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まるばのほろし 1


 朝露が空気に溶けるといっそう草の匂いがたつ。見渡すかぎり花と葉におおわれた中に木の小屋があって、人の動く気配がした。
「姉さん、今日は早いねえ」
 入り口から小さな足がのぞくと、土の中からしゃがれた声がする。
「わたしはいつも早いから」
 足の主が答えると、柔らかい泥を押し上げて物の怪が姿を現した。
「お客さんが来るんだね?」
「わたしのお客さまが来る」
 言葉が終わらないうちに、晴れかけたもやの中から風采のあがらない汚れた男が見え始めた。物の怪は首を伸ばしてようすをうかがっていたが、やがて鼻を鳴らした。
「なんだい、綺麗な男じゃないよ。姉さんの客になるには役者が不足なんじゃないのかい」
「さあ」
 そう言いながら戸口に出てきたのは、小柄な体には不釣り合いなほど大きな頭巾《ずきん》をかぶった女だ。かぶりものの陰からつややかな髪がひとふさのぞいている以外に容姿を知らせるものはない。左の手で頭巾の口をしっかりと抑え、誰にも見られまいとしているようだった。

 汚れた男は物の怪にかしずかれている女を認めると、そばへ寄って膝をついた。丸く太って人は好さそうだが、どこか無頓着な感じがある。
「毒姫さま、私は売れない絵師でございます」
 物の怪は口をとがらせて
「へえ、売れないのかい」
 と、合いの手を入れた。
「願いがあってきました。目と手と足以外のものはなんでも差し上げますから、お聞き届け下さい」
 頭巾の女は少しのあいだ沈黙していたが、
「目や手や足ぐらいにしておいた方が良くはないの?」
 と尋ねた。
「私は絵師でございますから」
「絵を描くためには目と手がいる。ここから帰るために足がいるというのね」
「馬鹿な男だねえ」
 茶色いしわくちゃな顔をゆがめて、物の怪は言った。
「胃袋とられりゃ物が食べられないし、心の臓でも取られれば、その場でおっ死んで絵なんか描けやぁしないよ」
 絵師は小さな物の怪を睨んだ。
「おまえ人間みたいな姿をしているな。ひとめ見れば人ではないと分かるその姿、化けそこなったのか?」
 物の怪はへらへら言った。
「そりゃだんな、おいらは人間の化け物だからね」
「人でない物が化けるから化け物というのだろう」
「狸だって狐だって傘だって化けるご時世に人間だけが化けないなんて、そいつぁちょっと違っちゃないか?」
「おまえ子供だな」
「よくある話さ。飢饉のころに……」
「飢え死にしたので餓鬼になったのだな?」
 物の怪は笑った。
「人の話は最後まで聞くもんだ。腹が減って腹が減って死にそうだったとき、おっかあがこっそりおいらを領主さまの山へ連れ出して言ったんだ。
『ほれ太郎、おっかあが見張っててやるからそこに生えてる花を食べな。領主さまが召し上がる特別な花なんだから、そりゃあたいしたもんなんだ』
 その花ってのは白くて可愛くていい匂いがして柔らかそうで、いま思い出しても生唾が出てくるぐらい旨そうだったよ」
 物の怪は思い出し思い出し、首を振る。
「おっかあは言ったんだ。『次郎……』」
「太郎じゃなかったのか?」
「話の腰を折るなよ。おっかあは言ったんだ。
『次郎、おっかあはずっと先の山の入り口へ行って人や馬が来ないか見張ってるから、急いで食べるんだよ。食えるうちにたくさん食っとかねえと、今度いつ口にはいるか分からねえ』
 ……で、おいらは急いでほおばった。そりゃ、神様の食い物かと思うほど旨かったね」
 男はうなった。
「領主に見つかって殺されたのか。慈悲のない」
 物の怪はちょっと黙った。その顔は笑っていなかった。
「おっかあはおいらに毒の花を食わせたんだ」

