原の啼 き物
河一本わたっただけだというのに、キシエの村は予想を超えた寒冷地だった。初夏とも思えない重い湿気が皮膚からしみこんで、骨まで冒されそうだ。屋根のしたに泊まることが出来ればよいが、見渡す限りの湿地帯で民家の一つも見えてこない。うっかりすると胸までつかりそうな泥水が、ひょろ長い草のあいだからぼんやり光っている。やっかいなのは水の深い場所がどこにあるのかはっきり判別しかねることだ。歩くことのできる場所もじくじくと水にひたされて、同じようにぼんやり光って見える。目を凝らしただけでは違いが分からない。見えざる物を見る瑠璃の目にも、不得手があるのだ。水の反射や揺らぎなどはその代表だった。
「気をつけて」
歌うたいが斬りつけるような調子で口を利いた。
「大人の背丈の三倍くらい深いところもある。たまに溺れて死ぬ人もいるから」
「そいつあ、おっかないなあ」
「深さはあるのに、幅はないから。狭い井戸くらいの落とし穴だから、落ちると助けられないこともある」
「落とし穴? 自衛のために作ってるのかい?」
歌うたいは首を振った。
「自然にできる。ここはそういうところ」
「詳しいんだな」
何気なく言うと、不意に黙った。
「お前って、ここの出かい?」
「違う。でもまえはキシエのとなり町で稼いでた」
その後歌うたいはむっつりと黙り込んで、口を利かなくなってしまった。
すぐそばに低木が生えている。枝を折って足元を探りながらセキヤはぼやいた。
「こいつあダメだ。靴がぐっしょりだぜ。それにしても冷たい水だなあ。このまま歩き続けたら足がちぎれるんじゃないか。おい、おまえ平気?」
歌うたいは黙々と歩いている。セキヤは立ち止まった。
「どうしたもんか」
「歩くしかない」
「エ、なんだよ冷たい言い方して」
「早く歩いてたどり着く以外に、方法がない。それともセキヤは戻るの?」
「そいつはできねえ」
「足がちぎれる前に歩き切る。それしかない」
セキヤは唸った。
「なんかちょっと、お前ってよ。それしか方法がないってえのは、考えりゃ分かるわな。だけどもちっと優しくものが言えねえのかい?」
「言えない」
「オイラはお前のこと心配してやってんだよ。別に自分一人ならどうでもいいさ」
歌うたいは眉根を寄せた。
「セキヤは知らないけれど、ここはもの凄く危険な場所。“原の啼き物”が出る。この場所を知ってる人間なら、誰だって早く通り過ぎることしか考えない。ゆっくりケンカしてると、啼き物に食われる。静かに歩いて」
セキヤは軽く舌打ちした。──と、突然地面のしたから轟くようなうなり声が響いてきた。振動で足元がぐにゃぐにゃ歪む。とても地面が土でできているとは思われない。ゴムになってしまったようだ。はずみでひっくり返りそうになったとたん、背中にガンと衝撃が走った。背後にあった木に体を打ったのだ。
「う、痛ぇ」
「シッ、静かに! 啼き物が出た。しゃがんで、早く!」
見ると歌うたいはしゃがみ込んで両手で地面の草をしっかり掴んでいる。いかにも慣れた動作だ。してみるとこれが原の啼き物に遭遇したときの避難姿勢なのだろう。セキヤは慌てて体制を立て直すと、相棒の真似をした。息を殺してじっとしていると、足元が波打ってゆっくりと山脈のある方角へ移動していった。
(どこだ!?)
