そらみみ

 夜のように暗い丘の森は、社《やしろ》へ続く近道だ。陽ざしの痛い真夏の昼下がり、蔓漆《つるうるし》の赤を避けて分け入ると、蝉時雨《せみしぐれ》がシャワーのように降ってくる。
 ――油蝉《あぶらぜみ》の叫びはなんだか怖い。
 愛は思う。ひとりぼっちで聞いていると、声に焼かれて迷子になりそうだ。
 早足に歩きながら小さく心に繰り返す。
 ――境内までは一本道だから。
 道に迷うはずがない。
 ――子供のころなんども通ったんだから、絶対だいじょうぶ。
 いくら見通しが悪いといっても、三百メートルに足りない距離だからと。
 それでも不安は隠せない。白の浴衣に馴れない下駄をひっかけて、不格好なほどの急ぎようだ。下草に足をとられて、危うく転びそうになった。
 ――ここ、どこ?
 迷ったわけではないはずだ。
 ――六年ぶりの森だから、知らない場所に思えるだけ。
 なんども心に言い聞かせたが、右を見ても左を見ても見覚えのない景色ばかりだった。
 ――油蝉の叫びは怖い。
 思い出してはいけないことを思い出すから。
 耳の奧に、死んだ“ばあちゃん”の声が響いた。
「空耳《そらみみ》の奴に返事をくれてやるもんじゃない。くれてやるごとに髪が生え手が生え足が生えしてな、最後に目玉が生えてきたら、お前を連れてってしまうよ」
 愛は足を止め、小さく震えてからあたりを見回した。
 ――お社《やしろ》はどこ。
 ばあちゃんが生きていたころ、夏休みのたびに通った縁日は。

 初めて空耳に呼ばれたのは、五つになったばかりの夏だった。母と手をつないでばあちゃんの家へ遊びに来たとき、愛はとてもはしゃいでいた。
「井戸のスイカを食べさせて」
 はなたれ声でねだると、聞きなれた調子で答えが返る。
「はいよ、スイカね。畑に出たらとって来ちゃるから待ってな」
 ばあちゃんのスイカはとても大きい。緑の皮をおおった薄い土ぼこりをそででぬぐい、田舎でもめったにお目にかからない古井戸につるす瞬間が、たまらなく好きだ。
「ばあちゃんたちが畑に出たら、牛さんとこで遊ぼうね」
 そう言って指切りしたのに、従妹の香奈は大人たちが出てゆくとあとを追って炎天下へ飛び出し、あっという間においてけぼりを食わされてしまった。
「香奈ちゃんのバカ! いじわるっ!!」
 怒りながら地団駄《じだんだ》を踏んでも遅い。香奈はいつだってあっけらかんとたくましく約束を破るのだ。
 ――あの日も油蝉が鳴いていた。
 ぽつねんと縁側に座り、退屈しのぎに足をぶらぶらさせていたときだ。
 不意に背後へ何者かの気配が現れたかと思うと、海蛇のようにするするとすり寄ってきた。ねっとりと重い空気が、天井から落ちてくる。愛はハッと見回した。
 ――香奈ちゃんが帰ってきたのかな?
