× × ×
しゃぼんの中は、暗くもなければ明るくもない。上も下も反転したように感じるが、とても穏やかで不思議な空間だった。体の下から湧き出るしゃぼんに、くすぐられたような心地よさであっしは目を覚ました。試しに手を握ってみてもその実感がなく、掌の水ぶくれも糸状の火傷を残しては夢のように消えていた。重かった体が無性に軽く、蝕(むしば)んでいた傷の痛みもない。急いで甚平(じんべい)の上に通していた腰紐を解いてみたが、深く穿たれたはずの腹部の傷痕 (しょうこん)ですら、ほとんど残されていなかった。
『母神様。貴方様はいつの日にか、天への決起を我らが同胞に呼びかけられるでしょう。しかし我は応えずに、時が来たれば天寿を受容しようと思うのです。母神様。我が裏切ったと疑われるでしょうや? いいえ。だからこそここに、貴方様に伝えたくとも伝えられなかった、我の心を置いて逝(ゆ)くのです』
三迭(さんてつ)の声は夢ではない。仰向けに身を返した横では、小さな銀狼へと化身した母神が、見えぬ眼(まなこ)を周囲のしゃぼんに巡らしていた。壁面に映し出された風景は虹色にたわみ、まるで万華のような不規則さで差し替わっていく。その光景は、過去という事実、記憶、やり切れなかった想いの集合体。おそらくは多様な言葉を用いても処理し切れない、複雑な神の記憶の断片だった。母神と三迭が向き合い、対論している光景と想いが溢れて見える。
『母神様。我が気付かぬとお思いですか? そうやって毎夜、群れを離れられては山霊(さんれい)の住まう川で身を禊(みそ)ぎ、あの子の臭いを消して戻られる。腹に一物のある若神(わかがみ)らにではなく、母神と意を共にする翻意なき我らに対してまでも』
母神は、揺るぎのない目を逸(そ)らさず答えない。闇夜に声を押し殺し、三迭の声はどこまでも切なげに響いてくる。
『母神様の痛切のご心中は、おこがましくも多少なりと慮(おもんばか)れるつもりです。その上に立ち、あえてお尋ねいたします。どうしてあの子を、我らの前で殺(あや)められたのですか?』
(殺めたあの子の亡骸(なきがら)を、我らの目を盗んでは夜更けに一人、密やかに埋葬しに行かれた。山老(さんろう)の住まう霊峰(れいほう)まで御足(みあし)を運び、せめて老(ろう)に見守られ安らかに眠ることができるよう、頭(こうべ)を垂れて願われたというのに)
『しれたこと。全ては御山(おやま)の鎮守を守るため。我らが尊厳と誇りを守るためよ。人なぞ不浄の存在が、この三上(みかみ)の霊山(れいざん)に踏み入るだけであれ腹立たしいというものを』
(それは血脈に刷り込まれ、痛いほど分かっているつもりです)
『この国に伝来しまだ日が浅い仏道を、神道と同格に浸透させるためなど。人間どもが傲岸な理屈を吐いて、御山の切所(せっしょ)に寺の礎(いしずえ)を穿った時、我は一度(ひとたび)その蛮行(ばんこう)を見逃した。警告は、再三に渡りしたはずだ。再びは決してないと。それをあの人間ども。山寺の完築に御山の恩恵がもたらされる等という空言(くうげん)を流し、村起こしを掲げ、さらなる人員を御山に送り込みおった。真意はお前も既知の通り、宗派とやらを異にする近隣の海住(かいじゅう)の寺坊主(てらぼうず)に対抗するためという、それは最も人間らしく、浅慮で下卑(げび) た陳腐さで御山を踏み荒したのだぞ。扇動した奴らの頭の中に、単にあの子がおっただけ。ならば、我の為すべきことはひとつであろう』
くるりと踵(きびす)を返す母神の背に三迭は項垂(うなだ)れた。それも貴方様の大義であると、一族の理屈では納得したつもりです。が、あえて我は問いたいのです。我らに対する威厳ではなく、貴方様としてはそのように心を押し込められ、本当によかったのですか、と。