セキヤは目を凝らした。瑠璃の目で見れば、見られるはずなのだ。しかしどうしたわけか、問題の魔物をとらえることはできなかった。人間に対してだけではなく、魔の者に対しても目くらましが利くのだろう。まれにこういう存在があると聞いたことはあった。
凄まじい轟音がビリビリと響き渡っていた。見渡す限りの風景が、いまにも音をたてて壊れるかと思われた。胃袋や背骨がひどく振動して、気分が悪い。黙って堪えているうちに、吐き気をもよおしてきた。のどの奥が焼けて酸っぱい液があがってくる。歯を食いしばっていると、向こうの方から数人の男女の悲鳴があがった。男の声は最初にぐおっと言ったきりだったが、女の方は甲高くわめき続けている。その一種独特な叫声は魔物の声よりも神経に障った。それでもじっと耐えていると、やがて魔物の唸りも女の叫びも潮のように引いて、辺りはまたもとの様子に戻った。
その後も歌うたいはしばらく警戒していたが、危難が去ったと思ったらしい。気合いを入れてすっと立ちあがった。
「誰か食われた。残った人を助けに行かないと。……セキヤはだいじょうぶ? びっくりした? 怖かった?」
「ちょっと待てよ。吐いていい?」
「体にきた?」
答える前にセキヤは気の根本に突っ伏して吐いていた。ひどい気分だ。歌うたいが寄ってきて背中をなでた。
「だいじょうぶ?」
「吐いちまえば楽になるよ。それにしても、最っ低だよな」
「啼き物は振動や音で獲物を探すから、そっと歩いてそっと話さないと危ない」
あの魔物が自分の出す音の中からどうやって獲物の音や振動を感知するのか知りたいものだ。歌うたいは説明しながらも、さっき悲鳴のあがった方へ首をのばしている。
「おいおい、ホントに助けに行くの? お節介やくの?」
「この辺の掟。もしも残った人が泣いたり叫んだりし続けたら、他の魔物だって寄ってくる。とばっちりでセキヤが食べられるかも知れない。だから生き残った人は酒をあげたり慰めたりして家へ送っていく。どうしても騒ぐようなら、猿ぐつわで口をふさいでもいいことになってる」
「なるほどね」
悲鳴の主は低木の茂みの中で襲われたらしく、もう騒いではいなかったが半気絶状態だった。男二人に女一人、すぐそばには水ぞりがひっくり返っていて、そこにはなにやら金目の物が積んであったらしい。綺麗な布包みがいくつも泥水につかって台無しになっている。見たところ布や綿など、柔らかい物が入っているのではないかと思われた。旅人達の様子を見て、歌うたいは難しい顔をした。
「おじさんたち、よそ者?」
助けに行くと言いながら、だいじょうぶかとも尋ねない。
(開口一番これはねえよな)
内心苦笑しながら、セキヤは男達に手を貸した。
「オイラみたいなマジリで良けりゃ、助けてやるよ。どっから来てどこへ行くつもりだったんだ?」
「ああ、済まねえ」
男は素直にうなずくと、
「女房をそりに乗っけてやらにゃ」
と呟いた。それから歌うたいに向き直り
「確かに俺たちゃよそ者に違いないが、別にここが初めてってわけじゃないんだ。啼き物が出たら音をたてちゃなんないぐらいは知っている。知ってはいるんだが……」
「実際に見たのは初めてだった?」
「うちのやつがな」
泥水の中にしりもちをついている女をしゃくりながら、男はげっそりした表情だった。それからもう一人の男に向かって
「済まねえ」
と言ったが、言われた方の男は蒼白になったまま答えない。歌うたいはわけ知り顔に黙りこくって、水の中に落ちた荷物を拾い集めている。
(どさくさに紛れてひとつくらいくすねる気なのかな)
と思ったが、懐に入るほど小さな物はないようだ。妻がそりに乗った分のあふれた荷物を相棒に持たせると、男は先頭に立ってそりを引き始めた。
「俺について来れば水の落とし穴にはまることもねえよ。行商で何度も行き来しているから、その辺は心得てるんだ」
言いながら懐から布きれを出してきて、薬のようなものを数滴たらす。
「これで鼻と口を押さえてな」
気絶から覚めた女は、目に涙をためながらそれを受け取って言われたとおりにした。どうやら薬には気持ちを休める効果があるらしく、少しすると顔色が良くなってきたようだ。
案内がついたためか不測の事態で足の冷たさを忘れたためか、その後の道のりは予測外に早かった。キシエの最初の民家が見え始めると、もう一人の男が走って行ってドアを叩いた。中から出てきたのはのろまな感じのする少年で、相手の話を分かっているのかいないのか、さっぱり緊張した様子がない。そり引きで疲れた男はその場にしゃがみ込んでいる。と、戸口の中から奇妙に間の抜けた声が
「ああ、原の啼き物!」
と合いの手を入れるのが聞こえた。
