夕の火明かり

 ぼやけた三日月が西空に低く姿を現した。ざらついた遠吠えをしきりと響かせるのは、くたびれ犬だろう。クオクオと途中まで鳴いては息切れしたようにやめ、再び鳴きを、しつこく繰り返している。いささか間のぬけたその調子は自分の歌に酔う中年男のようだ。おそらく野良ではないだろうとセキヤは思った。
「あんな気のぬけた吠え方じゃあ、たいした番犬でもねえな」
 遠吠えのするほうへ顔を向けて独りごちる。昼間はほこり臭かった宿屋の壁が、暮れとともに湿った空気を抱えこんでいった。
 窓ぎわを離れようとして、靴先に妙な感触を覚えた。くにゃりと柔らかく、沈みこむようだ。なんとなく気持ちが悪い――と思った瞬間、キンとした声が響いていた。
「踏んじゃダメ!」
 視線を落とすいとまもない。驚いて足をあげると、歌うたいがやせ腕を突き出してそこにあるものを指した。
「これ、お姉さんが頭に巻いてたやつだよ」
 床板のうえに灰色の布がくしゃしゃと横たわっている。野菜カゴを取りに寄ったさい、リュースが落としたのだろう。セキヤは軽く息をついた。のろのろ拾いあげて、
「返さなくてもいいよな」
 と尋ねかけたが、返事はない。
 窓の外にはたいまつの明かりがポツリポツリとゆれていた。家々の扉はいつにない堅さで閉じられている。風評小屋で話を聞くうち、女たちが震えあがってしまったのだ。ゲラーム牢獄で最も残虐なのは荒くれ強盗でも陰湿な詐欺師でもない。牢番、つまりは拷問係だと分かったからである。
 対照的に気炎をあげているのは、出稼ぎ運河掘りの連中だった。金貨五十枚と聞かされては張り切らざるをえないのだろう。四、五人から七、八人ほどの組になり、警護と称して町をねり歩いている。酒を飲んでいる者もいるらしく、杭打ち歌や猥歌をがなりたてていた。事情を知らないよそ者が見たら、祭りと勘違いするかも知れない。
 セキヤはそのまま窓下の床へ腰をおろしていった。かわりばえのしない安宿の部屋が、いつもと違う高さに見える。たったそれだけのことで目のまえに突きつけられた世界を離れ、違う場所へ来たようで不思議な安堵感に包まれた。
「あっという間に追いつかれちまったなあ」
 うなるようにつぶやいて暗がりに苦笑すると、歌うたいがやって来てすぐわきへ腰をおろした。顔色をうかがうでもなく抱えたひざに頬をつき、宙を見すえて思案げだ。
「これからどうするの?」
「さあ、どうしたもんかな……」
 緊張の連続ですっかり頭が働かなくなっている。道筋たたない思考の隅が、
(鳩だ)
 とだけ思った。恐怖に駆られてルガルンの宿場をあとにしたとき、脱獄を手引きしたのが誰かということは、まだ知られていなかったはずだ。国境の関所は目と賄賂にものを言わせて素通り同然だったし、その後は河の流れに乗って最短距離を下りきった。
 それでも風評は追いついたのだ。辺境の牢獄から街道沿いの宿場町、国境をすぐに越えてカーザの町へ。いくら鳩を使ったとしても、山谷越えの荒風を思えばこの伝達の早さは驚異である。
 ベベッパがほかのにせ者の名や素性を誰かに聞かされていたら。この町で捕らえられて白状したら。名前の一致とうさんくさい素性とでリュースが注目を浴びたら。
(売った腕輪から足がつくかも知れねえ)
 そうなったら無事ではすまされない。どこへ逃げても報賞目当ての人間に追い回されるだろう。冷水を浴びせられたように飛びあがってセキヤは叫んだ。
「いますぐここを出るんだ、急げ!」
 突然の旅じたくに歌うたいは驚いたらしい。あせったように床へ手を突いたかと思うと、そのままの姿勢で顔をあげた。
「お別れは言わないで行くの?」
 尋ねかけた表情が、いつになく必死のようすだった。セキヤは、
「エ?」
 とうわずったなり、言葉を失った。
(リマ……)
 セキヤたちが逃げたあと、恐れていたことが起こったら当然リマは尋問される。あれはお前の男だろう、本当に行き先を知らないのかと責められるだろう。病身だからといって手加減してはもらえない。罪人の引き渡しが隣国との関係を左右するからだ。仮にすぐ許されたしても、お尋ね者のマジリを恋人に持つ底辺の女として、一層の迫害を受けることは目に見えている。
(冗談じゃない……)
 身寄りのない女が死病に憑かれて見放されたというだけで充分すぎるほどの仕打ちなのに、そばにいてやるどころかいつわりの夢さえ見せることができないのだ。
(なんでオイラは逃げてきた?)
