もう一人の逃亡者(1)

 リマに会って敗北を告げたら、歌うたいを解放してしたたかに飲もう。出かけるときにはそう思っていたのに、今ではその元気もなかった。
 宿に戻ってベッドへ転がる。すすけた天井に、編み目のような黒いはりがへばりついているのが見えた。ぼんやり眺めていると、その形がなにやら奇妙に感じられてくる。歌うたいはおびえたようすで床にうずくまり、さきほどから口を利かない。
「なあ」
 セキヤは声をかけた。
「床に座るのやめろったら」
「ウン……」
 おずおずと物入れに腰をおろしてから歌うたいは首をかしげ、
「怒らない?」
 と尋ねた。この部屋にはいすがないのだ。
「怒らねえよ。なんでだ?」
「きのうは怒った」
「ああ……」
 ロシェナの店の二階部屋でのことだ。床に座るなと言われて化粧台に腰をおろした歌うたいを、セキヤが怒鳴ったのだ。あのときもいすがなかった。
「あの化粧台は、ヤーナの形見だったんだよ。だからつい」
「ヤーナって誰?」
「育ての母親さ。二番目の、って言ったらいいのかな。生みの親も育てなかったわけじゃないから」
 ヤーナは化粧台が自慢だった。紅も白粉おしろいもなく、色あせて灰色になったリボンとブラシしか持っていなかったが、それでもよかったのだろう。髪をすいたあと、取っ手の飾りをなでながらよく言ったものだ。
「もらいものだけれど嬉しいよ。女はこういうのが夢なんだよ」
 ヤーナが死んだとき、引き出の取っ手をはずし、二度と使い物にならないよう傷をつけたのはセキヤだ。本当は化粧台を丸ごと棺に入れてやりたかったのだが、さすがにそうもいかなくて、死に顔に向かって約束したのだった。
「取っ手だけで我慢してな。ヤーナの夢はほかの誰にも使わせないから」
 歌うたいは宙を眺めてしばらく考えこんでいたが、突然思いついたように視線を合わせてきた。
「お墓に行くの?」
「エ?」
「ヤーナの」
「ああ……」
 あいまいに口ごもってからセキヤは起きあがった。
「言われてみるとご無沙汰だなあ。それもいいかも知れないや……」
 その気力をしぼることができるとは、我ながら不思議な気がするのだが。
 ――と、階下からコトコト足音が登ってきたかと思うと、部屋のまえでピタリと止まった。明らかに女だろう。きぬずれまじりの小刻みなリズムが、水辺の小鳥を思わせる。
 身じろぎの気配に続いて、のびやかな声がいっぱいに響いた。
「お二人とも、いらっしゃる?」
「は? オイラたち?」
 尋ね返した言葉が、虚を突かれてうわずったようになった。
「入ってもよろしいかしら」
「誰だい」
 間のぬけた声をたてると、歌うたいがドタッと物入れからすべりおりて、ものすごい勢いで飛び出していった。
「いいよ、入って!」
「あ、おい……」
 呼び止める間もなく、大きく開かれたドアの向こうにこざっぱりと身づくろった神殿侍女が姿を現した。洗いざらしの白木綿に青の縁飾りがすがすがしい。大きな野菜カゴにたっぷりのキャベツを入れて、横抱きにしている。きちりと編んだ髪の毛に灰色の薄布をかぶせてぐるぐる巻きにしてあるのは、下働きのいでたちだ。
「お久しぶり、ごきげんよう!」
 立ちあがろうとして、セキヤは危うくつまづきそうになった。楚々そそとしたなりで目くばせを送ってきたのが、大道芸人のリュースだったからだ。
「お姉さん、元気だった!?」
 きいきい声で歌うたいが叫ぶと、
「チビちゃんもね」
 と優しく言って、両手をつないだ。
「ごきげんようってあんた……」
 出遅れたかっこうで口をはさむ。リュースはカゴを持ち直すと胸をはり、スカートのすそをさばいてきぬずれの音を響かせた。
「どう? まだ下っ端だけれど小ぎれいなものでしょう?」
