◆この作品の著作権は九条忍さんにあります◆
* * *
照明を落とした広間で、ほんのりとしたキャンドルの明かりが、煌々
《こうこう》と闇を押し開いていく。ひとつ、ふたつ、みっつ……キャンドルの芯に火を入れ、ナチルは消えないように外周を手で囲んだ。食卓の中央には、一輪
《ひとわ》の金細工が施された食器が二皿。加えて、スープを注ぐと思われる底の浅い平皿が二つ。ちょこんと清楚に、顔をつき合わせている。
サリラは奥部屋にある厨房から、大型の移動式コンロを運び出してきた。廊下の絨毯
《じゅうたん》を踏みつけた車輪が、ぎいぎいと軋
《きし》みを鈍くあげる。ナチルはコンロを部屋に運び入れてから、サリラが腕に抱えた大鍋を、運ぶのを手伝った。サリラはドアを後ろ手に閉め、コンロの真ん中に背を向けて立つと、鼻歌をうたいながら大鍋に火をつけた。沸騰
《ふっとう》もしていない湯に銀のレードルをつけ、慎重にかき回す。やがて部屋には、勢いよく立ち昇る湯気と一緒に、甘くとも苦くともいえない不思議な香りが充満してきた。
「何、この匂い?」
「待ってね、今スパイスを入れるところだから」
サリラは小皿に煮汁を入れ、口に含み、舌の上でゆっくりと転がしてみた。
ナチルの座っている位置にも、確実に狙って攪拌
《かくはん》してくる臭気。最初、少しばかり臭覚に訴える程度だったが。それが今では、鼻の曲がりそうな激臭に、うっすらと涙さえ滲
《にじ》む始末だ。ナチルの思考は、匂いの根源を分析し始めた。レモンを剥
《む》いた後に広がる酸味のような、それでいて魚の生臭い腐臭のような。青野菜をごちゃ混ぜで、力任せにミキサーで粉砕したような。はたまた、生ゴミが部屋の中で数週間も放置されたような。遠くから鼻腔
《びこう》を刺激するようでいて、体内に侵入した異臭が、燃え盛っては胃の中で吹き溜
《だ》まる。そんな、筆舌に尽くしがたい異様な臭気だ。
(サリラ、料理が苦手だったかしら? 意外といえば意外だけど、それだけじゃ説明のつかないような、この悪臭はなんなのかな)
それでいて、ひどく懐かしく胸をくすぐる香りだ。
「ねえ、本当に大丈夫なの? なんだかすごい匂いなんだけど。手伝おうか?」
「いいわよ。ナチルって、料理は苦手だったじゃない?」
「……そうだけど。でもそれ、本当に食べれるものつくってる?」
「失礼ね、食べれるわよ。おいしいかは、よく知らないけど。文献や成分の理屈上は、食べれること間違いなしなんだから」
後ろを向いたまま片手を腰にあて、サリラは自信をもってレードルを振り回し、
「きっと、栄養満点よっ!」
と、続けた。
吐き気や眩暈
《めまい》を催
《もよお》すほどの匂いに、ナチルはとうとう我慢ができず、鼻をつまんで思う。
(その根拠のない自信は、一体どこから湧いて出るわけ? サリラぁ、ちょっと神経を疑っちゃうわよ)
換気がしたくても、換気扇もなければ窓もない。大気が腐って、部屋の底からじわじわと澱
《よど》んでいく。
「大丈夫よ、この紅いスープがね、ちょっとひどい匂いをたたせてるの。食材も、かなり変わった香りかもしれないわね。すぐ側にあるけれど、一生に一度、口にできるかできないかという珍味よ」
「ふぅん、そうなんだ……。なら、別にいいんだけど」
ナチルは、さらに不安に負けて、ついに顔まで曇らせた。
(ちょっと……ひどい匂いって? まさか味覚まで、おかしくなってたりしないでしょうね)
それからさして時間が過ぎないうちに、「よし完成」とサリラは胸を張った。レードルを、鍋に向かって軽く振る。先の方からは紅いトマトスープのような、どろりとした液体が滴り落ちていた。
鍋つかみに大鍋のもち手を挟みながら、食卓へと近づく。慎重に運び机の上に届いた時、鍋は尋常ではない音を響かせ底をつけた。
「うっ、何これ。食べるのよね?」
ナチルは目尻に溜
《た》まった涙をぬぐい、サリラを凝視せずにはいられなかった。
「失礼ね。往年の山間民族では、ちゃんと食べていた記録も残ってるんだから。調理の仕方は私のオリジナルだし、文書に従って生の方がよかったのかもしれないけどね。でも、そんなお下劣な食べ方をするなんて、私の美的感覚がとても耐えれそうもないわ」
サリラは目を瞑
《つむ》って、得々と、高らかに解説を始めた。しかし、どう考えても、この人知を超えた匂いに寛大すぎる。自称、美的感覚とやらも非常に怪しいものだと、ナチルは思うのだが。
「あ、だめだめ、あせっちゃ。まだよ。もうひとつあるの」
蓋
《ふた》をとろうとしたナチルの手を抑制し、サリラは台の上に乗せていたもうひとつの、今度は小さな鍋を持ち出してきた。ついでに塩、砂糖、胡椒
《ペッパー》、ソース……多様な調味料を次々に並べる。
「だって料理は初めてするものだったから、結局は味付けがよくわからないのよね」
「はぁ? サリラって……本当に、わけのわからないものをつくってたってわけ?」
「だってどの料理の本を引き出しても、調理法
《レシピ》は書いてないんですもの。最近の本はだめね」
ナチルは唖然
《あぜん》とした口が塞
《ふさ》がらなかったが、気を取り直して蓋
《ふた》に手をかけようとした。が、再びサリラの手がナチルの手を防いだ。
「だめよ、まずは祝杯にこれを開けてから」
サリラが出した氷の入ったバケツには、シャトー・マルゴー四十年もののボトルが寝かされていた。デキャンタの三分の一くらいに、ワインを少しずつ流し入れ、泡が立たないように底を滑らかに揺する。
「それは何?」
「デキャンタよ。ワインコレクターの父によれば、赤ワインはこうやって空気に触れさせた方が、味がまろやかになるらしいの。ソムリエスクールにも通って、習ってきたみたいだからそうなんじゃない?」
