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風鈴と御霊送り

序の項「夜明け」

 確かに死んだ。今でも徐々に体温が奪われ、血が腹から下へと降りていく冷たい感覚。浅い息を継ぐことすら意に反してままならず、手足はやたらと重い。唇をつく喘鳴(ぜいめい)に、襲い来る眠気。鋤(すき)や鍬(くわ)を担(かつ) いで見下ろす影がしばらく頬に落ちていたが、柔らかな下草を踏みしめ、足音はやがて遠ざかってゆく。下腹から滴る血だまりの中で、生々しい終わりを覚えている。死ぬ前の走馬灯。そんなもの、でまかせではないか。森の葉からは憎らしいほどの木漏れ陽が降り注ぎ、ひぐらしの声が喧(やかま)しい。高名な術者と歓迎された日々は一転し、今や幕府に仇なす妖術使いと追われる身だ。これで同心(どうしん)だけではなく、所司代(しょしだい)からも身を隠す日々は終わる。空腹に耐えかね扶持(ふち)を得ようと、最後に術を行使しに立ち寄った集落で足がついた。生死は不問。お尋ね者の自分を幕府へ突き出すことで、年貢の長期免税を認める触書(ふれがき)が、こんな山腹の僻地にまで伸びていたなど。しょせん人などこの程度。救いを求めるは調子よく、自身に危害が迫れば返す掌も早い。こうも行く先々で裏切られては、密告されることにすら動じなくなるというものだ。本当の絶望を味わったのは、最初のうちだけだった。
 掠(かす)れた視界に映る見慣れた影は、隻眼(せきがん)になってしまった一匹の白狼(はくろう)だった。
(ああ、どこに行ってたんだ……三迭(さんてつ)。それよりも、目をどうしたんだ?)
 あの綺麗な瞳は、どこにいったというのか。愛でた薄い紫の右目はなく、何も映さない暗い空洞が眼窩(がんか)に広がっている。よく見れば、左目からもすっかりと紫の色は抜け落ち、琥珀(こはく)色へと移り変わっていた。
 お尋ね者へ転落してから出会い、人間を厭(いと)いながらも誘いに乗ってきた白狼(はくろう)。初めは三迭 の常識を崩壊させた、私という存在への好奇心だったのだろう。そして自分は強がったところで、やはり淋しかったのだと思う。ふとした瞬間に、軽口を叩く相手もいない。強がりを自覚してしまえば、もう一人ではいられない。一人きりで空気を相手に過ごすのは、存外に苦しくやり切れないものだ。背中に向かって言ってくれた、『お前は変な奴だ』という三迭の言葉がひどく懐かしい。
『死ぬのか、朔太(さくた)。助けてやった人間に、殺される終わりなど…それでいいのか』
 いいはずはないが、今日まで長らえた悪運も尽きるようだ。それにその名は、とうに捨てた。自分を売った首座(しゅざ)がつけた名など。親とも思った首座の裏切りは、人を信じるという愚かさを初めて知った瞬間だった。
『我は……助けぬ。助けてはならぬ。そういう掟だ』
(そんな顔はしないで欲しい。それでいい。お前だけには、変わって欲しくないんだ。お前は俺がやっと見つけた、決して変わることのないもの。だから、このまま死んでやるのは癪(しゃく)だけれど、それでも……お前は、俺を助けてはいけないんだよ)
 襲われた傷は肺まで貫通しているらしく、口からはごぷりと血が溢れ気の利いた言葉すら言ってやれない。たった一つでいい。不変のものが欲しかった。裏切りで埋めつくされた世界で、変わることのない一本気な心根があると、もう一度だけ信じさせて欲しかった。すまなさそうに項垂(うなだ)れる白狼(はくろう)の毛並みを、せめていつものように梳(す)いてやろうと、弱々しい手を伸ばす。三迭は立てた耳をぴくりと揺らし、風の声を聞くかのように虚空へと顔を上げた。
 私の掌に、ころりと一粒の石を転がした。首を振り切る姿は、まるで迷いを捨てる儀式のようだ。
『我の、最期の神気(しんき)を託す。お前は我にとって友である前に、唯一の人であったよ』
 分かっていると、口にすることはできたのだろうか。冷え固まっていく唇も体を襲う寒さすらも、もう何も感じない。『助力となるは一度きり。水に浸(ひた)してどうか届けて欲しい』と、声が聞こえたような気がした。誰に何を届けるのか、遠ざかる声に視界は薄れていく。手から力は抜け落ち、重い瞼(まぶた)はやがて閉じた。


