病棟内はなぜ揺れる

 三十路の初めで体調を崩した。検査を受けるはめになったのだが、行ったさきの病院は増改築の繰り返しで迷路のようになっており、方向音痴泣かせと言ってよい。検査票を持ってうろうろするうち、妙に長い廊下に出くわした。
(あ、ここ検査病棟じゃないや)
 すぐに気づいたが、入院棟とも思わなかった。大部屋のドアは真っ昼間は開放されているものだし、見舞客やら患者やらがばたばた出入りしてにぎやかなはずだ。静まり返っているところからみて、研究棟に迷い込んだに違いない。
 ここらで誰か通りかからないものか。偏屈そうな医者に当たって、
「だめでしょ、こんなとこ来たら」
 と睨まれるのはいやだが、道くらいは聞ける。そう思ってあたりを見回したが、見事なまでに無人だった。
 ──と気づくと、ぐらぐらっときた。
(ありゃ、地震だよ?)
 立ち止まったがようすがおかしい。
(この揺れは……)
 絶対に物理的なものではない! 凍りついたあとで慌てて引き返した。
 廊下の入り口までくると、ちょうど看護婦が閉鎖後の駐車場につけるような鎖のいましめをしているのに行き当たった。
「閉めないで!」
 向こうから見たら、たぶんわたしは青ざめていたに違いない。変な顔をして
「どうして入ったの? ここ、入っちゃいけないって立て札あるでしょう?」
 と叱りつけたが、すぐに怒りをひっこめてしまった。
「迷ったんです。通りかかったとき、立て札もなにもなくて……」
「あら、そうだったの。ごめんなさいね。ちょうどお食事を出すために立て札をどけていたときだったのね」
 わたしはつばを飲み込んだ。
「ここ、もしかして放射線病棟ですか?」
「そうそう。あー、だいじょうぶよ。別にちょっとくらい迷い込んだって、なんともないから」
 彼女は忙しそうだった。
 なぜ体が揺れるような気がするんですか? それは聞きそびれてしまった。


 理由が知りたい。看護婦をしている友達二、三人に尋ねてみたが、全員が首を振る。
「そんなの聞いたこともない」
 と。
 ベテランの一人は言った。
「わたし、放射線病棟にも勤務したことあるけどね。なんともなかったし、そういう訴えをした人もいなかったよ」
 彼女の偉いところは
「気のせいなんじゃないのォ?」
 と安易に片付けないことだ。しばらく考えてからひょっとしたら、と付け加えた。
「放射線病棟っていうのは壁に鉛の板が埋め込んであるの。放射線は鉛を通過できないから……。まわりを鉛で囲まれた状態で、人によっては異変を感じるかもしれないね」
 彼女は患者の心情を理解している。「気のせいだよ」と言われることがどんなに不安で淋しいかを知っている。子供のころ、ろくに学校にも行けないほどに病弱だったと言っていたのも、彼女だった。そんなことで体が揺れるはずはない。
 わたしは諦めることにした。あれはやっぱり気のせいだったんだ。


 しばらくして、性懲りもなく入院してしまった。
 環境が変わって寝つかれず、明け方の光でうつらうつらしていると、夢を見た。

 わたしは車椅子をこいでロビーで缶ジュースを飲んでいる。向こうから最近入院したらしい男性患者が現れた。彼は仲間たち二、三人と雑談しながら病気自慢をやりだしたが、なんの拍子にかこんなことを口走ったのだ。
「放射線病棟にはいると地震がくるんだ。誰も信じちゃくれないけれど」
 思わず身を乗りだして叫ぶ。
「やっぱりあそこ、揺れますか!?」
 わたしたちは顔を見合わせて微笑んだ。やっと分かってくれる人に巡り会えた。

 誰もこの体験を共有してはくれない。
 自分だけがおかしくなったのか? それもまた、恐怖の要因ではある。あのとき体験を同じくした二人はとっくにこの世のものではなく、うち一人は転院ののち、まさに放射線病棟を経ていった。
 病棟は本当に揺れるのか?
 そんな質問、彼女にあてた手紙をまえに思いつくことはできなかったから。

【追記】この文章の初めに登場するオンボロ病棟の人たちは、いまは他の患者と同じ施設に入っている。建てかえ工事が一番最後になっただけなのだと、あとになって分かった。
2001.7.24