サリラは何の感慨もなく淡々と言い、慣れたてつきでワインの処理を行った。続いて、さも当然のようにグラスを差し出す。未成年だし、本来なら飲酒は法律が禁じている。が、ナチルは敢えてサリラの勧めを断らず、素直にグラスを受け取った。何故なら、彼女が鼻歌を宙に浮かべるくらいの上機嫌だったからだ。
「まずは、再会に乾杯」
「乾杯」
サリラのグラスの淵に、ナチルは自分のグラスを、カツンと重ね合わせた。ガラスには、朧
《おぼろ》を引くキャンドルの明かりが刷
《す》りこまれ、中では寄せては返すワインが、美しく彩られている。
サリラはひとつ口をつけた後、円を描くように、グラスをゆっくりと揺らしながら続けた。
「白ワインの方が、ほんとは辛口なんだけどね。私は赤が好きなのよ」
「ふうん。こだわり?」
ナチルの問いに、伏せがちな視線で考えるような素振を見せながら、サリラはグラスの底を回し続けた。もう一口飲み干して、サリラは単調に続けた。
「こだわり……かな。香り高い赤は、業の深い咎人
《とがびと》をいつも思い出させてくれるわ。汝、忘ることなかれってね」
ナチルは聞き慣れない単語に、少しの間、思考を硬直させた。グラスに映ったサリラを見つめながら、なんとか続ける言葉を探す。
「えっと、う〜ん、そうきたか。ベリーの香りがするとかって話は聞いたことはあるけど、また独特の形容ね。サリラって、なんか大人」
サリラは空になったグラスをテーブルにつけ、愉快そうにもう一杯注ぐ。
「ふふふ、そうでもないわよ。ナチルは、純心なのね。赤のワインはね。清冽
《せいれつ》な贖罪
《しょくざい》の味がするの。だけど、そんなもの知らない方がいいわ」
二杯目のグラスを煽
《あお》りながら、サリラは少し甲高い声で尋ねた。
「ナチルは、神様を信じる?」
「え、またなんで神様? よくわからないけれど、サリラは信じてるの?」
ナチルはちびちび飲んでいたグラスから口をはずし、きょとんとした顔を向けた。
「そうね。少なくとも、昔は信じてたかもしれないわね。親が信徒だったし、教会に連れて行かれたり、教えられたりしてなんとなく。信じて救いを求めれば、いつか本当に助けてくれる、くらいには思ってたかな」
「……ひそかに、過去形になってるんですけど?」
「だって、自分次第なんですもの。ナチルも、覚えておくといいわ。自分を最後に救えるのは、結局は自分自身よ」
口をはずしたサリラの瞳には、再びキャンドルの燈
《ともしび》が、ちらちらと揺れていた。
ナチルも一杯目のグラスをあけ、休むことなく、二杯目のワインが並々と注がれる。その二杯目も半分と少しを、二人ともがあけきったころだ。ナチルは上半身がふらふらと夢見心地に陥
《おちい》り、上気した頬をグラスに押し当てた。微かな冷たさが脳に伝わり、靄
《もや》の中に、一点だけ穴があいたような感覚に落ちた。微かに、理性が戻ったのかもしれない。
だから、サリラに尋ねることができたのだろう。
「ねえ、聞きたかったんだけど……なぁにについての祝杯なのぉ?」
呂律
《ろれつ》の上手く回らない舌が、口内で言葉を絡めさせる。サリラの肩がぴくりと跳ね、ナチルの瞳を真摯
《しんし》に射抜いた。抑えがたい高揚を、双眸
《そうぼう》に宿して。
「ふふ、聞きたい?」
「うん、聞きたい」
ナチルは腰に手をあて、無邪気にあっけらかんと答えた。何も考えず、軽く受け流してのことだが。
しかし、サリラが先に質問を浴びせてきた。
「私も聞きたいことがあるの。ローダンゼの花は咲いていた?」
「えっ? 咲くもなにも、招待状の花がローダンゼだってことはわかったけど? やっぱり、あれって何か意味があったの?」
「……だめね、ナチル。ナチルには、自分で思い出して欲しいなあ。私には、今年こそローダンゼの花が、馨
《かぐわ》しく立派に咲き誇っていたわ」
サリラは爪で空になったグラスを弾き、饒舌
《じょうぜつ》に続ける。
「私はね、ある人から自由になったの。これから悠久の時を一人で歩けるの。誰にも隷属
《れいぞく》せずに、楔
《くさび》から解き放たれたのよ」
ナチルはわずかに眉を引き寄せ、サリラの言葉の続きを待った。
「ナチルは夢をみる?」
サリラは、抑揚のない声で流暢
《りゅうちょう》に続ける。
「……そりゃ、みるわよ。人間だもの」
「悪夢をみる?」
「まあ、時にはね。一体どうしたのよ?」
「私は小学校四年の終わりから、毎日のようにみたわ」
一人の男が猫なで声で彼女の名前を呼び、内側からかかった鍵をスペア鍵で外側からこじあける。擦り寄るように彼女の側に寄り、嫌がる彼女の口を大きな手で塞
《ふさ》いで、上に圧
《の》し掛かる。サリラ、と、くぐもった呻
《うめ》き声を吐いて、彼の唇が、指先が彼女を侵食していく。握り締めていた拳
《こぶし》が無理やり開かされ、指を絡め取られる。そのまま頭の上で両手を括
《くく》られたかと思うと、唇が重ねられた。押し広げられ、驚くほど丁寧に粘膜
《ねんまく》まで舐
《な》め取られる。指へ舌を巧みに這
《は》わせて、唾液を絡ませる。次に両手で肌をまさぐり、喰らいつき、皮膚を吸い上げる。両足をしっかり抱えられ、思うように動かせない体の中心に、男は強く速く腰を進めた。窓の外は一面の雪で、降り注ぐ三日月が、ただ自分達の肉の享楽
《きょうらく》をみていたのだ。陰鬱
《いんうつ》に。彼女は頭の中から黒光りする短銃をとりだし、男の額へと力一杯に押し付ける。ゴリッと、捻
《ねじ》り込む音をたてて。男は大きな銃口の先で、低俗な笑みをひらめかせ、こう呟く――『サリラ、愛しているよ永遠に。どこに行ってもお前は私のものだ。神すらもお前という存在を、私から奪えはしないのだから』。銃声が、血を撒
《ま》き散らして闇に還
《かえ》る。
「またある時は、こういう夢をみるの」
彼女は黒と白の、縞
《しま》模様の床を駆け抜ける。何かに追い立てられるように、呼ばれるように。額から滴り落ちる汗すら拭
《ぬぐ》わず、懸命に。長く長く、どこまでも続くような錯覚を起こさせる廊下をひたすらに。右手には拳銃
