白い道
リマが寝泊まりしている保養小屋は、山すそを分け入って岩場と林をぬけたところにある。黙りこくって登ってゆくと、土塊 や草の匂いがぞわぞわと足もとからはいあがってきた。
歌うたいはむっつりとして、宿を出てからうつむいたきりだ。歩みもひどくのろかった。ひといちばい敏感なこの子供は、今後の末 に察しがついているのだろう。霊山の魔女に課せされた証人の役割を終えたら――セキヤがあきらめると宣言するのを見届けたら――この地にポイと捨てられるのだ。しかし、我が身の安全を思えば故郷に帰らないほうがよいということはすでに了解ができているらしい。左右にならぶ木や草を眺めながら、食べられる実の選り分けをするような顔つきだ。
中腹の坂を登り切ると、頑丈な高柵に囲まれた保養小屋が見えてきた。檻のような高柵の出入り口には、侵入者を拒むように看護人の家が立ちふさがっている。その背後に鬱蒼 とのしかかっているのは、ふところに共同墓地を抱いた松林だ。病に呪われた者たちの眠り所には神官の祈りも響かない。埋葬を終えたその日のうちに、看護人がたった一度の花を捧げるのみだ。
小屋のまわりに敷き詰められた白石が、浅緑の梢 に見え隠れしている。白は病魔を吸いとるという言い伝えがあり、リマが便りをするときに拾ってよこすのはこの石だ。
セキヤは腰を折り、道ばたにはみ出した石をすくいあげて親指でなでた。
「元気なときはひとつ、具合が悪いときはふたつ、ロシェナのおんバアあてに石をよこしてくれ。小屋番のガキに小遣いはずんどいたから、喜んで使いに出てくれるよ」
考えながら切り出した言葉をやんわり抑えて、
「お願いだから逆にしてちょうだい。元気ならふたつ、会いたいときにはひとつ」
とせがんだ声が、今も耳に残っている。
「え、どうしてだい?」
不思議に思って尋ね返すとリマはゆっくり目を伏せた。
「具合が悪いときにふたつ拾うのは辛いの。拾おうとして頭をさげると、目が回って倒れそうな気がするの」
だったらそうしよう――と言いかけた言葉が、どうしたわけか咽の奥につかえた。気がついたときには、
「そんな、ひとつ余分に拾うだけなのに」
と文句を言っていたのだ。
「そのひとつが苦しくて……」
「だいじょうぶだよ、心配しすぎだったら」
強く言い添えるとリマは一瞬、口ごもった。顔を覆った頭巾 の隙から、悲しげな眼 が見つめてくる。
「心配じゃなくて本当なのに……」
その言葉を聞いたとたんに、声を荒げてしまった。責められているような気がしてカッとなったのだ。
「だけどたったひとつだぜ? 余分のひとつも拾えないくらいなら、必要なひとつだって拾えないじゃないか!」
納得がいかないと言いたげな声音は、相手の不調を疑っているように見えただろう。
事実、疑っていた。看病で通うことに疲れ果て、甘えすぎだと腹を立てたのだ。石の便りを思いついたのも、心労が限界に達し、本当に具合の悪いときだけ看 にゆくことになったからだ。
リマはとうとう泣き出した。
「あなたの言うたったひとつがどんなに辛いか知ってるの? 丈夫な体を持った人には想像もつかないでしょうけれど、ほんとうに辛いのよ。苦しいのよ」
「だって、そしたらオイラはどうするんだい? 石がひとつも来ないときはどうしたらいいんだい? たったひとつの石ころも持ちあげられないのかって、いても立ってもいられなくなるじゃないか!」
執拗に我を通そうとしたのは不安のためだ。やせ細った恋人を想いながら毛布をかぶると、うとうとしながら飛びあがることがあった。冷や水に浸かったような感覚にたたき起こされて目を開けたあと、風にゆれる木の枝を眺めながら思うのだ。
(たった今リマが死んだ! リマが死んだ! オイラは間に合わなかった。なんにもしてやれなかった!)
