアニューギニアの山岳地方の住民、Fore(フォア)族の女性や子供を中心に見られた小脳性の歩行障害と振戦を特徴。進行性に経過して、発症後一年以内に死亡する疾患。患者は発熱せず、炎症所見も示さず、病理学的には小脳を中心に海綿状変性、アミロイド斑がみられる。Fore(フォア)族では、死体の眼球や脳を食する儀式(カルバニズム)があったこと、また人肉を食する習慣の消滅とともにこの疾病がなくなったことから、人肉を食べる習慣で発病したと考察される』
「食人《カルバニズム》かあ」
「……キワモノ」
 ミリィは尻目にグロテスクなイラストとナチルを捉え、抑揚のない声と冷めた瞳で冷静に判定をくだした。
(やらないわよ)
「なんかよくわからんけど、ご苦労なこって」
(だから、やらないってば!)
 手で膝をばんばんと叩いてみせても、心の声が届くはずもなかった。

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