《けんじゅう》の触感が染み、左手には斧
《おの》が握り締められ。途中に幾つもの扉があるけれど、彼女はどの扉を開くべきか理解している。正しい部屋は、たったひとつ。勢いよく、右側の最後の扉を引き開く。蝶番
《ちょうつがい》は宙に弾けとび、扉は悲鳴をあげて転倒する。シーツの波に溺
《おぼ》れた男はむくりと起き上がり、彼女の顔に向かい、野獣のような目つきで下品な笑みを滲
《にじ》ませる。そしてこう呟く――『お前に私が殺せるのかな? 私は既に、お前の肉。体の一部。私は、お前自身でもあるのだよ』。彼女は答えた。「そんなはずはない」と。男は愉快気に裸の体を横にずらし、仰向けに組み敷かれた人物を彼女に見せようとする。そこには……彼女は叫んで、数発の銃弾を浴びせた。「このブタ」と叫んで。それでも男は倒れず、くにゃりと後ろに反らせた体をゆっくり起こし、また告げる――『無駄だよ。お前の体は正直だ。そら、私を受け入れて、こんなにも歓喜の涙を流している。お前は決して、私を殺せはしないのだから。サリラ』と。男に敷き伏され陵辱
《りょうじょく》された小さな子供は、彼女自身だった。
「だから私は、ずっと心に決めてたの。いつか夢からあいつを追い出してやるって、この手で殺してやるってね。それが、ついに叶
《かな》ったのよ」
ナチルは頭から水を注がれ、それが足元に抜けていくような不快感を覚えた。
(サリラは今、何を言っているの?)
ナチルは震える声で、恐る恐る確認してみる。
「でも……夢の話でしょ?」
「ええ、夢よ。男が不死身で、死なないなんてのは不条理
《ナンセンス》な夢ね」
「それじゃあ」
「でも、男が彼女にしたことは真実よ。あいつはね、実の娘に快楽を求めたの。上から下まで、果ては中まで全てよ……あいつは、嗜虐的
《しぎゃくてき》に快感を求めた。実の娘相手に、忘我
《ぼうが》の境地を求めたのよ」
ナチルの喉は焼けただれたように震え、思うように息を取り込むことすらできない。胸に何か枷
《かせ》でもかけられ、外そうと懸命にあがいているような感触が走る。生唾にゴクリと、喉が震えた。
「ちょっと待って、それってまさか……」
「そうよ、私のことよ。俗な言葉でいうと姦通
《かんつう》、なにか違うわね。近親相姦
《きんしんそうかん》、そうこれよ」
サリラは両手を前で打ちつけ、祈るように胸のところで組み合わせる。
ナチルは両手で椅子の淵
《ふち》を固く握り、後ろに引いた……つもりだった。指先は、凍傷のように冷え切ってうまく動かない上に、なんだか下半身へも力が遮断
《しゃだん》されている。
「あらナチル、何をそんなに怯
《おび》えているの? こんなことで驚いてもらったら、私、困るわ。せっかく、私の自由を祝ってもらおうと思ってるのに」
「そ、それでどうしたのよ」
ナチルの声は、もうほとんど泣き出しそうなくらい、凍
《こご》え、怯
《おび》え、恐怖に打ち震えていた。
サリラはナチルの様子についばむように笑い、軽やかに続ける。
「せっかちな人ね、まだこの話には続きがあるのよ」
サリラは立ち上がり机を周回した後に、音もなくナチルの後ろで足を止めた。そしてゆっくりと、肩から首筋をなぞるように手をかける。
「あの日も……そう、まるで夢の景色のように、窓の外は白い雪だった。父はいつものように、行為を求めてきたわ。はじめは囁
《ささや》くような甘い声で、耳元で繰り返すの。『愛してる』って、ただ一言。徐々に息づかいは浅く速くなり、吹き荒れる嵐のように荒々しくなる。私の足を大きく折り曲げては肩にかけ、力一杯に体重をかけてきて。もう、体が引き裂けて、内臓を飛び散らかすんじゃないかってくらいにね」
「い、いつからなの?」
サリラの細い指が、ナチルの髪を絡め取った。
「ナチルが引越して、まもなくのことよ。四年の終わり頃には、既に毎晩のように抱かれる淫猥
《いんわい》な女に、すっかりなりさがってたもの」
「おばさんには…い……言わなかったの?」
「あら、言ったわよ。最初は父に口止めされてて、破れば何をされるかわからない…ひたすら怖かったわ。体格的に、腕力でも、私は父に抗
《あらが》う術
《すべ》をもっていない。だから、私は口を閉ざしたの。ううん、理性が閉じさせたわけでもなく、本能的に怖かったのね。抱かれている間、声も出せない日々が三日ほど続いたように記憶しているわ」
サリラは指先に力をこめ、ナチルの強
《こわ》ばった肩に爪を深く食い込ませた。吶々
《とつとつ》と、話を続ける。
「でも、それからは嫌だとも泣き叫んだし、夜な夜な悲鳴もあげたわ。でも、誰も助けには来てくれなかったの。ドアの隙間から空気の圧力は、気配は感じるのに……よ。目だけを覗
《のぞ》かせて、立ち尽くしているだけだったのね。壁も床も天井も、全ての目がお前はふしだらだって、責め立ててる気がしてた。それである日、母に言ったの。毎晩、お父さんに強姦
《ごうかん》されてるんだって。助けて欲しいってね。でも母は何もしてくれなかった……」
夫をよその行きずりの女でもない、遥か年下の小娘に奪われる。しかもそれは、自分の血肉を分け与えた分身。それが屈辱
《くつじょく》だったのかは、わかりはしない。わかりたくもない。表沙汰になったりしたらと、世間への体面というものを公算したからかもしれない。
「何もしてくれない母に警察に届けると言ったら、母は泣きながらこう言った。私の頬が真っ赤になるまで、平手で殴りつけてね。『貴方は言われるがままに、されてさえいればいいの』って。私はこの時、全てを悟ったんだわ」
絶望の淵に足を攫
《さら》われ、無数の白い手がぬかるみへと引きずり込む。私は立つこともできず、光も差さない指の先を、求めてひたすらにあがき続ける。
「だれも、助けてくれたりはしない。私は、この家で一人……孤立してたのよ」
