もう一人の逃亡者(2)

 頭のすみで、なにかがガサガサうごめいている。
 窓の外からしゃがれ声が飛びこんだのはそのときだった。
「風評、風評、大風評! この町はじまって以来の大風評!」
 興奮しきった足音がバラバラと石畳を叩いては遠ざかってゆく。腕白ざかりの子供たちが、
「風評! 風評!」
 と真似をしながら風評屋を追いかけているのだ。
「ゲラームのお尋ね者が流れこんだよ!」
 聞いた瞬間に全員が飛びあがった。
 セキヤと歌うたいは窓際に駆けよって、同時に顔を突きだした。五つ六つの子供が、
「兄ちゃん待ってよ!」
 と泣きべそをかいて灰色の道を曲がってゆく。
「広場のほうへ行った! 呼びこみ口上をやるつもりだぞ!」
 ドアに体当たりを食らわせながら、セキヤは部屋を転げ出た。古びた階段を一段ぬかしで駆けおりると、足もとを踏みぬいて地面の下まで落ちそうだ。あとの二人も、つまづきながら追って来る。
 宿屋の看板をくぐって外に出ると、裏町のざわめきが臭ってきた。ほこり立つ道のあちこち、開き窓のそこここから、町人まちびとがこだまのように呼び交わしている。
「風評! 風評!」
「牢破りが逃げこんだってよ!」
「みんな出て来い!」
 カーザの住人はもつれるようにして広場へなだれこんだ。厚く重なった人垣は、どこを中心にして集まっているのかも分からない。
 わずかにゆるんだ喧噪けんそうを突くようにして、呼びこみ口上が響く。
「風評、風評、お立ち会い!」
 セキヤは首をめぐらせて水飲み台のほうを見やった。野次馬の頭で埋めつくされているが、どうやらそのあたりが風評屋の立ち場所らしい。
「時を言うなら鮮緑せんりょくの月、十四日。所を語ればローデル国はアノイ領。統治をめぐり骨肉あいむ彼の土地に、姫君をかたる逆賊どもが現れて、ゲラーム送りになったことは我々の記憶にも新しいところであります。さて、本日はこの逆賊ども……」
 必死になって背伸びをしていると、滔々とうとうと流れかけた口上が急に破られた。
「どけどけ! おまえらなにをやってる!」
 物言いからして役人連中に違いない。ざわざわと不満のつぶやきが押し寄せるなかに、地響きのような叱咤が飛んだ。
「コラ風評屋! 誰に断ってそれを商売にしているかッ!」
 セキヤは体を硬くした。
(本物だ!)
 この風評は尾ひれがついたでたらめではない。役人が出て来たのがなによりの証拠だ。町や住人に危害が及ぶようなできごとは無料で明かされなければいけないから、
「金を払った者だけが聞ける」
 などと言って、商売にしてはいけないのだ。カンとあたりに緊張が走ったあと、低くおもねったような声が言い返した。
「町番のだんな、そりゃ誤解ですよ。風評屋は語りの面白さを売ってるんでさ。うちに来なけりゃこの風評を聞けないなんて、ンなでたらめは言っちゃおりません。あたしの語りでは聞けない、とは言いますがねえ」
「くだらん言い訳をしおって! いいからそこを退け。その筋の御用である!」
 風評屋はへへえと笑った。抜け目なく、
「より良い語りでお聞きになりたい方は、羽看板の風評小屋をごひいきに!」
 と言い捨てあたと、人ごみへもぐりこんでいったようだ。通る道筋にしたがって野次馬の頭がわらわらとうごめいた。町番兵の怒声は、それへは構わずといったふうだ。
「おふれである! 隣国ローデルのアノイ領より、お尋ね者が川筋を使って我が国へもぐりこんだらしい、との知らせがあった。知ってのとおり、アノイから川筋を使うと最初にたどりつくのはこの町だ。我々は特別の約定によってこの者を捕らえ、隣国へ引き渡す。女子供は戸締まりを固くして用心すること! 万一かくまう者があれば、逆賊一味としてゲラーム送りになるからそう思え!」
 ゲラームという言葉が出たとたん、ほんの一瞬ではあるが、広場は奇妙に静まりかえった。町番兵は咳払いをした。
