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短編小説

薬効

 薬使いの青年が婚礼を前に失踪したとき、その理由に思い当たる者はなかった。
 長いこと想い続けた娘と一緒になるというのでひどく幸福そうに見えたし、他人の恨みをかうという性分でもない。考えられるのは薬草採りに行って危難に遭ったということぐらいだが、これも許嫁のおさななじみがやってきてあっさりと否定した。
「彼は旅に出たそうだよ」
 と彼女は証言した。
「旅に出たって、そりゃまたなぜ」
「それを訊いたら彼女泣き出してなあ……、『みんなわたしのせいだ』って」
 村人達は変な顔をして聞いていたが、やがて一人が口を切った。
「まさかあんなべっぴんさんだから、ほかの男ができたんじゃあるまいな」
「なんだって?」
 辺りは静まり返った。許嫁のおさななじみというのは村はずれの占い女で、噂によれば恐ろしげな魔術を使うといういわくつきの人物だ。背を丸めて子供のように紐をいじくっていた老人が、目だけをあげて口をもぐもぐさせた。
「よ、よく分かんねえけどもよ、女の責任で男が逃げるっちゅうのはロクなことでねえ」
「逃げたなんて誰が言った? 旅に出たと言ってるんだろ」
「だからなんで旅に出たのかって俺らは訊いてるんだ」
 占い女は困った顔をした。
「薬をとりに行ったんだよ」
「嫁さんのせいで薬?」
「嫁さん、いつ病気にかかったかね!」
「元気そうだがどこが悪いんか」
 皆が口々に問い正すなか、彼女はしばらく立ち往生の状態になった。答えようと口を開いても野次馬の声のほうが大きいのだ。不意に一同が集まっている村長《むらおさ》の家がゴオンと唸った。
「うるさいっ」
 皆は口を利くのをやめた。
「いいかい、あんた達。これからあたしはあの娘に付き添って彼を連れ戻しに行くから、文句あるまいね」
 村の者は、噂こそしていたが実際にこの女が魔術を使うのを見たのは初めてなので、怯え切っている。流石に村長は果敢だった。
「しかしよ。奴が嫁のために薬とりに行くのをなんで止めたりする? 病気の嫁が奴を追って出るのを止めるほうが先でねえのか」
「病気でもないヨメのために旅にまで出るって言うから連れ戻すのよ」
「あ? なんで病気だなんて勘違いした? 奴とこは病気については代々くろうとだろうが」
 しばらくして紐で遊んでいた老人が
「そりゃおめえ、赤子ができたかよ」
 と口を滑らせた。
「そこの爺さん、火ィつっかけられたいかね」
「や、や、睨まんでくれ。おめえ俺を焼くか? 焼くか? 俺熱いのは嫌いだよ」
「バカ、焼かないよ」
 占い女は村人の質問を目で封じて長《おさ》の家を出た。

 彼女が旅支度を整えていると、薬使いの許嫁が入ってきて問いかけた。
「もう用意はできたの?」
 占い女は顔をあげずに不機嫌な声で応じた。
「本当にこれでいいんだろうね」
「いいに決まっているでしょう、わたしは自分の意思であの人を好きになったんだから、そのこと忘れないでね」
 彼女は黙って荷物を抱えあげると相手を先にたたせて表へ出た。
 失踪した薬使いの名はタルム、その許嫁はセイマ、占い女はナギという。

