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風鈴と御霊送り

一の項「御霊送りの祭事」

 彼岸に渡れぬ魂が増えれば、宿場の街も自ずと栄える。渡れぬ魂の宿主(やどぬし)達が、ひとところに集(つど)っては商(あきな)いを始めた。それが狭世(はざよ)の宿場なのだ。商売といっても、流通した通貨は木簡(もっかん)で、これといった金銭価値はないのだが。年に一度のこの時節には、身の丈以上に遥かに育つ犀蓮(さいれん)が、太茎にそれは見事な美酒を宿した。甘露(かんろ)と白露(はくろ)の二種の樹酒が採れるのだが、祭りで振舞われるのは甘露(かんろ)の方で、知名度も相まり格段に高い。一服茶屋が軒を連ねる街並みの暖簾(のれん)をくぐれば、
「姐さん。今日は祭りで、踊りなさるんでしたね」
「って、え、東院(とういん)の坊や? しばらく見ないうちに、また思い切ったわねえ」
 いつもの店に腰掛けた姐さんは瞠目(どうもく)し、蓮酒(はすざけ)の白あんみつを頬張っていた手を止めた。あっしのいでたちを、青天(せいてん)の霹靂(へきれき)とでも言いたげに見つめていたが、すぐさま「ま、あんたのぱっと見じゃ等身大よね」とけたけた笑う。西の祠(ほこら)の静(しず)姐さんは、その開けっぴろげな気性と肝っ玉の太さから、西の姐さんを愛称に番人の内でも親しまれている。目の前にいるのは見慣れた姐さんのはずなのだが、櫛目(くしめ)の通った垂髪(たれかみ)を束ね舞扇(まいおうぎ)を腰にさし、長づくりの緋袴(ひのはかま)を草履の上で折り曲げている。艶(あで)やかな御神楽(おかぐら)の衣装に身を包み、整った細身の体がまた一段と映え、別人に見えてしまうのが不思議だ。
「坊やはやめてくれやせんかね、西院(さいいん)の静(しず)姐さん。それに、しばらくはありやせんよ。ついこの間、河岸の番でご一緒したばかりじゃないですかい」
 しばらく考えているようだったが、
「細かいことは、いいじゃないの。西に対して、東の祠のあんたは東院(とういん)なんだから。嫌ならあんたの名前を教えなさいな」
 と切り返す。「いえ……坊やと呼んでやって、くださいやし。現世(うつしよ)での名は、とうに捨てやしたんで」、と屈んだあっしの額を、姐さんは笑いながら細い白指でぴんと弾いた。名は現世(うつしよ)の頃からあっしにとって、疫病神のように思えていた。御家(おいえ)で次郎(じろう)とされればまさに兄の影。出自を聞き朔太(さくた)と改名してくれた首座(しゅざ)は、あっしに情が湧いた頃、自分に付けられた幕府の目を逸(そ)らすため、人身御供(ひとみごくう)としてあっしを差し出した。人の縁(えにし)より身の保身。人の心変わりは容易くて、名を押し付けられれば自身を縛り、名をもらえれば辛さが増す。あっしは蓮酒(はすざけ)の原酒を甘露(かんろ)で注文し、今年になって初めて、東院(とういん)の御河(おかわ)に清めの睡蓮(すいれん)が咲いたことを報告しながら、静姐さんの前にどかりと座った。「へえ、そりゃまた。祭事を前にした、凶兆か瑞兆(ずいちょう)かって?」と、姐さんは物珍しげに相槌(あいづち)を打ってはみせるが、期待したほど興味をもってくれたふうでもない。
