灼かれた者 -1-

 業火だ。

 夕暮れのどしゃ降りの中に佇み、目蓋の内の闇を覗き見て逸香は思った。私の心臓は業火に焦がれている。血の朱ではなく灼熱の炎の朱が巡っているのだ。弟を自殺に追いやった男、加賀祐二。あの姿は焼きついている。暗がりでも決して見間違ったりはしない。
 スポーツマンらしく筋肉質に整った輪郭を胸でなぞると、サバイバルナイフを持つ手がさすがに震えた。
「大海《ひろみ》、あんたの刃をお姉ちゃんが突きつけてやるからね。思い知らせてやるからね」
 呪文のように唱えてみると湿った空気の中で唇がからからになっていた。

※        ※        ※

 ひと月前まであの二人は確かに親友だったのだ。真っ青な顔をして大海が家に飛びこんでくる日までは。男にしては赤過ぎる唇をべろりと開け、痩せぎすの肩を激しく上下させながら背中を壁に貼りつけている姿を見て、痴漢に遭ったOLのようだと逸香は思った。子供のころから思っていたが、なぜこのコはすぐにびくびくするのだろう。個性だからと思うようにはしていたが、それでも時々いらいらする。
「どうしたのよ、お化けでも見たの?」
 大海は跳ねあがって反射的に首をこちらへねじった。
「なんでもないんだお姉ちゃん。ちょっと僕、走り過ぎて息が切れたから」
 そのまま逸香の体すれすれに前を横切って、倒れこむようにして自室に吸われていった。これから真昼になろうというのに、その姿を飲みこんだドアの隙はばかに黒く不吉な色を帯びている。なにがあったのよと尋ねる代わりに腕が動き、気つくとノックなしで勢いよくドアを開けて意味のないことを口走っていた。
「それじゃあたし、二コマ目の講義受けに行くからね?」
 青白い顔がきっと振り向き目をむいた。
「なんだよ覗くなよ!」
 うって変わって横面を張り返すような激しさだ。
 しかし逸香を本当に驚かせたのは大声ではない。肩からずり下がった弟の鞄から、サバイバルナイフが転げ落ちたことだ。素人目にもすぐに分かるほどに長く幅のある異様な武器は、滑らかな皮様の鞘に収まっていても見る者を威嚇した。
(そのナイフどうしたの? どこで手に入れたの? 銃刀法違反じゃあ……)
 そしてなんのために? 咽元まで突きあげた疑問が言葉にならない。正直、怖かった。
「覗くつもりじゃ……」
 言いかけたきり言葉を失うと、いつになく荒んだ目がもう一度下を向き、無理に和らいでから静かにあがってきた。
「お姉ちゃんごめんね」
「え?」
「僕、お姉ちゃんと同じ大学なんか選ばなければよかった」
 半閉じのカーテンが作る影に埋もれた、机、いす、脱ぎ散らかしたパジャマ。不自然に色味のない弟の部屋を逸香は今でも思い出すことができる。
「どうかしたの?」
「僕なんかが弟でごめん」
 それが大海と交わした最後の言葉になった。