――と。
いらだちに我を忘れ、
「たったひとつなのに、なんでだよ!」
肩をつかんで問いただすと、リマはひび割れた鈴の声で叫んだ。
「だったらいっそ、元気なときはなにも送らなければいい! そしたらセキヤは、わたしが死んだあとも永久に元気だと信じていられるんだわ」
元気なときにはふたつ、そうでないときはひとつだけ。
その要求を呑んだのは、さんざんな愁嘆場を演じたあとのことだった。
看護人の家のまえに立つと、セキヤは手で胸のあたりをこすって息をついた。家族ぐるみで病人の世話をする者たち――と言うと聞こえはいいが、呪われた病のある場所に寝泊まりしているということは、出自をたどれば咎人にあたるということだ。リマの面倒をみているのは、先々代の王が崩御したさい恩赦を受た者の子孫で、罪を清めるために病人の世話をさせられているのだという。無愛想な主人は酒びたりで仕事をせず、家に帰ることも滅多にない。妻のほうは他に男を作って逃げてしまった。病人を看護しているのは四人の子供たちだが、長兄のダグは怠け者、年頃にさしかかった長女のカーラには縁談がなく、男手を務めているのはやっと十一になったばかりの次男ボージン、末弟のバルーは長患いに伏せっているありさまだ。
木造りのそまつなドアを叩いて、セキヤは手なずけた子供の名を呼んだ。
「ボージン? オイラ、セキヤだよ。久しぶりに戻ったんでリマに会わせてくんないか」
なにやら臭うような気配がざわざわうごめいたかと思うと、きしんだ音とともにドアが開いた。細く開いたすきまから、穴のような黒目がのぞく。
「そんな、急に言われても……。リマはやっと眠ったところなんだから」
日当たりの悪い部屋の中はほとんど真っ暗で、瑠璃の目を使わなければ中のようすが分からない。隅におかれたベッドの上で、バルーがサナギのように丸くなっている。今日ひかえているのはこの二人だけらしい。
「そんなこと言わないでさ……。久しぶりに戻ったんだから頼むよ」
たっぷりの小銭を戸口のすきまから差し入れると、ボージンはおずおず受けとって確かめた。知る限りでは、家族の中で一番むごい扱いを受けているのがこの次男坊だ。いつもおどおどと落ち着きがなく、優しくしてもうちとけず、相手の顔色をうかがってばかりいる。セキヤは続けて、大きくふくらんだ飴の袋を振って見せた。
「ほら、おみやげ。バルーが好きなやつ。なにも食う気が起きないときでもこれなら食べられるって、せんに言ってただろう? 今朝、市場へ寄ったらちょうどよく売りに出てたんだ」
ボージンは恐る恐る手をのばした。珍しい灰緑の飴玉には、香草が入っているはずだ。甘みは強くあとをひくのに、口に入れた瞬間には苦いような香りがする。不思議なことにこの香りが、食欲の落ちた病人にはすっきりと感じられるらしい。よほど特別な品なのか、広い市場でも売っているのは一軒だけで、十日に一度ほどしか入荷しないのだった。
くんくん匂いをかいだあとで、ボージンは上目づかいに見あげて尋ねた。
「あの……まさか、わざわざ探して買って来たの?」
「なあに、死んだオイラの弟もこいつが大好物だったのさ。いつ店に出るか、いつ店に出るかって、二人して市場をのぞきに行ったもんだ。と言っても年に一度くらいしか買えないんだけどな。こいつが店先に出るとなんかいいことがありそうな気がして、一日いい気分だったよ」
あれこれ思い出すうちに目が遠くなっていたのだろう。息を呑んだようなボージンの顔つきに気がつくと、セキヤは慌てて視線をもどした。
「ま、そんなわけだから、いつごろどの店にならぶかオイラには分かるんだな」
「あ、ありがとう……」
ためらいがちに礼を言うと、ボージンは病人のベッドへすり寄っていった。
「ほらバルー。飴もらったから口あけな」
一方的につぶやくような物言いも、手を服にこすりつけてから飴玉をつまみあげるしぐさも、ぶっきらぼうそのものだ。しかし、肉親の不器用はかえっていじらしく、ときににじんで見えるものだということをセキヤ知っていた。
