湖の標《しるし》



    一

 十年近くむかしのこと。出張で岩見沢に降りた。あの町の印象が薄暗いのは、駅舎が古いせいだったろう。天気は悪くなかったように思う。
 改札口を出て顔をあげたとたん、一枚の観光ポスターに出くわした。岩見沢のそれではない。山奥らしい景色からして、遠く離れた湖沼地と知れた。べたりと青い空と水の真ん中から、枝を落とした枯れ木がにょっきり伸びている。幹は変に白茶けて、無い枝が腕をもがれた人間を連想させた。
 湖の中から巨大な墓標がのぞいているようだ。ひとめ見て言いようのないショックを受けた。いい大人がバカバカしいと思いながらも慌てて目をそらし、以後はできるだけ見ないようにした。
 それがどこの観光地だったのか、文字は全く記憶にない。ポスターが視界に入っていたのは、五秒にも満たない間だった。にもかかわらず、幽霊画を見てしまった子供のようにその風景を忘れることができない。
 わたしが朱鞠内《しゅまりない》湖へ出かけていったのは、そこがポスターの場所とは知らなかったからだ。もしも知っていたら、幼児のように尻込みしていただろう。水の紺に朽木の白。あの異様なコントラストは、今でもはっきり覚えている。

    二

 職場の文芸部の恒例イベントに、文学史跡めぐりというのがある。作品や作家にゆかりの地をめぐり、夜は地元の文芸部と交流会をするのだ。
 うちの文芸部は、どういうわけかプロレタリアが全盛だったころのメンバーから、少しも若くなっていないらしい。集会に参加するといきなりタイムスリップしてしまう。老いた全共闘の残り火が、チリチリと音を立てて不完全燃焼しているのだ。行き先にチョイスされるのも、漁村民の労働生活だの被災者の苦労だのを描いた作品にちなんだ、果てしなく重い土地ばかり。
 自慢じゃないがこのわたし、爺婆《じじばば》の苦労話をコレクションするのが子供のときからの趣味だ。
 カン違いしないでほしい。正座でグチを聞かされるのは大嫌いだ。俺の苦労なんか若いもんには分からないだろう、キミは恵まれてるよなんて話には、ぜんぜん興味がない。けれどほどよく抑制の利いたドキュメンタリーは、暗いオタク心をくすぐってくれる。語り手が視野狭窄《しやきょうさく》に陥ってさえいなければ、タダで面白い話が聞けるってわけ。我ながら変な趣味だとは思うが、いまさらやめられないのね。
 そんなわけで、
「今年の文学史跡めぐりは、幌加内《ほろかない》ソバ祭りと朱鞠内湖だぞ」
 と言われたとき、
「幌加内ソバっ! 食べたい、食べたい!!」
 と、気楽にのってしまった。しかも朱鞠内湖というのはね、ミステリの舞台なんですよ。ばりばりエンタメな森村誠一ですよ。タイムスリップ・プロレタリアにしては、気が利いているんじゃないの。今年のテーマに選ばれた『笹の墓標』という小説を読んだことはないけれど、これは期待できる! 春先に腰をケガしたもんだから、車イスを持って行ってちゃっかり押してもらうことにした。

    三

 相変わらずな史跡めぐりは、労働争議の跡地だのヒロシマを描き続けた道内画家の展示館だのを回って、朱鞠内《しゅまりない》湖にやってきた。ミステリの舞台だというからワクワクしながら着いて来たのだが、うちの文芸部を甘くみるとアッパー・カットを食らう。二十四平方キロメートルにおよぶ日本最大の人造湖は、タコ部屋労働によって造られたそうだ。
 子供のころ、聞かされたことがある。
「儲かる働き口があるよ。体さえ丈夫なら出来高ばらいで資格は問わない。住み込み宿つき、メシは食い放題。家に仕送りもできていいことずくめ」
 などと、言葉たくみに誘って奴隷部屋のようなところに閉じこめてしまう。四方を崖に囲まれた場所や奥深い山野に猛犬を放って、過酷な舞台のできあがり。食事も睡眠もロクにはに与えられず、脱走者には拷問や死が待ちうける。何メートルもの大穴に二本の板を渡したものが便所だ。一列にならんで板のうえに片方ずつ足を乗せ、号令に合わせてみんなで用を足す。二十数えるうちに済まさなければ、監視役が太い棒で殴りに来た。逃亡作戦会議を立てられては困るからだ。おかげで労働者は、全員が切れ痔だった。抜け目なく配置されたスパイのおかげで、逃げる相談すら命がけ。病気やケガで倒れても、看病なんかはもちろんない。ケガしたとたんに生き埋めにされたとか、仕事が終わったあとは用済みとばかりに虐殺されてしまったとか、残酷なエピソードにはことかかない。入るときにはすんなり入るが、出ることができない構造をタコつぼにたとえて、タコ部屋というのだと。(※)
 時代も時代、朝鮮・中国から山のように人が駆り集められ死んでいったので、平凡な良心を持った者なら
「日本人に生まれてごめんなさい」
 などと、胸の内に呟いてしまう。労働者のほとんどが日本人だったのではあるが。


