夜を飛ぶ



「お兄ちゃん、どうしたらお父さんは、アマゾンやアフリカよりもあたし達を好きになってくれるの?」
 ベッドの上で彩《あや》が尋ねる。心なしかヒューヒューいっているようで、僕はビクリとなってしまう。お父さんのバカ野郎。あんなに止めたのに出て行っちゃって。アフリカの密林なんかで行方不明になるから、彩のぜんそくがひどくなったんだ。
 答えられずに黙っていると、彩は手鏡を出してのぞきこんだ。
「きっとあたし達が綺麗じゃないから、好きじゃないんだよね」
「そんなことないよ。お父さんはいつもどおり帰ってくる気だったさ」
 恋人じゃあるまいし、親に向かって綺麗じゃないからなんて、女の子の発想は分からない。妹は可愛いと言われるほうが多いはずだ。
「彩はブスじゃないよ」
「お父さんの好きな綺麗でもないよね」
「お父さんの好きな綺麗って……」
「お母さんだってそれが嫌で男の人と出て行っちゃったんでしょう?」
 体がカッと熱くなる。病人にこんなことを吹き込んだヤツを殴ってやりたい。お母さんは一人で出て行ったことにしておいたのに。ようやく口を開いたときには、間抜けなことしか言えなくなっていた。
「お母さんだってブスじゃなかったよ。……彩、いいから鏡なんか見るなよ」
 彩は毛布の上に鏡を伏せて、悲しそうに見あげた。僕は思い当たった。そうだ、伯母さん以外にない。こんな言葉で傷つけるのなんか。
 外国へ行くたび、お父さんは荷物のように僕らを伯父さんの家へあずける。伯父さんはお母さんのお兄さんでそんなにきつくないけれど、伯母さんはちっとも優しい人じゃない。
「美弥さんが捨てた子供なんて、わたしとはなんの関係もないわ。甥っ子や姪っ子のご飯くらい、あなたが自分で作ったら?」
 伯父さんに怒るふりをして、隣の部屋で小さくなってる僕たちに聞かせたのだ。
 それなのにおいていって、バカ親父。彩は病気なのに。
「お父さんがそばにいてあげないと、良くないですよ」
 主治医の先生に注意だってされたのに。
 とり憑かれたようにお父さんがアフリカへ飛び消息を絶ってから、彩は一日中ぐったりと過ごすようになった。病気の悪化で薬がきつくなったせいもある。それ以上に体を痛めつけたのは、精神的なショックだった。
「場合によってはみなしごなんだから、気を強く持ってもらわないとねえ」
 伯母さんの声は、奇妙に高い。

 その日ようすを見に行くと、彩は起きあがって待っていた。こちらへ向けた目の奥に得体の知れない光がぼうっと宿っている。
「お兄ちゃん、ゆうべ空を飛んだ夢を見たよ。これでお父さんを探しに行ける! って思ったら、目が覚めちゃったの」
「そう……」
 いつになく頬が赤い。僕は彩の額にさわった。
「熱があるんじゃないの?」
「熱なんてないよ! ねえ、今晩ゆめの続きを見られないかなあ」
 他に返事が見つからない。つい話を合わせてしまった。
「見られるだろうさ」
 そのあとどういうわけか、彩は夢の続きを見る方法を覚えたらしい。
「きのうは海を渡っている夢を見たの。雨とか風とかすごくて、何回も吹き飛ばされそうになったよ。でもどうしてだかあたしには、アフリカの方角が分かるの」
 ベッドの隅に腰かけて、暗いあいづちをぼんやりと打つ。海を渡る話が来る日も来る日も続いた。毎晩おなじ夢を見るのだろうか。