 姐さんは現世(うつしよ)では伊勢大神宮の斎巫女(いわいみこ)を長きに渡り勤めあげ、斎宮(さいぐう)とも付き合いが深かったという。表では、皇女の穢(けが)れを払ってやり信仰に篤(あつ)き巫女の顔があった反面、妖しや堕神(だしん)を懐柔しては、皇室に敵対する大臣邸への呪詛を行っていたという。奥殿での黒巫女(くろみこ)として、裏の顔があったことを知る者はほとんどいない。曇りのない全開の笑顔を前にした日には、姐さんにそんな影の顔があったなどと、及びもつかなくなるのだが。姐さんが死んだのは、ある日突然の失敗だったと言っていた。用意をした堕神(だしん)を呪詛の対象へ放つためには、時の吉凶を占じ本社の禊(みそぎ)を重ねる必要があったが、何者かの手により万全を尽くした吉日(きちじつ)は曲げられたという。急場凌ぎとして末社(まっしゃ)の御神体を代用に立てたが、その後荒くれた神の鎮魂に失敗し、切り替えた調伏(ちょうぶく)は後手に回り、自社にまつわる神体は荒御霊(あらみたま)となり果てた。鎮(しず)めの祝(のり)を施(ほどこ)していた羽(はね)も効かず、弓を手に馳(は)せ参じた巫女達もまとめ、猛(た)け狂った神は無残に喰らい尽くしたという。
『荒御霊(あらみたま)は神にして不浄。神を元の和御霊(にぎみたま)に戻すには、神を統(す)べる大神(たいしん)たる天が、太陽の劫火(ごうか)である日輪(にちりん)をもって焼くしかないの。焼身浄化(しょうしんじょうか)によって、秩(ちつ)を保つために。私達が絶対の存在として祀(まつ)っていた神も、死ぬのよ。死ざるは――神を統(す)べる天だけ。神は天の子にすぎない』
 姐さんの見解にすぎないが、天は神を産み眷属(けんぞく)として使役する存在だという。神に仕えるべき巫女が、恩恵を授与されながらにして天の理(ことわり)を曲げた。神宮の繁栄と安寧(あんねい)の継続を祈願するためにも、過失の報いは受けるべきと潔く決断し、己(おの)が身(み)は天へ捧げたという。
「御大社(おたいしゃ)の面々に、人柱を懇願されたわけでもありやせんのに。自ら身を捧げ秩(ちつ)を正すなぞ、姐さんもまた酔狂なことで」
「あら、それを坊やが言う? 武家に生を受けたっていうのに妖しが見えて、さらには潜在的な巫覡気(みこけ)をはらんでいたなんて。御家(おいえ)を蔑(ないがし)ろにしてまで、わざわざ神道の呪系に弟子入りするあたり、親不孝を越えあんたも充分にきてれつよ」
「親だろうが親代わりだろうが、人である限りあっしは信用しやせんよ。人を見たら泥棒と思えって言いやしょう。移ろ気が華なんて人間よりは、障(さわ)りを与えるだけの妖しの方がよほど粋(いき)ってもんですぜ」
 と返した日には、「妖しびいきも極まれり、ね」の、たった一言で絞められてしまうのだ。
 ようやく、あっしの元にも甘露(かんろ)が運ばれてきた。大きな蓮の葉を両手で翳(かざ)し、切断された茎の部分から滴る樹酒を吸うようにして飲む。乾いた喉に流し込めば、豊潤(ほうじゅん)な酒気が心地よく口の中に広がる。吐く息にも酒気があがり、頬が温かくなるのを感じた。その時だ。
「ふうり~ん。風鈴はいらんかねえ。彼岸に渡る風鈴はいらんかねえ」
 リーン、リリーンという涼やかな音を響かせて、風鈴売りの屋台が引かれていくのが、格子窓の隙間から見えた。引き台に挿された風車が、吊り下げられた色とりどりの風鈴の下で、からからと乾いた音をたてている。ついに、あんな商売まで始めてしまうなど。一体何人の魂が彼岸に渡る試練を越えたかと頬杖をつくが、少なくともあっしが番人になってから、両の指で数えられるまでにも昇らないと記憶している。
(彼岸に渡るための風鈴は、ただ音のする風鈴であればいいというわけじゃないんだがなあ)