    四

 朱鞠内湖が造られたのは、木材と電気を欲しがった製紙会社があったためだ。切り倒した木はパルプの材料になるし、伐採後に穴を掘って水をため、ダムのひとつも造れば電力不足が補えて一石二鳥。我ながらいいアイディアだ、とかなんとか思ったらしい。当初はもう少しまともな方法で労働力を集めるつもりだったのだが、働き盛りの男たちが徴兵にとられてしまったために、タコ部屋の方へとすべってしまった。連日、死者が運ばれてくるので寺の畳は乾くひまがなく、腐って床が落ちたという。
 寺を引き継いだ住職は、身元の分からない位牌がぞくぞくと出てくるのを見て考え込んでしまった。
「なんとか遺族を探して返してやれないものか」
 それが日韓共同の遺体発掘作業につながっていくのだが、自分たちが住んでいる足元の土から、いともやすやすと死体の掘られるのを見せつけられて、住民の動揺はなみではなかった。
「もうやめてくれ」
 という悲鳴は、長期にわたる発掘の中断を招いたという。
 そんな説明を聞きながらぐねぐね山道を登っていくと、耳の奥がつんと鳴る。次第に空気の重みを感るようになった。空気にだって質量はあるのだ。体重計がゼロをさすのは、いちいち計測しないよう調節されているからだ。

 朱鞠内《しゅまりない》か。響きからするとアイヌ語なのだろう。そういえば手塚治虫の漫画に『シュマリ』というのがあったよなあ。北海道開拓史を題材にとった作品で、意味はキツネだったか。ナイが川を意味する言葉だというから、川辺にたくさんキツネがいたのかも。などと考えるうち、少し前に読んだ漫画のことを不意に思い出した。他愛のない探偵漫画なのだけれども、その中に強い印象を受けた場面がある。明治時代まで人柱の風習があったという村に探偵がやってきて、
「そんなについ最近まで、非科学的なことがあったのか」
 と驚く仲間に対し、
「大正時代に造られた常紋トンネルからは、実際に遺体が現れた」
 と説明するのだ。
 このときわたしが感じたことは、
「なぜ大正なんて古い時代を持ち出すのだろう? 昭和までやっていたじゃないか」
 だった。せっかく常紋トンネルまで出したんだから、いちばん新しいところまで思い切って行こうよ。なんといっても昭和二十年まで日本は戦争をやっていたわけだし、親や爺婆《じじばば》によると、時代そのものが一種の極限状態に陥っていたことがうかがえる。
 人柱、作っていたよね? 史実だよね? それは日本人の常識ではなかったの。戦争体験談を否応なしに聞かされてきた『戦争を知らない子供たち』(ちなみに最近は、『戦争があったことを知らない子供たち』だ)は、知ってるんじゃないのかな。大声では言えないから誰も言わないだけで、秘密の共通認識だと思っていたのだけれど。
 そのあと急に不安になって、漫画の作者について調べてみた。同年代だ。もうひとり、趣味で民俗学エッセイを書いている人を思い出したので、人柱の項をめくってみる。彼はくだんの風習を、江戸時代以前に絶えたと考えているらしい。色々な考察を加えた結果、
「もしかすると日本人は、近代以降もことあるごとに人柱を作り続けてきたのかも知れない」
 と、おっかなびっくり言っていた。その口調は、読者の反論を予測しているかのようだ。年齢《とし》はわたしよりも七、八歳うえというところか。
 ひょっとして昭和初期まで人柱があったと思っていて、「ある世代以上ではそれが常識」なんて、すっとんきょうなカン違いをしているのはわたしだけ? 思いのほか強い衝撃を受けた。
 さらにショックだったのは、自分が客観的な資料や証言に基づいてそう考えていたのではない、という事実に気づいたことだった。なんだかよく分からないままに思いこんでいたのだ。それを勝手に『日本の常識』とまで言い切ってしまって、バカみたいだ。今の今までこのバカさ加減に気づかなかったなんて、こっぱずかしくて人には言えないんだなあ。
 だけどなんでそんなことを思いこんでしまったんだろう。思いこみを生んだものは、なんだったんだろう。

