「坎(かん)の世有史以来の大禍津(おおまがつ)? まったく、冗談じゃないわよ」
不浄へと変貌を遂げる神々に立ちはだかった姐さんの袂(たもと)が、正面から吹きつける旋風に翻った。直面した事の深刻さは、坎の世開闢(かいびゃく)以来という表現が過言でないほどだ。渡したちはようやく、この前人未踏の事態を理解したようだが、相も変わらず不測の事態にはてんで弱い。そのうえ凍りついた鈍い頭では、知恵のひとつも絞り出せず右往左往している。態度だけは大きいが、やらかすことはそこらの道具に蹴つまづき、派手にひっくり返す程度だ。
「ほんっとうに、煮ても焼いても使えないんだから。どう、坊や。いけそう?」
前だけを見据える姐さんの背中は揺れない。口調に余裕を乗せてはいるが声色は正直で、震えを帯び緊迫した空気が走っていた。
神を束縛するために噛み鳴らしていた歯を止め、両手を組み替える直呪法に切り替えた。破魔の力をもつ陽炎(かげろう)の祓火(はらえび)も、例え相手が堕ちた腐魂(くされだま)であれ根幹は清純な神。功を奏じるとはとても望めない。声に応えて風が凪(な)ぐ。が、すぐさまに気流がうねり姐さんの体を包囲した。目の前で捩(ね)じ上げられ宙吊りになった姐さんの体から、骨の軋(きし)む音がする。構えをとる細腕は激しく震え、紫の口元からは血が滴り、顔色もみるみるうちに土気色になっていった。
姐さんが受けている過度な重圧が窺えるが、番人で巫覡気(みこけ)があるのは姐さんとあっしの二人のみ。お互いに係る負荷は覚悟で、状況に応じ役割を柔軟に分担するしかないのだ。あっしは瞑目(めいもく)して体(てい)を落とし、地に手を押し当て耳を研ぎ澄ました。掌に伝わる大地の脈動を調べるが、深層に浸み込んでしまった呪(じゅ)の言霊(ことだま)により、地脈は深く眠っている。
『クルシイ、クルシイ。我ハワタル。河ニ立ツアノ匂ヒノモトヘイケバ、我モキット』
母神は苦悶(くもん)の唸りをあげ、頭を左右に振り乱した。その先からは、瘴気(しょうき)を立ち昇らせる黒汁(こくじゅう)が、どろりと飛び散っては地面を焦がす。凛々(りり)しかった母神の声はしゃがれ、躯(からだ)は半分以上が溶け崩れているというのに。見えぬはずの河を見据え、風に乗り漂う芳香をしきりに求めている。禍(まが)つ神(かみ)といえど、放たれる神圧(しんあつ)は周囲を圧する。大地を抉(えぐ)り、亀裂から岩を宙に持ち上げるくらいはたやすい。また禍(まが)つ神(かみ)だからこそ、荒御霊(あらみたま)による邪悪さが増し、振り撒(ま)かれた邪気に耐えられず霊障(れいしょう) を受ける者もいる。
「渡しの旦那。旦那たちはわしらと違(ちご)うて、主命を直(じか)に天から受諾してなさる身。今こそ天に、お縋(すが)りする時じゃないんですかい?」
元さんの訴えも、宿主の公知の範囲では道理なのだが、掟は渡しにその権限を与えていない。渡しはあくまで、天の命を受け狭世(はざよ)の秩を保つ監視者。魂を彼岸に渡すことを除いては、世界を補正する能力もなく、創造主たる天の降臨を乞うことすら越権に当たる。神ですら、天への謁見(えっけん)は叶わないのだから、いかなる存在をもってしても天の拝謁(はいえつ)、ましてや呼出するなど言語道断なのであろう。
「頭(かしら)。そこの水がめをお願いしやす」
手近で使えそうな渡しは、どうにか理性を保っている頭(かしら)のみだった。姐さんは屈強の巫覡気を誇る番人だが、比類なき力を前にすればしょせんは一介の人間。正攻法をとったところで力差(ちからさ)は歴然であり、焼け石に水なのは目に見えている。
しかし、大地が深淵の眠りに就いている今、地脈から神気(しんき)を拝借して巫覡気を増幅することは望めそうもない。手渡された水がめには、真呪(しんじゅ)により清め、汲み置きをした河の水が満たされていた。その水に指を浸して呪を加え、あっしはすぐさま静止させた水を、宙で縛られた姐さんへと放った。