「そりゃ……」
 言ったなり、セキヤは絶句した。神殿侍女といえば聞こえはいいが、下働きともなれば決して恵まれた立場ではない。例の事件で手に入れた腕輪や首飾りでそれなりに潤っていると思っていたのに、どうしたわけだろうか。
「どうしたの? 黙りこくって。わたしが誰か忘れちゃった?」
「いや、そうじゃないよ。もちろん覚えてるけど……」
 しばらく考えてから気がついた。
「あ、そうか。あの飾りもんは模造品だったんだ。田舎町で金持ちのフリするのに、なにも本物の宝石を身につけることないもんな」
 ロシェナが儲けたと言ったのは、闇市では本物として売れたという意味なのだろう。あれやこれやで、すっかり判断が鈍っている。
 納得しかけたとたんに、リュースの目が見開かれた。
「ところが違ったのよ!」
 大きく首を振って昂ぶりながら叫ぶ。よく通る声は天井のすすを吹き飛ばすかのようだ。次の瞬間には、顔をよせて耳打ちしてきた。
「わたしもてっきりそう思って、『すっかり落ちぶれてしまって、本物はとうに母が手放したかも知れないのですが』って話したんだけれど、ロシェナのお婆さまは本物だって」
「なにい、あのババアがお婆さまだあ? 凝りもせずにまたご令嬢のふりかよ」
 リュースは顔を赤らめてコンと咳払いをした。
「大きな声を出さないで。だって、そんじょそこらの芸人があんなきれいな飾り物を持ってたら、疑われるわよ。ニセ物だとしても豪華すぎると思わない?」
「そりゃそうだが。……にしてもおんバアの奴、よく本物だって認めたよなあ? あんた自身が模造品だと思いこんでるんだから、徹底的に買いたたきゃあよかったんだ。いつもなら、間違いなくそうするんだけどなあ」
 口をとがらせると、薄茶の瞳がふわりと輝いてこちらへ迫ってきた。
「ところがそうはいかなかったの」
「ええ、なんで」
神官頭しんかんがしらさまがご一緒くださったからよ」
「あ……」
 ようやく事情が飲みこめた。リュースはロシェナの店へ行くまえに、身寄りを亡くした没落令嬢のふりをして町神殿に保護を頼んだのだ。ふつうであればウソつきの物乞いして門前払いになるか、食うに食えない汚れ仕事を回されて終わるのだが、持ちこまれた装飾品とそれなりに鍛えられた演技力のために信用されたのだろう。たとえ模造品だとしても、あの華やかさは平民が持つ品には見えなかった。
「つまりあんたは、首飾りの金を神殿に寄付して今の立場を得たってわけだ」
 見知らぬ町にやって来たリュースには、身元の保証が必要だ。中間搾取で目減りした小金を抱いて女の一人暮らしを始めるよりは、貧しい下働きでも神殿の世話になる方が将来のためになると計算したのだろう。金は使えばなくなるからだ。
「お姉さんは頭がいいんだねえ」
 歌うたいが感心したようにため息をついた。リュースは両手で頬を押さえてくすくすと笑っている。
「というわけで、ロシェナのお婆さまに聞いてあなたたちを訪ねてきたってわけ」
「仕事の途中じゃないのかい?」
「腕輪のおかげで、ちょっとだけなら大目に見ていただけるのよ」
 小さく言うが早いか、リュースは腰にくくりつけた小袋のなかから小粒の宝石を取りだしてきて、二人の手のひらに軽く握れるほど乗せた。
「アッ、なんだい」
「お姉さん、これは?」
 同時に聞くとニコリと笑って、
「あなたたちの取り分よ」
 と言う。
「全部は処分してなかったの。お礼にと思って」
 セキヤは口を開けたまま手に顔を近づけて、バラバラにされた宝石を眺めた。まろやかな乳白色に薄雲のようなスミレ色が渦を巻いて、つやつやしている。しばらく考えてから、セキヤは言った。
「なああんた、もしかして処分したのは腕輪だけだったのかい?」
