灼かれた者 -2-


 疲れ切って家に帰ったあと、逸香はなけなしの力を振り絞ってキーマカレーを作りにかかった。あれ以来、旧校舎には近づくこともできなくなって、お気に入りのスパイスの店からはなにひとつ買えない。当然、風味は今ひとつになるだろうが、その分ていねいに作ろうと思えば、少しは元気が出る。
 思い切りよく盛りつけたカレー皿を大きめの盆に乗せ、大海の部屋の前に立ったが、言葉のほうは思い切りよくとはいかなかった。少し古びて重くなったドアが、鈍い光沢を帯びて立ちふさがっているからだ。光沢の中にはくっきりと年輪が見えた。
(裏切り者)
 心の中で呟いた。長いこと板でできていると信じていたこれは、木目模様に塗られただけの無機質ななにかだ。大海が鍵をかけて閉じこもるまでは気がつかず、柔らかい物質だと思いこんでいた。
「ねえ、一緒にご飯くらい食べようよ。あんたの好きなキーマカレー作ったから」
 おずおず声をかけると、部屋の奥から塵のように乾いた静けさが漂ってくる。無言でいるのはいつものことだが、いつもの落胆には慣れることができない。そればかりか、日を追うごとにいっそう胸にこたえるのだ。
「ここに置いとくよ。その気になったらでいいから、食べて」
 溜め息を抑え、カレーの盆を床に置きながら耳を澄ませて、
(あれ?)
 と思った。いつもなら返事はなくとも、呼応するような身じろぎの音がするはずだ。慎重に五感を駆使して探ると、気配らしきものが今はないように思えた。
「もしかしたら出かけてるの?」
 答えのかわりに廊下の突き当たりにある窓の外から、濁りのないズメの鳴き声が響いた。白い光の中では埃が舞い散り、上下を繰り返してさかんに躍っている。心なしか空気が軽い。
(コンビニとか行ってるなら、帰ってきたとき久しぶりに顔が見られる! うまくいけば一緒に食べながら話せるかも)
 希望の光が小さく灯り、思わず強くノックした。
「買い物だよね? すぐ帰ってくるんでしょ?」
 ゴンゴンと威勢のいい音をたてて叫んだ。いない弟に向かって、何度も、何度も。
 その日の長い沈黙は、始めのうち、むしろ自分の心を明るくしたと逸香は記憶している。
(外の空気が恋しくなって、ゆっくり吸ってるのかな)
 立ち直りかけていると考えたのは、じきに玄関で出くわすだろうという期待が作り出した、幻影だった。
 いくら待っても帰りがなく、鍵がかかっていないことに気づいてドアを開けたときには、取り返しのつかないことになっていたのだ。部屋の隅には首吊りのロープを切るのに使ったらしい、あのサバイバルナイフが抜き身のまま転がっていた。

 そこから先の記憶は途切れ途切れだ。一人きりで助けを待つあいだ、自室の隅で大海のナイフを呆然と眺めている自分に気づいて、どうやら救急車を呼ぶ前に持ち出したらしいと不思議な感覚で受け止めたこと。
 父に次いで母も亡くしたとき、中学生だった姉弟を施設に送るべきだと主張した伯母たちに、
「本当に自殺の理由に心当たりはないの?」
 としつこく訊かれ、あるいはわけ知り顔に、
「逸香ちゃんもなにか悩みがあったら隠さないで相談してね」
 と気にかけるふりをされたこと。
 告別式で叔父と二人、深くうなだれて佇む頭上から不意に祐二の言葉が注がれたこと。
「ご愁傷さまでした」
 生前、大海が男らしいと誉めていた明瞭な声だった。なにも知らない叔父が、
「大海とは仲良くしてくれたそうで」
 軽く頭を下げると天井を向いたままで答えたのだ。
「こちらこそ。大海君がこんなことになって驚いています」
 その台詞は最後の一音まではっきりと発っせられて、よどみを知らなかった。
 そして帰りぎわに同じ声が、まさにあの連中と談笑しながら遠回しにあざけったこと。
「キリスト教だと地獄で灼かれるって言うじゃん」