 異変を感じたのは昼食をとろうと学生食堂に入ったときだ。逸香の姿を認めたとたん、入り口付近に集まっていた二、三人の男子学生がピタリとしゃべるのをやめて、目で追い始めたのだ。
(なに?)
 にやにやと下卑た笑い、顔を近づけ合って交わす聞こえない言葉。これまで経験したことのないような不穏な視線だ。
(もしかして下着、見えてる?)
 思わずトイレに駆けこみ、鏡の前で体をひねってあちこちチェックした。ねっとり光った眼が露骨に性的な色彩を帯びていたからだ。
(なにもない、大丈夫なはず)
 落ち着かない思いで席に戻ると突然正面に彼らの姿が現れた。トイレの前で待ち構えていたのだ。一人がわざとらしく首をひねってこちらを向いた。
「ちょっとそこのひとー、栄井大海クンのお姉さんですかー」
 悪意とからかいがこもった幼稚な口調だ。頭の中で警報が鳴った。うかつに返事はできない。
「ちょっとそこのひとー、聞こえないんですかー。返事して下さーい」
 男子たちはその後もしつこく交互に呼びつけてくる。逸香は意を決して腰に手を当て、にらみ返してやった。
「姉だったらどうだっていうの?」
「男に興味ありますかー?」
「はあ?」
 なにバカなこと言ってんのと続けるより早く、言葉の手榴弾が投げられる。
「お姉さんもレズだって本当ですかー?」
「なにそれ!」
 すぐには意味が掴めない。
「カレシなしでしょお姉さん。カレシなし」
「あんたたちってバカ? あたしレズなんかじゃないから」
 言い捨てて通り過ぎたときには、その場限りのくだらないできごとと思ってすぐに忘れるつもりだったのだ。まさか大海が、加賀祐二に恋愛感情を打ち明けて手ひどく拒絶されたのだとは、想像もつかなかった。
(そんな、嘘!)
 何度も打ち消そうとして、そのたび去来するのは苦い納得だ。心当たりがちろちろと胸をかすめる。
(言われてみれば……)
 そうなのだと肝をすえて理解するまでに、何日かかったことだろう。相反する思いの中で迷いながら、閉じられた大海の部屋の前で、毎日とりとめなく挨拶をしたものだ。
「おはよう。まだ気分がよくないの?」
 なんの答えも返らない。息詰まる沈黙が気配を殺そうとしているかに思えた。
(きちんと話したい。男の人を好きなのって、直接訊いて確かめたい)
 その衝動が起こるたびに、咽元まで出かかった問いかけを飲みこんだ。単刀直入に聞けばよけい深く傷つくのではないかと思うと、尋ねることができなかったのだ。
 あれきり大海は口も利かず、部屋から出て来ようともしない。弟が負うはずのものまで逸香が背負ってしまったのは、そのためでもあったのだろうか。一部の学生たちが、なぜか逸香も同性愛者だと噂するようになってしまったのだ。大方は面白半分で軽くこそこそ言う程度だったが、学生食堂で出会った者たちは特別に大海と逸香を嫌っている様子で、よく食堂で待ち伏せては嫌がらせをされた。両親を亡くした姉弟を男手一つで育ててくれた叔父は、そういうことに理解がある男ではないから相談はできない。なによりも、弟が育ての親にあのような目で見られると思うと我慢がならなかった。

 祐二とは食堂で一、二度すれ違ったことがある。誰かと笑いながら歩いていたが、こちらに気づくとすっと表情をなくし、つむじを向けて通り過ぎた。しきりにからかう男子に近づいて、なにやら話しかけたこともある。その表情は陰になって見えなかったが、粘液のような笑いを貼りつけた顔がいっせい振り向くのを、腕を掴んできつく制し、さっと出て行った。おかげでうっとうしい連中までがあとを追うようにして消えたことを、逸香は鮮明に覚えている。
(あたしにまで迷惑がかかってるのを見て、嫌がらせを止めようとしてくれた)
 顔をそむけてすれ違ったのは、他言したのを後悔していて、まともに目を合わせられなかったからではないかと思えば、こちらからもどう切り出してよいか分からなかった。
(あの人にもなにも訊けない……)

 とにかくもう食堂では食べないと決めて、実行したとたんに狙われたのは、サークル活動の時間だった。部室の入り口に面した廊下に、例の学生たちがたむろし始めたのだ。開け放したドアの向こう側から、連日聞こえよがしに悪口が聞こえてくる。
「同性婚を認めるとか、毛唐ってバカじゃねーの」
 会話の意図を知らない飛び入りメンバーが、
「いつか日本もそうなるかも知れないけどな」
 何気なく差し挟むと、ことさらにげらげら笑い合った。
「少子高齢化なのに、ありえねーわ」
「人類滅びるって」
「だったら日本も銃社会にすればいいんじゃねー? アメリカみたいにあいつら撃ち殺したりとかできるしさー」
 隣の法制研究会から、
「お前ら毎日うるさいぞ! 知能と民度低いくせに来るな!」
 と怒声が響き、常人には理解できない法律用語で罵倒の連打が繰り出されなければ、サークルをやめるはめになっていたに違いない。