「なあ、あんたも状況説明に行ったらどうだい? オイラはあとから駆けつけだだけだからよく分からないし、カミさんは見ててやるからさ」
「いやあ……。説明になんか行けねえよ」
男は悲しそうに呟いた。
「なんで」
「女房がキャーキャー言いさえしなければ、あいつの弟も魔物に食われたりしなかったんだからさ。大騒ぎして魔物に居場所を知らせた張本人は腰を抜かしただけで済んだのに、黙って堪えてたやつが食われたんだ。なんて言っていいのか分からんよ」
そりの中の女は首をうなだれて、死んだようになっている。
「俺が悪いんだわな。女房のやつが一目でいいからお姫さまを見たいっていうから、ちょっといいとこ見せたくなってよ。行商慣れしていない奴なんて、ほんとは連れてくもんじゃないんだけどな」
セキヤと歌うたいは顔を見合わせた。
「お姫さま?」
「ほれ、あれだわ。行方不明だったアデライテ姫。いまこっちへ来てるからって。貢ぎ物を差し出せばチラッと見られるなんて言って、小金持ちが色んな物を買ってくれるんだ」
「待ってくれよ。オイラたち河向こうから来たんだけれど、何日かまえ、お姫さまは確かにあっちの町にいたよ」
「そりゃあ、お姫さまは俺たちと違って凄い水ぞりに乗ってるからさ。音なんて全然たてないで凄い速さで滑るんだ。だから追い越されたんだろうよ」
セキヤは黙った。男は独り言のように続けていた。
「あんな化け物が出る原っぱなんか横切って……」
原の啼き物に襲われた話をすると、一同は救済小屋に連れて行かれた。追い剥ぎや魔物に襲われた旅人の臨時宿場と自警団詰め所を兼ねたもので、役人も駐在している。弟を食われた行商人は、そのきっかけを作った夫婦を小屋から追い出せと主張したが、自警団長のとりなしで別々の部屋に泊まることになった。
「異国のもんが予備知識なしに旅なんかするんじゃない」
役人は無愛想に注意した。
「旅出つまえに立ち寄ってくれれば、危い場所がどこにあるか、魔物にばったり出くわしたときどうすりゃいいか教えてやったんだ」
「河の向こうから来たんだから、それはできないよ。一応この辺の子供を案内に連れてきたから、啼き物に会ったとき音をたてちゃなんねえとか、しゃがんで草を掴むとかは分かったんだけれどさ。あいつが出るまえに教えてくれりゃ、もっと良かったんだが」
歌うたいを睨んであてつけてみたが、向こうは意に介した様子もない。セキヤは諦めて役人に尋ねた。
「それにしても、どうして草を掴むのかなあ?」
「揺れに負けて転ばないためだ。転ぶと震動が伝わって居場所を覚られるかも知れん」
「転ぶのを防ぎたいなら、しゃがむよりも最初から倒れてた方がいいんじゃないか? 腹這いになってさ」
思わずからかうと、むっとした表情で
「土のうえにいるのは俺達だけじゃない。ネズミが走ることだってある」
と言い返された。
「それに気がついて奴が姿を現したとする。そこに偶然お前がいて、ちょっと驚いて声でもたてりゃ、啼き物はちっぽけなネズミなんかよりお前を食おうとするぞ。そういうときにはすぐに立って逃げられないと、やばいことになる」
「もしも草が生えていなかったら?」
「そういうときは四つん這いになって堪えるか、場合によってはお前の言うとおり腹這いがいいこともあるかな。
まあお前らも災難だったわな。そこの暖炉で靴を乾かしていいぞ」
役人はそう言って、突っ立っている二人に椅子を勧めてくれた。歌うたいは喜んで座り、靴を脱いで火の方へ足を突きだした。その様子を眺めながらセキヤは
「あのさあ、お役人さん」
「なんだ?」
「行方不明だったお姫さまがここへ来てるって本当かい?」
「ああ、姫を見に来たのか? いや、ここじゃないぞ。隣の隣の町だな」
「本当に? いま? いまその町に泊まってる?」
「ああ、そうだ」
「いつから町にいるんだい」
「十日くらい前だろう?」
不意に歌うたいが口を出した。
「美人?」
「ああ、いや」
役人は困ったように頭をかいた。
「俺は見てないからなんとも言えんのだが……。まあその、姫というだけあって醜くはないってうわさだな」
「なんだい、その言い方」
「姫君あいてに滅多なことを言うなという意味だな」
「ははあ」
「しかしまあ、話のタネにはなるだろうよ。お前らも見に行くか? イガルド山を越えて行かにゃならんがな」
「そりゃ、ひょっとして目的地の近くかも知れねえ」
言いながらセキヤは歌うたいと目を合わせた。
親切なのか暇なのか、役人はばかに丁寧にアデライテ姫を拝む方法を教えてくれた。なかなか乾かない靴を逆さに振りながら、セキヤは旅の相棒に尋ねた。
「なあ、どう思うよ。本物の姫はべっぴんだったんだろう? 明らかにあの偽物とは別の偽物がいるんだと思わねえか?」