 ふた月もたった真夜中、ゴオンと異様な物音が響いて目が覚めた。発作が起きると、彩はもがいて頭を打つことがある。僕は飛び起きた。慌てて走っていくと、待ち受けていたように鼻先に手が差し出された。
「やったよ! とうとうアフリカに着いた! 小さい村の上を飛んだら、村中から大人や子供や爺ちゃん婆ちゃんが飛び出してきて、あたしを追いかけ回してくるくる着いて来るの! お兄ちゃん、どうしてだか分かる?」
「そんなの知るかい、びっくりさせるなよ!」
「あたしが綺麗だからなの! それが分かったの! きっとそのうち、お父さんだって着いてくるよ」
 なにも言えなかった。親に捨てられ弱りきった妹が、夢にしか楽しみを見つけられず、あちらの世界の住人になったからって誰が責めたりできるだろう?
 彩は眠る。一日中眠る。夢の中を飛ぶために。発作を起こしていないか心配になってのぞきに行くと、ときどき楽しそうに微笑んでいる。最近は揺すってもほとんど目を覚まさなくなった。
 伯母さんがわめいた。
「いい加減にやめてくれないのかしら、彩ちゃんは! あれから三ヶ月もたってるのよ? 本当に弱い子持っちゃうと大変よね。あんた達のお父さんもお母さんも、看病疲れでいなくなっちゃったんじゃないの!?」
 僕はカンペンをぶつけてやった。
 伯母さんがふすまをピシャリと閉めて出ていくと、彩がうなった。振り返るとだるそうにまぶたをこすっている。たったいま起きたような仕草だけれど、目つきがはっきりしている。さっきから気がついていたのだ。
「彩、起きたのか?」
「うん……」
「いまの聞いてたんだろう?」
 彩は首を振ったが、じっと見つめると毛布に半分顔を隠して
「お兄ちゃん、ごめんね……」
 と呟いた。
 彩のせいじゃない。分かってはいたんだ。なのに僕は、本当につい口走ってしまった。
「夢の世界は終わりにしろよ、バカなんだから。いなくなっちゃったものをいつまでも追っかけて」
「だけどあたし……」
「もうたくさんだよ! 今度あの少女趣味な夢の話なんかしてみろ、承知しないぞ」
 シーツのうえで、細い手が生き物のように動いて握りしめられた。
「ごめんなさい……」
「あんな親父なんかどうでもいいよ。いつまでくよくよしても仕方ないじゃないか? くだらない親を持っちゃったら、もう自分が強くなるしかないんだよ!」
 僕はまくしたてた。妹が痛そうな顔をしたのにも、お構いなしだった。
「おまえ、もう夢なんか見るな。日本のどこかにいるに違いないお母さんだって、あんなに探してもダメだったじゃないか。ジャングルの奥地に行ったヤツなんか見つかりっこないよ、二度と帰らないよ!」
 彩は瞳をひらいてじっと見た。僕の知らない顔をして。やがてその口から、低く細い呟きがもれた。
「待つと悲しくなるから忘れるんだよね? 悲しくなるまで待ったからだよね?」
 どこかで車の音が遠く響いた。
「お兄ちゃんも待っていたから」
「…………」
「ごめんねお兄ちゃん、あたしばかりお父さんに会って。お兄ちゃんには黙っていたけど、もう何日もまえから夢の中でお父さんと一緒に遊んでたの」
 僕は目をそらして窓の外を見た。
「あたしが頭の上を飛ぶと、お父さんが喜んでついてくるから……」
「そういうのやめろってば」
 彩は長いことうつむいていたが、やがて顔をあげて僕の手を自分の両手に包んだ。
「待っててね、お兄ちゃん。お父さんを連れてくるから。空を飛んでここへ帰ってくるから。お父さん、きっとついて来てくれる。そしたら三人でずっと一緒に暮らそうね」
 窓向こうで夕焼けの最後の朱《あか》が消えた。
 その夢が僕を訪れることはあるだろうか。お父さんが帰ってきてもう二度とは遠くへ行かず、意地悪な伯母さんの顔を見ることもなくなって、みんなで楽しく住む夢が。彩が見る夢を、僕も分けてもらえるのだろうか。
 街路樹の梢《こずえ》が夕風を受けてざわめいている。僕は目をつむって上を向いた。

 その日の夜、人恋しくて彩の部屋へ行った。ベッドが空になっている。窓が細めに開いて肌寒い。トイレに行ったんだろうか。
 僕はしばらく待った。謝ろうと思って。机に腰かけてふと目を移すと、枕もとに月明かりを浴びてぼうっと光るものがある。近づいてから息を飲んだ。
 片羽だけで大人の手のひらほどもある大きな蝶が、身じろぎしたのだ。その羽は色とりどりの光を反射して、闇の中できらめいた。あんまり綺麗でそれに怖くて、見たとたんに体が動かなくなってしまった。捕まえる──そんなことは少しも思い浮かばなかった。
 立ちすくんでいると蝶は静かに舞いあがり、わずかにあいた窓の隙をするりとぬけて三日月の下《もと》を飛んでいった。
 その日を最後、彩の行方は分からない。


 月明かりを浴びて夜闇に光る、そんな蝶を知っていたら教えて欲しい。たった一人の僕の妹を。
 お父さんは蝶の収集家だった。

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(蝶のイラストのみ:Studio Blue Moon 蒼い猫さん)


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2002.7.13