「……そんな。だって、友達に打ち明けるとか」
「打ち明けたわよ。中学二年の時にね。私の周囲で本当に心を許せたのは、後にも先にもナチルと彼氏
《ボーイフレンド》だけだと思ってたから。だけどそれは、トールは。私の思い上がりでしかなかったみたい」
見知らぬ人が口笛をひっかけながら、卑猥
《ひわい》に濡
《ぬ》れた瞳を投げかけてくるような恐怖が、いつも付きまとっていた。まるで万華鏡の中に閉じ込められたかのように、様々な角度から。――「お前が何をしているのか、知っているぞ」と。
「打ち明けた後、彼は私に触れもしなくなったわ。まるで汚物をみるような蔑
《さげす》んだ瞳で私を串刺しにして、あげくにどうしたと思う?」
サリラは言葉を切り、大きくため息をこぼした。そして気を取り直したかのように、一息に言い切った。
「学校のタイルの壁に、小刀で、<サリラは売女
《ばいた》で尻軽です。どうか、誰でもこのメスブタに、愛の手をかけてやって下さい>って刻んだのよ。近親相姦
《きんしんそうかん》には触れない、ほんの悪戯心
《いたずらごころ》だったのかもしれないけどね」
「ひどい……」
サリラは目頭を軽く押さえ、大きく深呼吸をし、胸に空気を取り入れた。
(だから私は二十と六回……彼の上に、鉈
《なた》を振り下ろした。頭の中で何度もね)
「おかげで妙な噂が学校中を駆け回り、上や下へと大騒ぎ。私は転校したいと泣いてせがんだけれど、がんとして父も母も受け入れなかった。つくづく世間体を気にする人たちなのね」
サリラは横の椅子に腰掛け、顔を伏せた。そしてまた顔をあげたかと思うと、じっとナチルを映し入れる。瞳に、今にもかき消えそうなキャンドルを滲
《にじ》ませて。
「もう、どうしようもないことを知ったわ。私は、綺麗
《きれい》な体じゃないけれど……でもね」
(私にだって、誰もわかってくれなかったけれど、意地があったわ)
「それでも私は……どうしても父
《あいつ》を、公衆の面前に引きずり出して、叩き落してやりたかった。跡形も残らないくらい、ぐちゃぐちゃに、何もかも踏み砕いて。あいつが最も恐れた、屈辱
《くつじょく》と恥辱
《ちじょく》という名のもとに、大地に這
《は》いつくばらせて、泥水を飲ませてやりたかったのよ」
言葉を切って、さらに続ける。
「だから最後に、一世一代の自分への賭けをしたの。ほら、これを見て」
サリラはドレスの胸元から、折り畳まれたティッシュが入ったビニールの小袋を抜き出した。
「今から考えると……どうか、してたのかもしれないわ。でもね、頭の中でカサカサと、ひっきりなしに虫が鳴くの」
どこに逃げようと、折れてしまいそうな足を引きずっても、開くことのない檻
《おり》に錠が落ちている。手を伸ばしてもその狂った檻
《おり》は開かなくて、肌を頭を内臓を、徐々に締め付けていく。
サリラは、中から八つ折りになったティッシュを取り出し、丁寧に皺
《しわ》を伸ばして広げていった。
「ねえ、ナチルは知ってた? 追い詰められた鼠
《ねずみ》が猫を噛
《か》むように、人間、やろうと思えば何だってできるのよ。記念にとっておいたんだけどね」
サリラが指差した物は、ティッシュの中央に包まれたひとつの歯だった。根元には血塊
《けっかい》の痕
《あと》と、赤黒く歯肉の繊維
《せんい》がわずかばかり付着している。
「私は自分で、警察に駆け込むことにしたの。でも警察は、口でどれだけ嘆願
《たんがん》しても、証拠がないと動いてくれないのよ。それでも、私は何とかしたかったのよ。だから私は、こうやってペンチで自分の歯を引き抜いたの。絶叫するほど痛かったけれど、でもこれは私の……唯一の誇りだわ」
サリラは口を大きく開いて、歯並びの欠けた奥歯を見せた。下段、右手の奥から二番目の歯。ぽっかりと空洞が開いていて、褐色がかった鉄錆
《てつさび》の色が、痛々しくこびり付いている。
「駆け込んで、警察に歯を叩き付けた。刑事の目の前で、私は衣服を脱ぎ捨て素っ裸になったの。体の随所に父の爪痕はくっきりと残されているし、そのうえ抜けた歯を見れば文句はないでしょう。それで、こう叫んでやったのよ。『私は家で父親に暴行
《レイプ》されています。犯されて、殴られて……助けてください!』って、喉が張り裂けそうなくらい、あらん限りの声を振り絞ってね」
「それで……警察は?」
「来てくれたわよ。信じられない顔をしていたけれど、ちゃんとした物証があったから。でもね、私……やっぱりバカだったわ。“叫ぶ”ということが、どういうことなのか嫌になるくらい思い知ったわよ。叫べば叫ぶほど、自分が悲しいくらいに世界で一人ぼっちなんだって、突きつけられるだけだったのに」
鋭利な切っ先で、願いも、希望もずたずたに、跡形も残らないくらい無残に切り裂かれたのは自分だった。自分が自分自身でいるために、何に縋
《すが》ればいいのかすら見失うくらい、細胞がばらばらに粉砕されたようだった。
「家の者が口裏を合わせて、おきれいな家族像を演じれば終わりなのよ。だって、家の中に証拠がないんですもの。父は村でも有数の人格者で、名士で通っていたし。人って、表の顔だけで裏の顔を知らないのよね。知ろうともしないわ。きっと、自分で描いた理想が、崩落するのが怖いのよ。つくづく、小心で愚かな生き物だわ」
サリラの語調は徐々にきつくなり、握ったナイフを大きく振りかざして、ダンと食卓に突き立てた。ナチルの全身は硬直し、背筋を撫
《な》ぜる汗だけが、冷たく不快に神経を刺激した。引きつれた喉からは、もう声すら引き出すことはできない。
「警察も、私の自作自演の狂言だったと、憤慨
《ふんがい》して帰って行ったわ。鬱血
《うっけつ》の跡も、勝手に、トールとのものだってことにされちゃったしね」
サリラは自嘲
《じちょう》するように、ひとつ溜息をこぼした。それでも、確固たる声色で独白を続ける。