 そして最後には必修科目の講義がターゲットとなった。出入り口付近で待ち構えて、汚物でも見るような目つきでじろじろ眺めるのだ。血のつながった親に育てられ、学生生活を浪費している彼らを、逸香はどんなに憎んだことだろう。
(留年してもパパとママに泣きつけばなんとかなるなんて、油断し切ってさぼりまくって! 豆腐みたいな脳みそで、こんなくだらないことしか言えなくても大卒の履歴はもらえるなんて、許せない)
 思うたびに悔し涙が出そうになった。叔父に引き取られ学費まで出してもらう以上は、間違っても受験に失敗してはいけないし、遊び呆けて留年などはあり得ない。それは病床の母からの、きつい遺言だった。決して学業で迷惑はかけないと姉弟で固く誓い合い、これまで守り続けてきた。ましてやこの講義は四年生のみの科目だ。単位を落として卒業できないなど、逸香にとっては許されない選択だったのだ。
 逃げることはできない。
 毎回続く視線のからみつきに気持ちが悪くなって女友達に頼み、一緒に行動してもらうようにしたが、攻撃がやむ気配はなかった。
「大海君のお姉さんは、どうしていつも女同士で固まってるんですかぁー?」
 小学生のような口調だと思って最初は相手にしていなかったが、このごろはまさにそれがこたえる。相手の痛みを斟酌しない、というよりはできない幼稚さが、ひどく刺さるのだ。
 怖じ気ていることを覚られまいと胸を張り、上から目線で言い返す。
「あんたたちがストーカーするからじゃない」
「はぁ俺たちがあんたをストーカー? なわけないだろ、このブス」
「美女ならともかく、ブスがレズだと吐けるよな」
「見る目のない人に言っとくけれど、あたしブスと違うし、それに……」
 レズなんかじゃないったら、といつものように続けようとして、不意に胸焼けがしたように言葉に詰まった。
(あたし今……、自分だけ安全なところへ、逃げようとしてる)
 突然に理解したのだ。同性愛者ではないから否定するなと主張することは、同性愛者であれば否定してよいという意味につながるのだと。
(大海だけを渦中に残して否定してするなんて、意地にかけてもできない。たったひとりの弟なんだから)
 胸を張ってせいいっぱい高飛車に、
「そういうあんたたちこそ、鏡見ればどうよ?」
 と言い放って通り過ぎようとしたとき、後ろからぼそりと声が絡んだ。
「このブス顔、ラインに晒してやろうか」
 さすがに悪寒が走った。
(この執着はなに? あたしたちがなにをしたっていうの?)

