影の魔女

 黒い影は棒のように立ったまま、ねっとりとセキヤを見た。目も鼻もなく、もやのような姿でなぜそれが分かったのか、我ながら不思議だ。
「こなた、わらわが汚いとか」
 セキヤは息を飲んだ。よりによって探し求めていた魔女をののしってしまったのだ。歌うたいを抱えたまま、膝と尻であとずさって叫んだ。
「すまねえ! 悪いことを、い、言った」
「この姿は汚いか」
「汚くない!」
「いましがた、汚いと言った」
「許してくれ、オイラは」
 先が続かない。思わずうつむいて
「もうダメだ」
 と呟いた。
 黒い影が海ヘビのように宙を泳いで頬のそばに身をよせた。
「なにが駄目なのじゃ?」
 のしかかってくるような重圧だ。身動きがとれない。魂を抑えつけられたと思った。
「霊山の魔女に願い事をしに来たんだ。だけどもうダメだ怒らせちまって」
「機会をくれてやったのに」
 セキヤは歌うたいの体を投げ出して、土に手をついた。
「お願いだ! 悪気はなかったんだ! おっかなかっただけなんだよ。お願いだから頼みを聞いてくれ。なんでもするから!」
 魔女は咽をふるわせ、ととと、と笑った。
「霊山の魔女に約束事などするものではない」
「だけどオイラ必死なんだ。他に方法がないんだよ、頼む!」
「妾にくれるものが、こなたにあるのか」
「それは」
 思わずつばを飲んだ。探し求めていたものにこれほどたやすく出会えるとは、思ってもみなかった。何度も足を運び試みを受けて、いよいよここが怪しいとなったら準備を整え魔女を探す。それが思い描いた筋書きだったのだ。
「すまねえ、今日はなにも持ってきてないんだ。あんたが何を欲しがるかよく分からなかったし。それに、こんなに簡単に会ってもらえるとも思っていなくて。オイラ金も物も持っちゃいないが、命くらいならなんとかなるし」
 突然あたりの空気が震えた。鼓膜を打ちつけるような笑い声が幾重いくえにも重なって響き、大振動となって土を押しあげた。
(冗談じゃねえ! ここは魔物の腹ん中なのか? それとも魔女の?)
 判断がつかない。セキヤは再び歌うたいを抱えこんだ。どこかへ取られては困ると思ったのだ。体を丸めてこらえるうちに、ひどくそらぞらしい声が混じっているのに気がついた。芝居がかって空気の抜けるような音だった。あまりにバカバカしくて、本気で笑うつもりもないと言いたげだ。その声音だけが、奇妙に耳につく。
 魔女の姿をしたもやは、笑いがおさまるのを身じろぎもせずに待っている。幻の肉体であるはずなのに、息をこらしているのが分かった。
 笑い声がやむと、魔女は吐き捨てた。
「命なぞもっともくだらぬ贈り物よ。そのようなものをもらって、どうせよというのじゃ」
 セキヤはおそるおそる顔をあげた。
「あのう、食ったりできるんじゃないの?」
「こなたの命をか?」
「あんたの寿命がのびるとか、そういうわけにはいかないのかい?」
「いまのを聞いたか、子供たち!」
 魔女は声をあげて愉快そうに笑った。姿を持たない何十もの魔物たちがあとへと続く。
「どうしていちいち笑うんだよ!」
 思わず叫ぶと、くすくす声はさざなみのように引いていった。
「こなたの命など、とんだ口汚しじゃ。どのように不味まずいものか、その口にねじ込んで味あわせてやりたいものよ」
 魔女はなにもない空間を見回して同意を求めた。
「のう、よい子たち?」
 応じるように老人の声が「ひゃひゃひゃ」と言った。
「だったらどうすればいい? オイラ、助けてやりたい奴がいるんだよ。不治の病なんだ。どんな薬使いも絶対に治せないって。よこしまの術を極めた忌み手使いでもダメだって言うんだ。この世に治せる者がいるとしたら、あんたくらいしかないって教えられたから」
「おや。するとそれは、あの病かの」
 そうだと言いかけて、唇がひくひくするのが分かった。
「あんたの使えている女神が、その病を引き起こすって聞いたんだ。女神にとりなすことができるのはあんただけだ、そうだろう?」
「いかにも、かの女神に仕える者は妾だけじゃ。よこしまの術を極めた忌み手使いでもあるがの」
 その言葉を聞いたとたん、おそれで顔が勝手に地面にぶつかりいつくばっていた。
「す、すまねえ! 許してくれ、このとおりだ! 頼む、頼む!」
「必ず後悔するぞ」
「しないよ」
「する。必ずする」
「しないったら!」
「すると教えておるのに」
「しないよ! どんなことでもするって言ったじゃないか。なんでも犠牲にしてみせる!」
「ふうむ」
 魔女は唸った。
「ならば、こなたが抱きかかえている子供を差し出してもらおうかの」
「え、こいつを?」
 セキヤはうわずった。歌うたいはまだ息があるらしい。胸が小さく上下している。歪めた眉が生き物のようにピクピクと動く。あわてて抱え直すと唇が開いて、いまにも「お母さん」と呼びそうにわなないた。
「そ、それは」
「どうじゃ」
「そんな可哀想な」
「これ、嘘をついてはならぬ。妾に頼み事をする者は、妾のまえでは偽りを申してはならぬぞ。聞かなかったか?」