 タルムの失踪は次のようないきさつから始まっている。
 恋人同士にとって最も重要な日が四日後に迫った午後、彼はセイマを呼び出して話さなければならないことがあるから、と切り出したなり長いこと黙りこくっていた。世間の目には浮き足立っているとしか映らなかったかも知れないが、恋人の目には婚礼が決まったあたりから彼の様子がおかしくなったことは明らかだ。
「今度の話はなかったことにして欲しい」
 突然彼は言い放ち、問い返す間も与えずに
「承知してくれ、分かってくれ、頼む」
 と続けた。
「どういうこと?」
 セイマが笑って促すときっと頭をあげて視線を合わせてきた。
「君は僕を好きなんかじゃない。それは錯覚だ」
「錯覚ですって」
「錯覚なんだ。それは本当の気持じゃない」
「……どういうわけでそんなこと言い始めたの? わたしなにか意地悪言った? 冷たくした? それならそうと言ってくれればいいのに」
「そうじゃない」
 次の言葉を言い出すまでに彼は舌の奥を何度もゴルゴルいわせてむせるように唾を飲み込んでいたという。
「薬だよ。薬を盛ったんだ、君に」
 彼女がその意味を理解するのに、時間がかかった。
「僕を振り向くようにさせたかったんだ。それで……焼き菓子にそういう薬を混ぜて持っていったんだ」
 問題の焼き菓子のことを、彼女は思い出すことができなかった。
「そんなことない、わたし絶対に薬のせいなんかじゃないわよ。本当に自分で好きになったんだから!」
 そのあと何度も引き止めたにもかかわらず、恋の呪いを解く薬を作るから、と言って彼は行方をくらました。

 旅に出た二人がようやく会話らしい会話を交わしたのは夕暮れ時、宿を見つけてからだ。セイマのほうが口を切った。
「これからどこへ行くの?」
「心当たりといえば一つきりしかないね。タルムのいってた薬の材料は、木や草からとるものではないから。湖の泣き犬って知ってるんだろ?」
「知らないわ」
「人間の声で啜り泣く真っ赤な犬だよ。牛の二倍もあるそうだけど」
「……化け物なの?」
「その涙を相手を殺さずにとることができたら、問題の薬になるんだ。そしてなにより肝心なのはそれを欲する本人の掌《てのひら》ですくい受けなければならないということよ」
 占い女はここまでを鮮明に喋ってから付け足すように
「まずまともにできやしないだろう」
 と呟いた。
 セイマの懸念は無論、恋人が既に泣き犬の餌食になったのではないかということだ。彼女は言った。
「夜が来るわ」
「そりゃ、夕方の次は夜が来るだろうさ」
「わたしが言いたいのは、わたしたちは昼間動いて夜休んでいるけど、化け物は昼休んで夜動くってことだわ。泣き犬を捕まえようと思ったら、あのひと今から外歩きを始めるんじゃないの?」
「こうしている間にも、って言いたいんだね」
「当然でしょう」
 ナギは乱暴に溜め息をついた。
「いいかいセイマ。あたし達は不眠不休で走り回れるほど丈夫じゃないんだよ。いくらあんたが自分の想いは強いと言い張ったって食べなきゃ死ぬし、寝なきゃ泣き犬の顔を拝んでいる最中にだっていびきをかき始めるさ」
「まあ、わたしいびきなんかかかないわ!」
 二人が口争いを始めようとしたとき、微かに風のうねぶような音が窓から入ってきた。
 無風の暑い夕暮れだった。彼女達は注意深くその正体をつかもうとしたが、音が聞こえていたのはそう長いことではなかった。
「……人間のものじゃない声って、あんなに分かるもの?」
「どう聞いても女の泣き声のような様子だったんだけどね。あんたも人間の声じゃないと思ったかい?」
 彼女達は頷き合って窓から首を出した。方角を確かめようとしたのだ。
「月がないね?」
「今夜は魔物月だから」
「いくらタルムでも明りなしで野歩きのできる薬は作れないだろう。泣き犬は火を食うから松明《たいまつ》は危険すぎるしね」
「松明をエサにおびきよせようなんて……」
「その方法で成功した者がないくらい、彼なら知っているさ」
 友人の声に確信がこもっているのを知ると、セイマは息をついた。----と、再び遠方から人のものではない人の声が響いた。
「…泣き犬はどうして泣いているのかしら?」
 彼女は呟いたが、その言い方にはあたかも魔物が自分と同じ境遇にあって泣いているかのような同情がこもっていた。

