別れの挨拶

 問題の遺体は水流がよどんで渦巻いている部分に、ようやくのことで留まっていた。いびつな腰曲がりの木に顎をひっかけて、首吊りのようにも見える。そうとう恐ろしい姿であるにもかかわらず、歌うたいは怯えたようすもない。荷車を借りてきて、死体を乗せるのを手伝った。リュースはもらってきた服の前掛けを裂いて、歌うたいの頭を芸人らしいやり方ですっぽり巻きあげた。
「こうすれば髪切りだとは分からないでしょう」
 歌うたいはいじらしく見あげて
「ありがとう、お姉さん」
 と言った。

 亡骸を運ぶのは比較的簡単だった。水死者は一人ではなく、ほかにも何人かあったからだ。洪水といっても河の広さを考えれば、さして大きな規模ではない。近くに住む者もこの天災にはかなり慣れている。しかし今回は流木や土砂で一部の避難経路が断たれてしまい、二家族がまるごと犠牲になった。
 しょぼくれた風で荷車をひいていくと、手助けに来た農夫やおかみさんが、作業の手を止め短く祈る。目の色を知られないよう、できるだけしたを向いて進んだ。途中からさり気なく河沿いの林に入り、下流を目指した。
「意外と臭わねえんだな」
 セキヤは言った。
「冷たい水につかってたから、まだ腐ってない」
 歌うたいが応じる。
「ガキのクセしてなんでそんなことに気ィつくかな、お前は」
「山が爆発したとき、湖で死んだ人がそうだった。溶岩を避けようとして、飛びこんだ人たち」
「ああ……そうか」
「溶岩はこなかったけど、たくさん溺れ死んだ」
「ひょっとしてお前、飛びこんで助かったクチかい」
「うん」
「そりゃ怖かったろう」
 歌うたいはなぜか笑った。おやと思って顔を見ると、
「セキヤには分からない」
 と言われた。

 行き倒れの服をさぐって金目の物を探したことくらいはあるが、水死体に着替えをさせたのは初めてだ。体はすっかり固くなり、袖を通させるどころか、スカートに胴体を通すだけで精一杯だ。歌うたいが湖の経験を持ちだしてきて、溺死体の服など脱げていてもおかしくないと言ったので、安心して挫折した。よく見ると、死んだ女は水でふくれているというよりは、顔面に何かがぶつかったりこすれたりしたために、人相が分からなくなっているらしい。髪の色が少し違うので一度はあきらめかけたが、意外にも解決策はリュースの方から出てきた。自分の髪を染めたときに使った道具を、まだ持っていたのだ。ほかにも紅おしろいや小さな香水瓶を、飾りのついた小袋に入れている。危険を察して逃げる用意をしたとき、下着の中に押しこんできたのだ。よくもあの状況でと呆れると、笑った。
「この髪、ロバインさんの奥さんと同じ色にって、特に頼まれて染めたのよ」
「あんたなあ。ほんとはそいつが、娘じゃなくて死んだ女房のかわりにあんたを指名したんだと思わなかったのかい? 養女のふりした愛人だよ。へたすりゃ旅の慰み者。飽きたらどっかにポイ捨てされてさ」
「思ったわよ」
 リュースはあっさりと認めた。
「なのにいつまで経ってもその気配がなかったからこそ、わたしは養女の話を信じたんだわ」
「へえ!」
 ひどく意外だった。
 あれこれぼやきながらも、セキヤは服や顔まで染めないよう気をつけてことを運んだ。櫛に染め粉をふりかけて使うだけでよいのだが、濡れた死体の髪をとかしつけるのは至難の業だ。手がまだらに染まって、ひどい色になっている。それでもどうにかやり終えると、できるだけお人好しそうな役人を見繕って暗示にかけておいた。いつもなら手間取りはしないのに、ずいぶん苦心した。あんまり長いこと死体の相手をしていたので自分の方が興奮してしまい、相手の警戒をとくどころではなかったのだ。
「とにかくまあ、お役人はあさってまでは誰も死体に近づけないよう、気を配ってくれるよ」
「それからどうなるの?」
「時がきたらあいつは死体を発見するさ。身元不明の令嬢が暴行されて河に突き落とされたと町中に触れ回る。ドレスの特徴や髪を茶色に染めてあることも、ぬかりなくうわさにしてね。心当たりがあると言ってきた相手には、服の切れ端とあんたの髪をちょっぴり渡そう。悪いけど、その根元の方の髪をくれないか? 地毛と染めの色が両方出てるやつ。亡骸を見せたり埋めた場所を教えるわけにはいかないんだ。どこで見破られるか分からないからな」
「洪水で死んだ人の遺体がひとつ減るけど、だいじょうぶ?」
 みっともなくならないよう慎重に髪を切り落としながら、リュースは振り返った。このとき流されて行方の分からなくなった犠牲者は、全部で四人だった。
 水死した令嬢のうわさがつつがなく広まりはじめたころ、河の水量が落ちて最初の渡し船が出た。