 業火だ。

 瞬間的に逸香は覚った。あの男が今の今まで、嫌がらせグループとつるんでいることを隠していたのは、姉弟をいたぶった影のボスだったからに他ならない。表だって大海のバッシングに加わらなかったのも、一時的な動揺から立ち直って思いやりを取り戻したからではなかったのだ。面白半分に告白話を漏らしたあとでラインを眺め、自分が叩かれる危険性に気づいた、と考えるのが妥当な線だろう。
【祐二クン×大海タン ⇒ホモ】
 などと、面白半分の書き込みが出回るまえに手を打たなければ、いじめのボスなどすぐに奴隷だ。
 そう考えれば、全てのピースがはまってくる。
(速攻で手を打てば、子分がさらした大海の噂を一行で抑えるのは難しくないはず。陰で糸を引いていたなら、自分を叩きかねないネット関係を巧みにスルーしながら、あたしに嫌がらせを集中させることだってできる)
 悪口をやめさせたかに見えた行動も、
「あの姉ちゃん凄い目つきでマジヤバそうだから、今日は出よう」
 などと腕を掴みながら囁いて、ともに嘲笑っていたのだ。
 祐二にはふたつの顔がある。爽やかで男らしいスポーツマンの顔と、狡猾な嗜虐性をはらんだ薄暗い顔だ。
(もしかしたらあの連中、弱味でも握られてたんじゃないだろうか)
 大海がそうであったように、信頼できる相手と思いこんで、絶対に打ち明けてはならない秘密を口にしたというのは、ありそうなことだと思った。逸香自身も裏を知るまで、表の顔に正義漢すら見ていたのだ。
 そうしてあの男はいかにもしおらしく行き違い、分別があるかのように振る舞い続けていた。
(いくらだまされたって言っても、あんな奴に助けられたと信じてた!)
 あまりにも怜悧な卑怯だ。
(大海、ごめんね。こんなバカなお姉ちゃんで)
 胃液が逆流するような痛みが胸間に走る。
(あたしなんかがお姉ちゃんで、ごめん)