上着のすそを強く引きながら、歌うたいが囁いた。
「ね。セキヤに弟がいたって、ほんとう?」
「ああ。六つのときに死んじまったけどな」
案の定、信じられないと言わんばかりの反応が返ってきた。
「セキヤの弟って、想像できないよ!」
「しいっ。あんまり高い声でしゃべるな。ここは病人のいるところなんだからな」
バルーは熱でもあるのだろうか。うつろな瞳がひどく輝いていた。うながされるままに口を開き、飴が放りこまれると物も言わずにまた閉じる。そのようすを見ると、歌うたいの声が急に低くすり寄ってきた。
「あのね、セキヤ……。セキヤの弟はなんで死んだの? まさか誰かにやられたの? マジリだからって」
まさかとあしらいかけて、セキヤは思い直した。どうやら本気で聞いているようだ。眉間の暗さが普通ではない。
「いや、あいつは父親違いでさ……、そもそもマジリじゃなかった。ただちょっと、風邪こじらしてな」
ついつい視線が軒下へと泳いでしまう。答えながら頭をかいた。
弟のことはとても気に入っていた。騙されやすく泣き虫で、叩いても小突いてもあとをついて来た。もともと丈夫ではなかった体が肺炎にかかったのは、冬のはじめだったと思う。高熱で真っ赤になった顔をゆがめ、あえいで息をするさまが可愛くてたまらなかった。そばに居さえすればいつまでも一緒だと思っていたのに、朝起きたら死んでいたのだ。二度と遊べないと知らされたときの衝撃は格別だった。
物思いにふけっていると、ふっと歌うたいが黙りこんだ。空気の重さに負けたらしい。セキヤはようやく我に返った。
「オイラなんかに振り回されるのも、あと少しで終わりだよ。ここんとこきつく当たってばかりですまなかったな。ほんとにあと少しの辛抱だから」
耳元へ口を近づけ、小さくわびて背中を押さえてやる。――と、急に幼いころの情景が浮かんできて、あわてて手を離してしまった。死んでいるとは気がつかず、
「起きろよ」
と言いながら弟をゆさぶった、あのときの感触がよみがえったのだ。
歌うたいが口を開きかけたとき、ボージンが奧からもどってきた。ドアの隙から首をのばして、むやみに言い訳をはじめるのはいつものことだ。
「あのね、セキヤ。さっきも言ったけれど、リマはさっき寝たばかりなんだ。ここにいる人たちは、みんな夜が怖いんだ。ろくに寝られないもんだから、目をつむったらまぶたのまわりが真っ黒になってて、死んだみたいにぐったりしてさ……。可哀想で今は起こせないから、起きるまで待っててよ。面会の決まりなんだ、だから……」
「決まり破ったら、お前の姉ちゃんおっかないからな」
ボージンは口を曲げ、真っ赤になってうなずいた。こうまで怖じけた態度をとるときは、たいてい姉のカーラを恐れているのだ。怠惰で留守がちな父や兄にかわって病人の世話をとり仕切っている女だが、滅多にないほど剣突 で腰に手を当ててしゃべるのが癖になっている。怒る以外の感情を知らないのか、日がな一日、かん高い声でわめき散らしていた。セキヤはもう一度、部屋の中をうかがった。
「だけど今は留守なんだろう?」
ボージンはとたんに飛びあがった。
「ダメだったら! 面会の決まりを破ったらぶっ叩かれちゃうよ! バルーだって八つ当たりされるんだから! 寝たきりでどこへも逃げられないのに、姉ちゃん、姉ちゃんが……」
セキヤは反射的に息をつめた。ボージンはすっかり度を失っている。目にいっぱいの涙をためて、今にも泣きわめくかと思われた。たっぷりの幼さを残したその顔は、ゆがみじわでくしゃくしゃだ。
(あの女、よっぽど折檻 するんだな)
思わず顔を顰 めてしまう。カーラのことは、嫌いのくちだ。棒きれのような腕を振りあげて弟を追い回すさまを見ていると、
(ちょっと小突くぐらいにしとけば可愛いのに)
と嫌な心持ちになる。我ながら奇妙だと思うのだが、人間の不幸は大好きなのに、大好きな不幸を作り出す人間が好きではない。
薄汚れた少年の腕を、セキヤは軽く叩いた。