 ひょっとすると出て行ったふりをして裏口へまわり、驚かそうとしているのかも知れない。香奈はそういういたずらが大好きなのだ。
 そっと振り向いて物影を見てみたが、誰の姿もなかった。
 ――気のせいかなあ。
 首をひねりかけたそのとき、暗い雰囲気をまとった何かが肌も触れんばかりに近づいて、耳たぶのすぐそばで囁いてきた。
「ア・イ」
 砂のようなざらざらの響きが、異様なほどに耳につく。太くて低い中年男の声だった。
 愛は飛びあがって尋ねかけた。
「誰っ」
 たて続けに何度も呼んだが、返事がない。人影を探してぐるぐる回っていると、生々しい気配とともに冷たい息づかいが回りこんできた。
「アイ。アイちゃん」
 首筋をなめるような呼び声だ。ある限りの声をしぼって愛は叫んだ。
「やめて!」
 男の声には姿がない。がらんと広い田舎座敷のなかへ、蝉時雨がジリジリと入りこんでくる。
「愛のこと呼ばないで! いやだよう」
 たまりかねて中庭に飛び出したとき、玄関がガタリとうなって、ばあちゃんが帰ってきた。
「愛っ、どうした!」
 いい加減に腰が曲がり、よちよち歩きしかできないはずの体が猟犬のように飛んでくる。その姿を見たとたん、たまりにたまった涙が堰を切ってあふれ出してきた。
「ばあちゃん、ばあちゃん! 誰かが愛のこと呼んだの! 誰もいないのに呼んだの……」
「おおお、そうかそうか。怖かった怖かった、かわいそうに」
 ばあちゃんは愛の体をしっかりと抱きかかえ、しわだらけの暖かい手でなでてくれた。
「悪かった悪かった。お前みたいなめんこい(*)子ばひとりにして、ばあちゃんが悪かったわ」(*)可愛い
「怖かったよう……」
 しがみつきながら泣きじゃくっていると、ばあちゃんはなにを思ったのか、野良着のポケットから風鈴をとり出した。
 なぜそんな物を持ち歩いているのか子供心にいぶかしく思ったことを、愛は今でも覚えている。ぽかんと眺めていると、ばあちゃんは風鈴を鼻の先へ突きだして振って見せた。日に焼けて茶色くなった手のなかで、青銅色の小さな姿がチリリと歌う。
「空耳は鈴の音が苦手でな。こないだ風鈴の糸が切れて落ちたから、子供ば狙って来たんだわ。ほれ、糸新しくして、こうして下げちゃるからな。もうだいじょうぶ」
 流した涙の最後のひとしずくが乾いてゆくのを感じながら、愛は口を切った。
「ばあちゃん、あれ、空耳っていうの?」
 ばあちゃんはしょぼしょぼになった目たを小さくまたたいて、
「しいっ」
 と声を低める。
「空耳のことはな、知らんふりしないとだめだ。そこにいたとか、会ったことがあるとか、絶対に言うんもんでない。聞いても聞かないふり、知ってても知らないふり。返事するなんて、とんでもないぞ。こやってあいつの話をするのも、これっきりにしないとなあ」
「どうして?」
「存在ば認められたら、あいつは姿もつことになるんだから」
 愛は困って口をつぼめた。存在を認められる――という言い回しは子供には難しい。
「知らんふりしないと、あちら側に連れてかれるんだわ。わかるかい、愛」
 愛は首を振った。
「よくわかんない」
「あいつのうわさ話をしたり、返事をしたりしたらな、おっかないとこに連れてかれて、にどと帰って来られなくなるんだわ」
 あちら側がどんな風に「おっかない」のか、幼い愛には想像もつかない。だが――帰って来られなくなる――と、ばあちゃんが言ったときの異様にくぐもった声音は、充分すぎるほどに恐しかった。
「空耳の奴に返事をくれてやるもんじゃない。くれてやるごとに髪が生え手が生え足が生えしてな、最後に目玉が生えてきたら、お前を連れてってしまう。父さんにも母さんにも、ばあちゃんにも香奈にも、誰にも会えなくなるんだよ。わかるかい?」
 愛は再び泣きそうになった。
「帰って来られなくなっちゃうの!?」
 ばあちゃんはうなずいて、頭をそっとなでた。
「わかったらあいつのことは知らんふりだ。な、わかったな?」
「ばあちゃん、怖いよ……」
 お利口さんには、とてもなれなかった。またぞろべそをかいて、すっかり困らせたたものだ。空耳がいるからここは怖い、うちへ帰るとだだをこねると、ばあちゃんは傷だらけになった箪笥《たんす》から鈴のついたお守りを引っぱり出してきて、愛の手に握らせてくれた。
「したら愛、これ持っといで。あいつだったら鈴の音には絶対近づけないからな。首に下げといたらいいんだわ」
「それでも来たらどうするの?」
「この音聞いたら逃げてくからだいじょうぶ。それにな、あいつは同じ人間とこに三回は来られない。だから二回目も追っ払ったらいいんだ」
 もらい受けたお守りはぬくぬくと暖かく、日向《ひなた》とばあちゃんの匂いがした。朱色の地にほどこされた黄金《こがね》の鈴が、夏の光を浴びて輝いている。太陽のしずくが笑いかけてくるようなまぶしさだ。
 ――これならだいじょうぶ!