 次に瞳を開ければ、決して明けることのない暗い闇が広がっていた。音すらもない深い闇。そこでは、手探りでも自分の居場所すら掴(つか)むことができはしなかった。眼(まなこ) は失われ鼻も利かず、最後まで残ると言われる聴覚も何も捉えることができない。全てが閉ざされた体は、正常に機能しているのだろうか。ゆるりと五感の奪われた体は、まるで他人のもののようで実感がなく、自分が何者であったのか。そんな正体よりも生きているのか、死んでいるのか今は全てが怪しい。襲うものは精神を蝕(むしば)む恐怖であり、圧倒的な孤独だった。自己の存在すら、肌の上から順に引き剥(む)かれていく極限の感覚。滴る汗は冷たく、声を出すこともできない。いつまで続くのか不明な苦しさが、喉の乾きをいっそう煽(あお) る。こんな、耐え難い拷問に終わりがないのであれば、頭を抱えさっさと発狂でもできたならば。身を起こすこともできず、仰向けに転びながら、ますます冴えていく瞳すら怨んだ。視覚が残されていないというのに。自分の存在が闇に溶け、指の先から空気に交ざり流れ出す。自分はどうなってしまったのか。盲(めし)いたはずの眼(まなこ)に、闇が浮かぶ。その時ぴちゃんという水の音が、聴覚を奪われたはずの耳に届いた。
 夜明けだ。
 光が差したわけではなく、音という名の夜明け。霞む瞳をまたたかせると闇の中に、薄ぼんやりと祠(ほこら)が現れた。目を開けたまま、夢でも見ているのだろうか。また、ぴちゃんと水音が響く。夢中で言う事のきかない体を起こし、水音に沿って這(は)い出してみれば、眼前に横たわる緩やかな大河があるではないか。彼方を臨む河岸には蜘蛛の巣にも似た網目が、一面に張り巡らされている。河面には小舟を操(あやつ)る渡し守。懐に忍ばせた懐紙からは、紫水晶がこぼれ落ちた。
(これは……目を閉じる前の、夢ではなかったのか)
 辺り一面は濃い夜闇(よやみ)。しかし音の次に眼前に開けたのは、視界という夜明けだった。
 チリン。チリン。
 涼やかな凛(りん)とした鈴の音が地面を震わす。そして無機質だが重厚な声が、幾重にも折り重なって頭上から響いた。

――答エヨ。汝ハ誰(タ)

 見上げれば、白い髭(ひげ)を生やした翁(おきな)の面が空一面を覆い、今にも落ちてきそうな距離で自分を見下ろしている。

――答エヨ。汝ハ誰(タ)

 翁(おきな)の面はぐぐりと空から迫(せ)り出して、瞬く間に自分との間合いを詰めた。どうと落ちた面の淵からは、どろりとした液体が流れ出すが、萎縮(いしゅく)した足では身動きひとつとれない。両眼は深い空洞で、その中では草書らしき文字の断片が、カラカラと渦巻いていた。何よりその押し潰されそうな威圧感に、肌が絞めつけられてびりびりと痛む。

――我ハ、万物ヲ統(ス)ベルモノナリ。我ハ、万物ヲ律(リッ)スルモノナリ。

 翁(おきな)の形相が般若(はんにゃ)へとってかわり、間近から放たれる怒号が大地を鳴動させる。唸り声が、容赦なく耳朶(じだ)を叩きつけた。カカカと開いた口が、「汝ハ誰ソ」と問い直した時には、面は再び翁(おきな)へと変わっていた。このままでは、飲み込まれる。両手で防ぐように構え、固く瞳を閉ざした。己は誰だ、己は誰だ、己は誰だ。
「人以外の何者でもない! 人以外にありたく、されど人以外にはなれない」
 空から大きな槌(つち)の手が伸びて、自分の胸を一息に貫いた。はじめは、胸を焼き焦がすような激痛だった。突き入れた手は容赦なく体内をかき混ぜ、細胞をどろどろに溶かし再生させられるような、不思議な感覚に陥っていく。意識は薄れ頭の中で声がする。

――答エヨ。秩(チツ)トハ何ゾヤ。序(ジョ)トハ何ゾヤ。
――実(ジツ)トハ何ゾヤ。輪(リン)トハ何ゾヤ。
 これが、天との初めての会話だった。

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