「御河(おかわ)に眠りし神の気よ。我の意に応えよ、我の声を聞き届けよ、九十九(つくも)の神、八百万(やおよろず)の神々。清めの水を以(も)て、我の声を聞きて鎮まれたもう」
柄杓(ひしゃく)の水を口に含んだ後、絶息に耐えた姐さんの声が厳かに響く。横に切る掌の水は空(くう)を清め、神の御息(みいき)となり禍つ神の中にある荒御霊を抑える。応急にすぎないが、神脈(しんみゃく)に頼ることのできない今、できる呪法はこれしか残されていなかった。
水は神体に届く前で邪気に競り負け、じゅうと蒸散してしまう。頭(かしら)は別の水がめを引きずり、諦めず再び試行するよう命じる。しかし使用した水の、水質や量が問題なのではない。露見しているのは水の効力ではなく、神と人との隔絶された絶対的な力差(ちからさ)なのだ。
「おうおう、なんだか御河の水がおかしかねえかい」
そう言った元さんが震える指を示した方角は、あっしの祠(ほこら)がある東院(とういん)の辺りだった。目を凝らしてみると微かにだが、水平線が鈍く紫暗(しあん)の線を闇に引いている。流れるほおずき提灯をぬって紫の光は波形を描き、徐々に河岸へと伸びてきているようだった。
宿場の退避を片付けて駆けつけてきた番人たちも、なおも変貌を続ける禍つ神の数に、瞠目(どうもく)したまま二の句が告げない。風圧の輪から逃れ着地した姐さんは、息をつく暇もなく、裂傷を受けた細腕で神圧(しんあつ)に耐えている。姐さんの足が重圧で大地にめり込み、これ以上はもちそうもなかった。
東院の番人たちもざわめくが、柔らかくたゆといながら、水を覆いゆく光源の見当がつかないでいる。明らかに管轄区から発祥している異変なのだが、得体の知れない光もこの状況では恐怖の対象にしかならない。「尻拭いもできない能無しが」と、渡しからの罵倒が飛ぶが、全てが空間を狂わせた禍つ神の障(さわ)りなのではと、顔を見合わせるばかりだ。
「おしまいだ。禍つ神が御河を渡れば、瘴気(しょうき)で穢(けが)れたこの世界は崩れる。天はどうして、我らの前に救いの手を示してくださらんのだ」
「頭(かしら)、まだわかりゃしやせんのですかい? 待てども天動なぞありゃしやせん。それに、何人(なんびと)であれ風鈴は秩(ちつ)。吊るさずして越えることは、天が決して認めはしやせんでしょう」
天に救いはない。彼岸渡りの秩が歪みでもしない限り、天自らがこの場を収拾し、明快な形式をもって掌握されることはないだろう。
『匂ウ、匂ウ。懐カシキ馨(かお)リガ、我ヲヨブ』
母神がぼたぼたと体躯(からだ)を崩しながら、河に頭(こうべ)を巡らせて吼(ほ)えた。
紫の光に乗った甘い香りが水面から漂う。禍つ神の瘴気に消されず、芳純で馨り高い芳香が確かに。あっしの鼻をくすぐり、その濃厚な馨りが届いた。これは――覚えのあるこの馨りは。母神が禍つ神の苦悶の中で、ただひとつ惹(ひ)かれた馨り――懐かしいと。
どうして今まで思い当たらず、暢気(のんき)に首を捻っていられたのだろうか。あっしは前髪をかき上げ、喉からせり出そうとする失笑を感じた。これはおそらくこの狭世で、あっしが一番よく見知った馨り。馨りが水面に満ちるその瞬間を、今かと一人、身を乗り出すようにして祠(ほこら)で待ち望んでいた馨りだ。
(そうか。お前はこの年を選んで咲き、俺に告げようというのか)
この年に蕾すらつけなかった睡蓮(すいれん)が、それは見事な花をつけた。
乾いた笑いが、口をついて止まらない。理由は自分でも分からないが、胸だけが締め付けられるように苦しい。頭がおかしくなってしまったと思われようが、笑い続けるあっしの頬に一筋の涙が伝い落ちた。あっしが母神を見据えた時、どうにか接続させていた姐さんの結界の、最後の結び目がぱしりと綻んだ。
(来る瀬も続いた母神の嘆き。お前には母神の大願が、満願成就となる時節が分かっていたんだな。そして今、俺にその一助となることを願うのか?)