※        ※        ※

 祐二を待ち伏せながら、逸香はもう一度形見の武器を握りしめた。川沿いにうねった細道がアパートまでの唯一の帰路であることは、下見のときに何度も確認してある。まばらに見える外灯のひとつは完全に壊れ、季節外れの豪雨も手伝って住宅街には夜より暗い陰湿な空気がまとわりついていた。増水した川は激しく渦巻き叫んでいるようだ。
 女の身でスポーツ万能の男に適うはずもないことは、充分過ぎるほどに分かっていた。旧校舎で襲われたときには振りほどくどころか、声を出すことすらままならなかったのだ。
 それでも逸香は願った。
(かすり傷でいい)
 あの男にも粟立つ戦慄を味わわせてやりたい。
 かたずを飲んで四方に感覚のアンテナを張り巡らせる。掌の中で、掴んだ鞘がビクンと動いた。
(聞こえる)
 微かに聞こえる。小さな水はねの音。水溜まりの中を歩いて来る音。
 コンクリート塀の陰から曲がりくねった道の左側をそっと覗き見た。加賀祐二だ。
 一瞬全身が固まった。鼓動が早くなる。呼吸が浅くなる。
(大海、お姉ちゃんを守って)
 短く祈って無言のまま相手の前へ躍り出た。
 彼は突然のことに少しは驚いたらしい。足を止めて一度は半身を後ろへ引いた。が、目の前にいるのが小柄な女だと認めると、なんだと言いたげにすとんと肩の線を落とした。
「なに、君。どうしたわけ?」
 自らの優位を確信したその声を聞くと同時に、頭の中が空白になる。指がつってナイフに食いついた。手を開くことができない。怒りと緊張に震えながら近づいて行き、返事の代わりに、首を振ってレインコートのフードをあげると、彼の口から見下したような声が滑り出した。
「なんだ、キモ野郎の姉ちゃんか」
 ほんのわずかでも薄気味悪そうな様子を見せられていたら、立ちすくんでなにもできなかったに違いない。が、あざけりのひと言は凍りかけた血に火をつけた。
 抜き放った刃は光りなどはしなかった。逸香の動きやその日の雨空と同じくどよりとして、少しも手応えがありそうではない。むやみに両腕を振り回しながら突進したのも有利とは思えなかったからだ。目の前の影は即座に身構え、獣のような素早さで左手首を捕らえにきた。
 なぜナイフを持った右手ではなく左の方を掴みにきたのか? 向かい合って自分の右手を伸ばすと、相手の左に届くからなのか? 逸香が両手を振り回したとき、偶然に右よりも左が早く、あるいは高く動いたので、鞘をナイフと見間違えたのか? 単に慌てたせいなのか?
 分かるのは祐二の目にもナイフが光って見えたりはしなかったということだけだ。
 手首を強く掴まれて体勢を崩す。なにかが足に当たったと感じた次の瞬間、二人はもつれ合ってどっと倒れ、逸香は道路のコンクリートにしたたか背中を打ちつけた。
「ぐうあぁっ!」
 異様な声を発したのはどちらだったのか。
 気づくと祐二の下敷きになったまま、声も立てずにあえいでいた。あまりに強く全身を打ったので呼吸ができなくなり、少しのあいだ気を失っていたのだ。
「……ど、いて……」
 やっとの思いで息を吸いこみ言葉を絞り出す。彼は答える代わりに、う、とうめいた。
「どいてよ! どいてったら!」
「助けてくれ」
 弱々しいかすれ声。この男はなにを言っているのだ? いらだちと憤りで顔が火照る。
「なに言ってるの!」
 渾身の力を奮い起こして重い体を押しのけ這いずり出すと、だらしなく水溜まりに横たわった男の口が、もう一度助けてくれ、と動いた。
「あんたに助けを求める資格なんかない! 大海だって願ってた。助けてくれって。バカにして笑わないでくれ、軽蔑しないでくれ、人に言わないでくれって!」
 脳の芯がかっと熱くなって涙が流れてきた。
「気持ちに応えられなかったのは仕方ないとしても、どうして黙っててくれなかったの!? あんたを信じたからこそ、大海は告白したのに。振られるのは百も承知で!」
 祐二は答えない。口を開いたまま目をむき、半分うつ伏せになった姿が遠い外灯にぼうっと照らされている。胸にナイフが刺さっていることに気づいたのはそのときだ。
 雨は激しさを増し、道路の上を水が走り始めている。しきりにほとばしる自らの耳障りな嗚咽を聞きながら、逸香はポケットの中を探った。転んだときに壊れたのだろう。取り出した携帯電話の画面には大きくひびが入り、真っ暗になっている。
(どこかに電話ボックスがあったはずだ……)