 現実に泣き犬を探すことは至難を極めた。湖の周りをうろつく、と皆は言うが問題の湖は人間から見れば海のようなものだ。いきあたりばったりにそのほとりを歩いて出会うというわけにはいかず、ナギが占ってもその場所に着くまでに何日もかかる。着いたおりにはまた別の場所へ移動していて再びやり直さなければならない。魔物だけあって一日にしてこちら岸からあちら岸へ飛んで行くなど苦もなくこなす。
「つまりはタルムにとっても泣き犬に出会うのは万に一つの可能性ってことさ」
 と、ナギは慰めた。
「あの人は今どこを探しているのかしら」
「まったく用意周到だったらありゃしない。あんたがあたしに助けを求めること、ちゃんと見越してるんだ。占い封じのやり方なんて、どこで覚えてきたんだか!」
「悪く言わないで!」
「悪くなんて言ってない」
 お定まりの言い合いに水を差したのは炎だった。背後の草木が轟音をたて、急に燃えだしたのだ。ナギは焚き火の明かりを隠す魔術の闇が、いつもと違って張り巡らされていないことに気づいた。
 泣き犬は火を食うために全身が焼けた鋼《はがね》の色をしている。息を吹きかけられれば火傷を負い、爪をかけられれば焼死する。叢《くさむら》におびき寄せれば火事となる。始終泣いているにもかかわらず涙を見た者がいないのは、涙が蒸発するせいだ。巨大な赤い犬が闇のなか人間の表情で顔を歪め、喉から女の泣き声を絞るのを見たとき、二人ともしんそこ震えあがってしまい、ナギは魔法の術《すべ》を忘れた。
 犬はセイマを見た。セイマも犬を見た。少しの間があり、犬は背を向けると急に湖に飛び込んだ。
「待って!」
 彼女は叫ぶと友人が制止するのも聞かず、自分も水へ踏み込んで暗い中へ消えてしまった。明かりに包まれたナギの目からは相棒がどうなったのかを判別することはできない。水飛沫の音が響いてしばらくしたとき、黒く冷えた魔物の首にすがってセイマが飛んで行くのが一瞬炎に照らされた。

 濡れた体で空を行くうち、セイマはすっかり凍えていた。化物犬が彼女を振り落とさないよう用心深く乗せているのは確かだったが、腕が痺れて落ちそうになった。
「助けて!」
 泣き叫ぶとゆっくりと降下を始めた。
 着地したのは砂地であった。セイマがうずくまって震え出すと、泣き犬が鼻の先を差し出して彼女の額にすりつけてきた。
「泣き止みなさい。おまえは私の涙が欲しいのでしょう」
 柔らかい声が言った。セイマは急にぼんやりとした表情になって砂の上に座り直した。
「……泣き犬が女だなんて、知らなかった」
「私が喋ることよりも、女だということのほうに心がとまるというのは、薬に恋を授かった証拠よ」
 セイマは答えようとして口を開けたが閉じることができなかった。犬が頭を下げた。
「私の涙を飲んでごらん。はじめは右、それから左。両の掌ですくって混ぜ合わせてから唇へ!」
 彼女は手を出さずに硬直していたが、突然飛びのいた。
「どうしてそんな情けをかけるの? わたしは必要ないわ、涙を欲しがっているのはあの人だもの。わたしは危険だから連れ戻しにきただけなのよ」
「私が自分から水を浴びて体を冷やすことは滅多にない。じきにまた焼け出すのだから、今しかないんだよ」
 セイマは首を振った。
「それはわたしの目的ではないから」
 犬は喉の奥をととと、と震わせて笑った。
「湖のほとりをふらふらしている男だったら、何度も空から見かけたよ。おまえが私の涙を飲みさえしたら、あの人間も二度と危険を冒す必要はないだろう」
「あなたの涙を飲むことは、わたしの真実を否定することだわ」
「薬が切れることが怖いのだろう。騙されていたと知りたくないのだろう。おまえと同じ境遇の者はみんなそうだ。けれど薬が覚めると一人残らず相手の男を呪い出すのだから」
 娘は犬の誘いには乗らなかった。
「わたしはむきになどならないわ。お願いだからあの人に会ったとき火で焼いたりしないで欲しいの。言葉が喋れるのだったら、わたしが待っているから家へ帰るようにと話してちょうだい!」
 犬は斜めに視線を走らせた。
「ではこの涙を掌へ預けて帰してもいいのだね?」
 彼女は不意に狼狽した。獣は見逃さなかった。
「今でこそ危険を冒してでもというほどに想われているけれど、このままいくとじきに忘れられてしまうよ。そのときあの男は命を懸けてまで呪いを解くような愚は犯さないだろう。あの男がおまえを捨ててもおまえの心には薬が残る。ほかの道を見出だすこともなく、嫌われたくない一心で、捨てられても本望と言い続けて一生を閉じるんだ」
 セイマは火のように頭をあげた。
「わたしを挑発するのね」
「するとも」
「あの人はわたしを見捨てたりしないわ」
「薬の力を借りて恋人を信じたりするものではないよ!」
「わたしが信じようと信じまいと、あの人はそういう人なんだから」
 犬は長いことなにも言わなかった。
「そうまで言うなら時間をあげよう」
 次に口を切ったとき、獣はそう呟いていた。娘はやっとの思いで火を消し止めた占い女の前へ送られた。