別の光景の中で、母神の心は泣いていた。
幼い小坊主の形(なり)をした少年の顔が、たくましく精悍(せいかん)な青年の顔になる。気が付けばあっしもその渦中(かちゅう)に佇み、為すすべもなく拳を握り締めていた。青年は、御山で蜂起(ほうき)した人の群れにいた。群れの先頭に立ちはだかり両手を広げ、母神とその眷属(けんぞく)に対峙していた。両群の重い空気が拮抗(きっこう)し、一触即発の緊張感が漂う。母神が慟哭(どうこく)し張り裂ける心に耐えていることに、白狼の使役の他、血脈の誰一人として気付いてはいない。耳を伏せ俯(うつむ)く白狼は、三迭の残像。
ふと足元を見下ろせば、あっしの側で三迭が細く鼻を鳴らしていた。
「貴方様の意を聞きながら、御山に杭(くい)を穿ったことをお詫(わ)びします。お気をお鎮めになられぬこの上は、どうか私(わたくし)め一人の血を以(も)って贖(あがな)い、この場をお収めくださいますよう。ここに並ぶ村人たちは、我ら神童(しんどう)の寺(てら)の説法を、善行として従ったまでなのです」
青年の釈明に母神は『よう言うた』と吼え、立てた七尾を荒々しく地に打ち付ける。
――天よ、ご覧になるがいい。誇りこそ、我が命なり。これが拝命を受けた職責であり、天命(てんめい)を受諾すべきは、我らが血族の誇りです。
唸らせた大気を弾かせて穿たれた牙は、青年の喉笛(のどぶえ)を瞬く間にして掻(か)き切った。喉元から吹き出した鮮血は、口元に吊り下げられた体の指先から、大地に赤黒い染みをつくっていく。吹き抜ける風に攫(さら)われて、一筋の血臭(けっしゅう)が辺りを侵食していく。生温かい心地悪さに、あっしの喉はごくりと鳴った。天から課せられた役命(やくめい)に対する、母神の高潔な決意と誓意の頑なさが、心の臓まで突き立つかのように深く伝わってくる。
びくんびくんと、青年は母神の口の中で痙攣(けいれん)し、やがて手足も動かなくなった。悲鳴をあげて三々五々に散る村人を、若神の一派が血祭りにあげようとしたが、屍(しかばね)を大地に打ち捨てた母神が余計な殺生を止めた。神が人に示すは鎮守の誇りであり、殺戮(さつりく)はその一貫としてなすもの。決して、虐殺ではあらぬと。母神は言った。「一人の血により罪は贖(あがな)われたのであれば、この場はよい」、と。後は三上の御山から人の臭いを拭(ぬぐ)い去り、下界へ叩き出すことのみに傾倒すべきであると。
(天はなぜ、このような理不尽を司られるのでしょうや?)
山寺を踏み潰しに、一族の群れは次々に向かう。その後ろで、瞳を伏せた母神の横顔を三迭は見ていた。張りつめていた肩からは力が抜け、刻まれた陰の濃さにどっぷりとした歳を感じる。
(あんまりです、天よ。これが貴方様の求める、神の誇りなのですか? 御山の秩(ちつ)を保つためとはいえ、母神の心をどう汲(く)み取られるおつもりなのか。使命を遂行するためといえど、先陣を切って殺められた母神の御心(みこころ)は。御山に最少の血が流れました。それでも母神にとっては、限りなく透純な生命(いのち)です。これでも、秩と言われましょうや? なぜ、天道(てんどう)を示してくださらぬのですか)
青年は母神の口の中で絶命する瞬間まで、決して苦悶に表情を歪ませなかった。唇から血が滴っても、ずっと微かに笑んだまま。母神の心を知っていたからなのだろうか。
母神が、地に伏した青年の亡骸(なきがら)に鼻をつけて仰向けに転がす。ひん剥(む)かれ血走った瞳とは裏腹に、青年の口元は静かに笑みを湛(たた)えたまま硬直していた。喧騒(けんそう)が収まると鈴虫の羽音が、憂愁を呼ぶ鈴の音を再び鳴らし始める。足元の湿った草地から、季節外れの迷い蛍が一匹、姿なき群を追いかけるよう、たよりなく飛び立っていった。
