逃げる
河波が船にあたって、ちゃぷりとつぶやいた。女の髪のような緑藻が水面下にゆらゆらとゆれている。底の見えない水の流れを、セキヤはぼんやりと見つめていた。
岸の方では、吠えるようにして牛飼いが牛を呼んでいる。顔をあげてそちらを見やると、群れをはなれた雄牛 が一頭、浮き草に向かって懸命に泳いでいた。この土地の牛飼いは、雌牛 にある種の浮き草を食わせることがある。そのほうが良い乳を出すからというのだが、なにかの加減でオスのほうが味を覚えてしまったのだろう。船のなかの行商人が、膝をたたいて大笑いをした。景気よく立ちあがって船べりにはりついたかと思うと、太い腕を振り回して牛を呼びはじめる。
「オーイ、色男ォ! いい乳出せやあ!」
船客は爆笑した。手を打っていっせいにはやしたてると、牛飼いのおやじも向こう岸で体を折って笑った。手にした芦の茎を振りながら、牛を呼ぶときと同じ声、同じ節回しで、ゆったりと叫ぶ。
「気ィつけてなあ! 笑いすぎて水に落ちるんじゃないぞう」
「そっちこそ河の娘のご加護がありますようにだ!」
雄牛があいづちを打つようにぼうと鳴く。船客はいっそう笑い転げた。
地方特有のあいさつが交わされるなか、セキヤは草地の奧に横たわる険 しい稜線を眺めながら、別の場所にいるかのようにぼうっと座っていた。歌うたいが気づかわしげにすり寄ってきて、声をかけた。
「セキヤ、お腹はすかないの」
顔をそちらへ向けるより早く、鼻先へぬうっと干しイモが出てきた。セキヤは軽くのけぞって首をふった。
「いらねえよ」
「今日はなにも食べてない」
「腹具合がぱっとしないだけだ。たいしたこたねえ」
ぶっきらぼうに返すと、歌うたいはイモを持ちあげたままの姿勢で顔だけうつむいていった。
(いじめ甲斐のない奴)
悲しそうな顔を見せてほしいと思うときには少しもそんなそぶりをしないくせに、何を見ても楽しめないと思うときに限って、胸の騒ぐような悲しみを見せる。
(リマに似てる)
古びた針のような恋人の姿が芦のしげみに重なっては消え、重なっては消え、意気地のなさを責めているようだった。
歌うたいが再び尋ねた。
「ほんとにイモは要らないの」
相変わらず頭を垂れたままで、泣いているかに見える。セキヤは手のひらを膝にこすりつけると、差し出されたものをとってやった。とったはいいが口に運ぶ気がしない。干しイモの表面に細かくよったしわを見ると、咽がつまりそうだ。
「干しイモはきらい?」
「味は別にかまわないけど、色もしわも年寄りの皮みたいで、どうにも姿がいけねえや」
「年寄りがきらいなんだ」
セキヤはゆっくりと息をついた。
「リマを思い出すからな」
歌うたいは目をしばたたいた。事情を知らない者にはなんのことやら分からないだろう。
「霊山の魔女の呪いでかかる病気ってもんが、オイラの故郷にあるんだよ」
「それはへんだと思う……」
「なんで」
「セキヤの故郷 にあるのはへんだよ。霊山はアノイにあるんだから、アノイの人がかからないと」
セキヤは苦笑して歌うたいの頭を小突いた。
「オイラもそう思ったよ。だけどさ。あの手もこの手もつくしきって、それでも見込みがないとしたら、どんなバカな迷信にだってすがるもんだ」
歌うたいは目を見開いて早口に言った。
「セキヤは魔女を迷信だと思ってたの?」
「ああ、思ってたさ。それでも探さずにはいられなかった」
船べりにあたる波のしぶきは、泥の匂いがするようだ。長くうねった藻のなかを、なにかの生き物が泳いでいった。
「はじめのうちは、魔法使いに弟子入りすれば秘密の薬の作り方でも教えてもらえるんじゃないかと、かんたんに考えてた。それがダメだと分かったときには、じゃあ土地の水とか土とかを調べてまわれば原因くらいは分かるんじゃないか、なんてな。