 沈黙が落ちた。
「慰めておくれよ」
「ひどいおっかあだな」
「おっかあはその花が毒だと知らなかったに違いねえとか、さすがに腹を痛めた子をじかに手にかけられなかったんだとか、花を使ったのはせめてもの手向《たむ》けだったとか、たいがいの大人はそんな風に慰めてくれるんだけどねえ」
「じかに手にかけようがかけまいが、殺したには違いない。死ぬのを目のあたりにしなかったからたいして悪くはなかった、使ったのが花だったから温情があったと言い訳しようとは、狡くはないか?」
 不意に頭巾の女が笑った。男は雷に当たったようにすくんだ。
「いや、あの」
 絵師は唾を飲んでうなだれた。
「悪かった」
「悪かった、とは?」
「そこの……人間の化け物の……、母親の悪口を言って、悪かった」
「そこの人間の化け物の母親の悪口」
 オウム返しに繰り返したあと、女はなんて言い方、と笑ったようだった。
「その子の名前はセキというの。わたしは覚えてあげているんだけど……この子は朝教えても昼ころには忘れてしまって」
 女はゆっくりと体をまわして歩み寄ってきた。
「願いごとは」
 すぐそばにくぐもるような声が響いた。絵師は怖じ気づいたようだ。
「おまえはわたしに気に入られたわ。なにかひとつねだりなさい」
 一歩寄られるたびごとに、男は平伏したままじりじりとさがっていった。
「花を教えて下さい」
「花を教えるという意味は」
「私は学問のない男でして。絵師であれば花の名を聞いただけで筆をとれるぐらいでなければならないのに、それが分からないばかりに風流が解せないのです」
「この世のすべての草花の名と姿を知る知恵が欲しいのね?」
 男は首を振った。
「ひとつだけでよいのです」
「ひとつだけ?」
「まるばのほろし、とはどういうものなのか」
 女あるじと従者は顔を見合わせた。
「そんなことのために目と手と足以外の物をなげうつというの?」
「はい」
「とんまなだんなだねえ」
 セキは声をあげた。
「悪いこた言わない、すぐにこのお花畑を出て行きな。大事な体や命を投げる必要なんかないじゃあないか。金を払えばいいんだよ、金を。誰かが教えてくれるに決まってる」
「その程度のことなら、お金も必要ないでしょう」
「あのう、でも私の里では誰も知らないのです」
「里を出てみれば。現にこうして出てきたんだし」
「それが、まるで呪いにかかったようにその姿に行き着くことができません。知ってる、と言った者が底意地の悪い人間でなにも教えてはくれなかったり、あそこの者なら知ってるからというので行ってみると旅に出ていたり」
「そりゃお笑いだ」
 セキは呟いた。
「あすこに咲いていたからというので行ってみると馬にけちらされて色すら分かりませんでした」
「そんな馬鹿な呪いをかけるような者が本気でいると思うの」
「霊山の巫女に占ってもらったら、ここへ来いと言われました。毒姫の薬草畑に」
 お付きの魔物がさらに口を差し挿もうとするのを手で制すると、毒姫は
「おまえが花に行き着けないそのわけは? 呪いだ、と告げられた?」
 と確かめた。
「分かりません。でも取り憑かれてしまった。幻の花に」
 女はしばらく考えていたが、やがて
「おまえはどんな花だと思うの?」
 と尋ねた。男は一瞬言いよどんだ。しかし、きっと振りあおいだその眼には、激しく明るい光が宿っていた。
「美しい名です。美しい響きです。きっと美しい花に違いありません」
「どんな風に美しいの」
「それは……」
 頭巾の女はセキを見遣って合図を送るようなようすをした。
「ではわたしにその幻の花の絵を献上しなさい。気に入ったらお前が花と出会えるようにしてあげる。条件は絵を描きあげるまでは決して本物の花の姿を写さないこと。くだんの花の姿を知ろうとしないこと」
「約束を違えれば目をもらい受ける」
「目、目を」
「絵師の命をね」
 女は低く呟く。
「その覚悟なしに毒の姫に会いに来たとは言わないはず。ではまたそのときに」
 男がもう一度平伏してから頭を上げると、草花も魔物たちも消えていた。

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