 硝子(がらす)や鉄といった、材質が問題なわけでもない。風鈴を、最初からもの(・・) として捉えているのであれば、解釈そのものに誤りがあるのだ。あっしは甘露で喉を潤しながら、ちらりと屋台の方を見やった。店先からはばたばたと住人達が、仕事もそっちのけで着の身着のまま、屋台へと一目散に駆けつけていく。姐さんもあっしも席を外さず、ぼんやりとその方角を見やった。萌黄(もえぎ)や鳶色(とびいろ)と確かに綺麗で、売り手や職人の自信にも頷(うなず)ける。集まった客は、われ先にと木簡を放り投げて、気に入りの風鈴を買い漁っていた。
「これなら、きっと天もお気に召すはずだ」
「そうさね。こんな綺麗な色だもの。今度こそ、きっと彼岸に渡れるわ」
 店の看板娘もあっしらの横で盆を抱きしめ、何も残っていない屋台を物欲しそうな瞳で見つめている。そして「そうなんですか? 番人さま?」と、潤んだ瞳で問うのだ。
 それに対するあっしらの答えも、番中法度(ばんちゅうはっと)に従い決まっていた。
「さてねえ。そればっかりは、気まぐれな天がお決めになることなんで、あっしら下々の者には、なんとも言いかねやす」、と。


 元さんが忠告していた御方(おんかた)のことが、どうにも気にかかる。もうずっと河岸へ足を運ばれていることは知っており、先日に至っては、四足(よつあし)の卑族(ひぞく)が追い払ったなど。坎(かん)の狭世(はざよ)におられる御身(おんみ) ではないのだが、許されることとは割り切れない。なぜ、あの方がこちらの世界にいらしているのか。法度に従い、尋ねることは避けてきたが。姐さんに話した日には、「番人の法度は絶対だもの」と一蹴された。他の日ならばまだしも、どう転ぼうが今日という祭りの日は非常にまずい。彼岸渡りの人だけでなく、渡し守たちも間違いなく、幾人かは河岸に上がってくる。この狭世(はざよ)で御方(おんかた)に退去を命じることができるのは、唯一渡し守だけなのだが、昨年の祭りでは立ち退かない御方(おんかた)に、什宝(じゅうほう)を用いて処払(ところばら)いをするようあっしらに迫った。尊き御方(おんかた)でも、狭世(はざよ)の宝具で退きを命じれば、天の意志で不敬には当たらないと言う。それならば、自分でやればよいと思うのだが。渡し自身も御方(おんかた)の魂が見えるとみえ、自ら実力行使に出ることは回避したいと見える。
「そりゃ私だって、かの御方(おんかた)がどなたなのか心得ているわよ。これでもかつては斎巫女(いわいみこ)だったのだから、魂を見抜くための心眼くらいは今だって。でも、番中法度は八方位の狭世(はざよ)の均衡のため必要な掟だし、破っていいものではないのよ。それにかの方は、離(り)の世に帰っていただくのが元来のあるべき姿でしょう」
 姐さんの言(げん)にも一理ある。狭世(はざよ)は、死んだ人間が集められるここ坎(かん)の他、乾(いぬい)、兌(だ)、坤(こん)、離(り)、巽(そん)、震(しん)、艮(こん)の世があり、それぞれの世で収集される魂は区別されている。他世(たよ)について法度で布達されているのは、頭一等(とういっとう)の神を集める坤(こん)の世。それに仕える、二位(ふたい)の神の世である離(り)。二位(ふたい)の神が使役する、使い神の世である巽(そん)の上三界(かみさんかい)までだ。これらの世は干渉することなく、並列することで均衡を保つ。それは心得ていたからこそ、渡し達に何かと理由をかこつけて、これまで立ち退きの行使を凌(しの)いできたのだ。