「聞いた。それは聞いたけど」
「可哀想なのではなくて、惜しいのであろう。みめよい子供ゆえ。ときおり見せる痛々しげな顔の、なんと良いこと。そばにおいていじめたなら、どのように楽しいかの」
「だけどこいつは」
「妾にくれるであろう?」
「だめだよ! こいつはオイラのもんじゃないんだ。勝手にくれてはやれないよ!」
「金で買ったであろうが」
「買ってねえよ!」
「食べ物で買って、ここまで連れてきた」
「買ったんじゃねえ、雇ったんだ!」
「道案内に買ったのじゃ。妾の目はごまかせぬ」
「買ってない!」
「願い事が聞かれなくとも良いのか? こなたの女子おなごがおぞましい死を迎えて平気か。選べ。願い事か、その子供か」
 セキヤは詰まった。
(こんな行きずり、捨てればいい)
 分かってはいるのだ。昨日今日知り合った者のために、リマを捨てるわけにはいかない。リマは別格だ。あの娘が苦しまずにすむなら、治癒とひきかえにパタリと死んでもいいはずだ。
「くそったれ」
 とセキヤは呟いた。
「あんたのせいでこいつを捨てられないんだ。あんたがマジリをお人好しにしちまったんだ。オイラたちには魔物の血が混じってるんだぜ? なのに人間野郎よりもお人好しで、好いた奴を捨てられないんだ」
「女子のためにここまでやって来たのも、妾のせいであろう?」
「そうだよ、畜生!」
「この機を逃せば、二度目はないぞ」
「勘弁してくれ! こいつはオイラのもんじゃない。好きにはできないよ」
「選ばねば妾は去る」
「頼むよ」
「よいか、こなた」
 魔女は変にゆっくり言葉を継いだ。幼な児に言い聞かせるような調子だ。人のものではない言葉で、使い魔たちがかさかさと囁きあっている。ぬめった土から吐き気を誘う異臭が立ちのぼり、嗅いでいると目眩めまいがした。
「これが最後じゃ。どちらか選べ。こなたの願いか、こなたに買われた孤児みなしごか」
 セキヤは目をつむって叫んだ。
「両方だ!」
 この期に及んでなぜ強情を張るのか、自分でも分からない。魔女の言うとおり、歌うたいは食べ物で買った子供だ。リマを捨ててまで助ける筋ではない。
(だけど可哀想だ)
 突きあげるようにそう思う。
(自分の手で苦しめたい)
 それも本音だ。両方の心が背骨の中で虫のようにうねる。どうしても手放したくない。気が変になりそうだ。
慮外者りょがいもの! そのような欲張りを申すなら、どちらの望みも断ってくれる」
「両方だ! 絶対に両方! それ以外は許さない!」
 無理に奪われないよう、歌うたいの体をきつくつかんで震えていると、使い魔たちのざわめきが静かに遠のいていった。煙の音がやんだ。肺を病んだような胸苦しさも、異常な臭気を放つ地面もいつのまにか消えている。
 目をひらくとあたりは森に囲まれていた。鮮紅色の衣装をつけた女が緩やかな斜面に立って、二人を見おろしている。女の顔はそこだけ光を吸い取られたように暗く、輪郭りんかくも定かではない。セキヤは口を開けた。闇でできた顔の中から、低く曇った声がもれた。
「霊山の魔女に向かって聞き入れなければ許さぬとは、よくぞ申したものよ」
 澄んだ声の鳥が啼く。今さらのように見回して、セキヤはようやくここが小高い山の上だと気づいた。
「ここは霊山なのか?」
 魔女は答えなかった。
「窪地じゃないのか?」
 魔女はゆるゆると近づいてきて、歌うたいの額に触れた。歌うたいは小さく唸ったかと思うと、ぼんやり目をあけた。
「欲張り者め。望みどおり子供は助けたぞ」
「あ、ありがと」
「礼なぞ言っている場合ではない。もうひとりは助からぬ」
「…………」
 言葉を失ってうなだれると、歌うたいがピリッと起きあがって尋ねた。
「どうしたの?」
 頭の中が空になったようだ。歌うたいが居住まいをただして揺さぶってくる。
「この女の人はだれ?」
 答えずにいると、霊山のとがった空気の中で歌うたいと魔女の視線が出会った。
「こなたの連れは、こなたのために願い事を諦めるそうな」
「ほんとう」
 歌うたいがきっとこちらを振り向いて睨んだ。
「話して、セキヤ」
 気がつくとセキヤは、相手の頭をなんどもぶちながら泣いていた。
「話すことなんかねえよ。あっちへ行け」
「この人は霊山の聖女さまなの?」
 その言葉を聞くと、魔女はビクリとした。
「妾は霊山の悪い魔女。滅多な口を利くな」
「悪い魔女は聖女さま」
「昔の名じゃ」
「悪い魔女は聖女さま。マジリは国の宝」
 魔女の口からわれ鐘のような悲鳴がほとばしった。
「その名で呼ぶな!」
 歌うたいはセキヤを見た。顔をおおったままセキヤは答えた。
「あの女が、願い事を聞いて欲しかったらおまえの心を食わせろって言うから、突っぱねてやったんだ」
 それだけ言うと、再びうなだれた。
 歌うたいはしばらく考えていたが、昂然と頭をあげて高く呼んだ。
「聖女さま!」
 とびあがるような声音だった。鳥と虫の声がいっせいにやんだ。
 セキヤはあわてて耳をふさいだ。歌うたいの正体に、ようやく気づいたからだ。
(こいつもマジリだ!)
