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まるばのほろし 2


 男が絵を持ってきたのは、それから三月もたってからだ。相変わらず地面にへばりつきながら、毒の女の顔を見ないようにして頭上に巻物をかかげていた。姫は目の前で絵をとくと、描き手の反応を試すようにゆっくりと視線を走らせていった。
「あのう」
「なに」
「いかがで」
「おまえはどうなの」
「え、」
「気に入ってるの」
 一瞬の沈黙を認めると、女は見ている前で絵をふたつに裂いた。
「セキ、どう思う」
「それがおいらの名前なの? 姉さんは花の絵を姉さんの気に入るように描けとは言ったけれど、だんな自身が気に入るようにとは言わなかったはず」
 答えながらそろそろ近づくと、セキは引き裂かれた絵の片方を拾って目を通した。
「ああ、こりゃ下手くそだなあ。絵なんかやめちまいなよ」
「そんなこと言ってはだめ」
「もう一度描き直してきます! 私は約束を違えていません。絵が気に入らなくとも目はとらないのでしょう?」
 救いを求めるように見上げた頬は、情けないほどに震えていた。
「確かにとるとは言わなかったわね」
「もう一度描きます!」
 絵師はうさぎのように跳んで姿を消した。
 最初の十数枚は、毒の姫の手によって破り捨てられた。絵師はまばたきもせず、土の上に紙切れとなって落ちる絵を凝視して耐えた。
 一年近くが経ったころ、やっと女は手をとめた。
「この花は菓子のよう」
「気に入ったの、姉さん」
 女は首を振った。
「破るのはやめておくわ。でも、おもちゃのようでもあるわね」
 絵は持ち主の膝元へ投げて返された。男は唇を咬んで睨んだかと思うと、口を利かずに去った。セキは眉根を寄せた。
「姉さん、だんなは痩せたと思わねえか?」
「そう?」
 あるじは腰をかがめてそばにある毒草をいじりながら
「あの男、なにを生業《なりわ》って食べているのか」
 と呟いた。

 岩だらけの山道茶屋になまけものの下働きがいることは、立ち寄った者なら誰でも知っている。険しい山道に老夫婦とあっては文句も言えず、いたしかたなく薪はこびなどに使っているのだ。男はなんだかんだと言って山奥の岩屋へ足を運び、なかなか戻ってこない。いつもずた袋のようなものを持っていくが、中身は絵描き道具であるという。
「少うし、いかれておるのじゃろう」
 茶屋の老婆は思わず客にぐちをこぼした。
「だけどあんな者でもなければ、こんなところへ働きに来てくれる奴なんぞいやしないよ。年はとりたくないもんでなあ、お客さん」
 そのときの客は身なりが良く、供を連れているようだった。
 と、奥の方からなにを思ったか噂の手伝い男が何枚もの紙を抱えて出てきた。
「お、お客さん、見たところ学問のあるお方のようですが」
 客はびっくりして
「学問というほど立派なものを修めたわけでもないが」
 と答えた。
「風流を解する方とお見うけしました。これを」
 男はうやうやしく紙を捧げるまねをする。
「おや、絵か」
 客は目を丸くし、しかし絵の内容には触れてこなかった。
「私が描きました」
「紙をどこで手に入れた」
「え、あのう。家が紙問屋でして、恥しながら勘当される前に、ちょっと」
「放蕩息子というわけか」
 男は手を組んでもじもじして見せた。
「悪いことは言わない。帰って親孝行してやったらどうだ」
「今さらそんな、帰るなんてことは」
 客の小さな黒い眼《まなこ》が、横に動いて男をとらえた。
「心がない」
 断じるようなひとことだった。奥の方から、湯飲みをさげる音がコトリと響いた。
「心というと」
「親が苦労をしてもっている店の売りあげからは紙だの絵の具だのを取り、年寄りが苦労をしてもっている店ではぐうたらの道楽ざんまい。人の苦しみや汗まみれの生きざまをなんと思っているのか」
「私は……」
「草も生えぬ岩山で作り物の花など描いて、誰がおまえの絵にまことを感じる。なぜそこにある命を写さないのだ」
 男は、不意に口ごもると言い訳をした。
「この世の物ならぬ美しさを描きたいのです。本物を写してはならないのです」
 客は嫌な顔をした。
「風の音を知らずに草のなびくさまを本当に見たと言えるのか? 触れもしないでおなごの姿が写せると思うのか? きらびやかではないが深みのあるものの美しさが分からないのか? こんなものは虚ろだ。お前が写しとっているのは、作り物の美すらも持たないがらくただよ」
 客は投げるようにして茶代を置いた。
「心を知らずに絵などやるな」
 客の従者はあるじのあとを追おうとして、ついでのように絵道楽の男に近寄ってきた。
「いまの方は絵の先生なんだよ。あんた、悪い人柄じゃなさそうだ。真面目にやればいいことあるんじゃないのかい?」