「そう思う」
「なんだか嫌な感じがするぞ。なるたけ関わらないでおきたいな。お前も余計なことしゃべるなよ。どこで犯罪者扱いになるか分からん」
歌うたいはコックリした。
「ここが伝説の霊山だ」と言われている場所は多数ある。しかしどこも決め手がないうえに、「ここに魔女が住んでいる」「ここで魔女を見かけた者がいる」に類するうわさはほとんどない。セキヤの知る限り、「魔女に会った者」についての数少ない伝説を持つのがキシエの窪地だ。
キシエの窪地はアノイ領の中でも悪名高い人捨て場だ。飢えと寒さでじわじわ死ぬよりは、毒ガスですぐに死ねた方が良いだろうというので、飢饉や戦争になると増えすぎた子供、年寄り、怪我人、病人の類が転げ落とされる。たまに番犬の安楽死の場所にも選ばれた。前の領主が統治していた時分には立ち入り自由だったらしいのだが、今は縄が三重に張りめぐらされ、『毒ガス危険』の立て札がいたるところに林立している。
「この毒ガスの吹き上げ口を通り抜けて生きて帰ってきた女が、霊山の魔女に気に入られたとかいう話があるらしいんだよなあ」
口と鼻を抑えながらも感慨深げにセキヤが言った。歌うたいは綱の向こう側から吹き上げる白煙を全く気にしていないようだ。ぼんやり突っ立って眺めている。
「なあ、できるだけ煙を吸い込まないようにしろよ。変な臭いがする」
口を小さく開けておそるおそる注意すると、
「あの煙は毒じゃない」
と短く答えた。
「そうかあ?」
「こんなにいっぱい毒が吹いていたら、縄や立て札を持ってきた人が死んじゃう。来てもだいじょうぶな所に綱を張らないと、立て札を見たときには手遅れになる」
「それはそうかも知れないけどさ」
綺麗で痩せっぽっちで不幸そうなのは嬉しいが、この利口さは気にくわない、と思いながらも予想外の買い物をしたことを認めないわけにはいかなかった。案内人としては下手な大人よりも適役かも知れない。セキヤはふと気づいて言った。
「アレ? お前って字よめるんだ。誰に習ったの?」
歌うたいは少し考えてから答えた。
「お師匠さん」
「なんの? 歌の? まさか大道芸人に字のお師匠さんはないよなあ」
「色んなとこ旅すると、看板や立て札は読めた方がいい。“危険”とか“立入禁止”はぜったい。あと、“宿屋”と“酒場”と“役場”も教えてもらった」
「ほお」
「“おふれ”も読めるよ」
「そりゃ凄い。だけど“おふれ”って字が読めるだけで、どんなおふれが出てるのかは分からねえんだろ?」
「近くの人に読んでもらう」
セキヤは笑って頭を小突いてやった。
「それにしても、どこから手をつけていいのか分からねえや。まさか自分で毒ガスの真ん中に出ていくわけにもいかねえしなあ」
だいいち死にさえしなければ魔女にお目通りがかなう、とは言い切れないのだ。
「とにかく問題の伝説について、もっと詳しく調べる必要があるのかも知れねえや。歌うたい、今日は帰るぞ」
「うん」
張り綱に背を向けて帰ろうとしたとき、地面の底が波打って辺りを割るような唸りが響き渡った。
(啼き物だ!)
セキヤは慌ててしゃがみ込んだ。辺りの草は細く短く病にかかったようにひ弱で、あてにはならない。とっさに体を縮めて四つん這いになったとき、背後で潰れたような短い悲鳴があがった。
「あ!」
振り向いて思わず声をあげた。歌うたいが背中の方から煙の中へ転げ落ちていくのが見えたからだ。二人はちょうど窪地を立ち去ろうとしていた。地面は背後へ向かって傾斜している。いつものくせでしゃがみ込んだ瞬間、地面が揺れたので、歌うたいはバランスを崩してうしろへひっくり返ったのだろう。
「おいっ、しっかりしろ!」
音を立ててはいけないという戒めを忘れて、セキヤは叫んだ。
「いまそっちへ行くから!」
相変わらず足元はゴムのように波打っていた。いくら湿地帯だといっても深い場所には岩のひとつもあるだろうに、どうして地面がぐにゃぐにゃになってしまうのだろう。セキヤには分からない。慌てて立ちあがろうとすると、魔物の唸りとともに地面が大きく盛りあがった。
自分でも聞いたことのないような動物的な叫びをあげて、セキヤは窪地へ転がり落ちた。地面に突っ伏して呼吸を整えていると、右手の向こうに歌うたいが倒れている。気絶でもしているのか、ピクリともしない。セキヤは音や振動に気をつけながら少しずつ這いずっていき、相手におおいかぶさるようにして様子を確かめた。生きてはいるようだ。異様な臭気が鼻を突く。本当にこれは毒ガスではないのだろうか?
──と、何かがうねりながら近づいてきて、体のしたへ入ったのが分かった。
(捕まった!!)