 だが、卑族(ひぞく)までも使われたと聞けば話は別だ。四足(よつあし)の卑族(ひぞく)とは、試練を越えた風鈴を傍から奪い去り、漁夫の利を得たならず者の末路だ。手段はともかく、風鈴で見取り図の網を溶かすことができれば、彼岸渡りの手順に過ちはない。秩(ちつ)の乱れを厭(いと)う渡し守が、彼らを連れて彼岸へと漕(こ)ぎ出したのは、そのためかと思っていた。が、彼らは決して奴らが彼岸に渡れぬことを知っていたのだ。卑族(ひぞく)の誕生を目撃したのは、後にも先にもその一度(ひとたび)だけだった。まさに醜塊(しゅうかい)な穢(けが)れそのもので、頭の先までどろどろに溶け出し、鼻の曲がりそうな褐色の液体へと姿を変える。褐色だまりの中で、溶け切れぬ両瞳だけが下品にぎろりと浮かび、頭だけが人の形をした、四足(よつあし)の毒虫へと徐々に変貌を遂げたのだ。周りに避難していた渡し守たちは、かの化け物をみて愉しそうにほくそ笑んだ。――狂っている。
(穢(けが)れが御方(おんかた)を払うなんて、三迭(さんてつ)が知ればどんなに嘆くだろうか)
「我と来て、遊べや親のない雀…か」
 母神を亡くし、あっしを唯一の友と呼んだ白狼(はくろう)。歌の意味を教え、冗談半分にお仲間と呼べば、「違う」と口を尖らせて反論した。住吉の御社(おやしろ)がある平原から、袂(たもと)を分かった同胞に追われ、廃れゆく三上(みかみ)の御山(おやま)を案じていた三迭のぬくもりや、伏せめがちな横顔を思い出す。野分(のわき)に凛々しく毛並みをなびかせ、立てた耳を時おりぴくぴくとそよがせた姿も鮮明だが。
「いえ、一茶(いっさ)って歌人が詠んだ句なんですがね」
 と、あっしの独り言に不審な目を向ける姐さんに説明をしようとした時、微かな地鳴りが聞こえた気がした。地鳴りといえば揺れもなく、語弊があるかもしれないほどの僅(わず)かな音だ。竿灯(かんとう)や篝(かがり)(び)の木材を、乱雑に扱っているためかとも思ったのだが。正面の姐さんも、耳をそばだてていた。店の中は談笑に湧き和やかで、他に気付いている者はいないらしい。
 ズズン ズズン
 先ほどより近くから、足底を押し上げるようにしてまた響いた。地鳴りなど、狭世(はざよ)に来た時以来の珍しさだ。姐さんの顔に緊張が走り、机の上で拳を丸める。と同時に、異変を認める。表の道を白い大きな影が、旋風(つむじ)をまとって走り抜けた。あっしと姐さんは慌てて店を飛び出すが、角を右に曲がる影を微かに捉えただけで、姿は既に通りにはなかった。体高(たいこう)は一瞬だったが、切懸(きりかけ)を越えるほどは軽くあったように思う。あれほどの質量が走り抜けたにも関わらず、通りは太平楽なもので、宿主達は「誰かと思えば番人さまあ、今日は通してくださいね」などど、茶化して暢気(のんき)に声をかけてくるのだ。宿場の者には見えていなかったようだが、角を折れる一瞬に、あっしには確かに七尾(ななお)の影が見えた。番人の知覚は常に御河(おかわ)の様子を窺(うかが)えるよう、近海の部位とは繋がっている。河を流れる御霊(みたま)の乱れも感じられなく、天の見取り図へ害を及ぼすものではないらしい。それに、あの七尾(ななお)には思い当たる節がある。あっしの勘が的を射ているのであれば、思念を追えるはずなのだ。それも神道の呪系ではなく、三迭に与えられ手ほどきを受けた、まっとうな神道で。
こんな時に、足駄(あしだ)が邪魔だ。あっしはカラリと脱ぎ捨て、残留する微かな気に神経を研ぎ澄ました。まだ近い、まだ追える。