しゃぼんの光景に母神は盲(めし)いた双眸(そうぼう)を逸(そ)らさず、何か気配を感じるのか、時おり耳を丸めるように欹(そばだ)てていた。差し替わり続けた風景は流転を速め、遠ざかるように渦を巻き始めている。空耳だろうか。心残りを帯びた三迭の声がする。
(わかった……わかったから心配しないでほしい、三迭。母神には俺が、責任を持って必ず)
やがて粒子となった光景の残痕が、中ほどに集められては吸い込まれ、内壁から引き消えようとしている。その中であっしは、耳朶(じだ)に啄(つい)ばむように囁く三迭)の優しい声を聞いたような気がした。
(これでお前も、ゆっくりと休む覚悟を決めてほしい。お休み、どうか安らかに……三迭)
いつの間にか掌の上には、母神に咥(くわ)えさせた蓮の根茎の残滓(ざんし)が転がっていた。あっしは粉末に軽く祈るように口付け、空に散らしながら「ありがとう」と呟いた。
× × ×
しゃぼんがぱちんと弾け、あっしと母神が河面へと放り出されたことは確かだ。河面で揺れていた紫の発光は止み、周囲に浮遊していたはずの使役のしゃぼんも消えていた。速度をつけて、頭から落下したとは思った。渡しの舟から見上げていた姐さんや頭(かしら)たちと、水面へと落ちる間、こま送りのように視線が合わさっていたのだから。いち早く察知して上空を指した姐さんが、直前まで何かを叫び指示を送っていたような気はする。気はするのだ。
ならば、この無風の暗闇はどこなのだろうか。
着水の冷たさも、水面に叩きつけられた激痛もなかった。見えていたはずの、姐さんたちはいない。人らしき影もなく、無音の闇は少なくとも御河(おかわ) の上とは思えないのだ。見渡した周囲の状況に落胆し、肺を空にするまで大きく溜息をこぼした。沈静ぶりからみて、完全に外界とは遮蔽(しゃへい)されてしまっているように思う。ここまで来ては深く考え込む気分も失せ、投げやりな心持ちにもなるが。それ以前に、こうも矢継ぎ早に起こっては体がどうもついて来ない。空回りする頭をくしゃくしゃと掻き回し、心機一転、両の手で勢いよく頬を叩いてみた。
目が利かないとなると、初めだけは五感が鍛(きた)えられて鋭敏になるらしい。実際に見えてはいないのだが、ほどなくして間近にいる母神の存在を克明に感じ始めた。人間の視力など通用しそうもない闇に向かい、母神様と声をかけてはみるが、案の定返答はない。
肩をすくめ周囲をまさぐりつつ、遥か昔に味わった遠い感覚を思い出していた。自分の存在が闇に溶け、指の先から空気に混ざり流れ出す。あっしは万象を否認するような、この濃密な闇の色を知っていた。一歩を繰り出そうとする足が、絡みつくようにやたらと重い。どうやら胴回りまでが、生温かい水にしっかりと水没しているらしいのだ。流水もなく、水嵩(みずかさ)も余裕で背がつくほんの浅瀬程度なのだろうが、これでは動きがとりづらい。
あっしは水面に掌を翳(かざ)し、浮力を増幅させる術を施した。二人分の体重を思い相当の通力の発動を覚悟したのだが、消耗は大したことなく、母神の意外な軽さに半ば拍子抜けした。かすめた母神の御手(みて)に自分の目を疑う。母神の手は五本指で、白く滑らかな女性の薫りを漂わせていたのだ。