獲物の感触を確かめるような蠢めきが、胸から腹をまさぐりはじめた。チクチク感じるのは草に擬態した触手のようだ。声も出なかった。
頭の芯が微かにしびれて熱くなる。暗く翳った目蓋の裏に、青白く細い少女の姿が浮かんだ。
(骨みたいな人間が無性に好きなのも、あいつのせいだ)
貧乏暮らしでいつもお腹をすかせていた。不幸そうな様子が気に入って、たびたび通っただけなのだ。
(なのに本気になっちまった)
魔物の感触が咽をなでると涙が出た。
(もうダメだ)
セキヤは歌うたいの細い肩に抱きついて次の瞬間が来るのを待った。
次の瞬間はドオンという鈍い音とともにやって来た。地面が高く波打って、二人は窪地の底にたたき落とされた。全身を強く打って、短い間だが気絶したようだ。肺いっぱいに刺激臭が入り込んできて気がつくと、大きな岩がゼリーのように這いずる地面──そうとしか表現できない──に、なで回されているのが目に入った。
(なんだ、いったい)
ぼんやりした頭で考えていると、やがて岩は土のゼリーにくるまれてこなごなに粉砕された。ゴッと鈍い音が響くと、それきり静かになった。
原の啼き物というのはお世辞にも知能の高い魔物ではないし、素早くもない。音や振動を出す物がそこそこ大きければ、なんであろうと向かっていく習性がある。真下に来たと思ったら、イチかバチかしゃがんだままの姿勢でできるだけ大きな石を放るとよい、というのは救済小屋の役人の話だった。しかし知識があるということと実行できるということは、もちろん違うのだ。傾斜と揺れで岩が転がり落ちなかったら、いまごろ食われていだろう。
「気をつけて」
歌うたいが斬りつけるような調子で口を利いた。
「大人の背丈の三倍くらい深いところもある。たまに溺れて死ぬ人もいるから」
「そいつあ、おっかないなあ」
「深さはあるのに、幅はないから。狭い井戸くらいの落とし穴だから、落ちると助けられないこともある」
「落とし穴? 自衛のために作ってるのかい?」
歌うたいは首を振った。
「自然にできる。ここはそういうところ」
「詳しいんだな」
何気なく言うと、不意に黙った。
「お前って、ここの出かい?」
「違う。でもまえはキシエのとなり町で稼いでた」
その後歌うたいはむっつりと黙り込んで、口を利かなくなってしまった。
すぐそばに低木が生えている。枝を折って足元を探りながらセキヤはぼやいた。
「こいつあダメだ。靴がぐっしょりだぜ。それにしても冷たい水だなあ。このまま歩き続けたら足がちぎれるんじゃないか。おい、おまえ平気?」
歌うたいは黙々と歩いている。セキヤは立ち止まった。
「どうしたもんか」
「歩くしかない」
「エ、なんだよ冷たい言い方して」
「早く歩いてたどり着く以外に、方法がない。それともセキヤは戻るの?」
「そいつはできねえ」
「足がちぎれる前に歩き切る。それしかない」
セキヤは唸った。
「なんかちょっと、お前ってよ。それしか方法がないってえのは、考えりゃ分かるわな。だけどもちっと優しくものが言えねえのかい?」
「言えない」
「オイラはお前のこと心配してやってんだよ。別に自分一人ならどうでもいいさ」
歌うたいは眉根を寄せた。
「セキヤは知らないけれど、ここはもの凄く危険な場所。“原の啼き物”が出る。この場所を知ってる人間なら、誰だって早く通り過ぎることしか考えない。ゆっくりケンカしてると、啼き物に食われる。静かに歩いて」
セキヤは軽く舌打ちした。──と、突然地面のしたから轟くようなうなり声が響いてきた。振動で足元がぐにゃぐにゃ歪む。とても地面が土でできているとは思われない。ゴムになってしまったようだ。はずみでひっくり返りそうになったとたん、背中にガンと衝撃が走った。背後にあった木に体を打ったのだ。
「う、痛ぇ」
「シッ、静かに! 啼き物が出た。しゃがんで、早く!」
見ると歌うたいはしゃがみ込んで両手で地面の草をしっかり掴んでいる。いかにも慣れた動作だ。してみるとこれが原の啼き物に遭遇したときの避難姿勢なのだろう。セキヤは慌てて体制を立て直すと、相棒の真似をした。息を殺してじっとしていると、足元が波打ってゆっくりと山脈のある方角へ移動していった。
(どこだ!?)
セキヤは目を凝らした。瑠璃の目で見れば、見られるはずなのだ。しかしどうしたわけか、問題の魔物をとらえることはできなかった。人間に対してだけではなく、魔の者に対しても目くらましが利くのだろう。まれにこういう存在があると聞いたことはあった。
凄まじい轟音がビリビリと響き渡っていた。見渡す限りの風景が、いまにも音をたてて壊れるかと思われた。胃袋や背骨がひどく振動して、気分が悪い。黙って堪えているうちに、吐き気をもよおしてきた。のどの奥が焼けて酸っぱい液があがってくる。歯を食いしばっていると、向こうの方から数人の男女の悲鳴があがった。男の声は最初にぐおっと言ったきりだったが、女の方は甲高くわめき続けている。その一種独特な叫声は魔物の声よりも神経に障った。それでもじっと耐えていると、やがて魔物の唸りも女の叫びも潮のように引いて、辺りはまたもとの様子に戻った。