「後は、父にも母にも殴られ罵声
《ばせい》を浴びせられ、私の目は紫に腫
《は》れ上がったわ。父の私への扱いはそれまでより残酷になって、刹那に快感が得られればもうどうでもよかったみたい。それこそ、毎夜のように家畜
《ペット》以下の無茶な扱いをね」
サリラはぎいと椅子を引き、再びナチルの後ろに立った。腕を後ろから首に回し、息のかかる距離まで均整のとれた鼻をすり寄せて、優しく抱きついてくる。そして、甘い吐息のような声音で啄
《つい》ばんだ。
「そんなに緊張して震えないでよ。私、困るわ。まだまだ、話は終わっていないのに」
ナチルの顔は冷たく青ざめ、口で繰り返す呼吸が脳の先まで響いている。思考はとっくに考えることを拒否してしまっているのに、神経だけが過敏に澄まされていく。ナチルは、自分の周りの景色が逆流しているような、かつて体験したこともない感覚を味わっていた。自分のいる空間だけが、周りの時間と逆回りして、自分のたてる息遣
《づか》いだけが騒音のように煩
《うるさ》く耳に残る。
ただれたように焼け付く喉から、ナチルはどうにか言葉をまとめた。
「だったら、どうして家を出なかったのよ?」
サリラはナチルの首筋を四本の指で順に、繊細に撫
《な》であげる。平坦な声で、大した思い入れもなく続けた。
「あいつは、腰を揺らしながら同じ言葉を浴びせ続けたわ。耳元で。『お前を皆が見ているぞ。腰を振って喜ぶ、ふしだらな汚いお前を全ての人が』って。毎晩々々、鸚鵡
《おうむ》のようにね」
反復していた、指の動きがぴたりと止み、
「不思議なものね。繰り返されれば繰り返されるほど、それが手に取るように、本当みたいに思えてくるのよ。どこに行っても、誰かが追いかけてきて私を見てる。じろじろと頭のてっぺんから足の先まで眺めては、薄っぺらに笑うの」
(世界中の人が、私のしていることを知っているんだわ)
また、指の動きを再開した。
「……私はね、外に出るのが怖かったのよ」
廊下の時計が鐘を鳴らし、四の数字を告げた。
サリラは腰を曲げ、冷え切ったナチルの頬に、触れるか触れないか位置で、自分の頬をすり寄せた。瞳を静かに閉ざし、そのまま頬を滑らかに上下に擦
《す》り合わせ、話を引き戻す。
「その年まで、父は誕生日の前日にね……こっそりと、プレゼントを私に手渡してたの。自分が抱く時の趣味にあった、黒い露出度
《ろしゅつど》の高い高級ドレスをね。毎年々々……おかげで小学生のころから今にいたるまで、一様のサイズはクローゼットにそろっちゃってるのよ。毎晩着るように、私に強要した。私は泣いて嫌がったけれど、あいつは服を引き裂いて悦に入ってそれを着せたわ。トールに手ひどい仕打ちを受けた、ちょうど中二の冬、また私の誕生日が巡ってきたの。誕生日はナチルが知っての通り、両隣に住む親戚まで招待し、後はささやかな友達を誘って開くわ。この時私には、誘うべき友達なんていなかった。この年はね、親戚と一緒に居間を囲んでいる時、父がいつもの誕生日プレゼントを手渡したの。そして、今すぐここで開けて着てみろって言うのよ、人前で。皆に勧められ私は仕方なく、小綺麗に装飾
《そうしょく》された箱をあけたわ」
サリラは、頬をナチルからそっと離し、続いて、右手でナチルの頬をさすろうとした。しかし、ナチルは右手をサリラの腕にのせ、左手で彼女の手を弱々しく止めた。サリラは小首を傾げたが、続ける。
「私はドレスに身を飾り、体中をほてらせ、耳まで真っ赤に染め上げ中央に立った。固く目を閉ざして、息を飲んでね。でも誰も何も言わない。おそるおそる瞳をあけたら、そこには信じられない光景が広がっていたのよ。誰もがにやにやとした含み笑いと好奇に満ちた瞳をぎらつかせ、脂ぎった顔を私に向けた。それで私、思ったの。皆、私が父に抱かれていることなんて、とっくの昔に知ってたんだって」
歯車は既にぜんまいが外れ、崩壊していた。修繕
《しゅうぜん》することなど、最初からできはしなかったのだと。息を吐き出す度に、清浄な空気は汚
《けが》されていく。父の精液で……。
台所で、洗面所で、風呂場で。輝く刃物を目にしては、何度も手首にあててみた。睡眠薬が入っている、薬棚の位置は把握している。だけど自分を殺すことはできなかったし、その程度のもので死ねないことも。
「だって、どうして私が死ななければいけないの? そんなの不公平じゃない。死ぬなら薄汚れた、恥をも知らないあのブタが死ぬべきよ」
体の中で収縮した脳髄
《のうずい》で、脳裏の奥で……目には見えない何かがフツリと途切れた。無残にも切断された意識の糸は、もう修復することなどできはしない。
サリラは腿の横で、汗ばんだ両方の拳
《こぶし》をぎゅっと固めた。固く握り締められた手は、肩から小刻みに震え、瞬く間に白く変色していく。
(だから私は、あいつの額にほんの一発、ぶち込んでやろうと決めたのよ)
「私はずっと待ったわ。警察すら、あてにならないと知った時から。父の腕力に、少なくとも喰らいつくことができる年齢まで。ひたすらに耐えて、耐えてね。そして今年の冬、私の十七回目の誕生日のことよ」
神の鉄槌
《てっつい》を、下した。
「銃で額を打ち抜き、ナイフで喉元
《のどもと》を切り裂いた。これで悪夢のシナリオは、全て白紙にもどしたのよ。でも、現実にはいつも不可避な、あるいは不可抗力のできごとが起こるものね。まあ、大体、予想はしてたんだけど……母が飛び込んできたの。ううん、きっと私はそれも期待して目算していたんだわ。夫に実の娘を生贄
《いけにえ》として捧げるようなメスブタにも、怒りの鉄槌
《てっつい》を下してやろうって」
あの日、ナイトテーブルの隣には、厚い刃の斧
《おの》を立て掛けておいた。
サリラはナチルから視線を外し、目を細めて宙へと泳がせた。
(私はあれで、何をするつもりだったの? いいえ、誰を殺すつもりだったの?)