イナカ魔法使いの破門弟子のくせして、あさはかなもんだ。オイラにそれができるくらいなら、ほかの誰かがとっくにやってるよなあ?」
誰にもどうにもできないからこそ、呪いだということにされたのだ。そう思いはじめたときにも、あきらめることができなかった。
「女ばかりがかかる病気でさあ。どういうわけかきれいな娘が多いんで、魔女が嫉妬して若さを奪うんだろう、なんて言われてるんだ。このあたりの魔女で有名どころっていったら、霊山のだしな」
歌うたいは身を乗り出した。
「でも、聖女さまは助けてくれるって言ったよ」
「言ってねえよ。完璧にやってもどうせダメだって、そう言ったんだ」
力なく答えると、歌うたいの瞳に激しい光が宿った。形のよい唇がひくひくと身じろぎをして、生き魚のようだ。セキヤは目をそらした。その口がぱっくり開いて、いまにも高く叫びそうに思えたからだ。
「あきらめる言い訳がそれ?」
――と。
しかし責める言葉は降りかかってこなかった。
「若さを奪われる病気なの?」
つぶやくような問いかけののち、少しの沈黙があっただけだ。
「うん。十八にもならない女がさ、あっという間に年老いて、髪が抜けて歯が抜けてしわくちゃになってさ。老衰とか卒中とかで死んでいくんだよな。それだけじゃなく最後には」
「聖女さまはそんなことしないよ」
セキヤはそれへは答えなかった。他人の信仰について、あれこれ言うのは馬鹿だ。ましてや異民族が相手では。むくれた顔を見るうちに、話すつもりのなかったことをうっかり口にしてしまった。
「リマの奴さ、いちばん最後に会ったとき『近ごろ髪の毛が薄いみたいなの』って、泣いてたんだよなあ。保養小屋でもらった頭巾 を肩まですっぽりかぶってさ。目のところだけ四角い穴があいてるやつ。
そのうえから手ふきみたいな布きれかぶって、目まで隠してさ。こうやってきつくあごを引いて、『しわもひどいから見られたくない』って、とうとう上を向かなかった」
冬でもないのに長袖を着て、指の先まで隠しているのが腹立たしくも痛かった。
(姿かたちで嫌ったりしねえって、なんども言ってるじゃないか)
現にこうして会いに来ているのに、どうして信じてくれないのだろう。助けるための長旅に出ると言っているのに、顔を見ようともしない。
(もしかしてオイラがマジリだから?)
肩先から鎌首をもたげたのは、そんな疑念だった。
(醜い姿を面白がると思っているのか!)
物思いにふけっていると、歌うたいが不満げに抗議をした。
「霊山の聖女はそんなひどいことしないったら」
「そりゃそうだろうさ。お前のことだって助けたんだからな」
何気なくそうあしらうと、急に黙ってしまった。
セキヤはもてあましていた食べ物を、痩せた手のうえに返した。干したジャガイモを見るのは苦手だ。しわだらけになった皮の濁りは、リマの手を思わせる。
「お願いだから絶対に見ないで」
涙をのんだしゃがれ声が訴えるのを聞き入れず、強引につかんで袖から引きずり出してしまったのだ。
両手を握って言ってやりたかった。
「必ず薬を見つけて帰ってくるから、待っててくれ」
と、ゆさぶるように励ましたかった。
(オイラはバカだ)
あらわになった手の節を見るまで、それが残酷な身勝手だとは気づかなかった。喜ばせることができると信じていたのだ。どんな姿になろうと、変わらずに両手を包んでくれる男だと知らせれば、心安らぐに違いないと。
(てめえのほうが安らぎたい一心で、あんなに泣いて頼むものを)
息のつまるような時のあと、船頭がよくとおる声で叫んだ。
「岸に着くぞ! 合図しろやあ!」
旅疲れにうつむいていた客たちがいっせいにのびをし、声をたてた。小柄な男が船着き場の板に立って、合図をおくってくる。
「ホーイ! ホーイ!」