「姐さん、先に行きやすよ」
 姐さんの長袴(ながばかま)では、早く走ることなど困難だろう。忌々しそうに舌打ちするが、後から追うと即座に頷(うなず)いてみせる。走りながら、あっしは人差し指で空を斜(はす)に切りながら唱えた。
「甲(こう)、後天(こうてん)ノ一。権(げん)、後天(こうてん)ノ二。伸(しん)、後天(こうてん)ノ三。伏シテ問フ」
 街明かりも減るが、陽の差さない世界では深まる闇に順応する眼も早い。いちいち下を確認しなくとも、地を踏み締める指の感覚で、道の隆起が分かるものだ。真言(しんごん)を繰り返せば対象の進んだ道筋が描き出されるが、まだ存在の掌握が薄く、一度は切った真言を続けた。位置の特定が正しければ、まだかろうじて宿場内にはいるが、最奥の築地(ついじ)に沿った通りに差しかかろうとしている。その先は何もない空間だ。左右に構えた籬(まがき)を最後に、賑やかな気配が嘘のようにふつりと街並は消滅する。とにかく、対象の足を止めねばなるまい。あっしは走るのを止め、指を前で組んでは八卦(はちかけ)の構えをとった。本来であれば、彼岸渡りの違法者を縛り上げるため、天から番人に冠された奥の手だが仕方あるまい。が、突然、
『汝(うぬ)、我を縛るか。愚かなり、民草(たみぐさ)よ』
 頭の中で割れそうに声が響く。凄(すさ)まじい重圧が双肩にかかったかと思えば、背骨の軋(きし)む痛みに続き、頭を後ろに打ち付けていた。ぼやける意識を振り払うため、首を左右に振る。鈍い痛みが全身を襲い、たまらず咳き込んだ後に呻(うめ)き声をあげた。体は築地(ついじ)へと吹き飛ばされ、壁にめり込んだ跡が残っていた。籬(まがき)を越えた先には、立ちはだかる深淵の闇。場所を確認しなくても、間違いなく宿場の終位置だった。
『汝(うぬ)め、我の後から賢(さか)しく横槍を入れるだけでは飽き足らぬか。我を縛ろうとするとは、いい度胸よな』
 地の底から湧き出るような低い声が、耳朶(じだ)を叩くのを通り越し、鼓膜を直接にびりりと震わせる。灯台に乗せられた香炉の僅かな灯りで、闇に目が慣れてきた頃。大口から牙をのぞかせた七尾(ななお)の雌銀狼(めぎんろう)の神が、眼前で身を低くして見下ろしていた。身の丈は大きく、屈んだ位置からでもあっしなど、軽く飲み込まれてしまいそうだ。吸い込んだ息を吐き出す度に、熱風が頬をじりりと焼き、あっしの前髪を巻き上げる。
(ああ、やはり貴方様でしたか)
 三迭から聞いていた容姿とは異なり、両の瞳に刻まれた失せることのない古傷が、深く残り痛々しい。瞼(まぶた)の上から、鋭利な爪ででも一息にくり貫いたような痕で、両眼は完全に閉ざされたままだった。あっしは地に手をついて身を起こし、片膝をつく姿勢で頭(こうべ)を下げた。見知りおく最上の形式で、敬意を表する礼式をとる。
「あっしにおきましては、この坎(かん)の狭世(はざよ)にいて彼岸への番人を勤める何某(なにがし)でやす。尊き御方(おんかた)。あっしは、貴方様を知っていやす。神よ。だからこそ、その名を口にすることができやせん」
 相手方が自ら名乗り名を呼ぶ許可を与えなければ、こちらから真名(まな)を口にしてしまうことは、多かれ少なかれ相手を縛ることに匹敵する。相手がやんごとなき高位であるため操作してしまうことはないが、神からすれば人とは下賤(げせん)な唯人(ただびと)。神が礼式をもって真名を呼ぶ許可を下さない限り、本神(ほんがみ)に向かい口にすることは不敬に匹敵する。