「そうよ。最初のうちは腕輪の相場を聞いてから首飾りを出そうと思ってたんだけれど、本物と分かったら……」
「惜しくなったってか?」
 不機嫌になって尋ねる。――と、微笑をおびた瞳の色がすうっと翳っていった。
「……怖くなったの」
「あ」
 こもった沈黙がはたりと落ちた。
「それで残った方は糸を切って、誰にも見つからないところへ隠しておいてね……」
「オイラたちにも危険のおすそ分けってわけか」
 リュースはあとじさりながら目を伏せた。
「病気の人のためにも、お金は必要だと思っただけよ。あなたなら売れる場所をたくさん知ってるんじゃないの?」
「リマのことを知ってるのかい」
「きのう聞いたわ」
「あのおしゃべりババア!」
 ついつい怒鳴ると、リュースはすっかり慌てたようだ。しがみつくように手をかけて、
「迷惑ならわたしが処分するわ」
 と言ってきた。
「どうやって!」
「運河に捨てる」
 セキヤは肩を落として息をついた。
「それであんた、下働きなのか……」
 町神殿はだませてもロシェナの目はだませない。神官頭が後ろ盾ならまっとうな場所で売ればいいのに、わざわざあの店を指名すること自体が弱みのあるあかしなのだ。いいだけ値切られたおかげで、腕輪だけでは下働きの身分しかもらえなかったのだろう。
(それとも、神官頭にも足元見られたのかな)
 窓の向こうへ目をやって鼻をこすっていると、
「下働きで正解なのよ」
 と、決めつけるような声音が応じた。
「あれが本物だと分かったとき、これ以上目立ちたくないと思ったもの」
「うん」
「それに……」
 リュースは急にしゃんとなって、目をあげた。
「あすこへもぐりこめば神殿自体が身元の保証になるから、亭主を持つときいいじゃない。没落令嬢にふさわしい平凡な男でも、屋根のある家に住めたらわたしは出世だわ」
「令嬢だったら、亭主じゃなくて旦那さまだよ!」
 いつの間にか物入れの上に戻った歌うたいが、横あいから口をはさんだ。セキヤとリュースは笑い合った。
「今の話を聞いて安心したよ。そういう心づもりなら、目立たないをつらぬいてくれ。あんたの関係したあのことがどうなったか、ここまでうわさが届いてるだろう?」
「ええ、なんだかにせ者がつかまったとかって。うわさだから、伝わるうちにデタラメになったんじゃないかしら」
「そうか……。この町には御用鳩の育て小屋があるから、ひょっとしてもう届いているかと思ったんだけど」
「なにかあったの?」
 リュースの眉が曇るのを見て、セキヤはもう一段、声を落としていった。
「実はにせ者っていうのはひと組だけじゃなかったんだ。捕まった方はゲラーム送りになったあと、逃亡したってんだな」
「ゲラームからですって? ウソばっかり!」
「それがウソでもなさそうだから問題なのさ。お偉がたが後ろ盾になって逃がしたんだとしたら、後継者争いってことになるだろう?」
 リュースの顔からすうっと血の気がひいた。
「そんな……」
 つぶやいたきり、ものを言おうとしない。ぐらぐらと腕が震えて、野菜カゴを落としそうになっている。セキヤは急いでカゴを取り、ベッドの上へ預かってやった。
「まあ落ち着いて。あんたは完全に死んだことになってるんだから。オイラあれから、あの場所へ戻ってちゃんと確かめておいたんだ。あんたを利用した二人組は、旅の商人のふりして例の墓に花なんかそなえてたらしい。だからあんたは物盗りに身ぐるみはいで殺された商家の娘ってことになってて、その点は誰も疑ってなかったよ」
 冷や汗をかきながら歌うたいに目をやると、間髪かんはつ入れずの口添えが飛んだ。
「ほんとだよ! 二人でちゃんと見に行ったんだから。三日もかかってあちこち歩いたけど、全然なんともなかったよ」