「分かってるよ、ボージン。お前、オイラが留守のあいだもちゃんと約束を守って、石の便りを届けてくれてたんだってな。こんなマジリにだって、約束には約束で返すくらいの性根はあらあな。決まりを破って困らせたりしないよ、約束する」
小さく手を振り、力のぬけた笑顔を送ってやると、ボージンは水を浴びせられたような顔つきになった。
「セ、セ、セキヤ。あの、あの僕……」
「分かってる分かってる。お前はマジリを馬鹿にしてないよな。最初からそうだった。ちゃんと知ってるよ。だからお使いにかこつけて小遣いをやろうって気になったのさ」
「そ、それはセキヤが僕をバカにしなかったから……」
と言ったなり、ボージンは気圧 されたように黙りこくってしまった。子供を相手にしていると、その反応を通して自分の姿が見えてしまうときがある。恐らく今は、声音も顔つきも尋常ではないのだ。
セキヤは無言で歌うたいへ合図を送り、保養小屋の決まりにしたがって、林の入口までさがって待った。
呼ばれるまでの時間はひどく長くてからっぽだった。晴れあがった初夏の空はバカバカしく思えるほどにまぶしい。はじめはおとなしくしていた歌うたいも、風に誘われてキリキリ鳴く虫を採ったり、時期遅れの木の実を探してきたりと、うろうろ歩き回っている。ぼんやり雲を眺めていると、ひからびた山イチゴを差し出してしきりに勧めてきた。
「お前が食えよ」
なんの気なしに断ると、しゅんとうなだれて向こうへ行ってしまった。
(ひょっとして、オイラを慰めようとしたのかな)
ようやく気づいて、呼び戻そうと振り返る。なにやらおぼつかない足取りでボージンがやって来たのは、そのときだ。
「セキヤ、リマが起きたんだけど、今日はあんまり調子がよくないんだって……。近ごろ昔のこと忘れちゃってさ……、ときどきへんなこと言ったりするけど怒らないでよ」
相変わらずビクビクとして暗い表情だ。無言のうちにうなずくと、気もそぞろのようすでつけ加えた。
「それから、お願いだから早くすませてよ。姉ちゃん昨日からものすごく機嫌が悪いんだ。僕が勝手に面会させたってバレたら、きっと怒ってリマにまで八つ当たりするよ。最近ほんとに目茶苦茶なんだ。酒なんか飲むようになって、だからセキヤ……」
いつもは楽しめるはずの取り乱しようが今日はわずらわしい。振り払うようにセキヤはさえぎった。
「その話は分かったからしつこくするな! 困らせないって約束したじゃねえか」
ボージンはうなだれると、保養小屋へ続く柵の扉をそろそろと開いていった。
背中を丸め、足を踏み入れながら、セキヤはこわばったような相棒をかえりみた。
「しばらくここで待っててくれ。大事な話を終わらせてくるから」
いっぱいに敷き詰められた小石の色が、光を吸って目に痛い。わずか数十歩の細道を、地平にとどくほど遠いと思った。
これからリマに会いにゆく。
歌うたいはむっつりとして、宿を出てからうつむいたきりだ。歩みもひどくのろかった。ひといちばい敏感なこの子供は、今後の
中腹の坂を登り切ると、頑丈な高柵に囲まれた保養小屋が見えてきた。檻のような高柵の出入り口には、侵入者を拒むように看護人の家が立ちふさがっている。その背後に
小屋のまわりに敷き詰められた白石が、浅緑の
セキヤは腰を折り、道ばたにはみ出した石をすくいあげて親指でなでた。
「元気なときはひとつ、具合が悪いときはふたつ、ロシェナのおんバアあてに石をよこしてくれ。小屋番のガキに小遣いはずんどいたから、喜んで使いに出てくれるよ」
考えながら切り出した言葉をやんわり抑えて、
「お願いだから逆にしてちょうだい。元気ならふたつ、会いたいときにはひとつ」
とせがんだ声が、今も耳に残っている。
「え、どうしてだい?」
不思議に思って尋ね返すとリマはゆっくり目を伏せた。
「具合が悪いときにふたつ拾うのは辛いの。拾おうとして頭をさげると、目が回って倒れそうな気がするの」