黒い瘴気がのたうっていた一線を越え、宿場の方へと向かうのが見える。頭を抱えて笑い狂う者、そのまま地面に昏倒する者。毒の瘴気が障りを散らし、厄害をもたらして通り抜けていく。あっしは本音をこぼせば、狭世の平定などにさして興味すらないのだと思う。宿主が彼岸に渡れなかろうが、しょせんは他人事だ。その証拠に荒廃が進む土壇場の地を踏みしめても、大した感傷すら湧きはしない。
禍つ神を放置すれば荒御霊は大地を狂わせ、坎の狭世の宿場はほどなくして壊滅するだろう。滅びた地は残された人の手により、いつの日にか復興を遂げる。しかし暴走した母神は、仮に天が滅したとしても、倒滅(とうめつ)の不浄という汚名をもって、末代まで謗(そし)られることになる。
荒れ狂う御霊(みたま)に支配されようと渡河を望み、本能の赴(おもむ)くままに突進を続ける、母神たちの成れの果てに拳を握り締めてあっしは思う。名誉の復興もなく、天に終生を尽くしたその御身(おんみ)が。一族の誇りをかけて天との対話を望む、たったひとつの願いのために。
誰もが届かない天を見上げ、いま為そうとすることを三迭(さんてつ)に問う。
(俺はかつてお前に、努力ほどの無駄はないと言った。だけど俺は今ここで、伸るか反るかと問われれば、伸ることを選ぶ。――間違ってはいないよな)
「天よ。睥睨(へいげい)し、万物を見下(みくだ)される天よ。ご照覧されておりますや。これからの一切合切(いっさいがっさい)は我の一存。東院にも西院(さいいん)にも関わりなきこと」
あっしは右手を天高く掲げ、一言(いちげん)の呪を迅速に唱和(しょうわ)した。手の中には浅黄色(あさぎいろ)の紐(ひも)で固く縛られた、分厚い巻物が出現する。複写されているのは番中法度(ばんちゅうはっと)だけでなく、番人と渡しの役割や世界の相関等が凝縮された、いわばこの手中こそが、天の示した狭世の掟だ。姐さんが瞠目(どうもく)し、周囲が息を詰めて固唾(かたず)を飲む気配を察知することができる。
手に飛びつこうとする姐さんの影を、目の端に捉えた気がした。
「まさか。馬鹿なことは、およしなさい、坊や!」
姐さんがあっしを取り押さえた時、粉砕され粒子となった巻物は、風に攫(さら)われ空へと還る途中だった。跡形もなく破棄された掟の書に、声を上げる者すらいない。完全な静寂の中で見取り図に歩み寄り、あっしは川沿いに張り巡らされた糸に手をかけた。風鈴を吊るす時とは異なり、糸に触れただけで、全身を雷(いかづち)が貫くような痛みがびりりと走る。悪銭でこじ通ろうとした者に対し、戯れに糸を解いた時ですら、黙殺を決め込んでいた天が。これが天への反意を示した、法度破りへの刑罰とでもいうのだろうか。
あっしは歯を食いしばり、糸を一息にわし掴(づか)み横へと引いた。先刻とは、比べものにならない激痛が襲う。
「天よ、これしきのことで……なめてもらっちゃあ困りやす。母神たちよ、お気を鎮めくだせえ。いま、御河への扉を開けやすから」
高熱を帯びた糸が掌の皮膚を裂き、焦がした煙がぷすりと上がった。引き裂こうにも頑として切れない糸で、握った掌はみるみるうちに赤く腫(は)れ上がり、水疱(すいほう)が浮かび上がる。傷口から滴る血をじゅわっと蒸発させ、激痛に糸を握り続けることもままならない。掌には幾重にもなる細い火傷の痕が、烙印(らくいん)のように刻まれていった。想像を絶する痛みに、悲鳴すらあげることができない。息も継ぐことができず、視界が霞む。公然と法度を破ってまで、何ひとつ為せぬ腰抜けで終わるのだろうか。否。それは、我が意にあらず。