 後悔しても今さらだった。
「こんなことなら、アノイで殺された方がましだった……」
 呆然とつぶやき立ちつくしていると、癇癪かんしゃくを起こしたような声が響いた。
「悪い牢番を捕まえようよ、セキヤ!」
 いつもからは考えられもしないほどに激しい調子だ。
「そんな奴が逃げて来るから、みんなが怖い目にあうんだよ!」
 セキヤはおたおたとなだめにかかった。
「こ、こ、声を静めろ。な? そんな大声で……」
「なんでみんながビクビクしなくちゃいけないの? 悪い奴がビクビクしてればいいのに! なんでセキヤが殺されなくちゃいけないの? 牢番が殺されればいいんだよ!」
「落ち着いてくれ、頼むから」
 こんなによくとおる声で高らかに言い立てられたのでは、宿屋の親爺や泊まり客に聞こえてしまう。止めようとして両肩を押さえにいくと、歌うたいは素早く振り払って魔物の声をほとばしらせた。
「セキヤのバカッ!」
 冷たい刃物を刺しこまれたような衝撃が体を走りぬける。ウッとうめいて両耳をふさぎ、セキヤはその場へうずくまった。意志とは関係なしに体が反応してしまうのだ。恐ろしい化け物に出くわしたかのように、冷や汗をかいてぶるぶる震えてしまう。
 やっとの思いで呼吸を整え頭をあげると、大きく開いた瞳が迫ってきた。
「ね、こうやって捕まえよ?」
 セキヤは思わず息をついた。
「捕まえよってお前なあ、そんな簡単そうに」
「簡単なんて、思ってない。だけどやらなきゃ、二人とも危ないから。あんなにたくさんの人に追いかけられたら、絶対逃げられないから」
 突き放すような言い方には追いつめられた理性がある。
「ほんとにやる気かよ!」
「セキヤはやらないの? どうして? アノイへ戻ってから死のうと思ってるから? 死にたいから?」
 矢継ぎ早の質問を重ねて歌うたいはセキヤの両腕をつかみ、強く小刻みにゆさぶってきた。
「死にたくないよね? ふつうだったら死にたくないよ!」
 底光りのするような気迫だった。
 セキヤは一瞬、絶句してから、
「すまねえ」
 と言った。
「こんなにひどいことの巻き添えにする気はなかったんだ。牢番が逃げてくるなんて少しも思ってなくてさ……」
 低くこもった自分の声が、古びた床板のようにきしんで落ちる。歌うたいは不意打ちを食らったような顔をした。腕に食いこんでいた指の力がゆるゆるぬけたかと思うと、浮かされたような熱をたたえたままで、ぼうっと瞳を開いていった。セキヤは小さな相棒の両肩をつかんでゆすり返した。
「お前はほかへ逃げろ、な? お前みたいなチビ、ここで別れちまえば死ぬほど責める奴もいないだろう。万一なんか聞かれたら、道ばたに座ってバカのふりすりゃあいい。よく知らない分からないって、背中まるめて足もとすくうようにな」
「そうじゃないったら! 思い出してよ!」
 歌うたいはほとんど悲鳴のように言ってから、急に声を落とした。
「セキヤがやられちゃダメなんだよ。あんなこと考えたのはセキヤじゃなかったんだから……」
 口の中で「え」とつぶやいて、セキヤは言葉を失った。
(まさかこいつ……)
 河で見つけた死体をリュースの身代わりにしようと言ったことに、責任を感じているのだろうか。あのときセキヤは確かに、