 その日の夕刻は妙に陰鬱で生ぬるい風が吹いていた。進路のことで遅くまで残り、教授と話しこんでいた逸香を帰り際に出迎えたのはいつにない静けさで、普通なら元気のあり余ったおしゃべり連中や合コンに足を運ぶ学生たちのはしゃぎ声が聞こえる廊下が、土中に埋もれたように静まり返っている。窓から顔を出して外を見ると、しょぼくれた服装の男子が背を丸め、自分が最後のひとりですと言いたげに門を出て行く姿があるばかりだった。
(大海はどうしてるんだろう)
 あれきり部屋から姿を現さず、呼んでも返事をしない。ときおりプラスチック容器をごそごそ開ける音が聞こえてくるから、人目を避けて買いに行ったコンビニ弁当を食べるぐらいはしているのだろうが、心配だ。
(久しぶりにキーマカレーでも作ってやろうかなあ)
 料理をするのは好きではないが、キーマカレーだけは店のものよりおいしいと喜んでくれる。
(材料を買いに行こう)
 家の近くのスーパーよりも、教授室から続く旧校舎の裏口付近にある店のほうがよい。気の利いたスパイスが置いてあるからだ。そう思って表玄関とは反対側へ歩き、古びた廊下に足を踏み入れると、辺りは電灯の明かりもなく真っ暗だった。あまり使われていないので早いうちから消灯になるのだ。二階建ての古い建物の両側には七階層の新校舎がそびえ立ち、窓からの光もほとんどなかった。
(今日はなんだか気持ち悪い)
 心なしか足元が、女のような声音で軋んだ気がした。ぎゅっと体を縮め、早足に通りぬけようとする。ふと、背後に人の気配を感じた。
(誰?)
 思わず振り向いて確認する。黒いシルエット以外はなにも見えない。あまり大柄ではないが、男だということだけは分かった。
(なんで今ごろ?)
 ぬっと首をもたげた疑念に向かって逸香は言い聞かせた。たまたま同じ廊下を通ったくらいで、いちいち痴漢扱いされては男も迷惑というものだ。
 そうは言っても緊張は解けない。背後からやってくる足音は男だけあって早いのだ。姿を見なくとも大股で歩いていることは分かる。
 いくらなんでも早過ぎるのではないかと感じて振り向いたのは、相手が五メートルほど近くに接近したときだった。
(間違いない)
 背丈から見ても大股過ぎると思った瞬間、男の足音が逸香のそれにピタリと重なった。
(呼吸を合わせてきた!)
 なにをされるか分からない。凍りついた恐怖を打ちこまれて小走りになり、足のもつれにふらついてつまづきながら、ついに全力で走り出す。顎の肉が硬直して、悲鳴をあげることもできなかった。
 狩りを楽しむ男と、男によって獲物にされた女。今この暗い世界に存在しているのは二人だけだ。誰にも届かない深い渦に飲みこまれてしまった。
(こんなところで呼んでも誰にも聞こえない! どうしたらいいの!?)
 男はからかうようにバッタ、バッタ、と呑気に聞こえるリズムを刻んでいた。余裕があることを見せつけて明らかに弄んでいる。その気になればすぐに追いつけるのに、一定の距離を保って走っているのだ。
 急激に追いあげてすぐ後ろに迫ってきたのは、廊下を半ばも過ぎて、使われていないトイレの入り口が見え始めたときだった。
「やだ……」
 ようやく開いた口からは、かすれ声が漏れ出しただけだ。生ぬるい感触が肌に伝わる。
(触られた!)
 信じられないような強い力で羽交い締めにされたかと思うと、おぞましい体温が無言のまま背中にぺたりと張りついた。
「やだぁ」
 捕らえられた体はアンモニアの臭気が漂う、古いトイレへと引きずられていった。うなじと耳に男の息がかかる。
「ねえ君さ」
 囁いた声には聞き覚えがある。
(あの声だ)
 ラインに顔さらしてやろうか。と言ったあの声。
「レズやめなよ。ね、やめないと、とんでもないことになっちゃうよ?」
「放してよ!」
 泣きながら必死にもがくと、男は軽く首を締めて声を詰まらせ、そのまま片手だけを滑らせて咽を撫であげた。顎のうえ、唇、と順に探っている。口をふさごうというのだ。指が下唇をのぼってきて、不用意にも舌の真ん中に突っこんだ。
 穢れた味がざらりと口中に広がる。
(臭いっ)
 思ったとたん、すくみ切っていた怒りは目覚めた。爆発するような感覚が背骨の中を駆けあがり、一気に脳までをつらぬく。
(食いちぎってやる! 指のない体にしてやる!)
 力いっぱいかみついてやると、
「うぎゃあぁ!」
 と悲鳴があがった。あまりの痛さに男がひるみ、手を離したのだ。
 血の混じった唾液を吐いて、本能の命ずるままに逸香は叫んだ。理性をなくした動物の声が空気を切り裂き轟いてゆく。
 呼応するようにあたりが突然、明るくなった。
「なんだ? どうした!」
 緊張した声が尋ねかけてきた。首をねじって見やると、電灯のスイッチを押さえたまま、事務員らしき男が怒鳴っている。旧校舎の横っ腹には、学務事務室の裏手につながる、崩れそうな廊下が口をあけていたのだ。
 次の瞬間、逸香は突き飛ばされ、放り投げられるようにして床に転がっていた。
「おいこらお前! なにやってた!」
 逃げ去る足音が凄まじい勢いで遠ざかる。あとを追って続けざまに事務員も飛び出して行き、少し遅れて女の人影が駆け寄ってきた。
「大丈夫? 怪我は?」
 ためらいがちに伸ばされた腕を激しく振り払って、逸香は顔を覆った。
「お願いやめて! あたしが誰か聞かないで! 女同士なら分かるでしょう?」
 人影ははためらい、伸ばした両手を引っ込めた。セカンドレイプの危険性に思い当たってくれたのだろう。よろめきながら立ちあがって、必死に反対方向へ逃げた。
 自分が被害者だと知れたなら、そして加害者が誰かも知れたなら。そのいきさつがら、大海が本格的なさらし者になりかねないのだ。セカンドレイプは女だけに降りかかるとは限らない。
 カレーは作り損ねてしまった。