闇をまさぐる掌に、そびえる壁らしき物体を感じた。壁面は分厚くて熱を帯び、こんこんと叩いてみると、不気味な鼓動を立てて脈打っていた。耳を澄まし押し当ててみると、一定の拍動を刻んでいる。何かの内腑(はらわた)の中とでもいうのか、蠢く肉壁という言葉が、ぴたりと頭をよぎったりもする。一度は破棄した掟だ。異能(いのう)の劫火(ごうか)を使い一息に空間の蒸散を図ることも考えるが、天の見過ごしが再びはないという予測よりも、己のために行使する事実が自分で許せない。他の脱出を考慮してみるが、あっしの推察が正しければ、内側から自力でこの空間を破壊することはおそらく不可能なのだ。
観念し水面へ腰を落ち着けたあっしに、沈鬱な口火を切ったのは母神だった。
「そなたは、我のことを真に知っておったのだな。そうか、あの三迭がそなたに」
「あくまで貴方様がたの厭(いと)われる、人としてですがね。それでもなお、三迭はあっしを友と呼び話してくれやした。あっしの矮小(わいしょう)な頭で、神が理解できるなぞ思っておりやせんが」
「ならば、御山の血脈の分断も知っておろうな。兼ねてから神の責務に反目を窺っていた若神は、我が世を去りしことを喜び勇み、人間どもを改めて三上の御山に招き入れよった。御山が人と共存すれば神が重責の苦に喘(あえ)がずとも、総体としての山は残ると大言壮語を吐きおって。開墾のためと、御山の木々を木霊(こだま)ごと伐採した結果はどうだ。山老(さんろう)を亡くした三上の御山は山頂をすり減らし、誉れ高い霊山は荒廃し、その雄姿はもうあるまい」
母神は続ける。
「我に呼ばれる神の名はない。既に真名(まな)は洗い落とした。なのによもや人の子に、秘めたはずの母名(おもな)を呼ばれる日が来ようとはな。そうか。あんなに人を嫌(きろ)うておった、あの三迭が」
「三迭はあっしに片側の瞳を託し、言ってくれやした。己にとって唯一の人であり、初めての友であったと。あっしにとっても本当の友であったのは、後にも先にも三迭のみであったと思ってやす。貴方様にとって、唯一の人があの光景の青年だったように。違いやすか?」
母神は逡巡(しゅんじゅん)していたがぽつりと答えた。項垂(うなだ)れそうであったのかもしれぬな、と。
「親御(おやご)に山門に捨てられた、一途で哀れな子であった。一人が淋しいと言うておった。我と幼子のあの子が初めて会(お)うたのは三上の御山で、山霊(さんれい)の住まう御川だった。人間どもは神は争わぬと説法を立てておるが、神も己の尊厳をかけ闘うは常(つね)ぞ」
天寿の近づいた母神が正統な天詔(てんちょく)を受けて催された、二位(ふたい)の神の先任から後任へと代替わりを行う就任儀の折、それは勃発したという。鎮守を執(と)っていた先任の神が突如として反旗を翻したため、狭世(はざよ)へ葬るべく自身の尊厳をかけ果敢に闘ったのだと言う。死するが宿命とはいえ、いざ迫れば日輪(にちりん)での焼身浄化を恐れたのかもしれぬ、とこぼした。血族の眼前で、上位の神々が代替わりの統治をかけ闘うなどは示しのつかぬこと。隠密に勝敗をつけたが、手負いの姿で血族の前に立つことは自身が許さない。御川(おかわ)に身を潜め傷の平癒を待つ間、麓の寺から山菜を採りに来て迷った小坊主の幼子(おさなご)と出会った。
「我の声が聞こえておったのかどうなものか、今となっては分からぬ。我は人は好かぬが、我の本性を目にしても動じぬ、不可思議な子であった。早う追い払いとうて威嚇はしてみたが、毎日飽きもせず、我の傷の手当と団栗(どんぐり)や茸(きのこ)を届けに来おった。我は食わぬというのに、それでも欠かさずに。もとより寺も、食い扶持(ぶち)の間引きをしたかったようでな。迷うて幾日にもなると言うておったのに、迎えはついぞ来なかった。のたれ死なれても寝覚めが悪かろう。毎夜我の七尾を枕にくるまっては、幼子(おさなご)には退屈であろう我の話にじっと耳を傾けておったよ。それを我は殺 (あや)めた。三迭は嘆いておった。だからこそ我と同じ天道(てんどう)を求めておったというに、我から離反せしか。せめて天だけでも我らの前にと狭世に混沌をもたらしたが、天は現れぬ。我こそが、同床異夢(どうしょういむ)を招きし罪かもしれぬな」