 愛はすっかりうれしくなって、顔をあげるとニコリとした。
「ばあちゃん大好き」
 ――あのときもらった守り袋は、どこへいってしまっただろう。

 蝉時雨が響いている。昔なじみの道だというのに、愛はすっかり迷ってしまった。
 ――鈴を鳴らさなきゃ。
 心の耳をふさぎ、懸命に歩いて下駄の鈴を鳴らす。松の枝の陰で身じろぎしたのは蜘蛛《くも》らしい。草葉からバッタが跳ねて、朱い鼻緒にボトリと落ちた。
「キャッ!」
 空を蹴って地面に落としたあと、愛は冷や汗をかいてあたりを見回した。
 と、草むらをかきわける音がして香奈が姿を現した。
「あー! 愛ちゃんやっぱここにいる!」
 弾んだようすで叫んだかと思うと参道のほうを振り向いて、
「下駄はいてこんなとこ歩くなんて、はんかくさい(*)さあ」(*)バカみたい
 と、後ろの誰かに笑いかけている。どうやら連れがいるらしい。
「ぬいで走ったらいいのに」
 愛は口をとがらせた。従妹の快活な物言いにふれると、すっかり現実が戻ってきたようだ。
「そんなことしたら足が汚れちゃうよ?」
「なら川で洗ったらいいっしょ!」
 からかいながらも、おぼつかないようすを見かねたのだろう。香奈は手をのばして支えてくれた。
「それより香奈ちゃん、誰かほかに連れてきたの?」
 草のこぶによろけながら尋ねると、香奈はああと言って後ろを向いた。
「風ちゃん覚えてる?」
 そのせりふに合わせるようにして、木陰からひょんと顔が出た。ずんぐりむっくりの体の上に、子グマのようなへの字口が乗っている。
 愛は思わず笑った。香奈たちのお隣さん――と言っても、四、五キロは離れているように思うのだが――鎌田のおばさんの甥っ子、風太だ。
「覚えてるよお。元気してた?」
 手を振って声をかけると、風太はまぶしそうに見つめてから、
「あれ、誰かと思った」
 と、照れたふうになった。きゅうくつそうな紺の浴衣は、祖母と伯母のリクエストで着せられたのだろう。いかにも馴れないといった風情で、大きな体も縮んで見える。札幌育ちと聞いたような気がするのだが、どことなくあかぬけないようすや愛嬌をふくんだそのしぐさは、街の少年とも思えない。
「顔変わったなあ。もう五年くらいこっち来てないんじゃない?」
「え? そうかな?」
 縁日はひさしぶりだが、おととしは来たはずだ。小首をかしげていると、香奈が言った。
「まえのときは叔父さんちの葬式帰りだったから、風ちゃんとは会ってないべさ」
「あ、そうだっけ。今年はばあちゃんの法要だし、最近お寺ばっかり行ってるかな?」
 風太は落語家のようにぴしゃりとひたいをたたいて、
「そっか。そいじゃあ大変だったんだねえ」
 と、大人のあいさつを投げかけた。
 なにやらドキリとして愛はうつむいた。最後に遊んだとき、この人の好さにつけこんで意地悪をしたからだ。
「トウキビが欲しい」
 無理やりせがんで畑からとって来させたくせに、風太が言われたとおりにすると、香奈と二人がかりではやしてしまった。
「風ちゃん悪いんだあ。黙って持ってきたらいけないんだよ?」
「どうしてそんなこと言うのさ」
 傷ついた心を隠し、けなげな笑顔で尋ねてくるのに向かって、
「黙ってとってこいなんて、言わなかったもんねえ?」
「ねえ!」
 顔を見合わせてうなずき合い、
「どうなったって知らないもん!」
 と叫んで逃げたのだ。きゃらきゃらと笑いながらの振り向きざま、黄色い穂をつけたトウモロコシを手にして、ポツンとたたずむ風太が見えた。あれから六年になる。
 なんとなくもじもじしていると、香奈は風太とうなずきあってこちらを向いた。
「したっけ愛ちゃん、縁日見に行こ。輪投げゲームするっしょ?」
「ええ? またやるのォ?」
 思わずブーイングすると、大口をあいて風太が笑った。
