水面みなもの細月

 その夜は冷や汗をかきながら眠っていた。重だるい暑さが体中にこもっている。炭火をはらんだような苦熱のなかで、皮膚一枚が冷たくぬめった。
(熱いよう)
(寒いよう……)
 相容れないふたつの感じを、同時に抱くことは辛い。セキヤは何度も寝返りをうった。かび臭い部屋のなかに、曇ったうめき声が充満している。夢うつつに聞くうち、不意にそれが自分のものではないことに気がついた。
(なんだ……?)
 意識が囁きかけたとたん、耳もとで鋭い魔物の声がした。
「嫌だ、嫌だよ! やめてよおぉぉ!」
 歌うたいが寝ぼけて叫んだのだ。
「うわっ」
 セキヤは思わずはね起きた。
「こら、いま何時だと思ってる! 魔物の声でわめくのはよせ!」
 思わず怒鳴って口を閉じた。自分の方が大声を出していることに気づいたからだ。
 しかし、癇障かんざわりにかけては相棒の方がはるかにうわてだった。その声には聞く者の静穏を奪う力がこもっているのだ。泊まり客からどんな苦情がくるとも分からない。あわてて起きあがり、月明かりを頼りに見ると、歌うたいは歯を食いしばってもがいていた。
「おい、おい、起きろ! 夢でも見てるのか?」
 何度も呼んでゆすったが、なかなかまぶたが開かない。
「う、う……」
 むせぶように軽くうめいて、ようやくおとなしくなった。
 セキヤは壁に耳をあてた。となり部屋に人の動く気配はあったが、怒鳴りこむつもりはないらしい。ほっとなって肩を落とすと、すぐに寝息が響いてきた。
 歌うたいはそれきり黙っていたが、バタリと毛布がつぶやいたかと思うと、うつ伏せになった。細い雲が空をよぎる。小窓のついた安宿が少しのあいだ闇になった。
 セキヤは小声で話しかけた。
「よお、起きてるんだろう?」
 歌うたいは応じるようにこちらを向いた。背中がめくれて表へ返るような、不思議な動きだ。目をしばたたいていると、
「いま何時?」
 と、具合が悪そうに尋ねた。
「たぶん真夜中。どうしたんだよ。なんか悪い夢でも見たのか?」
 歌うたいは首を振った。
「分かんない」
「いきなりやめてくれとか叫んでさ。夜中に折檻されてるみたいだったぜ」
「されたかも知れない」
「エ?」
「夢の中で」
「ああ、夢の中で」
「怖い――」
 セキヤは歌うたいの顔を見た。黒い瞳がぼんやりとにじんでいる。細い首筋を視線でなでおろすと、鎖骨のくぼみがふちのような影を落としているのに出会った。
(なんて不幸そうなんだ……)
 飛びつきたくなるのをこらえながら必死に平静を装った。へたなまねをすれば、この子供は町じゅうが飛び起きるような声で叫ぶだろう。なによりも――。
(マジリが飛びついたところで、なんにもできゃしないんだ)
 不幸の食べたかをセキヤは知らない。唇をつけて吸いとればよいのか、肉ごと噛みくだけばよいのか、かいもく見当がつかないのだ。魔物の父から空腹だけは授かったが、口と胃袋は授からなかった。欲望を行動にうつさない本当の理由は、それを思い知らされるのがあまりに切ないためだった。
 セキヤはベッドをすべりおりて、そっと階下へ忍んでいった。
「どこへ行くの?」
 不安げな声があとを着いてくる。
「ちょっと眠気覚まし」
 食堂を兼ねた一階は燭台ひとつをのぞいて灯りもなく、どことなくざわついた空気はあるものの、おおむね静かだった。新領主ヘクトールが街道を行進すると決まってからは、治安のための法度はっとがめじろおしだ。大量に流れこんでくる旅人の食い逃げや無賃宿泊を防ぐため代金は前払い制に変わったし、夕食時を過ぎると宿屋は酒を出すことができない。おかげで酒場は大盛況だが、夜の宿場は死んだようだ。夜番の親爺が居眠りから覚めて顔をあげたが、ほおづえをついたきり何も言わなかった。
「なんだかよく眠れなくてね、ちょっと裏庭を散歩してもいいかい?」
 声を低めて尋ねると、目をこすってうなずいた。

 初夏だというのに、北の夜風は冷たかった。宿屋の裏庭は、水たまりを大きくしたような池のほとりに栗の木がひとつあるばかりの、みすぼらしいものだ。黒く濁った水面に細月が弱々しく映っている。山脈から吹き下ろす風のさざ波に、ときどき小さく揺らいでいた。
 セキヤはその場にしゃがみこんで、長いこと黙りこくっていた。歌うたいは戸惑ったように立ちすくんでいたが、隣にやって来るとそうっとのぞきこんだ。まっすぐのびた眉のしたに、問いかけるような眼がある。曇りなく、薄明かりでもはっきり分かるほどに光って、その清澄が痛かった。
「子供はいいねえ、白目がきれいで」
 不意にそんな言葉を思い出す。セキヤの色違いの目をのぞきこんで、生みの母がよく言っていたのだ。思わず目をそらすと、
「だいじょうぶ、セキヤ」
 と、袖をつかんでゆすられた。
 いつものクセで「だいじょうぶ」と言いそうになって、セキヤは口をつぐんだ。奧のほうから茂みの鳴る音がガサガサと響く。何かの動物が横切っていったらしい。
 歌うたいが急に顔を近づけてきた。表情を読もうとしたのだろう。
「ね、セキヤ。だいじょうぶ?」
「逃げよう」
 と答えてから、セキヤはハッとあたりを見回した。
(今のはオイラが言ったのか?)
 もちろん別人ではあり得ない。しかし、なんの感情もこもらないその声は、自分の咽から出たとは思えなかった。
「どこか安全なところへ逃げよう」
 確認するように繰り返してから、相棒の顔を見る。歌うたいは意表を衝かれたように口をあけた。おぼろに浮かんでいたのは不安の色だった。