あっしには、人から忌避(きひ)された異能(いのう)がある。巫覡気ではなく、神道の呪系からも悪の化身かと忌み嫌われた異能が。
心を無にすれば、呪言(じゅごん)は不要だった。強く強く求めれば、万物に嫌われし我の腕(かいな)は煉獄(れんごく)の業火(ごうか)をも生み出す。心から一切を排除し、ただひたすらにそれだけを念じれば。
我が両の手は倒滅(とうめつ)を在(ざい)せし腕(かいな)なり。
掌で蒼い炎が渦巻き、糸との隙間に乱気流を引き起こす。沈黙に包まれる中で蒼い炎は一段と猛(たけ)り、掌から伝わる灼熱に糸は縮(ちぢ)れて気化していった。
見取り図の一部が切れ、開かれた風穴(ふうけつ)の先に広がるものは、番人や渡しの目だけでなく、誰の目にも明らかな初めての御河だった。血にまみれた手は麻痺(まひ)し、痛みを通り越している。代わりに胸板に焼けるような痛みが走り、中央に漆黒の紋様(もんよう)が浮かび上がった時、
『汝、秩ヲ乱セシ者ナリ。其ハ咎人(とがびと)ノ烙印ナリ。我ハ汝ニヲイテ、魂ノ消滅ヲ許サズ』
頭の中に呼びかける、厳粛なる声が響いたような気がした。
姐さん達に見取り図の再生が始まるまでを任せ、あっしと渡しの頭(かしら)は御河に飛び出した。
「ご心配には及びやせん。旦那は無法の彼岸渡しするでもなし、御河をこじ開ける一助(いちじょ)となったわけでもありやしやせん。ただ人を、舟で運ぶだけでやす」
と、あっしは頭(かしら)を引き連れ、ほおずき提灯を足場に頭(かしら)の持ち舟へと急ぐ。掟破りの片棒担ぎはご免だと承服しかねるようだったが、あっしには母神より先手を打つため、どうしても俊足の足が必要だった。何をもって正当化しようとも、無法者を渡すなどは詭弁(きべん)だと頭(かしら)は嘆く。が、不承々々(ふしょうぶしょう)に承諾したのは、今にも河に押し出そうとしていた禍つ神の大群で、秩を乱される危機に青ざめてだろう。
「良策はあるんだろうな」
舟に移り、頭(かしら)はもう何度目かの確認をしていた。
人の声は神には届かない。神が人を許し、甘受する意識がないのであれば、いかに諫言(かんげん)しようとも尚更(なおさら)のこと。ことさら堕ちた神は、人の言(げん)などに耳を傾けやしない。神の耳に届く声は、神に連なる眷属(けんぞく)のみ。策はあった。そのためには何としても、母神たちよりも早く東院へ着かなければならない。東院の祠(ほこら)近くに咲く、三迭の睡蓮が呼んでいる。
状況を把握しようと改めて見回した御河は、まるで茫漠(ぼうばく)たる海原。天の見取り図を体の良い隠(かく)れ蓑(みの)にして、見慣れた水原(みなはら)はこんなにも空虚だったと、今更ながらに思い知らされる。惰性で過ごした日々はぬるま湯のようで、省みれば、天から押し付けられたこの茫洋(ぼうよう)たる水原(みなはら)以外に、あっしたちの手で何かを構築したこともない。侵入や侵攻といった危害は、天の制定した掟によって皆無ではあったが、現世(うつしよ)ではとても考えられなかった、呆れるほどの無用心さだ。天然の要害としての砦すら、影も形もない。