「そうだそうだ! ここへ来たら目隠しして輪投げしないと。こんどはワイン狙いだな、やっぱし」
 愛は思わず、ウソー! と叫んでいた。
「当たるわけないったら! あんなのまぐれなんだからぁ」
 なんど投げてもはずれることに腹を立て、ヤケをおこしたことがあるのだ。目をつむって投げた輪がシードルのビンに引っかかったのは、小学四年の夏休みだった。輪投げ屋のおじさんは、
「こりゃあアルコールのうちだから、子供が飲むんじゃないぞ。ちゃんと母さんに渡したら、ジュースが三人分もらえっからな」
 と念押しをしてよこしたのだが、好奇心には勝てなかった。
「いくらなんでも、あのおじさんが母さんや先生に言いつけに行くわけないんだしさ」
 こっそり飲んでしまおう、と言い出したのは風太だ。
「アルコール度数四パーセントだったら、ビールの半分だ! イッキとかしなけりゃだいじょうぶだし、三人で分けて飲めばぜったい平気だって」
 男の子らしくへんな知識を持ちだしてきて、熱心に主張する。そう言われてじっくり見ると、梨《なし》のシードルは片手のひらに乗るほどの小さなビンだ。香奈と愛は顔を見合わせて、くすくす笑った。
 黙ってさえいれば、ばれっこない。三人の分け前が同じになるよう、ひとくち含んではビンをにらみ、ビンをにらんではひとくち含み。一気飲みにならないことにもずいぶん気をつけたのに、よりによって風太が酔っぱらってしまった。
「風ちゃん、ワインなんか飲んだら今度は倒れちゃうよ? 風ちゃんちのおばさんに怒られるの、もうヤだからね」
 風太はゲラゲラ笑いながら、
「冗談だってば!」
 と腹をよじっている。
 香奈はじれったそうに二人のそでを引いた。
「それよりも早く行こ。あたしお腹すいた! ジャンボたこ焼き食べるんだから、気合いいれて走ってよ」
 言うが早いか、浴衣の水色をさばいて駆けだした。愛と同じ下駄ばきだというのに、くの一《いち》のように足が速い。風太が慌ててあとを追う。こちらは下駄をぬいで草むらを走りはじめていた。
「よしっ、俺のが速い!」
「風ちゃんズルイ! そんなのズルイ!」
 香奈は負けじと裸足になって、道のふちの柔らかな草地に飛びこんだ。
「香奈ちゃん、待ってよ!」
 愛は叫んだ。あたふたしながら下駄をぬごうとすると、バランスを崩してつんのめってしまった。
「痛っ……」
 悲鳴をあげて地面に手をつく。ぐきりと鈍い音がして、おかしなほうへ足首がねじれた。立ちあがろうとしても、痛みのせいで思うように立てない。くじいてしまったのだ。
「香奈ちゃん! 風ちゃん!」
 土ぼこりのたつ参道にへたりこんで、愛はなんども呼びもどそうとした。
 しかし、かけっこに夢中になった二人はそのまま祭り境内のにぎわいに吸いこまれていったのだ。いちども振り向かないままに。
「お願いだから待ってよ! おいていかないで!」
 弱り切って叫んだ声は、蝉の声にかき消されていった。

 高く伸びた樹木の梢《こずえ》が、言葉もなく愛を見下ろしている。
 ――油蝉が鳴いてる……。
 空黒々と茂った枝葉のなかに、穴のような水色がぽっかりと口をあいていた。熱い湿気をはらんだ虫の音《ね》は、木の皮からはがれ落ちてくるようだ。ときおり混じって響くのは、盆踊りの太鼓らしい。夜の出番をまえにして、最後の仕上げをしているのだろう。楢《なら》の幹にすがってそろそろ起きあがると、こころなしか立ちくらんだような気がしたのだが――思ったほどには痛くない。
 愛はほっと胸をなでおろして、浴衣のえりをかき合わせた。
 無理をしなければなんとかなりそうだ。ただし、はきなれない下駄で歩くのはよしたほうがいいだろう。ため息まじりにぬいで足首をさすっていると、蝉時雨に混じってかすかに囁く者があった。
「アイちゃん」
 愛はハッと頭をあげた。
「風ちゃん?」
 二人が戻ってきたのだ!