「お尋ね者の名はベベッパ・ヤトー。五十がらみの小男だ。髪と目は焦げ茶色。髪はやや薄く、ちぢれて顔のまえにたれさがっている。肌は浅黒く肺病やみのような顔色だ。しなびたイチゴに似た貧相な顔立ち、猫背で脚が細く、曲がっているのが特徴とある。町番詰め所の高札に人相書きを張り出すから、似た者を見たらただちに知らせること。お手柄者にはアノイの次期領主、ヘクトール様から金貨五十枚が与えられるであろう。以上、おふれである!」
 はたりと乾いた音がした。ふれ書きがたたまれたらしい。咽つまりを起こしたようにセキヤは叫んだ。
「そ、それだけ?」
「それだけとはなんだ!」
「あのほら、にせ姫は三人組だって。どうして一人だけ?」
 高く澄んだ陽ざしが首筋に痛かった。息を凝らして返事を待っていると、
「そういやそうだなあ」
「一人だけはぐれてこっちへ来たってんだろう?」
「ほかの二人はもう捕まってるんじゃないのかい」
 など、方々から憶測の声があがった。てんでに首を伸ばし、きょろきょろしながら口を動かすようすが白昼の影絵のようだ。
 町番兵はふむとうなった。
「なにを勘違いしてる? 逃げてきたのはにせ姫ではない。その逃亡を手引きしたゲラームの牢番、ベベッパだ。きっと金をつかまされて魔がさしたんだな」
「金をつかまされたって、誰に?」
「それを調べるためにも、捕らえる必要があるのだ」
「やっぱりあれかい? 後継者争いに負けたエグモント様?」
「知らん。町番は忙しい。今日はこれまでだ」
 町番兵が去ると、広場にざわめきが戻った。あちらこちらから、
「やっぱり風評小屋で聞こう」
 と囁き、誘い合う声が聞こえてくる。
 セキヤはふり仰いで太陽を見た。
(牢番の奴、なんでよりによってここへ来た!)
 せっかく逃げてきたのに。
 故郷なのに。
 他に行く場所がないのに。
 リマがいるのに。
(偶然にしてもあんまりだ!)
 だがしかし、よくよく考えればこのことは偶然でも不思議でもなかった。追っ手を逃れてアノイを出るなら、道筋は三つしかない。魔物がひしめく原野を横断し、
「いちど入ったら生きては戻れない」
 と言われる樹海をぬけて、氷雪の山脈へ通じる道。人目の多い街道を使い、追っ手の本領である国内をさまよう道。最後のひとつが、川筋を伝って国外逃亡をはかる道だ。
(オイラはバカだ!)
 セキヤ自身が逃亡を考えたとき、まっ先にカーザを思い浮かべたのは、単に故郷だからではない。もっとも早く安全な地へたどりつこうとすれば必然的に国境越えとなり、この町に至るのだ。仮にセキヤが他の国、他の町の出身だったとしても、牢番ベベッパと同じ土を踏んでいただろう。
 快晴の鮮やかな青が、頭上にあいた穴に見える。不意に肩先から、か細い涙声が尋ねかけた。
「ねえセキヤ、わたしたちどうしたらいいの?」
 ハッとして我に返ると、目のまえにろうのようなリュースの顔があった。
「だいじょうぶだよ。奴らはあんたが死んだと思ってるんだから」
 たぐりよせるようにして答えを絞ったが、リュースはうわのそらだ。口のなかで低く小さく、祈りのように不安を紡いでいる。
「どうしたらいいの? ベベッパって人が、にせ姫は他にもいるって知ってたら。令嬢のふりが得意な芸人がいるって。リュースって名前だって。ベベッパが捕まってそう言ったら、わたし……」
「しいっ! 誰かに聞かれたらどうするんだ。落ち着けよ」
 小声でたしなめるとリュースは頭に巻いた薄布をひきむしり、顔を覆ってうめいた。歌うたいはセキヤの服のすそを強く引いている。
「風評小屋へ行こうよ。今なら町のみんなと一緒だから目立たない」
 子供らしからぬ怜悧れいりだったが驚異を感じるゆとりもない。セキヤとリュースは、歌うたいのあとをついてふらふらと行列に従っていた。