 毒姫のもとへ運ばれた絵は四十を越えた。男はあちこちすすけてやつれ、絵筆を握っているはずの手に大きなたこが幾つもできあがっている。
 いま、毒の女は首をかしげて渡された絵を食い入るように見つめていた。
「月の光で作った細工物のような儚《はかな》さだこと」
 それからようやく微笑んだ。
「確かに幻の美しさと言える。望みを叶えてあげましょう」
 しかし絵師は顔をあげなかった。
「どうしたの」
「なにかが足りないはずだ」
 女は首をかしげた。
「細工物のような作り物のような、魂のこもらない絵だと言わないのか?」
 女が驚くと、凄じい勢いで
「言えばいい!」
 と叫んだ。
「こんな物で良しとされてはかなわない!」
 物の怪たちは沈黙した。
「困っただんなだねえ」
 セキがおずおず差し挿む。
「もう充分やったじゃないか。初めのころから比べたら、この絵は考えられねえよ。姉さんがいいと言うんだから、いいじゃあないか」
「良くはない!」
 男は姫の手から絵をひったくり、泣きながらずたずたに引き裂いた。
 それからのことだ。男は持ってきた絵を物の怪たちが誉めると火のように怒り出し、見ているまえで滅茶苦茶にしてしまうようになった。

 四年が去り、花の絵は六十を越えたが、いまだに絵師は描くのをやめようとしない。
「姉さん、あの絵描きのだんな、許してやったら」
 セキは言った。
「許すというと?」
「たかが花ひとつ教えるだけのこと。黙って見せてやりゃ終わるじゃないか。姉さんが出るまでもない、花に行き着けないような呪いをかけられたなんて、だんなの考え違いだよ。そのくらいはおいらにも分かる」
「そうね」
「可哀想じゃないか。どうして教えてあげなかったの? だんなが最初に来たときに。おまえの足元に咲いてる花がそうだよって」
 少しのあいだ、毒姫は口を閉じた。空と土のあいだを、風がわたっていった。
「がっかりさせると思って、つい言いそびれたのよ」
 あるじは思い起こすように少しのあいだ言葉を切った。
「どうして? この花、おいらは好きなんだけどなあ」
 大きな口を開けて食いつこうとするのを見咎めると、毒の姫君は
「食べてはだめ」
 と軽く頭を叩いたが、子供の姿をした者がびっくりしてやめると、今度はそっとなでてやった。
「そのことだけれどね、セキ。そろそろ最後の手段をとることにしたわ」
 あるじが言いかけたとき、絵師が血相を変えて飛び込んでくるのが見えた。