だったらそうしよう――と言いかけた言葉が、どうしたわけか咽の奥につかえた。気がついたときには、
「そんな、ひとつ余分に拾うだけなのに」
と文句を言っていたのだ。
「そのひとつが苦しくて……」
「だいじょうぶだよ、心配しすぎだったら」
強く言い添えるとリマは一瞬、口ごもった。顔を覆った
「心配じゃなくて本当なのに……」
その言葉を聞いたとたんに、声を荒げてしまった。責められているような気がしてカッとなったのだ。
「だけどたったひとつだぜ? 余分のひとつも拾えないくらいなら、必要なひとつだって拾えないじゃないか!」
納得がいかないと言いたげな声音は、相手の不調を疑っているように見えただろう。
事実、疑っていた。看病で通うことに疲れ果て、甘えすぎだと腹を立てたのだ。石の便りを思いついたのも、心労が限界に達し、本当に具合の悪いときだけ
リマはとうとう泣き出した。
「あなたの言うたったひとつがどんなに辛いか知ってるの? 丈夫な体を持った人には想像もつかないでしょうけれど、ほんとうに辛いのよ。苦しいのよ」
「だって、そしたらオイラはどうするんだい? 石がひとつも来ないときはどうしたらいいんだい? たったひとつの石ころも持ちあげられないのかって、いても立ってもいられなくなるじゃないか!」
執拗に我を通そうとしたのは不安のためだ。やせ細った恋人を想いながら毛布をかぶると、うとうとしながら飛びあがることがあった。冷や水に浸かったような感覚にたたき起こされて目を開けたあと、風にゆれる木の枝を眺めながら思うのだ。
(たった今リマが死んだ! リマが死んだ! オイラは間に合わなかった。なんにもしてやれなかった!)
――と。
いらだちに我を忘れ、
「たったひとつなのに、なんでだよ!」
肩をつかんで問いただすと、リマはひび割れた鈴の声で叫んだ。
「だったらいっそ、元気なときはなにも送らなければいい! そしたらセキヤは、わたしが死んだあとも永久に元気だと信じていられるんだわ」
元気なときにはふたつ、そうでないときはひとつだけ。
その要求を呑んだのは、さんざんな愁嘆場を演じたあとのことだった。
看護人の家のまえに立つと、セキヤは手で胸のあたりをこすって息をついた。家族ぐるみで病人の世話をする者たち――と言うと聞こえはいいが、呪われた病のある場所に寝泊まりしているということは、出自をたどれば咎人にあたるということだ。リマの面倒をみているのは、先々代の王が崩御したさい恩赦を受た者の子孫で、罪を清めるために病人の世話をさせられているのだという。無愛想な主人は酒びたりで仕事をせず、家に帰ることも滅多にない。妻のほうは他に男を作って逃げてしまった。病人を看護しているのは四人の子供たちだが、長兄のダグは怠け者、年頃にさしかかった長女のカーラには縁談がなく、男手を務めているのはやっと十一になったばかりの次男ボージン、末弟のバルーは長患いに伏せっているありさまだ。
木造りのそまつなドアを叩いて、セキヤは手なずけた子供の名を呼んだ。
「ボージン? オイラ、セキヤだよ。久しぶりに戻ったんでリマに会わせてくんないか」
なにやら臭うような気配がざわざわうごめいたかと思うと、きしんだ音とともにドアが開いた。細く開いたすきまから、穴のような黒目がのぞく。
「そんな、急に言われても……。リマはやっと眠ったところなんだから」
日当たりの悪い部屋の中はほとんど真っ暗で、瑠璃の目を使わなければ中のようすが分からない。隅におかれたベッドの上で、バルーがサナギのように丸くなっている。今日ひかえているのはこの二人だけらしい。
「そんなこと言わないでさ……。久しぶりに戻ったんだから頼むよ」
たっぷりの小銭を戸口のすきまから差し入れると、ボージンはおずおず受けとって確かめた。知る限りでは、家族の中で一番むごい扱いを受けているのがこの次男坊だ。いつもおどおどと落ち着きがなく、優しくしてもうちとけず、相手の顔色をうかがってばかりいる。セキヤは続けて、大きくふくらんだ飴の袋を振って見せた。