 大きな流木や石が片づいて、水があふれた辺りも少しは歩きやすくなっている。小手をかざして見ると河向こうは一面に葦が広がり、はるか遠くまで緑に波打っていた。晴れあがった空の奥に、紫がかった山が煙るように姿を現す。決して高くはないが、なだらかな裾野が美しい。わずか二年前、あのように青い山が火を噴いたなど、誰が想像できるだろう。
 反対したにもかかわらず、リュースはほおかむりをして二人を見送りに来ていた。さすがに渡し場の近くまで来ることはなかったが、別れぎわに死体に持たせたはずの首飾りを出して二人に与えた。
「ありがとう。これ、約束のお礼ね。腕輪はこちらの取り分よ」
「あ、いつのまに取り返してきたんだよ!」
「わたしが怖いのを我慢して最後まで死体のそばに残っていたわけ、分からない?」
「祈ってやりたいなんて言っておいて、ちゃっかり者だなあ、あんた」
「だって、悪漢に殺された人が金目の物を持っているなんておかしいわ。お気の毒な令嬢の遺品はね、緑のドレスと染めた髪だけでいいのよ。そう思わない?」
 セキヤが呆れるとリュースは声をたてて笑った。
「だけどなあ、ひとつ教えちゃあくれねえか」
「なあに?」
「オイラあんたのこと、最初はよほど頭がたりないかと思ったんだ。一人で生きていく力なんかなんにもなくて、騙してくださいって看板さげて歩いてる可哀想な女だって」
「無理もないわね」
「結構ちゃっかりと回転するくせに、どうしてあんな馬鹿な話にのっちまったんだい? そのくらいのアタマがありゃあ、どう考えたって最初から危険な話だとか、うさん臭いとか、気がつきそうなもんだよ。女ってのは、綺麗な服や首飾りを見せつけられるとわけが分からなくなっちまうのかなあ」
 目のまえの娘は笑顔を閉じると差し込むような視線を投げよこした。
「仮にすべての道が閉ざされて男娼になるしか食べる手だてがないとしたら、あなたはみじめにならないの? 確かに売るものが残されていれば、まだしも幸運だったと言うことはできる。けれどそれが満足な売り物になるのは、人生のごくわずかの間でしかないでしょう」
「気持ちは分からんでもないが、ほとんどの人間が貧乏だろう? 仕方ないじゃないか、みんな同じだよ。諦めたらそこそこ楽しいこともあるさぐらいに考えりゃ、あんな怖い目にはあわなかったろうに」
 リュースは昂然と頭をあげた。
「街に立って身売りをするって、怖いことの連続よ。知ってるの?」
 セキヤはちょっと黙った。金をもらうどころか盗られることもあるだろう。憂き世の腹いせに顔が変わるほど女を殴る者もある。そのあげく死んだとしても、誰も気にはしない。
「“仕方ないじゃないか、みんな同じだよ”」
 不意にリュースはセキヤの口まねをした。
「確かにそうね。わたしだってそう思ってる。だけどふっと感じてしまったの。弟を亡くしたときに。なんて淋しいんだろう、って」
 一瞬の沈黙のあと、うす桃色の唇がからそっとため息が漏れた。
「弟は最後に残った肉親だった」
 歌うたいが息を飲んで二人のやりとりを見つめている。セキヤは頭をかいて、もう一度相手の顔を見た。
「すまねえ、悪いこと言ったよ」
 リュースは目を丸くして口つぐんだ。
「オイラ、母親がときどき体売って食わしてくれたんだ。血はつながってなかったけど、実の親以上だったよ」
「そうだったの」
 とつぜん足元で、なにかがドタッと倒れた。はっとして目を落とすと、歌うたいがしりもちをついている。背伸びして二人のようすを交互に見るうち、バランスを崩したのだ。セキヤたちは笑った。笑いながら少しずつ声が曇ってゆき、やがて熱がひくように消えていった。
「あんた、これからどうする?」
「できるだけ遠くへ逃げるの。あとは分からない……」
 続く沈黙には闇があった。どれほど深く大きい闇になるか、残りの人生を生き抜いてみなければ分からないだろう。セキヤは手を伸ばして首飾りをくれてやった。
「これも取っとけよ。けどいいか? やたらな所では絶対に処分しちゃあなんねえぞ。国境の河を南へ下ったカーザの町に、占い婆あのロシェナってのがいるから、そいつに頼んで売りに出してもらいな。手数料は最初は一割と言うんだ。向こうは当然つり上てげくるが、最終的に三割とまでは言わせるな。バカにされてひどい目にあう。まあ、あんたなら大丈夫だろうけれど」
「ありがとう」
 渡し場へ続く道を、原野から吹きつける風がぬけてゆく。
「元気でね、チビちゃん」
 歌うたいの方へ腰をかがめて、リュースは言った。
「色々ありがとう」
「お姉さんも気をつけて」
 柔らかい手が伸びて、そっと孤児の頭をなでた。
「あなた方に霊山のご加護がありますように」
 歌うたいは答えた。
「旅路が御心にかないますように」
 頭上に金貨がふりそそぐかのように深く長い礼をすると、大道芸人リュースは南へ続く坂道をゆるやかに下っていった。