「どういうことなんだ!」
 たどり着くなり絵師は叫んだ。
「どうしたの?」
「絵、私の描いた絵……」
「お前の描いた絵が?」
「描いた絵にそっくりな花があるんだ!」
「そう」
「全部、全部幻の花のはずなのにひとつ残らずみんなあるのはどういうわけだ!」
「花の姿を知ろうとしたの?」
「違う!」
 男の姿は、魔物退治に来たかのように、殺気に満ちている。
「歩いていたら、そこに咲いているんだ。そこにも、ここにも、世にも醜い花が!」
「世にも醜い。おまえはそんな絵を描いていたの」
「あんな姿を求めて描いたわけではない、知っているはずだ! おまえは私の絵心を奪ったんだな、そうなんだな? 目よりも大切な心を奪ったんだな? 畜生!」
 飛びかかろうとすると、女はするりと腕を伸ばした。漆塗りのようにつややかな衣の袖から、真っ黒な蛇が何匹も飛び出したかと思うと、男の顔をめがけて毒を吐いた。
 絵師はぎゃっと呻いて顔を覆い、その場に転がった。
「目、目が」
「セキ、その人を起こしてあげて」
 あるじは短く言った。
「目、私の目……」
「泣くのはやめなさい」
 女は命じたが、男は泣きやまなかった。
 セキがおろおろと言った。
「姉さん、だんなのなにが気に入らないの?」
「わたしは気に入ったといったはず。目は奪っていないわ」
 女は頭巾の下で息をつくと、低く囁いた。
「目を開けてわたしを見なさい」
 男は目を開けた。まだ涙が流れていた。
「おまえのことは気に入ったけれど、残念ながらお前の絵は気に入らないわ。絵の中に咲いた花を地上に植えたのはわたしだけれどね。
 もう諦めなさい。生みの親すら醜い花だというのなら。
 労せずして都合よく願いを叶えてもらおうなんて思ってはいけないのよ。本当はわたしの望みを満たすことができなかったら、約束を破らなくとも目はもらわなくてはならないのだけれど」
 毒姫はそっとセキの顔を見た。
「この子がおまえを好きらしいから簡単な呪いをかけるだけで許しておきましょう。このさきどんなことがあっても、生涯おまえは望みの花の姿を知ることはないと」
 毒と薬の草花が、むせるように匂いたちながら揺れている。セキがおそるおそる口を切った。
「だんなはやつれたねぇ」
 男は頬をゆがめ、鼻で笑いながら顔をそむけていった。
「見る目のない化け物なんぞに絵の良し悪しを言われるのだから、やつれもする」
 子供の姿をした物の怪は、長く重い沈黙をおいた。
「おいら心配してたのさ」
 絵師は振り向いた。
「だんな、怒ったのかい? おいらみたいな汚い化け物なんかに心配されても、そりゃ仕方ねえけど」
 セキはへらへら笑った。男は肩を落とし、しばらく自分の手を見つめていた。
「物の怪ですら心配というのだな」
「もとはだんなのお仲間だからね」
「私は今だって人ではない」
「え?」
「昔からそうだ」
 草の陰で虫の動く音がかさこそと響く。
「最初に会ったとき、おまえに
『おっかあは腹いっぱい食わせてやりたかっただけなのに、間違えたのだ』
くらいの慰め方ができないのかと言われたな?」
「…………」
「わたしにはそんな優しい言葉……、普通の者ならすぐに思いつくような……。それが欠けている」
 セキは口をぱくぱくさせて何か言いかけたが、男が切るような眼差しを草の波へ向けるのを見ると、黙ってしまった。
「おまえたちが悪いのではない。私だよ」
 日が落ちかけてくる。全てのものの影が少しずつ伸びて柔かく緑になびく。
「最後になるわ、セキ」
 毒の姫が静かに言った。セキは一瞬、目をつむった。
「あのときひどいおっかあだと言ってくれて、ありがとう」
 しわくちゃの目元に小さく涙がにじんだ。
「おっかあがどんなに優しかったとしても、おいらは殺されたんだ。殺してくれた相手が良かったから少しは救われたはずだ、そう思え、なんてよけいなお世話じゃあないか。
 ――それが本音だったんだよ」
 絵師は息を飲んだ。しばらく呆けたように座り込んでいたが、やがてふらつきながら去っていった。



 後年、都に不思議な絵を描く男が現れた。献上されて三月とたたないうちに戦に焼かれた絵巻物は、不世出の傑作だったそうだ。そこに描かれた花はどれひとつとってもこの世にはない幻想的な姿と、山道ひとつ違えて迷い込めばもしや足もとに揺れているのではと思わせる命とを持ち、見る者の心をうった。
 にもかかわらず、
「このように深く美しい花は、どのような響きの名を持つのであろうか」
 という問いには実在のみすぼらしい薬草の名を答え、識者の失笑をかったという。

【おわり】

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2001.7.24