「ホーイ!」
「船着くぞう!」
「乗りたかったら急げやあ」
となりに座っていた男が立ちあがり、空へ向かって大あくびをした。
「アアー、着いた着いた!」
「まだ立つな! 危ねえぞ!」
船頭は叱りつけたが男は首をすくめただけで、こともあろうに、
「よっこらしょっと!」
とかけ声をかけて岸に跳びうつってしまった。小さな船は大きくよろけて、へりまで水が来そうになった。
「バカ野郎ッ」
罵声や抗議が飛びかうなか、セキヤはのろのろと荷物を抱え、正午の陽ざしに目を細めながら下船を待った。
行くときにはたいへんな日数と労力をかけて荒れ地を北上し、山越えをしたというのに、流れにまかせて国境河川をくだると帰り着くのはあっという間だ。故郷の空気は湿気を含んで暖かく、重い体にまとわりついてよけいに足をのろくした。
手でひさしを作って道を見やり、陽のまぶしさに目を閉じる。市場にならぶ赤と黄色のテント屋根は、この町の名物だ。野菜を手にとり、品定めをする女たちのにぎわいは弾けるように暖かく、数日まえのできごとが白昼夢のようだ。
セキヤは麻の上着についたフードを引いて、目深 にかぶり直した。
(ここはもうアノイじゃない)
その実感に包まれると、またひとつ力がぬけてゆく。
町なかの古神殿が鐘を鳴らして正午を知らせた。小走りに追いつきながら、歌うたいが尋ねかけてくる。
「どこへ行くの」
セキヤはふっと立ち止まった。その声で我に返ったのだ。けだるさをこらえて振り向きながら、
「ロシェナのおんバアに会いに行くんだよ」
と答えると、歌うたいは首をかしげて考えるふうをした。
「ロシェナって、占いの人?」
どうして知ってるんだ、と言いそうになって口を閉じる。行き場をなくしたリュースにロシェナのことを教えたのは、ほかならぬ自分だったからだ。
「ああ、そうだよ。おんバアの店はメシ屋もかねてるから、今がちょうど店開きなんだ。イモでも肉でも、おまえの好きなもん食っていいぞ」
とうけあうと、墓所を出て以来、沈みきっていた瞳がパッと輝いた。
「ほんとう? セキヤ」
「ほんとだともさ」
「あのお姉さんの無事を確かめに行くんだよね? あきらめないんだね?」
言葉につまって黙りこんだあと、薄い背中を押して歩き出した。
誉められた話ではない。なけなしのけじめをつけに行くだけだ。
岸の方では、吠えるようにして牛飼いが牛を呼んでいる。顔をあげてそちらを見やると、群れをはなれた
「オーイ、色男ォ! いい乳出せやあ!」
船客は爆笑した。手を打っていっせいにはやしたてると、牛飼いのおやじも向こう岸で体を折って笑った。手にした芦の茎を振りながら、牛を呼ぶときと同じ声、同じ節回しで、ゆったりと叫ぶ。
「気ィつけてなあ! 笑いすぎて水に落ちるんじゃないぞう」
「そっちこそ河の娘のご加護がありますようにだ!」
雄牛があいづちを打つようにぼうと鳴く。船客はいっそう笑い転げた。
地方特有のあいさつが交わされるなか、セキヤは草地の奧に横たわる
「セキヤ、お腹はすかないの」
顔をそちらへ向けるより早く、鼻先へぬうっと干しイモが出てきた。セキヤは軽くのけぞって首をふった。
「いらねえよ」
「今日はなにも食べてない」
「腹具合がぱっとしないだけだ。たいしたこたねえ」
ぶっきらぼうに返すと、歌うたいはイモを持ちあげたままの姿勢で顔だけうつむいていった。
(いじめ甲斐のない奴)
悲しそうな顔を見せてほしいと思うときには少しもそんなそぶりをしないくせに、何を見ても楽しめないと思うときに限って、胸の騒ぐような悲しみを見せる。
(リマに似てる)
古びた針のような恋人の姿が芦のしげみに重なっては消え、重なっては消え、意気地のなさを責めているようだった。
歌うたいが再び尋ねた。