 ――あんなに走って行ってから気がつくなんて、ほんとにひどいんだから!
 うんと怒ってやろうとして振り向きかけると、もういちど声が呼んだ。
「アイ」
 愛は凍りついた。囁き以外のすべての音が、一瞬で干からび遠のいてゆく。
 ――あの声だ!
 空耳だ。逃げなくてはと思うのだが、体がすくんで動けない。
 蛾の死骸を引っかけた蜘蛛の巣が、ほこりをかぶってぶらさがっている。所在なくふらふら動くそのざまをまばたきもせずに見つめていると、冷たい気配が徐々に近づいてきた。
 ――知らないふりをしなくちゃ。
 後ろを見てはいけない。存在を認めたことになるから。
 振り向かなくても愛にはわかる。姿がなくとも愛には見える。空耳の影が。
「アイちゃん」
 返事をしてはいけない。空耳なんか、ここにはいない。
 ――いない、いない、どこにもいない。
 胸のうちへ呪文のようにとなえていると、不意に首筋に息がかかって骨のような感触の指が五本、右の肩先へじわりと食いこんできた。
「――アイちゃん」
 その瞬間に、自制心は崩れた。
「ヤだっ! やめてえ!!」
 空を引き裂く悲鳴が、のどの奥を突き破る。指の持ち主は間違いなく後ろへ現れて、少しずつ近づいてきたのだ。肩をつかまれたこの感触は、幻ではない。
 ――これは現実だ!
 なのに足音が聞こえなかった。
 空耳には指がある。
 ――あのときわたしが、返事をしたから。
 なんども「誰?」と聞いたから。
 ――そして今また、返事をしたから――。
 左の肩もつかまれた。
「誰かっ!」
 目のまえにぶらさがる蜘蛛の巣を避けて、愛は反射的に左のほう――森のなかへ踏みこんだ。
 足の痛いことも忘れて、めちゃくちゃに駆ける。どんなに駆けても空耳の指はほどけない。体をよじってもがいても平然と宙に浮いたまま、どこまでも着いてくる。
「やめて、離して! 手を離して!」
 泣きながら声をしぼると、とつぜん背後に足音が忍び、愛とともに十数歩の距離を走った。爪をたてて肩にすがった指を引きはがそうとする。――と、それまでなかったものがずしりと両肩に乗ってきた。
 重みだ。空耳に重さが与えられたのだ。
「香奈ちゃん、風ちゃん、助けて!」
 どすん音をたてて、空耳は地面を蹴った。
 ふらふらと宙を走っていた腕が。腹が、腰が、太股が。空耳のすべてが背中のうえに乗ってくる。
「誰か助けて!」
 ざんざんと蝉時雨がこだまする。得体の知れない肉ともつれあい、泣きじゃくりながら愛は森の暗がりへ転げていった。
 ――鈴を鳴らして!
 下駄はどこだ? 朱い鼻緒に金の鈴がついた、あの下駄は?
 ――ばあちゃんのお守りはどこ?
 きつく目をつむり、もがきながら泣きむせんでいると、魚臭い息を吹きかけて空耳が囁いた。
「目玉がないよ、アイ」
 生ぬるい呼気がゆっくりとうなじをなぞってゆく。
 空耳に返事をくれてやってはいけない。拒否することさえ、今の愛には許されない。
「まだ目玉がないんだよ」
 油蝉が鳴いている。ジリジリと恨むようなその声が、鼓膜を灼いて耳の奥へ入りこんできた。
 体に乗った肉が、身じろぎしながら髪をつかんだ。細い腰に泥のような重みをのしかけると、空耳は愛の上半身を弓なりに強く引いて、地面に顔を叩きつけようとした。
 ――ばあちゃん、助けて!