 ああそうかと思ったのは、湖へ向かうバスの中だった。
 タコ部屋だ。労働に駆り出された人たちは、想像を絶する状態にあった。虐待を行っていた方も、正常な本能が破壊されていたただろう。社会生活を営む生物が、同族殺しをやるのは大変なストレスになる。外は戦争。閉鎖空間、恒常的な虐待。土木工事、炭坑労働、生き埋め。そういうキーワードがつながって、いつの間にか『人柱』になってしまったのだ。
 無造作に埋められた労働者を象徴的に人柱と呼ぶことは、きっとあっただろう。祟りを恐れて祭りあげ、神とはいかないまでも善霊に昇格させる日本特有のすりかえも使われたに違いない。あれほどたくさんのタコ部屋があり、あれほどたくさんの人間がいたのなら、事例はどこかにあったはずだ。閉鎖空間で構成員に対する虐待が行われ、死者を出しても治外法権、その生死も行方すらも家族は知らない――というのは、ある種のカルト集団に似ている。正常な判断力が失われ、残酷で非科学的なものが受け入れられやすい土壌だ。救いようのない自然災害に直面したとき、よく知られた呪術儀式が復活しても不思議はないと。

    五

 被験者に木の絵を描かせる心理試験を、バーム・テストという。ほんとうに荒《すさ》んだ心が描いたものは、しろうと目にも衝撃的なほどの何かがある。朱鞠内湖の岸辺には、むかし見た非行少年の絵にそっくりな木がうじゃうじゃあった。ぶつぶつに切れた不格好なものが、のたうっているように見えるのだ。ひとめ見てドキリとした。間違いない、あの風景だ。駅のポスターの湖だ。山野の人造湖だったので、水面から朽木がのぞいていたのだ。
 完成当時は東洋一と言われた雨竜《うりゅう》ダムは、湖畔の急な坂に位置している。いまでは北海道電力のものになっているが、建造したのは雨竜電力だ。
 山道をあがっていくと、コンクリート造りの番小屋のような建物があり、電力会社の看板が見えた。遠目なのでよく分からないが、事務所か監視所、あるいは発電所そのものかも知れない。ときに水力発電所は、掘っ立て小屋と間違えるほどに地味だったりする。敷地面積から考えると意外かも知れないが、発電機本体は割と小さなものなのだ。それを囲っただけの建物は、こぢんまりになってしまう。
 問題の建物が事務所か発電所か見極めようとして目をこらしていると、斜め向かいにある石柱のまえへと案内された。小高くなった場所に黄緑の下草がはえて明るい色合いには見えるが、柱のすぐ右、少し坂上に位置する日陰には、見張り台のような物がある。山坂のはざまにあって、いやな圧迫感だった。
「この辺は、もっとも事故の多かった場所です」
 と説明があった。
「いまは水がありますけれど、工事中には対岸までこの高さをトロッコが通っていました。しかもその真下で作業している人もいたもんですから、病気や空腹でめまいを起こして落ちる人、その下敷きになる人と、二重に被害があったわけですね」
 わたしたちはそっと囁き合った。
「この高さから」
「ひどいもんだねえ」
 水深のほどはわからないが、山肌が切り立って見える。
「そのうえさらに被害を増やしたのは、外国人がたくさんいて言葉が通じなかったことです。『危ない』と叫んでも、分からなったんですね」
 皆が小さくうなずいていると、案内人は先ほどから気になっていた石の柱に向き直って言った。
「ちょっとこちらをご覧下さい。これは雨竜電力が造った慰霊碑です。雨竜電力というのは、この湖とダムを造った会社ですね」
 石碑は、わたしの位置からは文字の読めない角度に立っていた。ようやく話がそこへ触れたので、いそいで車イスを正面に回してもらう。同じように碑のまえへ異動してきて、変な顔になった人がいた。真ん中に大きく掘られた碑文は、
『殉職者慰霊碑』
その左下には雨竜電力株式会社とあり、当時の社長の名前が続いている。わたしたちは顔を見合わせたが、何も言わなかった。案内人が口を切った。
「みなさんお気づきのとおり、これは変わった慰霊碑ですね。慰霊碑というのは、ふつうどういう由来で、どんな人たちのために、どんな願いをこめて造ったか、ということを書くものです。これだけ見たんでは、なんだかさっぱり分かりません。どういう歴史があったのかが、まるで語られていない。これではいけないというので、わたしたちはもっときちんとした慰霊碑を造りました……」
 説明が終わらないうちに、誰かが低く呟いた。
「殉職者って、なに?」
 言わずには済まなかったのだろう。
「殉職なんて言ったら、好きで働いてたみたいだわ」
 それをきっかけに、わたしたちは女学生のように私語を交わしはじめた。胃袋の底には、言いようのない圧迫感が溜まっていた。液体なのに金属の重みだ。水銀のようだ。いちど体に入ったら、居座ってなかなか出て行こうとしない。喋って追い出さなければ。
「ほんとに変な慰霊碑だよねえ。社長の名前なんて書いて、どうするの?」
「雇用者に殺されたようなものなのに、殉職なんて浮かばれないっしょ」
「職に殉じてないよ」
 わたしたちがぺちゃぺちゃ喋っているあいだにも、説明は続いていた。
「ええと、ここからは見えませんが、このちょうど向こう岸にも、全く同じ慰霊碑があります」
「えっ」
 ちょっと待ってよ、双子の慰霊碑? 思わず対岸へ首を伸ばすと、迫ってくるような雰囲気がある。なんだかとても妙な感じだ。同じ場所に同じ趣旨の、同じ姿の慰霊碑を複数つくるだなんて、他にも例があるのだろうか。多数の死者を出したところをはさむようにして、というのはなにやら呪術めいている。『柱が二つ』は容易に門を連想させた。民俗学にはさほど詳しくないけれど、ある有名な寺社の門は、まさに祟り封じの門だとか。そういう趣旨なら、常識的な慰霊碑の体裁を整えていないことにも説明がつく、などとかんぐってしまう。
 仮にいま、さんざん虐待されて命を奪われたとする。晴れて自由な幽霊になったと思ったら、お祓いだのまじないだので仕返しを封じられ、石柱の門に閉じこめられて、
「お前たちはおとなしくしてるんだよ。尊い犠牲ってことにしといてあげるからね」
 なんて言われたら? そんな想像でよけいに体が重くなってしまった。
「実はみなさん、ダムには人柱が埋まっています」
 の言葉が飛びこんできたのは、そのときだ。
「工事の最中にですね、雨が降って雨が降って、どうにもならなかったことがありました。そのとき人柱を募集したそうです」
 気がつくとどうしようもなく下品な声で叫んでいた。
「なんじゃそりゃ」
 ただいま人柱募集中などと言われて、誰がハイと手を上げる?
「まさかそんな」
「どうやって?」
「騙したんでしょ」
 あ、そうか。おいしいものを食べさせてやるとかなんとかって。
 案内人は首を振った。
「募集しましたところ、七人の応募者があったそうです。こんなひどい生活が続くのなら、ひとおもいに死んだほうがいい。黙っていてもいつかは殺される。しかも凄まじく痛めつけられて、じわじわとですね」
「…………」
 来る途中、なぜこんなに人柱のことばかり考えているのだろうかと、自分でも不思議だった。朱鞠内湖の着工は昭和十二年、完成は十八年。漠然と抱いていた考えは、幻想ではなかったらしい。バカらしいとは思いつつ、
「誰かがわたしの肩先で、『俺たちのことを知ってくれ』と囁きつづけていたのだろうか」
 と、奇妙な感慨を得た。