提灯の列が途切れようと、水面に光る紫の筋を辿れば舟首(せんしゅ)を向ける方角に間違いはない。河一面に立ち込める濃霧に潜り、舟は頭(かしら)が出せる最速をもって突き抜けていた。咆哮をあげたどす黒い禍つ神の大群は混ざり合い、母神を筆頭に、怒涛の神速(しんそく)で後方から間を詰めてくる。それでもまだ距離があるということは、いくぶん姐さん達が河岸で足止めをしてくれていたのだろう。しかし、相手の巨体の一駆(ひとか)けは空を跨(また)ぐほどの勢いだ。吹き寄せる遠方からの風圧に見舞われ、舟は横殴りの風に激しく揺れる。縁(へり)を掴(つか)んでも片膝をつき顔を上げるのがやっとで、狭世一の練度を自負する頭(かしら)ですら、櫂(かい)が繰れる足場を確保するのがようやくだ。
「舟ではここが限界だ。この豪風を受けては、東院の洞窟まで舟体がもつまい」
暴風を念頭につくられた舟体でもなく、人を渡す以外の構造は至って簡素だ。
「わかっていやす」
水面からは透視のかなわない水深に、逡巡(しゅんじゅん)している猶予はない。静かな河面は痛いくらいにさざ波立ち、泡立つ水はやがて、岩打つ波濤(はとう)にも近く荒れ出している。振り返れば母神たちは、まだ後方とはいえど確認できる位置にまで迫っていた。
「ありがとうございやした。旦那も舟上にいては、穢れを全身に浴びてしやいやす。あっしが入水したら、旦那も舟体から水ん中に身を潜めていてくだせえ」
足駄を脱ぎ捨て手首を軽く慣らし、鼻をつまんだあっしは広がる河へと飛び込んだ。着水した眼下の水底で揺れる長い藻草(もぐさ)には見覚えがあり、植生から類推すると、既に東院の庭に差し掛かっているらしい。水密からくる耳鳴りがひどいが、肌を刺す冷たさに取られた手足を、がむしゃらに動かして水を掻き分けた。少しでも速く、少しでも先にと。
目がようやく順応した頃、周囲の水景を進みながら見渡した。水中を紫の光が先導するように、滲み出しては仄(ほの)かに辺りの岩礁を照らしている。光の帯は水底に温かさを与え、前方に見える頭上の水面からは、細長い蓮の根が密集して白い足を伸ばしていた。祠(ほこら)の近くから咲き始めた三迭の睡蓮は、今日という祭事の裏で、着実にその植生を広げていたらしい。
舟が転覆したらしき振音がする。
どどんという轟音に、着水した巨大な瘴気が水深く潜った気配を背後に感じた。水を汚す圧倒的な穢れの広がりからみて、先陣を切っているのは母神に違いない。使役の瘴気が連なって次々と着水したようだが、何体かは自我が保てず、互いに融合してしまっている。凝(こご)った瘴気 (しょうき)の塊が母神を追い、手足を融解させながらもなお、必死になって後へと続いていた。
向かい合わずとも彼らから届く想いは、天に弄ばれたという絶望にも近い失意と、やり処のない妄執(もうしゅう)。行き場を失くした憎悪に迷い、それだけが動力となっている彼らの成れの果てが、切々と胸を締め付けてくる。息も長くは続かないが、後少しだ。後少しで睡蓮の根に手が届くと、空回りする手を夢中で伸ばす。が、その横から瘴気が雪崩を打って押し寄せたかと思うと、もがいていたあっしの体は、完全に黒汁の渦に飲み込まれていった。
肺からごぼぼと吐き出る息が、口から水泡(すいほう)となって立ち昇る。あっしの体は母神の口に咥(くわ)えられ、背中と腹部に穿(うが)たれた牙は硬く、肉をごっそりと持って行かれていた。上顎からはみ出した牙の隙間から、頼りなく揺れる自分の足が見える。かろうじて口元の原形は残しているが、たくましく美しい曲線を描いていた毛並みの面影はもうない。
あっしの肺の中の空気は、ほとんど残されていなかった。落ちて行く視界の隅を、汚れた穢れが糸を引いて水に流れていく。
苦しい。指先が動かない。