「名のある御方(おんかた)。今日は、渡しが陸上がりする祭りの日。どうか、お退きくださいやし。そして貴方様がいらっしゃるべき、離(り)の狭世(はざよ)へどうかお戻りくださるよう、伏してお願い奉(たてまつ)りやす」
『我は既に神にあらず。全ては天のため二位(ふたい)の神として在りし日に、頭一頭(とういっとう)の神を支えし身なり。汝(うぬ)、どこかで匂うたことのある番人かと思えば、あの時の小僧(わっぱ)か。道理で鼻をつく臭いが、ぷんぷんとしておるわ。渡しもしょせん、天の憐れな木偶(でく)よな。天にでも命じられ、またしても什宝(じゅうほう)をして我を払いにでも来たか』
 渡しの名を耳にした銀狼は、荒い鼻息と共に牙をむき、轟音をとどろかせる吼(ほ)え声を発した。辺りの空気が、瞬時にして緊張を高める。
「いいえ、そのようなつもりなぞありやしやせん。それに、お目をどうしやした? 今の貴方様のなさりようを知れば、亡き三迭が嘆きやす」
『がんぜなき小僧(わっぱ)。そなたが我の眼(まなこ)について知る用もなき上、問うことも許してはおらぬわ。それよりも』
 盲(めし)いた眼(まなこ)の上からでも怜悧(れいり)に睨(ね)めつけた気配が、背筋をぞくりと伝い感じられる。頭からすっぽりと飲み込んでしまいそうな距離まで、ぐぐいと荒々しい鼻面(はなづら)を近づけてきた。
『汝(うぬ)ごときが、何故にその名を口にする。卑しき人間ごとき、その名を口にすることは我が許さぬ』
 どうやら口にした三迭の御名(みな)が勘に触り、鋭敏に反応したらしい。あっしは両の拳を握り締め、臆することなく続けた。
「三迭は、そりゃ誇らしげにあっしに言ってやした。母神たる貴方様は常に一族に威厳と誇りを示し、鎮守(ちんじゅ)の森をいかなる時でも、その息吹(いのち)全てを守りぬく姿勢こそを貫いたと。後生でやすから、ここはどうかお退きくださいやし」
『人間ごときが、分かったようにぬかすな。汝(うぬ)に、我の誇りが分かるものか。一族を率いる、我の責が。嵩(かさ)が。全ては、天詔(てんちょく)のためだったものを。汝(うぬ)こそ、さっさと去(い)ぬがいいわ』
「縛(ばく)、縛(ばく)、縛凋(ばくちょう)
 ふいに、凛とした張りのある女の声が、空を穿つように響いた。足を地に縛るためだけの術式だが、しょせん人の技が神に通用するはずもない。銀の雌狼(めろう)は全身の毛を逆立て、虚空に向かい大きく跳躍した。再び巨体に旋風(つむじ)を纏(まと)ったまま闇の空へと消え、地からは収まりきらぬ風が、余風となって吹き上がる。両の壁を、小さく震わした。
『どのみちもう遅い。人ごときに払われようとした屈辱も、今日この日までと思えば、とるにたらぬ些細(ささい)なこと。既に時は満ちた。天め。我らを永きに渡り欺(あざむ)きおって。引きずり下ろしてやるわ』
 消えた空から声が降る。
「やめてくださいやし、姐さん」
 あっしは必死になって姐さんの腕にくい下がり、無駄な追撃の呪(しゅ)を止めようとした。
(人を卑しいとおっしゃるのであれば、どうして今まで人の形(なり)をして、河岸に赴(おもむ)かれたのですか?)
「相手が何であれ、秩は守らねばならないというのに。あんたは、どうして止めるのよ!」
 静まり返った通りで、険を帯びて詰め寄る静姐さんの声が、やたらと遠くに感じた。
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