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短編小説

 叩く音

 ドーン、ドーン、ドーン………。

 アパートの古い扉を、今日も叩く音がする。誰かが低い声で
「こりゃ本物だ」
 と呟くのが聞こえた。
「ビデオ回して。まず物理現象かどうか、一応調べないと」
 心霊学研究会の人たちとは、それほど親しいわけではない。お化けなどには興味もない。にもかかわらず自分の家を見せ物にしたのは、怒っていたからだ。

 父が交通事故にあい、後遺症にふせって一年半。母とわたしの稼ぎでは生活もままならない。父の面倒を満足にみることもできず、施設に頼まなければならなかった。
「お兄ちゃんは男だからね。大学だけは出してやらないと」
 いまどきそんなセリフを吐いて、母はわたしの大学には退学届けを出しに行ったのだ。
「半年したらお兄ちゃんも就職するから、それまでの辛抱ね」
 馬鹿な母親だ。あんな息子を頼りにして。もうしわけ程度に出た父親の退職金と若くはない母親、中退の妹に養われながらまともな就職活動もせず、アルバイトに精は出すが一円もよこさない。
 ヒモ兄貴とののしったら、叩かれた。

 昨日の夕方、祖父の危篤の知らせがきた。
「お母さんはお兄ちゃんと一緒に行くから、あんたは留守番していてね」
 そわそわと喪服の用意をしながら、母はこちらを振り向いた。
「万一が起こったら車でお父さんを迎えに行ってちょうだい。お爺ちゃんとは実の親子なんだもの、いくらなんでもお葬式には出してあげなきゃね」
 当然とばかり兄が相づちを打つ。
「お前に免許を取らせておいてよかったよな。あんな山の中から障害者を連れてくるには、やっぱ車でないとな」
 自動車学校に通わせてやったのは自分だとでもいうように、顎《あご》をしゃくられた。家の中で免許を持っているのはわたしだけだ。それを妬んでいるのだろう。
「お前はいいよ、親父が働けるうちに免許とらせてもらえたんだから。親父の車、自分の物にできただろう」
 と言われたことがある。

 家族に仕返しがしたい。働いて帰ったあと家事をしているわたしを置き去り、就職口も探さず遊んでいる兄を、長男だから死に目にあわせるという。祖父なんか死ねばいい。こんな思想を父に兄に、そして母に刷り込んだ男。
 この不幸をさらしものにしてやろう。一瞬で決めた。魔がさすとはこういうことか。
「淋しくてたまらないから、大学時代の友達に泊まってもらってもいい?」
 と言うと、母はすぐに許してくれた。本当は分かっているのだけれど。簡単に許したのは罪悪感のためなのだ。いくら時代遅れに思えても、そうしなければ姑や小姑からどんな意地悪をされるか分からないから、わたしを残すのだと。

 心霊学研究会のメンバーは、はしゃぎながら家を調べ回っている。一年生の女の子があっけらかんと
「ここの部屋、凄いってほんとう?」
 と聞いた。
「凄いかどうか知らないけれど……」
「毎晩こうなの?」
「うん……」
「羽田《はだ》さんのお母さんはこの音を知らないって?」
「寝つきがよくて、ちょっとやそっとじゃ起きない人だから」
 本当は看病づかれのせいだ。
「でもこんな音が毎晩続いたら、ふつう起きるよ」
「まさかお母さんには聞こえてないのでは!?」
 などと言いながら、会長が笑っていた。
 叔母が「この部屋の噂」を聞き込んできたのは、引っ越して半年もたってからだろうか。祖父が脳溢血で倒れたときに、 「やっぱりあの部屋の家族からは死人が出るのねえ」
 と言われたとかで、憤慨ひとしきりだった。
 あれから五年になる。

 ドーン………。

「どこから鳴ってるんだ」
「分かるか、これ」
 玄関口から声が響いていた。記録係が正座したままにじり寄ってきて
「なにか因縁話とか、エピソードとか?」
 と尋ねる。
「さあ………。小学校のとき妹が、床下に死体が埋まってるとか人魂が飛ぶとかって、からかわれたらしいけれど……」
「そりゃいくらなんでも会報には書けんわな」
 大学の研究会ともなればそうだろう。妹の時には壁新聞にまでなったというが。
 泣いて帰った妹に、
「床下から死体が三つも出たので、警察が来ていった」
 とほらを吹くようアドバイスすると、すぐにおさまった。