 セキヤが瑠璃の目に魔力を持つように、歌うたいは声に力を持っているのだ。リュースが襲われているとき、ほんの数回、
「お役人さん!」
 と叫んだだけで、そこまで人が迫っているような錯覚に陥った。あれはその場の勢いでも幸運でもなかった。
 魔女は苦しげにうめいて、
「その名で呼ぶな」
 と繰り返した。
「霊山にたどりついたからには、こちらにも願い事をする資格があるはず。聞き入れてください、聖女さま」
 魔女はぐにゃぐにゃと頭を振った。
「いかにもこなたにはその資格があろう。早う申せ」
「セキヤのもともとの願いをかなえてください」
「ならぬ」
「どうして」
「理由があるのじゃ」
「どんな」
「こなたの連れの願いは、どのようなことをしてもかなえられぬ。このさき最善を尽くし、全てのことを首尾よくすませても、決してかなえられぬ」
「えっ!」
「せっかくたどり着いた者にこのことを突きつければ、望みを失ってしまいじゃ。しかし、今こなたの命とひきかえに自ら願い事を諦めれば、こなたを助けてやったという慰めが残る」
「こん畜生!」
 セキヤは叫んでいた。
「あんたは治す方法を知らなかったんだな!?」
「妾はもちろん知っている。が、それとこれとは別のこと。世の中には手遅れということがある」
「詐欺だっ!」
 わめいて思わずつかみかかった。しかし次の瞬間、セキヤの体は魔女の姿をすりぬけてうしろの切り株につまづいていた。
「自分ができないくせに、こっちのせいにしようとしたな、クソ馬鹿ッ!」
「温情をかけてやったのに」
「どこが温情だ、嘘つきめ! 方法を教えろ、いますぐだ!」
「教えても無駄じゃ」
「無駄じゃない、教えろ!」
 相手に触れることもできず、地団駄を踏んで暴れていると、急に体が宙に浮いて魔女の足元に投げ出された。あまりの痛みに、声も出なかった。
「人の話は聞くものじゃ。手遅れの理由を知れば、こなたもすぐに納得がいくであろう」
「そんな話は聞きたくない!」
「霊山の魔女に考えなしの言葉を投げるものではないぞ」
「聖女さまだろう! てめえはもともと聖女なんだよ。そうなんだろう? 助けてくれよ!」
「妾に向けて投げた言葉は取り返しがつかぬと言っておるのじゃ。ほんとうに妾の話を聞かなくて良いのか? しかと相違はあるまいな?」
「聞かねえよ! 聞いたら諦めたくなるかも知れねえ。けど、このことについてだけは諦めない。やるまえから諦めて、後悔したかねえんだよ」
「己の満足のために試みるのじゃな? どんな結果が待ち受けていても、誓って後悔するまいな?」
「約束してやらあ!」
「妾を恨むまいぞ」
「分かってるよ、そんなことは。道を教えてもらって、そこにヘビがいたからって恨んだりしねえよ。約束する」
 長い沈黙があった。魔女は小さく肩を落としてため息をついたようだ。
「すべてを知ったあとで妾をののしるようなことがあれば、こなたには呪いがかかろうぞ。よいか。女神の呪いをうけて、こなたも同じ病に冒される」
 セキヤは顔をあげて、見えない魔女の目を見た。
「それでいい」
「こなたの連れが証人じゃ。すべてを成し遂げるそのときまで、きっと同道するのじゃぞ」
 セキヤは必死の思いで歌うたいを見た。歌うたいがうなずく。魔女は一歩しりぞぎ、天へ向かって叫んだ。
「我が心の生みの親! 盟約は結ばれた」
 稲光のない空に雷鳴がとどろいた。あたりの景色が薄くなる。濁った空気のなかに煙の音が響く。息詰まる悪臭が鼻をついて、地面が歪んだ。
「こなたが霊山に導かれたのは偶然ではない。道中の行いによるものじゃ。
 なれどこなた、ひとつだけ最後までしそこなったことがあるぞ。それを終いまでなし遂げたとき、月の光でできた花びらに導かれる。あとは答えを見出すのみ」
 その言葉が終わると同時に、意識が暗くなった。