「そ、それで……おばさんを殺したの?」
どうにか、ナチルは声を出すことに成功した。サリラは嬉しそうに両手を叩き、
「そうよ、さすがナチルね。私のことをわかってくれるなんて。ええ、斧
《おの》をひとふり……脳天をかち割ってね。でも、ひとつだけわからないことがあるの。それを今から聞こうと思うのよ。ね、だからナチルも母に、一緒に聞いてちょうだいな」
そう言ったサリラは、大鍋の蓋
《ふた》を片手で軽々と、何の躊躇
《ためら》いもなしに持ち上げた。
そこには……。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
サリラは椅子から転げ落ち、全身を激しくわななかせる。両の手で頭からすっぽりと覆い、何度も何度も鍋の中身を見ては、空を切り裂くような叫び声を枯れるまであげ続けた。
大鍋の中からは、甘くて苦い鉄錆の匂いが濛々
《もうもう》と立ち昇る。真紅のスープに浮かんだ、女の首。切断面は歪
《いびつ》に波打ち、毛髪はずるむけ、眼球は液体にぷかぷかと浮かんでいる。その下には、もうひとつ。すでに原形は留めず、誰のものとも判別はできない。わずかに白骨がはみ出し、露出した生首がひとつ。
(これは誰? これは誰なの!! ま、まさか……おじさん? おばさん!?)
ナチルは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪め、腰を抜かした姿勢でゆっくりと後退する。
(私は今、何を見ているの? いいえ、一体どこにいるの? 目の前のサリラはきっと彼女じゃない。そうよ、これは夢。全ては夢なんだわ!!)
「あらナチル、どこに行くの? パーティのお開きの時間には、まだ早いわよ」
彼女は小鍋の蓋
《ふた》もまどうことなく、笑声をあげながら瞬時にして引き上げる。そして傾け、中の物体を私に向けた。粉砕された白色の粉が、うず高く積み上げられている。
「これはね、父の骨なの。尺骨
《しゃこつ》と頚骨
《けいこつ》の部分を、細かく砕いてみたのよ。でも父の骨を使った料理は、これだけじゃないの。ほら、そこの生首の料理。生首は、父と母のものよね。紅いスープは二人の鮮血。隠し味にね、父の頭蓋骨
《ずがいこつ》をちょっとばかり削って、粉末を混ぜてみたの。ねえ、ナチル、味付けはどうしたらいいと思う?」
「ひっ、ひぃ〜〜〜!!!」
狂っている、彼女は狂っている。
(いいえ、彼女だけが狂っているのではないわ。この家、丘陵を覆い尽くす時間と雪、その全てが狂っているのよ)
サリラはスープの中から首を取り上げ、汚れることなど気にも止めず、両手を真紅の液に浸した。むしろ、ずっくりと朱に染まった両手に嬉しそうに目を細め、腕を伝う鮮血を余すことなく啜
《すす》ってみせた。
サリラはひとつの生首を胸にかき抱き、そして目線の位置に掲げ、まるで儀式でもするかのように深々と口付ける。そして、恍惚
《こうこつ》と呟いた。
「ねえ母さん、今日はナチルも来てくれたのよ。私、どうしてもひとつ聞きたいことがあるの。どうしてあの時、陽だまりみたいに微笑んだの? どうしてあの時、『ごめんね』なんて、言ったのよ?」
すっかり酔いも冷め切ったナチルは、扉に向かって突進した。突き破るように押し開け、転がるようにして廊下を駆け抜ける。どうして、自分は逃げているのか。残れば殺されるかもしれないという恐怖が、渦となって意識を引きずり込もうとしている。
(次は、私の番かもしれない)
ナチルは夢中で、廊下の途中にある一室に駆け込んだ。どうやらバスルームのようだが、暗くて辺りは確認できない。息を潜
《ひそ》めて腰を屈め、曇りガラスの扉に貼り付いた。外の様子を窺
《うかが》う。
「ナチル〜、ナ・チ・ル…ねえ、どこに行ったのよ。出て来なさいよ、何もしやしないわよ」
信じられるものですかと、頭の奥が大声をあげる。頭が割れそうなほど、甲高い警鐘
《けいしょう》と共鳴する。種火が脳内で燻
《くすぶ》り、徐々に温度をあげていく。そして、最後には真っ白に焼き焦
《こが》し、思考回路を焼き切るのだ。
ピチャッ
頬に、水のようなものが滴り落ちた。
ピチャッ ピチャッ
冷め切った液体は、回を重ねるごとに速度を増し、頬に腕にと流れ落ちる。暗闇に目が慣れてきた頃、タイルに映る二つの黒い影を発見した。恐る恐る眼差しを上げると……。
「きゃぁぁぁぁぁ!!!!」
すっかり腰を抜かし、這
《ほ》う這
《ほ》うの体
《てい》でドアを開けることに何とか成功する。今、何を見たのだろう。頬を幾筋も真紅に染め、ナチルは手の甲でごしごしと拭
《ぬぐ》った。拭いても拭いても、浸透した赤いぬめっとした触感は拭い去れない。
ふいに、明かりが灯される。
「み〜つけた、ナチル。またこんな所に転がり込んだりしちゃって、好きなのね」
サリラは薄ら笑いを頬に貼り、口の端を横に引いた。凄絶
《せいぜつ》を、極めた笑みで。
上から吊
《つ》るされていたのは、首の千切れた二つの死体。共に切断面は粗雑
《そざつ》で、激しく波目の模様を表している。片方の死体には右腕がなく、これがおそらく父親の死体なのだろう。指先は紫に鬱血
《うっけつ》し、軽く一昼夜は過ぎているかと思われるのだが……なお、血の引く気色はみられない。まるで怨嗟
《えんさ》の念を、家という名の棺へと吐露
《とろ》するように。