「ほら、おみやげ。バルーが好きなやつ。なにも食う気が起きないときでもこれなら食べられるって、せんに言ってただろう? 今朝、市場へ寄ったらちょうどよく売りに出てたんだ」
ボージンは恐る恐る手をのばした。珍しい灰緑の飴玉には、香草が入っているはずだ。甘みは強くあとをひくのに、口に入れた瞬間には苦いような香りがする。不思議なことにこの香りが、食欲の落ちた病人にはすっきりと感じられるらしい。よほど特別な品なのか、広い市場でも売っているのは一軒だけで、十日に一度ほどしか入荷しないのだった。
くんくん匂いをかいだあとで、ボージンは上目づかいに見あげて尋ねた。
「あの……まさか、わざわざ探して買って来たの?」
「なあに、死んだオイラの弟もこいつが大好物だったのさ。いつ店に出るか、いつ店に出るかって、二人して市場をのぞきに行ったもんだ。と言っても年に一度くらいしか買えないんだけどな。こいつが店先に出るとなんかいいことがありそうな気がして、一日いい気分だったよ」
あれこれ思い出すうちに目が遠くなっていたのだろう。息を呑んだようなボージンの顔つきに気がつくと、セキヤは慌てて視線をもどした。
「ま、そんなわけだから、いつごろどの店にならぶかオイラには分かるんだな」
「あ、ありがとう……」
ためらいがちに礼を言うと、ボージンは病人のベッドへすり寄っていった。
「ほらバルー。飴もらったから口あけな」
一方的につぶやくような物言いも、手を服にこすりつけてから飴玉をつまみあげるしぐさも、ぶっきらぼうそのものだ。しかし、肉親の不器用はかえっていじらしく、ときににじんで見えるものだということをセキヤ知っていた。
上着のすそを強く引きながら、歌うたいが囁いた。
「ね。セキヤに弟がいたって、ほんとう?」
「ああ。六つのときに死んじまったけどな」
案の定、信じられないと言わんばかりの反応が返ってきた。
「セキヤの弟って、想像できないよ!」
「しいっ。あんまり高い声でしゃべるな。ここは病人のいるところなんだからな」
バルーは熱でもあるのだろうか。うつろな瞳がひどく輝いていた。うながされるままに口を開き、飴が放りこまれると物も言わずにまた閉じる。そのようすを見ると、歌うたいの声が急に低くすり寄ってきた。
「あのね、セキヤ……。セキヤの弟はなんで死んだの? まさか誰かにやられたの? マジリだからって」
まさかとあしらいかけて、セキヤは思い直した。どうやら本気で聞いているようだ。眉間の暗さが普通ではない。
「いや、あいつは父親違いでさ……、そもそもマジリじゃなかった。ただちょっと、風邪こじらしてな」
ついつい視線が軒下へと泳いでしまう。答えながら頭をかいた。
弟のことはとても気に入っていた。騙されやすく泣き虫で、叩いても小突いてもあとをついて来た。もともと丈夫ではなかった体が肺炎にかかったのは、冬のはじめだったと思う。高熱で真っ赤になった顔をゆがめ、あえいで息をするさまが可愛くてたまらなかった。そばに居さえすればいつまでも一緒だと思っていたのに、朝起きたら死んでいたのだ。二度と遊べないと知らされたときの衝撃は格別だった。
物思いにふけっていると、ふっと歌うたいが黙りこんだ。空気の重さに負けたらしい。セキヤはようやく我に返った。
「オイラなんかに振り回されるのも、あと少しで終わりだよ。ここんとこきつく当たってばかりですまなかったな。ほんとにあと少しの辛抱だから」
耳元へ口を近づけ、小さくわびて背中を押さえてやる。――と、急に幼いころの情景が浮かんできて、あわてて手を離してしまった。死んでいるとは気がつかず、
「起きろよ」
と言いながら弟をゆさぶった、あのときの感触がよみがえったのだ。
歌うたいが口を開きかけたとき、ボージンが奧からもどってきた。ドアの隙から首をのばして、むやみに言い訳をはじめるのはいつものことだ。