 歯を食いしばったそのとき――。
 チリリと鈴の音がした。
「アッ、こんなとこにいた!」
 無遠慮な足音が、どすどすと近づいてくる。
 とたんに愛は、万力《まんりき》のような呪縛から解放された。のけぞった半身が宙に浮き、こぶしで顔をおおいながら草むらに突っこんでいたのだ。ぶざまにうめきながら転がっていると、紛れもないこの世の気配が鈴の音《ね》とともに駆けよってきた。
「だいじょうぶか? こんなとこで転んだりして、どっか痛くしたか?」
 矢継ぎ早に尋ねかけたあと、
「香奈ちゃん、こっちこっち!」
 と叫んだのは、風太の声だった。

 愛はそっと目を開けた。笹の葉がガサガサと動いて、香奈が姿を現した。首をのばし、怪訝そうに見回して、
「なしたの(*)、風ちゃん?」(*)どうしたの
 と、間のぬけたような調子になる。木や草の陰になって、愛に気づかなかったのだ。
「愛ちゃん倒れてるよ?」
「ええっ、なんでさ!」
 愛は弱々しく首をあげて従妹を呼んだ。
「香奈ちゃん……」
「ちょっとちょっと、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ……」
 香奈に腕をとられて起きあがると、目のまえに鈴のとれた下駄がぶらさがっていた。風太がささげ持っているのだ。
 すぐには思考が戻らない。口を開けてとっくりと眺めたあとで、愛は鼻緒に手をのばした。
「これ、わたしの――」
 受け取ってから、不意に正気づいて尋ねる。
「鈴は?」
 風太は怒った。
「鈴は? じゃないって! 心配させといてどこへワープしてんだ」
「下駄は、あの……」
 空耳に話しかけられたときパニックになり、放り投げて逃げたのだ。鈴はそのときとれてしまったのだろう。
 ――けれど、だとしたら。
 不思議なことがひとつある。
「風ちゃんが走ってきたとき、鈴の音が」
 風太はプッとふくれてに袂《たもと》に腕を突っこみ、
「ふが」
 と鼻を鳴らしながら中身を突きだした。梢から漏れるかすかな光をうけて、丸い姿がぼんやり輝いている。
「鈴! ばあちゃんの鈴だ! 風ちゃんありがとう」
 言うなり愛は顔をおおい、頬に鈴を押しあてて泣き出した。風太はすっかりうろたえたようだ。
「なんだなんだ!? それってばあちゃんの形見かなんか?」
「愛ちゃん、なにがあったのさあ!」
 すべての興奮が飛び去ってゆくまで、愛は泣き続けた。
 下駄の鈴は祖母からもらったものではない。しかし、愛にとって金の鈴は、いつだってばあちゃんの鈴なのだ。

◆    ◆    ◆

 見渡す限りのだんだん畑いっぱいに、赤い夕日が落ちていった。最後の光が消えたあとには、名残りのような紫や橙《だいだい》が細い糸をひいている。薄闇があたりに落ちると、去りかねた熱気をまとって祭り太鼓が打ちあげられた。
 カラコロと音をたてて、香奈がわたあめを持ってくる。
「愛ちゃん、足だいじょうぶ? あしたお寺で正座できるかい?」
 愛はちょっと照れてから、わたあめを受けとった。
「うん。だいじょうぶ」
 実を言うと、派手にひねったわりにはたいしたことがなかったのだ。ことさらによたよた歩いたのは、ケガのせいというよりは下駄に馴れないせいだった。ほんとうに平気なところを見せれば、この従妹は忍者のように走っていって、何度でもおいてけぼりにしてしまうだろう。
 ちょっと遅れて、風太が追いついてきた。ひざに手を突き、肩で息をしながら怒っているようだ。
「だあ、やっと追いついた! 香奈ちゃん速すぎだって。人にわたあめ買わしといてさ、ブツをとったらダッシュだもんなあ!」
 ぼやきながら腕をのばし、香奈のわたあめをわしゃわしゃ握りつぶすと、頭からひとくちで食べてしまった。
「あっ、ズルイ!」
「ズルイのはそっちだ! 俺、女に貢いだりしないもんね」
「愛ちゃんには金魚の風鈴買ってあげたくせに!」
 香奈は割りばしを握って、ぶんぶん振り回している。
「縁日だったらあしたもやってるよ。わたあめなんか、また買えばいい」
「あしたはばあちゃんの十三回忌だも! 縁日には行けないべさ!」
 愛は笑いながら、
「十三回忌じゃなくて七回忌だよ、香奈ちゃん」
 と言って、自分のぶんを分けてやった。
 香奈と風太の目がほとんど同時に丸くなったかと思うと、同時に叫んだ。
「ハ?」
「ええー?」
 愛は二人を見くらべた。戸惑うような沈黙が肌を突く。どうしたのだろう?