「それは違いやす母神様。貴方様が罪とおっしゃるならば、この場におわす天のなさりようは如何様か。いつまでそうしていなさるおつもりか、天よ。盗み聞きは俗世の遊戯。万象を生み出せし者の、なさりようではありやせん。それとも、秩を破る無法者どもとは話す度量も、持ち合わせぬ狭量っぷりですかい?」
肉圧の壁が脈打ち、闇がもそりと動いた。あっしの挑発に乗ったとも思えない。この程度に乗るくらいなら、とうの昔の小細工で顕現しているはずだ。しかし座っていた水面が胎動し、下から巨大な槌(つち)の手が突き出して、あっしと母神をわし掴んだ。槌の手は内壁を突き破りあっしと母神を乗せ、握った拳は天高くで開かれた。
「しょせんは、神の手の上の絵空事。これはこれは、実に小洒落(こじゃれ)たなさりようじゃありやせんか」
無臭の水は天の羊水。
おそらくあの空洞は、天の胎内とでも象形したかったのであろう。土塊(つちくれ)でできた手が、指先からがらがらと脆(もろ)く頭の上に崩落する。頭上に出現したものは、狭世に来て最初に見た天の面(おもて)。眼窩(がんか)の空洞では英知が走り、空一面を覆い隠したのは白い髭(ひげ)を生やした翁(おきな)の面だ。
――――掟ニ連ナラヌ、無法者ヨ。烙印ヲ受ケシ愚者(ぐしゃ)ヨ。イマ一度問フ。答エヨ。汝ハ誰(た)ソ。
翁(おきな)の面はあの時と同じく、カカカとあっしに何者かを問う。あっしは昔、人である以外に何も思いつきはしなかった。だけど、今は――。
「人であって、人にあらず。咎人(とがびと)を刻まれ、咎人(とがびと)にあらず。ここにいるは、万物の真(しん)の音(ね)を聴く聴律者(ちょうりつしゃ)なり」
あっしは胸を張り、持てる限りの威厳を朗々と天に示した。そして託された三迭の想いを今こそ伝える時と、母神の白い御手を取った。
「三迭が貴方様を見限ったなど、そんな悲話をどうか作り上げないでくださいやし。三迭は、天を否定したわけでもありやせん。天道 (てんどう)を同胞と等しく求めながらも、天は干渉をせず不可視だからこそよい。単純で一本気な事実に、気付いてしまっただけのこと。天道(てんどう)を示されぬと動けぬ身であれば、それは天への依存。依存なくして自尊を堅持できない御身(おんみ)に堕ちるのであれば、親に手を引かれて歩く真新しい赤子と同じ。それでは今までどんなにお辛くとも、積み重ねられた誇りが虚勢であったと、自身でお認めになるようなものでやす。誇りは他者から授与されるものではなく、天道(てんどう)は常に自身の中にあり。一条の道を切り開くは、自身の力でなくてはならぬと。だからこそ三迭は敢えて天寿をまっとうし、貴方様の呼び声に応えやせんでした。明快であるが故に苦行である事実に、自らの力で同胞にも気付いて欲しかったんでやす。だからこそ母神様たちが、この坎(かん)の狭世で決起なさる時を水底で待ち続けやした。そして見事な蓮に転生しそんな願いをしゃぼんに乗せ、秘めたる想いを皆様方の上へと等しく降らせたんでやす」
母神は、あっしの言葉に動かなかった。動かないとうより、むしろ硬直して動けないといった方が正しいのかもしれない。
「誇りという枷(かせ)に縛られ、固執していたのはむしろ我であったと? 誇りとは自身の内の裁量にあり。そんな根源を忘れてしまっていたなど」
母神は雷に打たれたように震え、傾いだ体をあっしに預け、全身から力が抜けたように座り込まれた。
(三迭、三迭!)
