毒の窪地くぼち

 嫌な臭いのする煙が湿気をはらんで胸に入りこんでくる。しゅうしゅうと微かにうなる排気音が、どこから聞こえてくるのか分からない。あたりがすっかり静まって危難が去ったのを感じとると、セキヤはゆっくりと体を起こして相棒のたおれている方へ近づいていった。
 歌うたいはうつ伏せに横たわっている。揺すってみたが反応がない。囁くように
「おい、おい」
 と呼んでみたが、ぴくりとも動かなかった。子供がぐったりしているところを見るのは好きだ。自分の身に危険が迫っているのでなければゆっくり楽しむところだが、今はそれどころではない。セキヤは舌打ちをしてうえを見たあと、体をかたくした。
(空がない!)
 夕焼けの時刻でもないのに、滲んだようなだいだいと赤がいっぱいに広がっている。窪地の端に近いあたりには、濁った緑や茶のくすみがあり、生き物のようにうごめいていた。不意にセキヤは、さきほどからうなり声をあげているのが地面だけではないということに気づいた。歌うたいを抱きおこすと、息を凝らしてようすをうかがう。蠢く空は気配もない。じっとこちらを見つめているようだ。咽から首へ汗が伝うのが分かった。変に冷たい感触だった。
(まずいや。なんとかしてうえへあがらないと)
 手がかり足がかりになりそうな場所を探して斜面をさぐる。土は煮こぼされたように湿気を吸って暖かく、触れるそばからぐさぐさと崩れていった。したからのぞく新しい土壌は、黄銅の色だ。立ちのぼる臭気が普通ではない。
(薬臭え!)
 この土は生き物とつながっていない。草の根、虫、糞尿や死骸。そういったものを全くはらんでいないのだ。明らかに命を持ったものの立つ場所ではなかった。
「歌うたい、歌うたい、しっかりしろ」
 小声で呼んでみる。啼き物がすぐそばにいるような気がして、落ち着かない。必死になって揺すっていると、横たわっている地面がぼろぼろとこぼれ落ちて、沈んでいくのが分かった。
「蟻地獄」
 セキヤは思わずつぶやいた。土でできた底なし沼だ。慌ててよじ登ろうとしたが、なま暖かい斜面が砂のように崩れて、ずるずると飲みこまれていった。
(このしたには何がある?)
 毒ガスだ。焼けつくような考えが脳天を割って侵入した。
(あの赤い空は、まさか)
 毒ガスの窪地は魔物の擬態した姿で、獲物を網にかけているのではないだろうか? キシエの人間が人捨てをするのは単なる口減らしではなく、自分たちが食われないようにときどきエサをやっているのだとしたら。
 セキヤは鼻の頭の汗をぬぐった。
(勢いをつけて駆けのぼれば、足場のあるところへたどり着くかも知れねえ)
 用意してきた細紐を、急いで歌うたいの腰に結わえつける。指が思うように動かない。それが恐怖のためなのか、毒ガスが体に回りはじめたためなのか、自分でも分からない。呼吸を整えて体勢を立て直すと、ありったけの力をこめて斜面を蹴った。とたんに地面が消えた。
 踏みしめたはずの足には、どんな種類の反動もなかった。崩れた土くれが、のさりとくるぶしにかかる。つぶれた猫のような声がのどから飛び出す。気がついたときには、背中から窪地の底へたたきつけられていた。結んだ紐にからみとられるようにして、歌うたいが転がってくる。意識をなくした重いからだが、胸のうえにまともに落ちた。
「畜生!」
 目をつむって叫んだ。肝心なとき、瑠璃の目は役に立たない。魔女の力を借りなければならないと不満を鳴らしながらも、わずかな魔力におごっていたのだ。他国の魔物がこれほど目をあざむくとは、思ってもみなかった。
(マジリなんてしょせんはバカだ)
 他人の不幸に欲情しながらなけなしの魔力をちやほやされて、ていよく利用されていれば機嫌がいい。
(バカだほんとに!)
 歌うたいは動かない。こすりつけるような音をたてて、毒ガスが吹きあげる。セキヤは腹ばいになり空気を吸いこむと、覆いかぶさるようにして歌うたいの体を抱きしめた。まだ命はあるらしい。
(一人で死ぬのは嫌だ)
 しがみついた相手の胸が動くのを確かめながら、静かに意識がまどろんでいった。

 丸くなだらかな山のてっぺんに、少しだけ欠けた月が白く輝いている。空気は澄んで、深く吸い込むと肺のなかでキラキラとはじけた。
(くすぐってえや)
 セキヤは思わず笑った。幼児のような声が自分の口から漏れるのを聞くと、なぜだか慕わしい気分になる。一体なにが慕わしいのだろう? だれと仲良くしたいのだろう?
 月の背後から針金でできた女が姿をあらわして、首をかしげた。
「リマ!」
 セキヤは想い人の名を呼んだ。リマは答えない。白い針金がゆらゆらと笑う。
「おまえそこにいたのかよ! ちょっと待ってな。いま霊山おやまに来てるんだ。魔女に頼んで、病気を治してやるよ。すぐに帰るから必ず待ってな」
 呼びかけた声が不意に割れた。体が大鐘になったようだ。頭蓋骨から背骨から、音という音がすべて飛び出して、壊れたような振動になる。
「リマ!」
 驚いて叫ぶと、リマの姿はバンとはじけて砕け散った。

 自分のうめく声でセキヤは目覚めた。得体の知れない鼓動が二重三重ふたえみえに迫って、互いのあとを追いかけあっている。
(なんで生きてるんだろう?)
 頭を上げて見回すと、歌うたいもさきほどと同じように体のしたで横たわっている。
「おい、歌うたい。しっかりしろよ」
 セキヤは相棒の名前を呼んで揺すったりたたいたりした。
「どうした?」
 耳のそばに口をつけようとして、急に気がついた。頬に血の色がない。あわてて鼻に手のひらをかざした。呼吸がほとんどとまりかけている。
「だれかっ!!」
 歌うたいの顔をたたきながら、セキヤはうえへ向かってわめいた。
「だれか来てくれ! だれもいねえのか!? だれかっ!!」
 空がない。貝の体のような赤色が身じろいだ。ぬたりと柔らかい土をつかんで、セキヤは思い切り投げつけた。どうせ届きはしないだろうが。
「クソ汚ねえ化け物野郎、とっとと失せろ!」
 と、土くれのひとつが赤天井に小さく当たった。肉でできた空がぷるりと震える。内側からめくれあがるようにして、金色のまなこが姿を現した。
 眼は波うっていた。桶水に映った月のようだ。息をつめて見ていると、まぶたが閉じて肉の空が黒いもやになり人型になって、セキヤのまえにのっと立ちはだかった。
「霊山のあるじを汚いとののしるのは誰じゃ!」