その後も歌うたいはしばらく警戒していたが、危難が去ったと思ったらしい。気合いを入れてすっと立ちあがった。
「誰か食われた。残った人を助けに行かないと。……セキヤはだいじょうぶ? びっくりした? 怖かった?」
「ちょっと待てよ。吐いていい?」
「体にきた?」
答える前にセキヤは気の根本に突っ伏して吐いていた。ひどい気分だ。歌うたいが寄ってきて背中をなでた。
「だいじょうぶ?」
「吐いちまえば楽になるよ。それにしても、最っ低だよな」
「啼き物は振動や音で獲物を探すから、そっと歩いてそっと話さないと危ない」
あの魔物が自分の出す音の中からどうやって獲物の音や振動を感知するのか知りたいものだ。歌うたいは説明しながらも、さっき悲鳴のあがった方へ首をのばしている。
「おいおい、ホントに助けに行くの? お節介やくの?」
「この辺の掟。もしも残った人が泣いたり叫んだりし続けたら、他の魔物だって寄ってくる。とばっちりでセキヤが食べられるかも知れない。だから生き残った人は酒をあげたり慰めたりして家へ送っていく。どうしても騒ぐようなら、猿ぐつわで口をふさいでもいいことになってる」
「なるほどね」
悲鳴の主は低木の茂みの中で襲われたらしく、もう騒いではいなかったが半気絶状態だった。男二人に女一人、すぐそばには水ぞりがひっくり返っていて、そこにはなにやら金目の物が積んであったらしい。綺麗な布包みがいくつも泥水につかって台無しになっている。見たところ布や綿など、柔らかい物が入っているのではないかと思われた。旅人達の様子を見て、歌うたいは難しい顔をした。
「おじさんたち、よそ者?」
助けに行くと言いながら、だいじょうぶかとも尋ねない。
(開口一番これはねえよな)
内心苦笑しながら、セキヤは男達に手を貸した。
「オイラみたいなマジリで良けりゃ、助けてやるよ。どっから来てどこへ行くつもりだったんだ?」
「ああ、済まねえ」
男は素直にうなずくと、
「女房をそりに乗っけてやらにゃ」
と呟いた。それから歌うたいに向き直り
「確かに俺たちゃよそ者に違いないが、別にここが初めてってわけじゃないんだ。啼き物が出たら音をたてちゃなんないぐらいは知っている。知ってはいるんだが……」
「実際に見たのは初めてだった?」
「うちのやつがな」
泥水の中にしりもちをついている女をしゃくりながら、男はげっそりした表情だった。それからもう一人の男に向かって
「済まねえ」
と言ったが、言われた方の男は蒼白になったまま答えない。歌うたいはわけ知り顔に黙りこくって、水の中に落ちた荷物を拾い集めている。
(どさくさに紛れてひとつくらいくすねる気なのかな)
と思ったが、懐に入るほど小さな物はないようだ。妻がそりに乗った分のあふれた荷物を相棒に持たせると、男は先頭に立ってそりを引き始めた。
「俺について来れば水の落とし穴にはまることもねえよ。行商で何度も行き来しているから、その辺は心得てるんだ」
言いながら懐から布きれを出してきて、薬のようなものを数滴たらす。
「これで鼻と口を押さえてな」
気絶から覚めた女は、目に涙をためながらそれを受け取って言われたとおりにした。どうやら薬には気持ちを休める効果があるらしく、少しすると顔色が良くなってきたようだ。
案内がついたためか不測の事態で足の冷たさを忘れたためか、その後の道のりは予測外に早かった。キシエの最初の民家が見え始めると、もう一人の男が走って行ってドアを叩いた。中から出てきたのはのろまな感じのする少年で、相手の話を分かっているのかいないのか、さっぱり緊張した様子がない。そり引きで疲れた男はその場にしゃがみ込んでいる。と、戸口の中から奇妙に間の抜けた声が
「ああ、原の啼き物!」
と合いの手を入れるのが聞こえた。
「なあ、あんたも状況説明に行ったらどうだい? オイラはあとから駆けつけだだけだからよく分からないし、カミさんは見ててやるからさ」
「いやあ……。説明になんか行けねえよ」
男は悲しそうに呟いた。
「なんで」
「女房がキャーキャー言いさえしなければ、あいつの弟も魔物に食われたりしなかったんだからさ。大騒ぎして魔物に居場所を知らせた張本人は腰を抜かしただけで済んだのに、黙って堪えてたやつが食われたんだ。なんて言っていいのか分からんよ」
そりの中の女は首をうなだれて、死んだようになっている。
「俺が悪いんだわな。女房のやつが一目でいいからお姫さまを見たいっていうから、ちょっといいとこ見せたくなってよ。行商慣れしていない奴なんて、ほんとは連れてくもんじゃないんだけどな」
セキヤと歌うたいは顔を見合わせた。
「お姫さま?」
「ほれ、あれだわ。行方不明だったアデライテ姫。いまこっちへ来てるからって。貢ぎ物を差し出せばチラッと見られるなんて言って、小金持ちが色んな物を買ってくれるんだ」