「今さらあんたなんかに、何の恨みがあるっていうのよ。ナチル、紹介するわ。父と母よ。会うのも久しぶりよね。会いたければ、叔父さんと叔母さんも。ついでに、ぎゃあぎゃあと煩
《うるさ》かった子供
《ガキ》も……下から引っ張ってくるけれど、どうする?」
「叔父さん達をどうしたの?」
「だって、煩いんですもの。父と母を殺したことがばれちゃって、私を警察に引き渡すって……冗談じゃないわ。何のために、殺したと思ってるのよ」
「で、どうしたの!!」
悲鳴じみた声が、ナチルの咽喉
《いんこう》をびりびりと震わせて、喉の奥から熱くせり上がる。
「だからついでに、殺しちゃった。簡単よ。山から車で降りる日と時間を見計らって、睡眠薬を入れたコーヒーを二人に飲ませてね。座席の上で、しっかりと効いているのを確認してから、排気ガスを中に引き入れたの。苦しまずに逝けたはずだけど、実際はどうなのかしら? 子供は後々が煩
《うるさ》くて、禍根
《かこん》を残すって言うじゃない? だから、芽はきちんと摘んでおかないとまずいわ。水に湿
《しめ》した新聞紙を、鼻と口の上からあてて……。案外、早かったわよ」
(狂ってる……)
私は頭の中で、無機質に低く呟いた。言葉にせずに、音の形もとらないで。
(狂ってる)
また、ひっそりと反復する。そして下腹に力を付加し、
「貴方は、狂ってるわ、サリラ!! 狂ってるのよ!!」
荒い息を胸の中で繰り返し、喘息
《ぜんそく》のように体を前へと折った。
そして息が和らいできた頃、そっと腰を上げる。サリラの瞳は微動だにせず、ナチルを真っ直ぐに射抜いた。そして、長い息を吐きながら続ける。
「そう、貴方がそれを言うの……。そんなことよりナチルぅ。ローダンゼの花、思い出した?」
向かいのドアからゴトリと物音が響き、ナチルの肩は反射的に激しく跳ね上がった。
「ああ、そういえば忘れていたわ。せっかくだから、ナチルにも紹介するわね」
サリラはそう言って、ドアの差し込みに鍵を差し、右に一度捻
《ひね》った。ガタンと、もう一度激しい音を引きずり、黒い影のようなものは転がり落ちてきた。
「お初にお目にかけます。馬鹿のトールでえす」
腰をかがめておどけたように、サリラは大げさに右手を広げてみせた。そこには猿轡
《さるぐつわ》がしっかりはめられ、両手、両足を鎖で無様に縛られた男が、額から血を幾筋も流しながら転がっている。男は蒼白な顔を鼻水でぐしょぐしょに濡らし、うめき声だけを必死に発していた。
慌てて猿轡
《さるぐつわ》を外そうとするナチルの前に、サリラは威嚇
《いかく》するように斧
《おの》を突き立てた。
「余計なことはしないでよね。こいつ、正真正銘のばかなのよ。高校
《ハイスクール》の模擬試験でこの前不正行為
《カンニング》をやらかしてね。情けないったら……臆病風に吹かれたらしいわ。目撃者である私に、告発されるのが怖くなって、愚かにも三日前に取引に来たの」
サリラは男に歩みより、氷のように刺すような目で睥睨
《へいげい》した。そして、
「エリート育ちの坊ちゃんが。世間知らずの坊ちゃんが。無神経の自己中男が。どの面
《つら》下げて、私に会いに来れるのかしら」
寸分違わず狙ったように、何度もみぞおち辺りを蹴りつける。男はその度にくぐもった悲鳴をあげ、体を前方に折り曲げてはくねらせた。サリラの頬を、跳ね上がった微かな血が染める。
「薄汚れた血。実に不快だわ」
サリラは形相を変えて、また蹴りつける。彼女は眉をしかめて、手の甲で生温かい血を拭
《ぬぐ》った。そして、とどめにヒールで顔面をふみつけ、
「『親に見離されたらお終いだ。告発だけはやめろ』ですって? この後に及んで、私に命令なんて……ふざけたこと言わないでよ。私なんて、絶望を何度見たと思ってるわけ?」
絶望に手を伸ばしても決して届かず、眼前に広がっていたものはいつだって虚無。
「あげくに、その果てまで知ってしまったわよ。それもこれも、あんた達のおかげでね」
サリラは憑
《つ》かれたように、何回もヒールを打ち下ろした。男の髪を毟
《むし》りあげ、首を腰まで引き上げては唾を吐きかけた。顔はそのままの位置に固定して、スカートの裾をさばきながら深くしゃがみ込む。
「それに。この口はなんて言ったかしら? 『さもなければ、お前が中学の時、父親に犯されていたことを、学校中にばらすぞ』だったかしら? 中学の時ですって? えらそうな口を叩くわりに、調査不足よ」
サリラは切れた端から血が滲
《にじ》み、倍近く腫
《は》れ上がった厚ぼったい男の唇を、容赦
《ようしゃ》なく抓
《つね》り上げた。
「残念ね。つい先日まで、ずっとだったのよ。……さいって〜の、能無し男ね。こんな男を好きだった私も、最低だけど……。でも、どう? 私、少しは利口になったかしら?」
サリラは男の口に両手の指を差し入れ、眉ひとつ動かさず、横へと思い切り引き広げた。
眼球はえぐれ、口の端からは鮮血を滴らせながら、男は嗚咽
《おえつ》にも近い泣き声でわめき散らした。サリラは、興味が冷めたかのように男を放り投げ、ナチルへと向き直った。床にめりこんだ斧
《おの》を、両手で引き抜く。
「私の体にはね、あいつとの間にできた生命が宿っているの。次は、そいつをこの体から引きずり出してと思っていたけれど、……予定を変更する必要があるのかしら?」
「お願いよ……やめて、サリラ」
サリラはナチルの言葉に、哄笑
《こうしょう》を重ねた。そして獣のような獰猛
《どうもう》さを秘め、一歩、また一歩とにじり寄る。