 あちこちに火傷を作り、煤だらけになって戻った人里では尋問が待ち受けていた。湖のほとりで焚き火をすれば泣き犬が寄ってくる。それがもとで火事が起これば状況によっては里を巻き込んでの大火にもなりかねない。この土地で焚き火・松明は犯罪だった。とりわけ泣き犬を寄せる目的での火は死にあたいするとされている。旅行者が何も知らずに火を焚き襲われて、なおかつ火事を消し止めた場合に限って一度だけ刑が軽くなる。
 もちろん彼女達は魔物を呼ぶために火を起こしたのではなかったが、状況は極めて不利だった。湖を目指すまえ、セイマが宿の者に泣き犬のことをあれこれ質問していたためだ。ナギはそのことについて「泣き犬に襲われないための知識を得たかった」のだと弁明したが、セイマは旅のきっかけをすべて話し、人々にタルムについての情報を求めた。
「これでは泣き犬寄せの刑罰は免《まぬが》れんな」
 町長《まちおさ》は言った。セイマは連日の尋問に気力を失い、牢の中でぐったり座り込んで口も利かない。ナギの方は達者なものだった。
「わざとじゃないって、言ってるだろう!」
「お前はそう言い張るが、そこの娘は罪を認めとる」
「いつ認めたんだ、泣き犬狩りに出かけた恋人を探してるって話しただけじゃないか」
「ではその恋人とやらもいずれは同罪かの。となれば地獄で添い遂げることも可能なわけだ」
 ナギが怒りで言葉を失うと、不意にセイマが顔をあげて相手を睨んだ。
「わたしがやりました」
「わたしがやりました、とは?」
「ナギは焚き火を隠す魔術を忘れたのではないわ。ちゃんと施したのよ。でもわたし、消してやったの」
「えっ!」
 彼女は親友をきつい目つきで顧《かえり》みて
「だって埒があかないんですもの」
 と付け加えた。
「やはりなあ」
「このひと口は悪いけど人は好いから疑いもしないで自分のしくじりだったと思ってるけど、違うわ。でも、さすがにこの娘まで死罪になるのは可哀想だから……」
 そこまでをひといきに言うと、彼女は顔を覆った。
「ごめんなさい、わたしもう気力がないわ。タルムもとうの昔に死んでいるような気がする。……本当に地獄ででも落ち合いたい」
「バカなこと言って、つくづく呆れさせるよあんたは! 年上の癖にどうしてそう考えなしなんだい!」
「あなたは年下の癖にお説教ばかりよ!
 …………でもごめんなさい、本当にごめんなさい……」