 リュースは天井を向いたまま、目だけを動かして二人を見た。ひどくうつろな顔つきだ。
「そう……」
 そのままよろよろと歩いて、すがるようにベッドの野菜カゴをつかんだかと思うと、前にのめってシーツに顔を突っこんでしまった。
「だいじょうぶ? お姉さん!」
 歌うたいが慌ててとんで行った。
「びっくりして気分が悪くなったの?」
 必死のようすでのぞきこみ、何度も尋ねかけている。リュースは背中で息をしていたが、腕だけを白ヘビのようにくねらせて小さな子供をトントンと叩いた。
「チビちゃんも一緒に確かめてくれたのね。ありがとう……」
 そのひと言でセキヤは調子をとり戻した。気がつくと、あさはかな詐欺師のようにペラペラとまくしたてていたのだ。
「とにかくそういうわけで、おとなしくしてればあんたの身柄は無事だと思うよ。国境だって越えてるんだし、誰も気がついてないよ。あの腕輪だって、バラバラにされて指輪や手箱の飾りになってるだろうから足はつかないし、残りの石も持ってるのが怖いんなら処分してやるよ」
 そこまでを一息で言うと、ようやくリュースの顔があがった。目のふちが赤くなって、少しばかり涙ぐんでいる。
「ありがとう……」
 痛々しい娘の表情に、ぞくりと嬉しくなった。
(リマにあんなこと言って、後ろめたいばかりなのに)
 人間の理性は怒っているが、魔物の欲は喜んでいる。不思議なことだ。相手がリマでさえなければ、どちらがどちらの心か見分けられるときがある。思わず視線をそらせてしまった。
「ええと。処分した金はほんとにいらない?」
 釘にひっかけた上着をながめながら念のために問いかけると、薄布に巻かれた頭が視界のすみで激しくいやいやをした。
「怖いの、お願い。このまま町神殿の下働きでいさせて」
「分かったよ。だいじょうぶだから安心しな」
 できるだけ優しく言うと、リュースはようやく立ちあがって野菜カゴを抱えなおした。
「もう帰らなくちゃ……。いくらなんでも長話をしすぎたわ」
「そうだなあ。オイラたちも二度とあんたに会わないよ。その方がお互いのためだから」
「ごめんなさいね」
 心配そうに見つめる歌うたいの頭をなでて、リュースはそうつぶやいた。
「夢と思って憧れてたのに、宝石ってこんなに恐ろしいものなのね。ロシェナのお婆さまが『本物の翡翠だよ』って言ったときには、踊り出したい気分だったのに……」
「まあそりゃ……」
 適当な相づちを打とうとしてから、セキヤは突然気がついた。
「ちょっと待った! 翡翠だって?」
 さっきもらった物はどこへやっただろう? 慌てて体のあちこちを探した。
「セキヤ、ここだよ」
 歌うたいが指さしたのは右のポケットだ。野菜カゴを移そうとしたとき、とっさに突っこんだのだろう。急いでつかみ出すと、水のように淡い紫が姿を現した。
「なんだよおい、翡翠って緑じゃねえのか? なんでこいつは雲みたいな模様なんだ?」
「そんなに怒ってどうしたの?」
 リュースの目が丸くなる。
「いや、翡翠だよ。あれってもっと透明だよな? そいでもって、緑だよな? きのうおんバアがそう言ったぜ」
「あら、そんなこと……」
「そんなこと?」
「お婆さまは『この石は粒がそろって形も色も悪くないけど、透きとおってないしムラがあるから、ひとつひとつが極上ってわけじゃない』とおっしゃってたわ。なんと言っても価値があるのは、半分透明な緑なんだって」
 口の中で「え」とつぶやいたきり、頭の中が空白になった。
 にせ姫をでっちあげた男たちは、リュースに翡翠の飾りを与えた。
 にせ町番をでっちあげた男は、紋章に翡翠を抱いていた。
(偶然なのか?)