河面には復元した見取り図を越えて、四足で渡る狼の後姿がある。腰に手を当てた姐さんは、肩の力を抜いて呟いた。正しくは鼠(ねずみ)ではなく神相手の大事(たいじ)であったことに、爽快な疲労を感じる。
「まったく、渡しの頭(かしら)も頑固よね。『大儀であった』と『礼は言わぬぞ』は、反意じゃないの? かわいくないったら」
苦笑で応えるが、姐さんの軽口も悪くはない。こんな結末も存外に、おつなものだとあっしは思うのだ。
水面をゆく狼は七尾も一尾におさまり、使役と同じ大きさに落ち着いている。これで、その肩には重すぎた荷を永きに耐え、ようやく降ろされたと思っていいのだろうか。母神の風鈴は、丸く柔らかな光源を発して涼風に粋(いき)な音を奏でたかと思うと、渡したちが瞠目(どうもく)する前で、見取り図の糸を見事に溶かした。結集していた使役たちは、いわば無念が具象化した思念体だった。率いる母神の荒御霊(あらみたま)が消えれば、あっしたちの前で最期は穏やかに消えて逝った。母神は渡し舟に乗ることを選ばず、開いた河面を自らの足で歩くことを選ばれた。
「ねえ。結局……天は本当に、いらっしゃったのかしらね?」
姐さんは首を傾げ、腑に落ちないといった表情を浮かべている。あっしは天の掌の上で、掟破りで健闘していたつもりなのだが、その姿は誰にも見えていなかったという。しょせん、一杯喰わされただけなのかもしれない。あっしは額を叩き、豪快に失笑した。天など顕現していなかったのかもしれない。人の願望や畏怖の念を借りて、具現したに過ぎないのかもしれないと、何とはなしにあっしは思うのだ。
「わしは、そんなこともうどうでもよか。早く熱い釜に入って、熱燗(あつかん)でも一杯ひっかけたいわな」
土手に腰をついたまま、大の字で寝転ぶ元さんの格好に笑いが込み上げてくる。目にして拝むことのできないものがあってもいい。朗らかな元さんを見ていると、あっしは三迭(さんてつ)も気付いたように、その方がいいと思ったりもするのだ。
胸板に深く刻まれた咎人(とがびと)の烙印が、ひりりと痛む。これでもう彼岸に渡ることも、永劫にこの狭世(はざよ)から消滅することもできない。御河(おかわ)を渡る前、誰にも聞き取れぬほどの小さき声で、母神は詫(わ)びるよう、あっしの頬に鼻を押し当てて問うた。「我の御霊(みたま)送りなぞしてよいのか。人の子よ」と。
いつかは姐さんや元さんも去ってゆく。彼岸に渡る権利を得るか魂が消滅するか、そんな先の事など分かりはしないが、その時ぽつりと行先もなく、脳裏にはこの河岸に一人佇む自分の姿が見える。だが、あっしはそれでいいと思えるのだ。なぜなら御河を渡る母神の横に、あのたくましき尻尾をふさりと揺らす、白い三迭の影が見える。子供のようなあどけない顔で、母神の周囲をはしゃぎながらくるりと回る。あっしと隻眼を合わせては、瞳を輝かせて笑ってみせた。
(後悔などしていない。己の魂の消滅と引き換えることで、少しでも母神や三迭の解放に役立つことができるのであれば)
彼岸に渡れるのだろうか。
人の彼岸などに、渡れなくてもいいのだろう。ただ一人の慈しんだあの子のいる場所こそが、きっと母神にとっての彼岸になるのだ。母神は我が身だけの彼岸渡りなど、神の威厳ではないと懸念していたが、性急に答えを出す必要はない。これからの悠久なる時の中で、ゆっくりと考えればいいのだ。
母神の足元で、紅い彼岸の花が咲く。進んだ道筋に曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が頭(こうべ)を垂れ、穿った足の数だけ緩やかな光を揺らしていた。いつかは盲(めし)いた眼(まなこ)ではなく、心眼をもって、愛した子を見ることができるだろう。今でもその足を進める水面の横を、群れから外れた御霊(みたま)のほおずき提灯が、ぷかりぷかりと添うているではないか。あっしには、提灯の上に立つ青年の、母神を慕って笑(え)む顔が見える。
これは、ただの御霊送りだ。
元さんは御神渡(おみわた)りと言うが、あの方はもう神にも人にもあらず。盲いた瞳と天への反乱により、万象に囚われぬ存在になることを自らの手で選ばれたのだから。
「母神よ、どこへでも行けやすよね。その先で貴方様の三迭たちと青年が、待ってるんでやすから」
囃子(はやし)の笛と祭りの太鼓が再び響き、河殿では姐さんが舞う。
あっしは見取り図の前にどかりと座り、手渡された風鈴を篝火(かがりび)に翳(かざ)して見ていた。あっしは天に、御霊の秩(ちつ)に異能 (いのう)を傾けることで詫び、現世(うつしよ)の咎(とが)の許しを乞うこともできた。かつて渡しが指摘したことだ。されど、兄の影に押し込められ才覚を世に示しもできず、終生を終えるのは御免だと。あっしにはこの異能(ちから)でしか、己の存在価値を見出すことができなかった。人は自ら生まれ落ちる場所を選べず、また親も子供を選ぶことはできないと、思ってしまったことは罪か否か。問われれば、あっしにはどうしても納得し肯定することができなかった。認めれば、あっしはどうなる。少なくとも自ら親は選べないと、そう思い込むことを糧とし、現世を奔放に生き抜いたではないか。天に詫びることできない。詫びてまで、彼岸に渡りたいなぞ願いやしない。
「あっしはどちらさまも、狭世にいらっしゃるのをお待ちしておりますよ。最後の一人になろうともこの河岸で。常しえに」
(了)