「なんでそんなにびっくりするの?」
「どうして七回忌? そんなわけないっしょ!」
「香奈ちゃんこそなに言ってるのお? わたしたちって、中学なったばかりじゃない。十三回忌だと、ばあちゃんの顔も覚えてないことになっちゃうよ?」
「あたりまえだって! ばあちゃん、あたしが生まれてすぐに死んでるっしょや」
「エーッ、どうして?」
 風太が仔グマのような頭をめぐらせて、
「あ、そうか。愛ちゃん、七回忌のとき熱出して出られなかったからって、おばさん言ってなかったか? それ葬式とカン違してねえ? うなされたら人間の記憶って間違ったりするらしいぞ」
 と、またもやへんな知識でフォローを入れたが、そんな問題ではない。
「そんなあ。幼稚園に行ってたとき、ばあちゃんスイカ冷やして食べさせてくれたよ? 香奈ちゃん覚えてないの?」
「それって、愛ちゃんの父さんのほうのばあちゃんだべさ! だって――」
 興奮した香奈はそこで言葉を切り、息を吸いなおしてから叫んだ。
「ばあちゃんはあたしんちで暮らしてたんだよ! 母さんだって言ってたも。ばあちゃんは香奈が生まれるまえに死んじゃったって。そんなの間違うわけないっしょ!」
 虚を突かれて黙りこむと、真顔になった風太が言った。
「そういや俺、保育園のとき香奈ちゃんちで葬式ごっこやって、怒られたの覚えてるよ。仏壇のなかに二人のばあちゃんの写真があってさ。タンポポつんでお供えにして、惜しい人を亡くしました――とか言ったら、おふくろがグーで殴ってきた」
「そうそう! そうだよねえ」
 よく言ってくれましたというように、香奈は大きくうなずいている。
「ほら、愛ちゃんさみしがりだから、小さいときばあちゃんごっこしてたっしょ? 生きてることにして、しゃべる真似してさあ。きっとそれで間違っちゃったんだよ」
 少しのあいだ、愛は口をあけたままたたずんでいた。
 ばあちゃんは確かにいたのだ。五歳だった、あの夏に――。
 くらくらしかけた頭の芯に、なつかしい声がよみがえる。
「存在ば認められたら、姿もつことになるんだから」
 ――と。
 ひたいをおさえて考えこんでいると、風太がひらひら笑いながら、
「カン違い、カン違い」
 と手を振った。その動きに合わせて、鈴の音がチリチリと響く。愛ははっとして、風太の浴衣を見つめた。下駄の鈴の片方を、袂《たもと》に入れたまま返し忘れているのだ。
 気がついてか気がつかないでか、風太は鈴の入ったほうの手をさしのべて、
「足痛くなかったら、盆踊り見に行こ」
 と、誘った。一瞬、手を握られるのかと思ってドキリとしたが、つかまれたのは浴衣のそでだ。
 愛は笑って風太のそでを握り返した。そのままふらふらゆらしていると、袂の鈴が歌うのだ。
 香奈が後ろから回ってきて、もう片方の袂を引いた。
「あたしのど渇いた!」
 驚いて振り向くと、すばやく耳に口をよせ、テレビに出てくる情報屋のように声を低めてゆく。
「愛ちゃん、ラムネおごってよ。途中ではぐれたふりしちゃるからさ?」

 陽の落ちた森のなかでは、油蝉にかわってひぐらしが合唱をはじめている。
 ときおり鈴を振るように。