 名乗らずに救急車を呼んだことは覚えている。
 そのあとは?
 転んでずぶ濡れになった服を洗濯機のなかに放り、レインコートまで洗ってしまった。たぶんシャワーも浴びたのだろう。狭い脱衣所に体を折り曲げて倒れこみ、何度も吐きそうになったが空の胃袋からはなにも出てこなかった。
 記憶はそこからふつりと途絶えて、ただ混乱がある。
(新聞)
 テレビのスイッチを入れるのがなぜか怖くてコンビニエンスストアへ買いに行った。
「おとといのはないんですか?」
 店員に向かって尋ねかけた、間のぬけた声が自分のものとは思えないほど遠くに響いた。紙面が十数人の死傷者を出した玉突き衝突と政治家のスキャンダルで埋め尽くされ、求める記事がなかったのだと、思う。
(おととい)
 ということは新聞を買いに行ったのはあの二日後だったのだろう。ぼんやりカレンダーを眺めながら思う。
(これの見かたが分からない)
 数字は読める。曜日も理解できるが、現在とのつながりをどう解釈するのか忘れてしまった。
 あれから何日経ったのだろう? 数えられずに立ちすくむ前で、電話の呼び出し音が鳴った。
 逸香は反射的に飛びあがった。近ごろずっとこうなのだ。電話だけではなく、夜半に帰ってきた叔父が鍵をカチャリといわせても、体が勝手に恐怖の反応をしてしまう。胸を押さえ何度も息を整えて、やっとの思いで受話器に手を伸ばすと、聞き慣れたゼミの仲間の声がした。喪中の休みが長すぎるからと、見舞いの電話をよこしたのだ。手つかずだった課題を、終わらせたことにもしてくれるという。
「前に決めてた共同レポだけど、班の執筆者欄に栄井さんの名前載せていいかな? 明日で締め切りだから」
「ありがとう。ごめんね、あたしもやらなきゃならなかったのに……」
「いいって。先生も加賀君の事件で頭回ってないっぽいし」
 不思議なものだ。誰よりもいちばん先に知っていたはずの事件を、こうして他人の口から聞かされると、誰よりもいちばん最後に知らされたような心持ちになる。
「え?」
 聞き返した声音も本物の無知をはらんでいるようで、ここにいるのは自分ではないとさえ思えた。
「栄井さんも知ってるよね? 加賀君、自分のナイフで刺されて死んだって」
「加賀が……?」
 この相手は今なんと言ったのだ? 自分をナイフで刺した? 自分のナイフに刺された? それから――。
「死んだ……、死んだの?」
 加賀祐二は死んでいた。その事実は石のようにごろりと音をたてて胸の中に転がった。
「そんなまさか!」
 救急車はどうしたのだ? あのときすぐに呼んだはずだ。
「だよねえ、誰だって驚くよねえ。あの人、裏サイトでサバイバルナイフ? とか買うの趣味だったらしいよ。男だったら、ひとつくらいはこういうの持てって言って、自慢して見せびらかしてたとか、そういうの聞いた人いるんだよね。頼んで買った人までいるんだって」
「そ、それで……」
「そうそう、それで警察に聞き取りとかされる人は出るし、もう大騒ぎって感じ」
 いちど疾走し始めたおしゃべりはとどまるところを知らなかった。
(そうじゃない)
 聞きたいことは違うのだ。わめき散らしそうになる衝動を抑えてようやく口を挟んだときには、なにがなんだか分からなくなっていた。
「そうじゃなくて! 救急車はどうしたの? ちゃんと到着しなかったの?」
 なぜそれを知っているのかと聞かれたら――などと頭を回す余裕は飛んでいた。
「あ、救急車? それそれ! 謎の通報者のことでしょう? 女の人ってだけで、どこの誰だか分からないってやつ。警察で探してるんじゃない?」
「そうじゃなくて、救急車で運ばれたのになんで死んじゃったの!」
 送話口の声は、毒気を抜かれたように「は?」と言った。
(殺すつもりはなかった!)
 いくら心で叫んでも取り戻せない。なぜあんなことをしてしまったのか。
「なんでって、処置が間に合わなかったんじゃない?」
 気がつくと激しく息を吸いこみ、あえいでいた。
「そ、そうなんだ……」
 声がうわずっている。明らかにいつもの調子ではない。
(もうバレてしまった!)
「ちょっと栄井さん、大丈夫?」
(来る)
 次の瞬間に詰問が。
“今日の栄井さんおかしい! なにか知ってるんじゃないの?”
(来る)
 次の瞬間に警察が。
“栄井逸香さんですね。ちょっとご同行願えますか?”
 耳の中で呼吸の音が虚ろにうなっている。――しかしその瞬間は来なかった。
「あっ、ごめん! 弟さんのことでショック受けてるんだよね。それなのに私ったら興味本位みたいにこんな話、しちゃって」
「え」
「本当にごめん。すっごく具合悪そうだね」
 はしゃぎすぎたことに気づくと相手はすっかり萎縮してしまった。落ちこんだ様子で何度もごめんを繰り返す。本当に悪いことをした、なにかできることがあったら言ってよ……と、しきりに謝るのだ。
「こんな話忘れて今日はゆっくり休んで、お願い」
「あ、ありがとう」
「気持ちが上向いたらまた出てきて。みんな待ってるから」
「うん、ありがとう……」
 当たり前のように答えたのは誰なのか。