 セイマの呆れた発言はこれに止まらなかった。どういう訳でか、彼女は自分の処刑を泣き犬に脅かされるすべての村々に触れ回って欲しいと言い出したのだった。その方が見せしめになるからというのが彼女の言い分だ。牢から出された占い女は腕組みをしてこれを聞いていたが、立ちあがるとその役は自分が買って出ると請け合った。
 泣き犬寄せの刑罰は残虐の部類にあたいする。受刑者ははりつけ柱のついた船に縛られ、湖面へ置き去りにされる。足元には油で湿した小枝が積まれ、執行人が岸辺に帰りつくころ燃えあがる仕掛けがあった。
 見物人が相当数に達したところを見ると、ナギは約束を果たしたらしく思われる。しかし彼女は話を広めるためにと町を出たきり、戻っては来なかった。噂によるとそれから間もなく「あの娘の恋人」と名乗る男が現れて町外れで醜態を演じたというのだが、定かではない。咎人の助命を願い出た者がないことだけは確かだ。
 泣き犬を恐れるとは言いながら、見物に集まった者たちは祭り気分であった。彼らの目的は火刑の船に寄せられた化け物を見ることに他ならない。岸辺にその火が及ばないだけ遠くへ船を持ってゆくとなると、肝心の刑罰へ目が届かないためでもある。火をまとった犬が空を飛ぶ様子を安全に眺める機会といえば、このときをおいて他にはないのだ。
 息を詰めて待つうちに、執行人が船で戻ってきた。彼は準備は完璧であると明言したが、泣き犬が現れるまでにいつにない時間がかかったので、しまいにはその手順が疑われた。空に赤いものが出現したのは、しぶしぶ確認のための船を出そうとしたそのときにである。

 祭りは裏切られた。これまでにはなかったことが起こったのだ。泣き犬は船の炎ではなく人間たちの頭の上を飛び始め、野次馬は散った。てんでに逃げ帰ったうちの一人が子供がいなくなったと騒いだが、幸い日没時に自力で戻ってきた。彼は母親の服の裾をつかみながら証言した。
「犬は湖で溺れちゃったの」