 メガネの学生がカメラを構えたままの姿で飛び込んできた。
「シャッター下りない。シャッター下りないですよ、会長!」
 説明によると、シャッターが動かなかったりビデオ類が故障したりするのは心霊スポットではよくあることで、それが霊のいる証拠なのだそうだ。緊張した中にも喜びを含んだ調子だった。
「本物のお化け屋敷みたいねえ」
 と言うと、雰囲気を壊されたと思ったらしく、つまらない顔をした。
「こんな家に住んで、怖くないんですかあ……」
「生きた人間ほどには」
 とわたしは答えた。
「このうちで誰かが死んだり病気になったりすると、祟《たた》りだって喜ぶ人がいるのよ。ひどい目にあったからって怒って出てくる幽霊さんの方が、よほど人間的じゃないかな」
 研究会の人たちは凍りついたようにシーンとなってしまった。自分から呼んでおいてと後悔したが、もう遅い。
「でも、この音は楽しんでもらって構わないわ」
 慌てて言い足すと、副会長が
「きっと飲んべえで、いつも奥さんに閉め出されている男の生き霊ですよ。酔っぱらってうちを間違うんだわ」
 とフォローして皆を笑わせた。噂どおりに頭の良い人だと思った。
 先ほどから黙って録音テープを回していた一年生が、巻き戻しと再生を小刻みに繰り返し始めた。よほど調子が悪いのか、むきになっている。数十秒ほどの一部分にひどくこだわっているように見えた。
 話題がはずまない。しかたなしに眺めていると、録音係はヘッドホンを外して顔をあげた。眉間が小刻みに震えている。
「もうやめましょうよ、先輩。これ、まずいっスよ」
「え? なんで?」
 わたしたちは新入会員がサービスで演技していると思った。しかし、どうからかっても彼の目は笑わなかった。
「やめましょう」
「……どうして?」
 答えがない。
「羽田さんさっき、あれこれ言われるの嫌だって言ってたけど、死体がどうとかじゃなく、本当にこの部屋はいわくつきじゃないんですか」
 わたしは首を振った。ゆいいつ信頼性を感じるのは、他人の家をとやかく言わない隣の川瀬さんが
「もしできるのならこの部屋でた方がいいよ……」
 と言ったことぐらいなものだ。幽霊の話などはせず、
「どういうわけかこの家に住む人は、最後に夫婦別れをするのよねえ」
 とため息をついたそうだ。そういう事実はあるのだろう。いくら口の堅そうな相手だといっても、母が夫婦仲のことで近所に愚痴をこぼしたと考えると気が重い。

 ドーン、ドーン、ドーン………。

 音がますます激しくなってきた。
「どうしたんだろう」
 わたしは思わず呟いた。女の子をはじめとする数人の肩がピクリと跳ねあがる。
 録音係が急に立ちあがって、帰りじたくを始めた。会長が唸った。
「ちょっと聞かせろ!」
 テープレコーダーに飛びつくと、彼はヘッドホン端子を引き抜いた。
 かすれた機械音がよた話を再生する。思わずきつい愚痴を言ったあの箇所で、わたしは目をつむって耐えた。不思議なことにドアを叩く音は全く入っていないようだ。皆んな変な顔をして、交互に見つめ合っている。やがて話し声は少しずつ小さくなっていき、フェイドアウトして消えた。
「あれ?」
 誰かが呟いた。
「…………けて…………」
 雑音のような声が囁く。今のはなに?
「……開けて……開けて……」
 男のものとも女のものとも分からない。老人とも子供とも判別がつかない。合成されたようでいて、肉声以外では決してありえない。
 居合わせた人間の呼吸が一瞬ひくのが分かった。

 ドーン。

 不意に家中を震わせるような轟音とともに扉が叫んだ。研究会員の悲鳴も凄まじかったが、とうてい敵《かな》わなかったろう。問題の扉をぶち開けて、皆んなてんでに走り出た。
 怖くなかったと言えば嘘になる。実を言えばわたしは逃げ遅れたのだ。けれど、走り去る皆んなの後ろ姿が闇へ飲まれてゆくのを見たとき、あとを追えなくなってしまった。
 たとえ本当に幽霊が住むのだとしても、住人である限りは逃げることができない。いま走り出しても、眠りに帰るのはこの部屋だ。怪我をして働けなくなった父と長わずらいの祖父を抱えて、わたしは大学を中退しなければならなかった。引っ越し代金など、どこからも出てくるはずがないのだ。
(本当なら来年卒業だった……)
 放心して眺めていると、夜道にきらきら光る粉のようなものが見えた。逃げ出した人たちのあとを追って、車道の急カーブの辺りまで青く点滅しながらついていったが、すぐに消えた。


 光が消えたあの辺りで事故が起こると、わたしは今でも犠牲者より一人分多い花束をそなえてやる。通りかかった人が、最近どうしてこんなに事故が多いんでしょうねと挨拶した。
「交通量が増えたせいでしょうか」
 それがいつもの答えだ。
 白いワンピースを着た女の人が花をもってやって来た。小雨のなかに佇んで、ガードレールを見つめている。わたしがひな菊をそえてやると、はっと目を見開いた。
「ここで事故にあわれた方のご家族ですか?」
「いいえ、近所の者です」
「そうですか……」
 彼女は自分の花束をおいて、その場にしゃがむと手を合わせた。まぶたをきゅうっと閉じているのが見えた。
 わたしは気づいて、
「その花束……」
 と言った。
「こないだ亡くなった方の数より多いですね?」
「ええ」
 優しく切ない笑みが返ってくる。
「ずっとまえ亡くなった兄の分と、おととい亡くなった人に」
 そう言うと女の人は立ちあがって深くおじぎをした。ワンピースの白がゆらゆら揺れて、目の前に迫ってくるような気がした。
「いつもありがとうございました」
「……え?」
 なぜ過去形なのだろう。その疑問を口にすることはできなかった。
 小雨が降る。去ってゆく後ろ姿が、柔かく空気に溶けて消えた。

 あの家にどんなお化けが住んでいたのか、わたしは知らない。

【おわり】
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2001.8.21
© Copyright 2001 Misato Oki