口の中では鉄錆(てつさ)びの味がし、ごぷりと溢れた血は溶け出す瘴気に混じって消えた。痛みはあるが、その痛みも徐々に鈍く体の深くに沈んでいく。鋭い牙は臓腑(ぞうふ)にまで達していないが、確実に体の肉を貫いている。体温が奪われ、血が腹から下へと降りていく感覚。襲い来る眠気に閉じる視界。どの感覚も、遠い昔に覚えがある。そう。あっしは助けた村人に背後から襲われ、突き刺された全身を陽(ひ)の元(もと)に晒(さら)しながら、神室(かむろ)の森で死んだのだ。
今際(いまわ)の風景に、新雪よりも白い三迭がいた。隻眼に琥珀色(こはくいろ)を映した、三迭の瞳が見下ろしていた。映さない瞳が哀しげに揺れたのは、あっしの気のせいだったのだろうか。ただいつものように、その毛並みを梳(す)いてやろうと伸ばし、ついに届くことのなかった手。
水面の視界は東院に近づいているが、どの辺りなのだろうか。折り重なるように広がる、一面の厚ぼったい睡蓮の葉。薄れる意識の中で、細く柔らかな感覚が幾筋も頬を撫でる。瞳を開ければぼんやりと、睡蓮の柔らかな根毛があっしの頬に触れていた。まるで三迭 の毛並みだ。これはあの時、ついに梳(す)いてやることのできなかった三迭の純白の毛。今もまた、あの時のように眠りに落ちて悔いるのだろうか。それだけは、二度と許されない。
あっしは残された力で、最後に見えた太く最も長い一筋(ひとすじ)の根茎を、震える両手で手繰り寄せ、歯が折れるほど力任せに喰いちぎった。母神は突然に起こった理解のできない行動を牽制(けんせい)し、御河の水平線を轟かせるほどの咆哮(ほうこう)をあげる。威嚇(いかく)を合図にした使役たちが、あっしに襲いかかろうとした時。
『母神よ、兄様方(あにさまがた)、そして我らの兄弟たちよ』
微かだが、声が聞こえた。
その声に呼応し、水底の土壌と蓮の花が、紫に艶やかな紅(べに)を宿して光りだした。呼びかけは母神や使役の上に、降り積もるようにして繰り返される。
『ドコダ。ドコニ……。オオ、我ガ子ノ声ガキコエル。ドンナニ探ソウト既ニ亡(イナ)カッタ、我ヲモットモ解シヨウトシタ、イトシイアノ使役(コ)ノ声ガ、コンナニモ近クニ』
母神はあっしを咥(くわ)えたまま、振り乱した首から瘴気を散らかすが、大地を侵食する毒気は、水底と水面の光源が包み込むように吸収する。後続の使役の瘴気も、同様にして溶け入るように消滅を続けた。
まるで、瘴気の昇華(しょうか)だ。
禍つ神の荒御霊ですら、天が掟に掲げた日輪(にちりん)に投じずとも、きちんと浄化がなされていくではないか。感服していたあっしの頭へ、直(じか)に響く声があった。『汝、我の母神の名を呼ぶことを許す』、と。許されたのは神籍(しんせき)に綴られ、母神が自らかなぐり捨てた真名(まな)ではない。一族が狼神を母神と祀(まつ)り、慕い、己(おの)が身(み)を慈しんでくれた母として、好んでつけた呼称を呼ぶことを許すと。いま、あっしに蓮の光を介して三迭が告げたのだ。
天命が近づいた三迭の神気は、いかほどのものであったのか。残された自らの魂の片鱗を、人の手に託す覚悟はいかばかりであったのか。くり貫いた瞳に宿る神気から、生まれ落ちた最期(さいご)の石。喘鳴(ぜいめい)をあげるあっしの掌に託した、斜め下から見上げた憂愁(ゆうしゅう)の横顔を思い出す。
(三迭は言ってくれた。俺は唯一の人であり、初めての友であったと)
水に浸(ひた)して上手く使うことを望んだ宝の石。その石を埋めた水底が寝床となり、こんなにも多くの大輪の花を、見事なまでに咲かせてみせた。