「あのね、セキヤ。さっきも言ったけれど、リマはさっき寝たばかりなんだ。ここにいる人たちは、みんな夜が怖いんだ。ろくに寝られないもんだから、目をつむったらまぶたのまわりが真っ黒になってて、死んだみたいにぐったりしてさ……。可哀想で今は起こせないから、起きるまで待っててよ。面会の決まりなんだ、だから……」
「決まり破ったら、お前の姉ちゃんおっかないからな」
ボージンは口を曲げ、真っ赤になってうなずいた。こうまで怖じけた態度をとるときは、たいてい姉のカーラを恐れているのだ。怠惰で留守がちな父や兄にかわって病人の世話をとり仕切っている女だが、滅多にないほど
「だけど今は留守なんだろう?」
ボージンはとたんに飛びあがった。
「ダメだったら! 面会の決まりを破ったらぶっ叩かれちゃうよ! バルーだって八つ当たりされるんだから! 寝たきりでどこへも逃げられないのに、姉ちゃん、姉ちゃんが……」
セキヤは反射的に息をつめた。ボージンはすっかり度を失っている。目にいっぱいの涙をためて、今にも泣きわめくかと思われた。たっぷりの幼さを残したその顔は、ゆがみじわでくしゃくしゃだ。
(あの女、よっぽど
思わず顔を
(ちょっと小突くぐらいにしとけば可愛いのに)
と嫌な心持ちになる。我ながら奇妙だと思うのだが、人間の不幸は大好きなのに、大好きな不幸を作り出す人間が好きではない。
薄汚れた少年の腕を、セキヤは軽く叩いた。
「分かってるよ、ボージン。お前、オイラが留守のあいだもちゃんと約束を守って、石の便りを届けてくれてたんだってな。こんなマジリにだって、約束には約束で返すくらいの性根はあらあな。決まりを破って困らせたりしないよ、約束する」
小さく手を振り、力のぬけた笑顔を送ってやると、ボージンは水を浴びせられたような顔つきになった。
「セ、セ、セキヤ。あの、あの僕……」
「分かってる分かってる。お前はマジリを馬鹿にしてないよな。最初からそうだった。ちゃんと知ってるよ。だからお使いにかこつけて小遣いをやろうって気になったのさ」
「そ、それはセキヤが僕をバカにしなかったから……」
と言ったなり、ボージンは
セキヤは無言で歌うたいへ合図を送り、保養小屋の決まりにしたがって、林の入口までさがって待った。
呼ばれるまでの時間はひどく長くてからっぽだった。晴れあがった初夏の空はバカバカしく思えるほどにまぶしい。はじめはおとなしくしていた歌うたいも、風に誘われてキリキリ鳴く虫を採ったり、時期遅れの木の実を探してきたりと、うろうろ歩き回っている。ぼんやり雲を眺めていると、ひからびた山イチゴを差し出してしきりに勧めてきた。
「お前が食えよ」
なんの気なしに断ると、しゅんとうなだれて向こうへ行ってしまった。
(ひょっとして、オイラを慰めようとしたのかな)
ようやく気づいて、呼び戻そうと振り返る。なにやらおぼつかない足取りでボージンがやって来たのは、そのときだ。
「セキヤ、リマが起きたんだけど、今日はあんまり調子がよくないんだって……。近ごろ昔のこと忘れちゃってさ……、ときどきへんなこと言ったりするけど怒らないでよ」
相変わらずビクビクとして暗い表情だ。無言のうちにうなずくと、気もそぞろのようすでつけ加えた。
「それから、お願いだから早くすませてよ。姉ちゃん昨日からものすごく機嫌が悪いんだ。僕が勝手に面会させたってバレたら、きっと怒ってリマにまで八つ当たりするよ。最近ほんとに目茶苦茶なんだ。酒なんか飲むようになって、だからセキヤ……」
いつもは楽しめるはずの取り乱しようが今日はわずらわしい。振り払うようにセキヤはさえぎった。
「その話は分かったからしつこくするな! 困らせないって約束したじゃねえか」
ボージンはうなだれると、保養小屋へ続く柵の扉をそろそろと開いていった。
背中を丸め、足を踏み入れながら、セキヤはこわばったような相棒をかえりみた。
「しばらくここで待っててくれ。大事な話を終わらせてくるから」
いっぱいに敷き詰められた小石の色が、光を吸って目に痛い。わずか数十歩の細道を、地平にとどくほど遠いと思った。
これからリマに会いにゆく。