 翌日、パソコン起動後の画面に出現する掲示版を通じて、全学生に警戒が呼びかけられた。悪さの現場を見られ追いかけられたあげくであるから、さすがに彼らも怖じけたのだろう。それ以来、さすがにつけ狙うような真似はしなくなった。事件をさかいにひとり忽然と姿を消し去ったのは、犯人だろう。噛む力は人間が持っている能力のなかでもずば抜けて高く、奥歯などは男女を問わず容易に何トンもの威力を発揮するという。あのときの歯ごたえからして、彼は骨だけで指がつながっているほどの傷を負ったに違いない。学内に送信された情報は、好都合にも被害者が名乗らずに逃げたことを伏せていた。ちぎれかけた指で登校すれば、それが証拠となってすぐに捕まる。そう信じ切っておびえる姿を想像すれば、いくらかの慰めにはなる。
 慰めにはなるが、あまりのショックでPTSD――精神的外傷後ストレス症候群――と呼ばれる状態に追いこまれたことは、予想外の痛手となった。通学不能になるほどのダメージを受けなかったことは幸いと言えたが、たくさんの女友達に囲まれる瞬間ですら安全は帰らない。白昼の並木道に落ちたきらめく木陰のなかにも、執念深く待ち構えて狙う男の悪意を見て飛びあがり、いつも必ず誰かがつけてくると感じた。しきりと振り返り、そのつど誰もいないと確認できても、姿なき視線と気配は距離をおかずに忍んでくる。家中の鍵という鍵をすべてかけ、理性で説き伏せようと必死にあがいても、闇が降りれば男がのしかかって殺しにくるのだと、本能が叫び続けて覚醒を強いるのだ。悪夢に首を絞められ真夜中に叫喚して、叔父を叩き起こしたことも二度あった。
 最終的にはどうにか立て直せたが、あの報復攻撃に成功していなければ、間違いなく病院送りになっていたと逸香は確信している。

 キャンパスが狭いので、今でもあの連中の姿を見かけることがある。彼らがスマートフォンを覗きながらひそひそ囁き合うたび、震えの発作に襲われた。鼻の頭にしわを寄せ、雑巾の臭いでもかいだような顔つきで睨まれたこともある。そこから立ちのぼるメッセージは苛烈だ。

“この世に存在するな”