「待ってくれよ。オイラたち河向こうから来たんだけれど、何日かまえ、お姫さまは確かにあっちの町にいたよ」
「そりゃあ、お姫さまは俺たちと違って凄い水ぞりに乗ってるからさ。音なんて全然たてないで凄い速さで滑るんだ。だから追い越されたんだろうよ」
セキヤは黙った。男は独り言のように続けていた。
「あんな化け物が出る原っぱなんか横切って……」
原の啼き物に襲われた話をすると、一同は救済小屋に連れて行かれた。追い剥ぎや魔物に襲われた旅人の臨時宿場と自警団詰め所を兼ねたもので、役人も駐在している。弟を食われた行商人は、そのきっかけを作った夫婦を小屋から追い出せと主張したが、自警団長のとりなしで別々の部屋に泊まることになった。
「異国のもんが予備知識なしに旅なんかするんじゃない」
役人は無愛想に注意した。
「旅出つまえに立ち寄ってくれれば、危い場所がどこにあるか、魔物にばったり出くわしたときどうすりゃいいか教えてやったんだ」
「河の向こうから来たんだから、それはできないよ。一応この辺の子供を案内に連れてきたから、啼き物に会ったとき音をたてちゃなんねえとか、しゃがんで草を掴むとかは分かったんだけれどさ。あいつが出るまえに教えてくれりゃ、もっと良かったんだが」
歌うたいを睨んであてつけてみたが、向こうは意に介した様子もない。セキヤは諦めて役人に尋ねた。
「それにしても、どうして草を掴むのかなあ?」
「揺れに負けて転ばないためだ。転ぶと震動が伝わって居場所を覚られるかも知れん」
「転ぶのを防ぎたいなら、しゃがむよりも最初から倒れてた方がいいんじゃないか? 腹這いになってさ」
思わずからかうと、むっとした表情で
「土のうえにいるのは俺達だけじゃない。ネズミが走ることだってある」
と言い返された。
「それに気がついて奴が姿を現したとする。そこに偶然お前がいて、ちょっと驚いて声でもたてりゃ、啼き物はちっぽけなネズミなんかよりお前を食おうとするぞ。そういうときにはすぐに立って逃げられないと、やばいことになる」
「もしも草が生えていなかったら?」
「そういうときは四つん這いになって堪えるか、場合によってはお前の言うとおり腹這いがいいこともあるかな。
まあお前らも災難だったわな。そこの暖炉で靴を乾かしていいぞ」
役人はそう言って、突っ立っている二人に椅子を勧めてくれた。歌うたいは喜んで座り、靴を脱いで火の方へ足を突きだした。その様子を眺めながらセキヤは
「あのさあ、お役人さん」
「なんだ?」
「行方不明だったお姫さまがここへ来てるって本当かい?」
「ああ、姫を見に来たのか? いや、ここじゃないぞ。隣の隣の町だな」
「本当に? いま? いまその町に泊まってる?」
「ああ、そうだ」
「いつから町にいるんだい」
「十日くらい前だろう?」
不意に歌うたいが口を出した。
「美人?」
「ああ、いや」
役人は困ったように頭をかいた。
「俺は見てないからなんとも言えんのだが……。まあその、姫というだけあって醜くはないってうわさだな」
「なんだい、その言い方」
「姫君あいてに滅多なことを言うなという意味だな」
「ははあ」
「しかしまあ、話のタネにはなるだろうよ。お前らも見に行くか? イガルド山を越えて行かにゃならんがな」
「そりゃ、ひょっとして目的地の近くかも知れねえ」
言いながらセキヤは歌うたいと目を合わせた。
親切なのか暇なのか、役人はばかに丁寧にアデライテ姫を拝む方法を教えてくれた。なかなか乾かない靴を逆さに振りながら、セキヤは旅の相棒に尋ねた。
「なあ、どう思うよ。本物の姫はべっぴんだったんだろう? 明らかにあの偽物とは別の偽物がいるんだと思わねえか?」
「そう思う」
「なんだか嫌な感じがするぞ。なるたけ関わらないでおきたいな。お前も余計なことしゃべるなよ。どこで犯罪者扱いになるか分からん」
歌うたいはコックリした。
「ここが伝説の霊山だ」と言われている場所は多数ある。しかしどこも決め手がないうえに、「ここに魔女が住んでいる」「ここで魔女を見かけた者がいる」に類するうわさはほとんどない。セキヤの知る限り、「魔女に会った者」についての数少ない伝説を持つのがキシエの窪地だ。
キシエの窪地はアノイ領の中でも悪名高い人捨て場だ。飢えと寒さでじわじわ死ぬよりは、毒ガスですぐに死ねた方が良いだろうというので、飢饉や戦争になると増えすぎた子供、年寄り、怪我人、病人の類が転げ落とされる。たまに番犬の安楽死の場所にも選ばれた。前の領主が統治していた時分には立ち入り自由だったらしいのだが、今は縄が三重に張りめぐらされ、『毒ガス危険』の立て札がいたるところに林立している。
「この毒ガスの吹き上げ口を通り抜けて生きて帰ってきた女が、霊山の魔女に気に入られたとかいう話があるらしいんだよなあ」
口と鼻を抑えながらも感慨深げにセキヤが言った。歌うたいは綱の向こう側から吹き上げる白煙を全く気にしていないようだ。ぼんやり突っ立って眺めている。