 逸香はふらふら歩いて大海の部屋に入った。写真を一枚、もらわなくては。警察が来る前に。なにも持ち出せなくなる前に。
 アルバムの背表紙に中指をかけて引き出すと、がさりと音を立てて両側の本やノートまでが床に落ち、続けて中に挟まれた大量の紙切れが散らばった。
(これはなに?)
 緑がかった黒のグラデーションや、ポップアートのように派手な色の組み合わせが、いびつな三画やひしゃげた台形のなかに、不規則に配置されている。細切れになった写真だということを、すぐには理解できなかった。縦横無尽にばらされたその切り口があまりにもきれいで、切り口とは認められなかったからだ。よほど鋭利な刃物を使ったのでなければ、こうはならないだろう。
 逸香はしばらく見詰めたあとで、一切れ一切れつなぎ合わせていった。
 途中、何度も体が震えた。少しずつ現れたのはどれも大海自身の姿だったのだ。一番ひどく破損しているのはキャンパスが背景になったアップの写真で、顔の部分は特に無残に傷つけられていた。
(自分のナイフで刺されて死んだ……)
 その理由が今なら理解できる。男ならひとつくらい持てよと言われて大海は祐二からナイフを買い取り、自分の顔をばらばらにして無意味なピースに作りかえ、最後は首吊り用の縄を切り取って逝ったのだ。全人生を否定することが片想いの証であるかのように。
 しびれていた感情が襲ってくるのを必死で振り払って、逸香はそれらを棚に戻し始めた。
 表情を忘れたはずの目に涙がにじむ。最後のノートは手の中を滑り、開いたままの形でばさりと床に伏せった。
(大海……)
 その表紙には、幼い文字が几帳面に並んでいる。
“夏休み絵日記”
 小学校の宿題だ。こんな物を大切にとっておくところが、内気だったあの子らしいと染みるように思う。弟だからと自分は好きなようにいじめたくせに、他の誰かにいじめられると仕返しに飛んで行ったものだ。男の子を相手にしてやられてしまい、負けたことを隠して虚勢を張ったこともあった。
「逸香は気が強すぎるし大海は気が弱すぎるし、困ったなぁ」
 言いながら笑っていた母の丸い顔。そんなとき、ふくれ面の逸香の横には悲しそうにうつむく大海の姿があった。
(あたしだって最初から気が強かったわけじゃなかった)
 いじめられっ子だった弟を守りたかったのだ。あのころまだ両親は健在だった。
 一緒に遊んだり喧嘩したりした懐かしい日々を抱くようにして、絵日記を取りあげる。
 一面鮮やかな青で塗られた中に家族の姿があった。全員が太い腕を太陽に向かって振りあげ、大きく口を開けて笑っている。一人だけ日焼けをして茶色に描かれているのは、他ならぬ大海自身だ。
“今日は海に行きました。お姉ちゃんに白い浮き輪をかしてあげたら、クラゲになったみたいとよろこんで浮いていたので、良かったです”
 家族で海に出かけたのは大海が小学二年のときだったろうか。
「これがお前の名前だぞ」
 父に教えられ、飛びあがってはしゃいでいた。
「これが僕? でかっ!」
 よほど嬉しかったのだろう。念入りに描きこまれた絵がいつになく力強い。
(あの子ったら八歳なのに、難しい漢字書いて)
 画数が多い文字は一本一本の線を確かめて引いたように長く、全体が大きい。
(賢い子だった)
 そして優しかった。
 ページをめくり、そっと指でなぞろうとして逸香ははっと息を飲んだ。
 明らかに書き殴った文字が炎のように躍っていたのだ。

“先生、お姉ちゃんがぼくのこと、またオカマみたいで気持ちわるいって言った”

(気持ち悪いって言った)
 両の指を髪の毛に差し入れて思わずかきむしる。爪のなかにじわりと、血のにじんだ皮膚が入りこむ感触があった。
(また言った……)

 そうだ。確かに昔、言ったのだ。仕草がなよなよと柔らか過ぎて、女の子のように見えるのが我慢ならなかった。ひ弱ないじめられっ子にいらだちが募り、特に両親が死んでからは、男のくせにしっかりしなさいと何度も叱咤した。高校時代の友達からやりすぎだと注意されるまで、言われたほうの気持ちなど考えもしなかった。
(あたしが言った)
 真っ白な浮き輪を珍しいとうらやんだあのとき、惜しげもなく貸してくれたのに。
“お姉ちゃんがよろこんでいたので、良かったです”
 純粋な気持ちを注いでくれたのに、言ったのだ。

(警察に行かなければ)
 逸香はきつく目を閉じた。目蓋の奥に赤い残像が揺らめいて消えた。
(業火だ)
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