「ほんとにイモは要らないの」
相変わらず頭を垂れたままで、泣いているかに見える。セキヤは手のひらを膝にこすりつけると、差し出されたものをとってやった。とったはいいが口に運ぶ気がしない。干しイモの表面に細かくよったしわを見ると、咽がつまりそうだ。
「干しイモはきらい?」
「味は別にかまわないけど、色もしわも年寄りの皮みたいで、どうにも姿がいけねえや」
「年寄りがきらいなんだ」
セキヤはゆっくりと息をついた。
「リマを思い出すからな」
歌うたいは目をしばたたいた。事情を知らない者にはなんのことやら分からないだろう。
「霊山の魔女の呪いでかかる病気ってもんが、オイラの故郷にあるんだよ」
「それはへんだと思う……」
「なんで」
「セキヤの
セキヤは苦笑して歌うたいの頭を小突いた。
「オイラもそう思ったよ。だけどさ。あの手もこの手もつくしきって、それでも見込みがないとしたら、どんなバカな迷信にだってすがるもんだ」
歌うたいは目を見開いて早口に言った。
「セキヤは魔女を迷信だと思ってたの?」
「ああ、思ってたさ。それでも探さずにはいられなかった」
船べりにあたる波のしぶきは、泥の匂いがするようだ。長くうねった藻のなかを、なにかの生き物が泳いでいった。
「はじめのうちは、魔法使いに弟子入りすれば秘密の薬の作り方でも教えてもらえるんじゃないかと、かんたんに考えてた。それがダメだと分かったときには、じゃあ土地の水とか土とかを調べてまわれば原因くらいは分かるんじゃないか、なんてな。
イナカ魔法使いの破門弟子のくせして、あさはかなもんだ。オイラにそれができるくらいなら、ほかの誰かがとっくにやってるよなあ?」
誰にもどうにもできないからこそ、呪いだということにされたのだ。そう思いはじめたときにも、あきらめることができなかった。
「女ばかりがかかる病気でさあ。どういうわけかきれいな娘が多いんで、魔女が嫉妬して若さを奪うんだろう、なんて言われてるんだ。このあたりの魔女で有名どころっていったら、霊山のだしな」
歌うたいは身を乗り出した。
「でも、聖女さまは助けてくれるって言ったよ」
「言ってねえよ。完璧にやってもどうせダメだって、そう言ったんだ」
力なく答えると、歌うたいの瞳に激しい光が宿った。形のよい唇がひくひくと身じろぎをして、生き魚のようだ。セキヤは目をそらした。その口がぱっくり開いて、いまにも高く叫びそうに思えたからだ。
「あきらめる言い訳がそれ?」
――と。
しかし責める言葉は降りかかってこなかった。
「若さを奪われる病気なの?」
つぶやくような問いかけののち、少しの沈黙があっただけだ。
「うん。十八にもならない女がさ、あっという間に年老いて、髪が抜けて歯が抜けてしわくちゃになってさ。老衰とか卒中とかで死んでいくんだよな。それだけじゃなく最後には」
「聖女さまはそんなことしないよ」
セキヤはそれへは答えなかった。他人の信仰について、あれこれ言うのは馬鹿だ。ましてや異民族が相手では。むくれた顔を見るうちに、話すつもりのなかったことをうっかり口にしてしまった。
「リマの奴さ、いちばん最後に会ったとき『近ごろ髪の毛が薄いみたいなの』って、泣いてたんだよなあ。保養小屋でもらった
そのうえから手ふきみたいな布きれかぶって、目まで隠してさ。こうやってきつくあごを引いて、『しわもひどいから見られたくない』って、とうとう上を向かなかった」
冬でもないのに長袖を着て、指の先まで隠しているのが腹立たしくも痛かった。
(姿かたちで嫌ったりしねえって、なんども言ってるじゃないか)
現にこうして会いに来ているのに、どうして信じてくれないのだろう。助けるための長旅に出ると言っているのに、顔を見ようともしない。
(もしかしてオイラがマジリだから?)