 足下が失せて底なしの穴に落ちこむような衝撃だった。性のあり方を否定されるということは、存在そのものを否定されるということなのだ、知らなかったと愕然とした。
 そのことを話すとサークル仲間たちは首を傾げるのだ。最も仲が良かったはずの友達――七実という名だ――も、例外ではなかった。
「それって大袈裟じゃない? あいつら面白がってやってるだけだよ。なにも考えてないんだって」
「大袈裟なんかじゃないよ、本当にひどい目で見るんだから! 本当に、この世で……この世で一番汚い物を見るような目で見られて」
 それ以上の言葉が見つからない。うまく伝わらないもどかしさが、みぞおちの中心から勢いよく全身をむしばんでいく。七実は肩まで切った髪を大きく振って、ばっしと両腕を掴んできた。
「だから気にしたら負けだって。しっかりしなよ。ラインも見たけど、あいつら色んな人叩きまくったせいで仕返し祭りになってて、今そっちの方で盛りあがってるみたいだよ?」
「そうそう、心配してた栄井さんの顔写真とかも出てないし。そもそも弟さんの話題だって、チラッと出ただけでしょう。加賀君が全然相手にしてないふうに、お前らのカキコってくだらなくね? って一行レスしたら、大人しくなったじゃない。誰も食いつかない勢いで流れてったよ。第一ほんとのことじゃないんでしょ?」
 口を挟んだ者を、逸香は睨んだ。
「流れて行ったらそれでいいんだ? ほんとにレズビアンなら、あたしが叩かれても当然と思って見てるんだ?」
「だからそんな大袈裟な」
「それがどんな意味になるか知ってるの? 銃社会だと撃ち殺されたりしてるんだよ? 存在認めてる相手に誰がそんなことするの? 認めてないじゃない、否定じゃない。それ以外のなんだっていうの!?」
 激しい語気で詰め寄ると皆はたじろぎ、静まり返った。感情の津波を見守るだけの、コンクリートでできた防波堤のように。
(みんなどうして黙ってるの? あたしそんなにおかしいこと言ってる? お願いだからなにか言って。怖い!)
 沈黙が怖かった。静けさが怖かった。
 気まずい時間が流れたあと、ほころびを縫い直すようにして腰の引けた取りなしが差し出された。
「ねえみんな。栄井さん、しつこいじめにあって大変だったんだしさ」
 新入生が弱々しく笑って同意した。
「うん……だね」
「弟さんだってまだ出てきてなっていうし、心配だしね……」
 中途半端に優しい表情を作ってうなずき合う様子を目の当たりにして、七実はカッとなったらしい。いきなりかん高くまくしたてた。
「それは弟さん自身の問題でしょ? 出てきたければ出てくればいいのに、出てこないのは本人の責任。姉ちゃんも戦ってるのに自分が戦えないのは、弱いからじゃない!」
「大海は弱くない!」
 反射的に逸香は言い返した。勢いよく机を叩いたはずみでペン立てを倒し、握りしめたこぶしがシャープペンシルの先に小さく刺さって、血が出たことにも気づかなかった。
「七実はあのコがなにと戦ってるか知ってるの!? 自分の兄弟にしたこともないくぜに!」
「なんにもしないで引きこもってて、なにと戦ってるっての? ちょっと悪口言われたくらいでさ。姉ちゃんが心配してくれるから甘えてるんじゃない。いい加減あんたも弟離れしなさい」
「チョト待て、チョト待て!」
 慌てふためいた部員が割って入った。二人の剣幕が凄まじいのでほとんど体当たりだ。彼は論理的に解決しようと思ったらしく、向き直ってバシッと言い放った。
「七実さん、いつのまにか話題がずれてる。今はそういう話をしていたんじゃないでしょう」
「あ……」
 声を漏らして七実がたじろぐと、オウムになったかのように皆も「あ……」と言い、それきりあたりはしんとなった。
「逸香さんも自分のことばかり言ってないで、少しは人の話も聞いてほしいよ」
 氷水にぶちこまれたような冷静が戻る。逸香は周囲を見回した。生きた自分のそばにいるのは、体温を持ったモノではないように思えた。
(顔の群れ。遠巻きに見ている。あたしのことを)
 ようやく繕われた空気を破り、顔でできた壁に向かって訴えたかった。
(なんにもしてないのに暴力奮われるんだよ。ねえ、ほんとのことだったら、なにをされてもいいって言うの?)
 けれど口を開けなかった。
「いいじゃない、やめようよ」
 と聞こえた気がしたのだ。ドレッシングはノンオイルだよね、というのと同じくらい軽いノリで評決が下りそうで、体の芯が固まった。
 大海ならなにをされても関係ないのだと。
Copyright 2015 Misato Oki All rights reserved.