 赤く焼けた犬の眼下には、湖のほとりに密集している人間のほか、燃える船と筏《いかだ》とがあるのだろう。静まった胸のうちで、セイマはそれを感じた。二人の女が筏の上ではなく横におり、掴まって浮いている姿をどう見るだろうか。
 犬は頭から降下し、火の船を二つに割って湖に突っ込んだ。
「落ちたわ!」
 甲高い声が叫ぶ。犬の頭が筏の下から飛び出し、筏は宙返りをうってから化け物をその上に乗せた。セイマが飲んだ水を咳とともに吐き出す。ナギは筏から手を離すタイミングを誤って飛ばされていた。
「さあ、私は約束を守ったよ」
 泣き犬は言った。
「ナギを助けて」
 セイマは相手の足元へ半身を乗りあげて相変わらず咳き込みながら嘆願した。
「必要はない。自分の力でなんとかするから。私が用があるのはおまえ一人なんだからね!」
 犬はセイマをくわえて飛び発った。
 水面を見下ろすと、板切れに掴まって呆然としているナギのほかに、遠くの小船の上で何やら喚きながら腕を振り回す若者の姿があった。
「あの人だ!」
 彼女は叫んだが、魔物が凄じい速さで駆けたので、それらが視界の中へ入っていたのは一瞬だった。彼女は切り立った崖の足下へ降ろされた。
「私の涙を飲んでごらん」
 ともう一度魔物は言った。
「あの男の態度を見たでしょう。おまえの女友達があんなに腐心したのにとうとう自分からは名乗り出なかった。本当なら自分が身代わりに罰を受けるからといって命乞いをしたっておかしくはないのに。どうしておまえの船からあんなに離れたところをうろついていたか分かるかい。遅れた振りをして見殺しにするつもりだったんだ。おまえが死ねば自分の罪も死ぬのだからね」
 セイマはしげしげと獣の顔を見つめた。犬の顔でありながら、それはどことなく人の顔を連想させた。いま、牛よりも大きな化け物が仔犬のように頭をたれて彼女の手の下へ差し入れている。思いのほか柔かい感触が走った。腕をのべると体中を震わせて涙を落とした。
 セイマは突然、この魔物が心底涙を絞っていることに気づいた。
「泣き犬はなぜ泣くの」
「涙を飲めばすべて分かる」
「――同情する……」
 すると犬は急に体を引いた。セイマは耳をつかんで引き寄せ、はじめは右、つぎに左とその涙をすくい受けて掌の一番深い窪みに落とし込み、混じり合わせて飲み込んだ。
 しばらくの時間が過ぎた。泣き犬は注意深く相手の様子を見守っていたが、何も起こらないことを知ると尻込みを始めた。それから前足の間に頭を埋め込んで声を立てずに泣いた。
「なぜ泣くの」
「おまえが変わらないから」
「変わらないとなぜ泣くの」
「永久にチャンスを失ったために。
 ……私もむかし、こうやって泣き犬の涙を飲んだ一人だった。何が起ころうと変わらないと豪語して飲んだのに、飲んだ途端に目が覚めて、もう二度と騙されないと叫んだのよ」
 セイマはしばし考えていたが不意に相手の言う意味に思い当たった。
「泣き犬は女なの、人間なの!?」
「……叫んだとたんに体が焼けて犬になっていたんだよ。そのとき泣き犬はこの崖の上に立っていた。人の姿に戻って、『これで呪いが解けた』と喜んで帰ろうとしたけれど」
 と言って彼女は鼻で岩肌を指し示した。
「人間の体ではこの崖をおりることができなかった。……今も骨が残っているよ。あらかた風化してしまったけれど」
 セイマは辺りを見回してそれらしきものを見つけると、拾い上げて撫でた。
「私たちに同情してくれるか?」
 彼女は頷いた。
 泣き犬は湖へ彼女を送り届けたが、そのあと水へ沈んで二度と姿を見せなかった。

 ところでこれには後日談がある。
 婚礼の日、客として招かれなかった老人が木陰で紐を結んで遊んでいると、占い女が籠に焼き菓子を詰めて持ってきた。彼は喜んでほおばったが、やがて彼女が祝い気分のお裾分けでやってきたのではないことに気づいた。
「おめえ、どうして不機嫌かよ?」
 と彼は尋ねた。
「友達の祝いの席に出ないでいいんか」
「当人同士が一点の曇りもなく幸せなのにどうしてあたしが後悔しなけりゃならないのかと思ってさ」
「さてはおめえ、今日のムコさんに惚れてたかよ?」
 彼女は舌打ちした。そそっかし屋は飛び上がって御機嫌とりの言葉を絞った。
「奴さんはやっぱり、怖気づけいて嫁さんを見捨てるつもりだったか? それで怒ってるか?」
「違うよ。町へきて騒ぎ立てたから、へたに名乗り出て彼氏まで処刑されちゃかなわないと思って、あたしが釘を刺したんだ。救出用の船の手配に手違いがあっただけだよ」
 占い女はちょっと沈黙してから、セイマのやつ! と呟いた。
「彼女がなんでタルムと泣き犬を会わせたくなかったか、その本当の理由がさ」
「ほ?」
「例の薬ね、あたしの戸棚にもあるんだよ。いいお金になるんでね。この前調べたら量が減ってたんだ。問い詰めたら白状したよ」
「なにをじゃあ」
「先にあいつの方が一服盛ってたんだ」
 老人はらくだのような口をぱくんとあけた。
「もののはずみでタルムが泣き犬の涙を飲み込むことを恐れてたんだっちゅうことだな!」
「あたしは彼女が自分の意思で好きになったんだってことを忘れないでやるよ」
 彼女は聞き手の驚愕ぶりを見てやっとにやりとしたのだった。

【おわり】
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2001.7.24
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