母神の心の軋(きし)みが聞こえてくる。天を埋め尽くす、翁(おきな)の面は語らない。威圧を与えながら、滑稽(こっけい)そうにじいと鑑賞しているようにも見える。あっしは腕を引き寄せて、表情を落とした母神に続けた。
「母神様は天の秩を乱す決起の地を、敢えて人が彼岸へと渡る坎の狭世に、白羽の矢を立てやした」
母神は神の整然とした狭世と違い、混沌とした人の世界は籠絡(ろうらく)しやすいと語った。
「なるほど申されたように、人の世は突き崩す隙が多い。けど、本当にそれだけですかい?それではお尋ねしやす。人を厭(いと)いながらも、貴方様はなぜ銀狼ではなく、今もなお人の姿をとられていらしゃるのですか?」
母神はびくりと体を跳ねさせ、改めて自らの姿を手で触り確認する。「我は」と何度も呟き、自身の頬を幾度もなぞってみせる。それは、幼子(おさなご)を御山から寺に送り届けた後も、目立たぬように化身しては、幾度となく元気な小坊主姿を陰から見守った姿。市女笠(いちめがさ)に枲(むし)の垂衣(たれぎぬ)で面(おもて)を隠して、天の見取り図に通った人間の女の旅装束。
「貴方様は、人の狭世でなければならなかったのでやす? あの子にもう一度会うには、人の御河を渡らねばならなかった」
「……違う」
虫の音のような小さき声で、無表情にぽつりとこぼされる。来る。あっしは母神の最奥から、競りあがって来る気配を感じた。母神の胸元が熱く灯る。
「いいえ、本音は違いやせん。それならば何故、貴方様は見えぬ御河を毎日、人の身姿(みすがた)で眺めていたのでしょうや?」
「それは、我が血族が空を割る気配を探るために……いや、違う。違わない、違う」
母神は片方の手でこめかみを押さえ、既に混乱をきたし始めていた。あっしは、睥睨(へいげい)する翁(おきな)の面をちらりと見やる。
「会いたいのでやしょう。会って、あの子に詫(わ)びたいのでやしょう?」
しゃがみ込んだまま倒れてしまいそうな母神を、両腕でしかと支え、あっしは虚空に向けて指を二本掲げた。吹けば飛ぶ眼前で、再び秩が破られようとしているのに、天は怒りの鉄槌(てっつい)を下す気配もなければ割り入る気配もない。ただ余興でも見るかのように見物を決め込み、さも愉快げに翁の面がにたりと笑った。
(この天下無敵の掟破りをも、掌の上の寸劇とおっしゃりやすか?)
母神の胸がついに、淡い光で輝き出した。即座に掲げた二本の指で、空に文字を切る。
「違う、違う、違う! 今更我に、詫(わ)びれる口があると思うてか? ただ……会いたい。会いたくない。いや、会いたい。今はそれしかない」
「我、これを以(も)って彼岸渡しの一助(いちじょ)と為す。風(ふう)、それは万物の芯たる心(しん)。鈴(りん)、すなわち心(しん)が奏(そう)じ律(りっ)せし音(ね)。風(ふう)の鈴(りん)、すなわち聴律(ちょうりつ)の頂(いただき)」
あっしは番中法度破りを詠唱(えいしょう)しながら、熱く開かれる母神の胸に腕を突き入れた。自身の胸に穿たれた咎人(とがびと)の烙印が深まり、赤黒い傷痕(しょうこん)がさらに焼け付く。
「もう一度、あの子の顔を見ることができる、ただそれだけで……」
(母神様。これからは、どうか笑ってやってくださいまし。貴方様が微笑まれれば先に逝(い)った三迭も、殺めたあの子も同じように笑います。きっと)
「これは稀(まれ)にみる見事な鈴(すず)。確かにいただきやした。さぞや可愛い音で、啼(な)きやしょう」
母神の体から差し入れた腕を抜き、握った掌を開けばそこに風鈴が現れる。握られた風鈴は限りなく透明で、母神の流した玉の涙が、そのままの数だけ形になったようだ。風もないのにリンとひとつ、暗闇に涼やかな音を奏でた。