肩先から鎌首をもたげたのは、そんな疑念だった。
(醜い姿を面白がると思っているのか!)
物思いにふけっていると、歌うたいが不満げに抗議をした。
「霊山の聖女はそんなひどいことしないったら」
「そりゃそうだろうさ。お前のことだって助けたんだからな」
何気なくそうあしらうと、急に黙ってしまった。
セキヤはもてあましていた食べ物を、痩せた手のうえに返した。干したジャガイモを見るのは苦手だ。しわだらけになった皮の濁りは、リマの手を思わせる。
「お願いだから絶対に見ないで」
涙をのんだしゃがれ声が訴えるのを聞き入れず、強引につかんで袖から引きずり出してしまったのだ。
両手を握って言ってやりたかった。
「必ず薬を見つけて帰ってくるから、待っててくれ」
と、ゆさぶるように励ましたかった。
(オイラはバカだ)
あらわになった手の節を見るまで、それが残酷な身勝手だとは気づかなかった。喜ばせることができると信じていたのだ。どんな姿になろうと、変わらずに両手を包んでくれる男だと知らせれば、心安らぐに違いないと。
(てめえのほうが安らぎたい一心で、あんなに泣いて頼むものを)
息のつまるような時のあと、船頭がよくとおる声で叫んだ。
「岸に着くぞ! 合図しろやあ!」
旅疲れにうつむいていた客たちがいっせいにのびをし、声をたてた。小柄な男が船着き場の板に立って、合図をおくってくる。
「ホーイ! ホーイ!」
「ホーイ!」
「船着くぞう!」
「乗りたかったら急げやあ」
となりに座っていた男が立ちあがり、空へ向かって大あくびをした。
「アアー、着いた着いた!」
「まだ立つな! 危ねえぞ!」
船頭は叱りつけたが男は首をすくめただけで、こともあろうに、
「よっこらしょっと!」
とかけ声をかけて岸に跳びうつってしまった。小さな船は大きくよろけて、へりまで水が来そうになった。
「バカ野郎ッ」
罵声や抗議が飛びかうなか、セキヤはのろのろと荷物を抱え、正午の陽ざしに目を細めながら下船を待った。
行くときにはたいへんな日数と労力をかけて荒れ地を北上し、山越えをしたというのに、流れにまかせて国境河川をくだると帰り着くのはあっという間だ。故郷の空気は湿気を含んで暖かく、重い体にまとわりついてよけいに足をのろくした。
手でひさしを作って道を見やり、陽のまぶしさに目を閉じる。市場にならぶ赤と黄色のテント屋根は、この町の名物だ。野菜を手にとり、品定めをする女たちのにぎわいは弾けるように暖かく、数日まえのできごとが白昼夢のようだ。
セキヤは麻の上着についたフードを引いて、
(ここはもうアノイじゃない)
その実感に包まれると、またひとつ力がぬけてゆく。
町なかの古神殿が鐘を鳴らして正午を知らせた。小走りに追いつきながら、歌うたいが尋ねかけてくる。
「どこへ行くの」
セキヤはふっと立ち止まった。その声で我に返ったのだ。けだるさをこらえて振り向きながら、
「ロシェナのおんバアに会いに行くんだよ」
と答えると、歌うたいは首をかしげて考えるふうをした。
「ロシェナって、占いの人?」
どうして知ってるんだ、と言いそうになって口を閉じる。行き場をなくしたリュースにロシェナのことを教えたのは、ほかならぬ自分だったからだ。
「ああ、そうだよ。おんバアの店はメシ屋もかねてるから、今がちょうど店開きなんだ。イモでも肉でも、おまえの好きなもん食っていいぞ」
とうけあうと、墓所を出て以来、沈みきっていた瞳がパッと輝いた。
「ほんとう? セキヤ」
「ほんとだともさ」
「あのお姉さんの無事を確かめに行くんだよね? あきらめないんだね?」
言葉につまって黙りこんだあと、薄い背中を押して歩き出した。
誉められた話ではない。なけなしのけじめをつけに行くだけだ。