「ローダンゼ、あなたは帰してあげないわ」
サリラはナチルの前に座し、鼻の頭に冷たい指先でねっとりと触れた。この時、触れられた衝撃からか、胃から逆流しそうな吐き気を堪
《こら》えていた限界からか、ナチルは全てを思い出した。昔、学校帰りのスティグルおじさんの畑で、サリラと二人で聞きかじった高説を。
「ローダンゼは永遠の愛、私と貴方だけの永遠の檻
《おり》。ねえ。一緒に、この記念日を祝ってくれる?」
* * *
ピンポーン ピンポーン
一夜の長い沈黙を破って、インタホンが二度鳴った。斧を重そうに右手でひきずりながら、サリラは壁に手をつき絨毯
《じゅうたん》の上を歩いた。鈍い足をもつれさせ、よろけながら。廊下の遥か後ろでは、足の震えが止まらず、床についた手でどうにか体重を支えているナチルがいる――トールは息はしていたが、意識も理性も完全になかった。
サリラは覗き窓から、昨日と同じように二つの目を覗かせる。外では強靭
《きょうじん》な朝陽が積雪に反射して、眩
《まば》ゆさが瞳を突き刺してくる。
「ナチル、あなたのお友達が迎えに来たみたいよ。彼も、かわいそうね」
サリラは振り返り、大声をはりあげた。
「とても、残念だわ」
ナチルは腰に、とても力が入りきらない。
「やめて。何をする気なの?」
と口にしたつもりが、喉からはひゅうひゅうと、間抜けな息がこぼれるだけだった。
サリラは振り乱した髪を両手で梳
《す》き、ふわりと両の肩に広げた。斧
《おの》は背中に隠したまま、重苦しい扉は陽の光を誘い、ぎいと内側に開かれる。
「あの、お早うございます。昨夜は宿までお借りしてしまって、ありがとうございました」
グレンは髪をかきながら少し照れた様子で、玄関口に立っていた。積雪の上には、背の高い彼の影が、薄く伸びている。
サリラの背中で構えられた斧
《おの》が、わずかに横へずれた。
「いいえ。大したお構いもできずに、申し訳ありませんでした。よくお休みになられたかしら?」
「はい、おかげさまで……。あの、ちょっと早かったんですけど。迎えに来ちゃいました。昨日はどうでした?」
(やめて、やめて)
ナチルはがむしゃらに足を動かし、近くにあるバスルームへ這
《は》って戻った。
「ええ、とても楽しかったわ」
「それはよかった。あの、ナチルいますか?」
(やめて……)
ナチルはガラスの扉にしがみつき、どうにか体を垂直に支える。そして、吊るされた影の映るガラスに向かい、夢中で拳
《こぶし》を繰り出した。割れない。右手には、少し遅れて走った激痛と、疼
《うず》く熱だけが残された。
「ええ」
サリラはグレンの問いに軽く頷
《うなず》き、意味深に弾力のある唇の端を吊り上げた。
ナチルは横の洗面台に気付き、ほとんど本能的に、組立式の物干し台を振りかぶった。
ガッシャーン
グレンは咄嗟
《とっさ》に、怯
《おび》えるようにして身を竦
《すく》ませる。
「い……今の音は何ですか? なんか…奥で、ものすごい音がしたんですけど」
そう言って、サリラの体の隙間から屋内を見通そうと、首を伸ばした。
グレンの行動を目の端で捉え、目を大きく見開いたサリラの口元が、愛想よく引かれた。
そして、右手の斧
《おの》に反動をつけて水平に振りかぶる。
「やめてえ!!! サリラあああ!!!」
刃
《やいば》が肉に食い込み、鈍い音をたてる。
「グレンんんんん!!!」
ナチルの悲鳴を一蹴し、サリラはもう一度斧
《おの》を、今度は垂直に振り下ろした。
「あ……ああっ!」
ナチルは頭を抱え、何度も首を左右に振った。信じたくはないと、頭の芯が熱をもって、小刻みな震動を続けている。目の前の現実を、ひたすらに拒否し、拒絶し続け。シグナルのように、頭の中の光景が明滅しては消えていった。
グレンの脳天からは勢いよく血潮が噴出し、周囲の壁を瞬時にして紅く染め上げる。飛散した血は絨毯
《じゅうたん》の上だけではなく、サリラの艶
《つや》やかな髪にも、横殴りに降り散った。グレンの体は糸の切れた人形のように、目をむいて仰向けに倒れた。口からは、ごぷりと血と泡が溢
《あふ》れ、びくりびくりと数回、むなしく痙攣
《けいれん》を繰り返す。
サリラは鼻でせせら笑い、グレンの体を左へと蹴り転がした。
「サリラあああ!!!」
走る。脳が、命じるがままに。理屈などは存在せず。
ナチルは血まみれの両手に鏡の破片を握り絞め、サリラに向かって猛進した。
振り返ったサリラは不敵な笑みで迎え、そして一切の表情を打ち消す。刃
《やいば》に滴る血潮を振り払い、斧
《おの》を両手に構え直し。
「さあ、ナチル。私に還
《かえ》ってくるのよ」
(そして、私達は一緒になるの)
「うわああああ!!!」
(そう。常
《とこ》しえに、ね)
「穢
《けが》れていない雪の影は、青いのよ。灰色じゃないの」
「昼でも夜でも青いの。青い影を落とした雪原が、誰もいない夜に、ほら、そこにあるだけ」
白い粉雪が、ただ風に吹かれながら、息を潜めて厚い闇へと寂々
《じゃくじゃく》と舞った。まるで、時間が凍ったようなその空間に、ゆっくりと音もなく降り続く。
「でもね、雪の表は純粋、裏は死の象徴なのよ。純粋なものは矛盾を含み、不純を抱えなければ生きていけない人間のように。純粋なものには、紙一重で裏があるって……ねえ、そう思わない?」
<了>
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