「やばいことには関わりたくない。見ないふりをしよう」
 と言ったのだ。もしもその通りにしていたら、こんなことにはならなかったと。
 空白になった頭のすみから言葉を引き出してきて、セキヤはつぶやいた。
「だけど魔女は、オイラが霊山に導かれたのは偶然じゃない、旅の途中でやったことと関係あるって言ったんだ。しそこなったことをやり遂げろって。そうすればリマを助ける道に通じるんだって」
 口にしてみて背中の芯が小さくうずくのが分かった。
 旅の途中でやりそこなったこと。どれほど努力してもうまくいくはずがないと言われるほどのこと。この条件を満たすできごとと言えば、ひとつきりしか思い当たらなかった。だからこそ思ったのだ。リュースの安全を確認しなければ。最後まで面倒をみなければ、と。
 投げやりな遠吠えがぼうぼうと響いて二つ三つと重なった。町のざわめきにつられたのだろうか。どれもこれもがぶつ切りで、落ち着かない夜に文句をつけているようだ。
 セキヤは少しだけ目をつむってから、もういちど見つめ返した。
「あのときリュースを助けなかったら、最初から道はなかったんだ。恨む筋合いなんかねえよ。気にせず逃げろ」
 歌うたいはきっぱりと首を振った。
「逃げない」
 間髪入れない即答だ。
「強情っ張りめ!」
 思わずなじって体を離そうとした瞬間、目の中に飛びこんできたのはあらわになった首だった。ランプ皿の火明かりが、短くされた髪の陰影をゆらしたのだ。深く鋭いその形は首のつけ根を切断するように横たわっていた。
 セキヤは突然に覚った。
(こいつの言い分が正しい)
 歌うたいはアノイから来た異民族だ。物乞いのマジリで髪切りでもある。これといった証拠がなくても怪しまれる要素はたくさんあるし、いくら逃げても目立つからすぐに捕まってしまうだろう。子供だからバカのふりをしていれば許される――そんな見通しは甘過ぎないだろうか? ゲラーム送りといかないまでも、虐待や迫害を受けると予想するべきではないのか? いくら頑固な強情張りでも、激しい責めにあえばじきに口を割ってしまうだろう。
 問題はそれだけではない。ことがあらわになったら宝石を売りに出したロシェナはどうなるのだ。純粋な親切ではなかったにしても、得体の知れないセキヤたちに住まいを提供した女だ。魔法の師匠を傷つけて逃げ戻ったときには、牢屋に入らなくてすむようにと仲立ちもしてくれた。性悪魔法使いを向こうに回して物怖じもせず、まなじりのしわを開いて、
「だましたお前さんも悪い!」
 と叱りつけてから、和談の金を出したのだ。油断のならない年寄りだ、あとあとのために恩を売っているのだと分かっていても、涙が出るほど嬉しかった。
 服のうえから胸を押さえ、声の震えを確かめながらセキヤは言った。
「だったら今すぐ出かけよう」
 屈強な男の群れを出し抜いて一番手柄をたてるなど、奇跡の幸運に恵まれないかぎりはありえない。だとすると――。
「とっ捕まった奴がまっ先に連れて行かれる場所を押さえるんだ。町番の連中にこいつを見せてな」
 そう告げながら右目を指すと、相棒の顔がふうっと笑っていった。