(石の中で永き時を固く閉じ、微塵も応えなかったお前が。母神が襲来するこの期を待(じ)して、その腰をようやく上げたというのならば、この蓮こそがお前の想いだ)
想いを咲かせた蓮を通じ、いまひとたび眷属(けんぞく)との邂逅(かいこう)を、他でもないお前が望むのであれば――『ならば唯一であった友の意志に、俺もその身を以(も)って応えよう』。
あっしの声は、水中では音にならない。
両手で左右に引き、びんと扱(しご)いた根茎は鞭(むち)よりも太く頑強だった。三迭の声に応え、噛み合わさっていた母神の顎は今であれば緩んでいる。臓腑(ぞうふ)近くで出血をしている筋肉を捻(ひね)り、痛む全身を一息に牙から引き抜いた。開かれた母神の上顎(うわあご)に、素早く三迭の根茎を噛ませる。そして、手綱(たづな)を繰(く)るように母神の額へ乗り、鈍い体を翻しそのまま根茎を結(ゆわ)えた。
『何ヲスル、人間フゼイガ。ハズセ、ハズサヌカ』
荒ぶる母神は浮上し、口輪(くちわ)となった根茎を噛み切ろうと、水面から勢いをつけ上空へと跳躍した。遥か眼下では、渡しの舟に乗り後を追ってきた姐さんと、途中の河面で救助された頭(かしら)が、突然巻き起こった上空の顛末(てんまつ)に固唾(かたず)を飲んでいる。
あっしは振り落とされないよう、必死になって根茎にしがみ付き、欹(そばだ)てた耳元で細心の敬意で静かに、そして許しを乞うべく囁いた。
「我、汝を縛ることを許されたき。三迭の命により、其の名を呼ぶ者なり」
肺に一杯の空気を取り込み、他(た)に洩(も)れぬよう厳粛に告げる。国津留部母命(くにつるべのおもみこと)と。
声にして紡がれた母神の名、水面から弾丸のように跳躍する使役、母神が噛み切った三迭の根茎と全ての瞬間が重なり、まるで時が止まったような静寂が訪れる。その中で切断された根茎から、とめどなく雨粒のように滴り落ちる水は、落下しながら大きな虹色をしたしゃぼんの玉に姿を変えた。球体は口を広げ、まずはあっしと母神を包み、続いて瘴気を放つ同胞をもやさしく抱いていった。
降り浮く玉は、三迭の想い。
表面を染める色は多彩で、清冽(せいれつ)な玉、朧(おぼろ)な玉、優しい玉、虚(うつ)ろな玉。宙を浮遊するしゃぼんは儚く危ういが、内側は静穏そのものだった。閉じ込められた透明な内壁には、過去の残像らしき光景が投影されている。あっしと母神のしゃぼんに映る銀狼は、かつての母神だろうか。一匹の狼と無邪気な一人の子供の顔が、こま送りのように流れていた。
『母神(ははがみ)はやはり、お怒りになられるだろうか。我は一族を割った、若衆の一派を恨む気にはなれぬ。総体としての御山(おやま)は守られた。しかし天がお認めになれば、あまりにも我らの母神が憐れ』
所々で弾けた玉から声がこだまする。胸が張り裂けんばかりの懐古を誘(いざな)い、あっしらの玉にも懐かしい声が満ちていた。
『なぜ天はこのような事態にも、天意を示されぬ。真に天は鎮座たまうのか。心なきように立ち居振舞う我らに、真(まこと)に心はなしとお思いか。母神の威厳と責務の狭間にある、葛藤(かっとう)をどのように留め置かれておられる。我らに天道(てんどう)を示すため。翻意なきを一族に露呈しようと、唯一であった人の子を、自らの牙で殺(あや)めた母神の犠牲があまりにも不憫(ふびん)』
三迭の想いに抱かれた母神は切なげに鼻を鳴らし、盲(めし)いた瞳から溢れ伝う涙を見た。母神はしゃぼんに入ってから、流体に近づいていた体に輪郭を取り戻しつつある。そして温かな光に包まれ、同胞たちと穏やかな眠りについた。