「なあ、できるだけ煙を吸い込まないようにしろよ。変な臭いがする」
口を小さく開けておそるおそる注意すると、
「あの煙は毒じゃない」
と短く答えた。
「そうかあ?」
「こんなにいっぱい毒が吹いていたら、縄や立て札を持ってきた人が死んじゃう。来てもだいじょうぶな所に綱を張らないと、立て札を見たときには手遅れになる」
「それはそうかも知れないけどさ」
綺麗で痩せっぽっちで不幸そうなのは嬉しいが、この利口さは気にくわない、と思いながらも予想外の買い物をしたことを認めないわけにはいかなかった。案内人としては下手な大人よりも適役かも知れない。セキヤはふと気づいて言った。
「アレ? お前って字よめるんだ。誰に習ったの?」
歌うたいは少し考えてから答えた。
「お師匠さん」
「なんの? 歌の? まさか大道芸人に字のお師匠さんはないよなあ」
「色んなとこ旅すると、看板や立て札は読めた方がいい。“危険”とか“立入禁止”はぜったい。あと、“宿屋”と“酒場”と“役場”も教えてもらった」
「ほお」
「“おふれ”も読めるよ」
「そりゃ凄い。だけど“おふれ”って字が読めるだけで、どんなおふれが出てるのかは分からねえんだろ?」
「近くの人に読んでもらう」
セキヤは笑って頭を小突いてやった。
「それにしても、どこから手をつけていいのか分からねえや。まさか自分で毒ガスの真ん中に出ていくわけにもいかねえしなあ」
だいいち死にさえしなければ魔女にお目通りがかなう、とは言い切れないのだ。
「とにかく問題の伝説について、もっと詳しく調べる必要があるのかも知れねえや。歌うたい、今日は帰るぞ」
「うん」
張り綱に背を向けて帰ろうとしたとき、地面の底が波打って辺りを割るような唸りが響き渡った。
(啼き物だ!)
セキヤは慌ててしゃがみ込んだ。辺りの草は細く短く病にかかったようにひ弱で、あてにはならない。とっさに体を縮めて四つん這いになったとき、背後で潰れたような短い悲鳴があがった。
「あ!」
振り向いて思わず声をあげた。歌うたいが背中の方から煙の中へ転げ落ちていくのが見えたからだ。二人はちょうど窪地を立ち去ろうとしていた。地面は背後へ向かって傾斜している。いつものくせでしゃがみ込んだ瞬間、地面が揺れたので、歌うたいはバランスを崩してうしろへひっくり返ったのだろう。
「おいっ、しっかりしろ!」
音を立ててはいけないという戒めを忘れて、セキヤは叫んだ。
「いまそっちへ行くから!」
相変わらず足元はゴムのように波打っていた。いくら湿地帯だといっても深い場所には岩のひとつもあるだろうに、どうして地面がぐにゃぐにゃになってしまうのだろう。セキヤには分からない。慌てて立ちあがろうとすると、魔物の唸りとともに地面が大きく盛りあがった。
自分でも聞いたことのないような動物的な叫びをあげて、セキヤは窪地へ転がり落ちた。地面に突っ伏して呼吸を整えていると、右手の向こうに歌うたいが倒れている。気絶でもしているのか、ピクリともしない。セキヤは音や振動に気をつけながら少しずつ這いずっていき、相手におおいかぶさるようにして様子を確かめた。生きてはいるようだ。異様な臭気が鼻を突く。本当にこれは毒ガスではないのだろうか?
──と、何かがうねりながら近づいてきて、体のしたへ入ったのが分かった。
(捕まった!!)
獲物の感触を確かめるような蠢めきが、胸から腹をまさぐりはじめた。チクチク感じるのは草に擬態した触手のようだ。声も出なかった。
頭の芯が微かにしびれて熱くなる。暗く翳った目蓋の裏に、青白く細い少女の姿が浮かんだ。
(骨みたいな人間が無性に好きなのも、あいつのせいだ)
貧乏暮らしでいつもお腹をすかせていた。不幸そうな様子が気に入って、たびたび通っただけなのだ。
(なのに本気になっちまった)
魔物の感触が咽をなでると涙が出た。
(もうダメだ)
セキヤは歌うたいの細い肩に抱きついて次の瞬間が来るのを待った。
次の瞬間はドオンという鈍い音とともにやって来た。地面が高く波打って、二人は窪地の底にたたき落とされた。全身を強く打って、短い間だが気絶したようだ。肺いっぱいに刺激臭が入り込んできて気がつくと、大きな岩がゼリーのように這いずる地面──そうとしか表現できない──に、なで回されているのが目に入った。
(なんだ、いったい)
ぼんやりした頭で考えていると、やがて岩は土のゼリーにくるまれてこなごなに粉砕された。ゴッと鈍い音が響くと、それきり静かになった。
原の啼き物というのはお世辞にも知能の高い魔物ではないし、素早くもない。音や振動を出す物がそこそこ大きければ、なんであろうと向かっていく習性がある。真下に来たと思ったら、イチかバチかしゃがんだままの姿勢でできるだけ大きな石を放るとよい、というのは救済小屋の役人の話だった。しかし知識があるということと実行できるということは、もちろん違うのだ。傾斜と揺れで岩が転がり落ちなかったら、いまごろ食われていだろう。