 外国人ばかりではなく、日本人労働者に対しても加害者であるかのような気分を背負って坂をおりる。そのむかし、遺体安置所の畳が腐り落ちたという寺――光顕寺へと、バスは向かった。

    六

 見学が終わったころ、わたしたちのストレスはピークに達していた。集合写真には喜々として写るのが身上の日本人なのに、カメラが取り出されたとたん、次々と脱落者が出たのだ。
「バスの中で待っているから」
 と、去ってしまう。
「みんなどうしたんだ?」
 戸惑う幹事に、
「場所がイヤなんでしょ」
 と囁く女性がある。写真を撮ると無念の霊がついてくる、なんて迷信に、飲み込まれてしまったのだと。
 祟りなんて非科学的だとか、根拠がないとか、言ったところで引き止められはしない。恐れは恐れなのだ。その本質は、幽霊や祟りに対するものではないだろう。加害者とみなされることを恐れ、無知と責められることを恐れ、事実をまえにして無力であることを恐れる。そしてその根幹にあるのはもちろん――同種族間にこれほどむごい虐待があること。そのむごさが自分を含めたすべての人間の本質かも知れないこと。それを認めてしまうと、社会秩序を支えている集団幻想が崩れてしまうことへの恐怖心だ。
 わたしたちはサルと同じく社会性動物だ。ボスが従順な子分を大量に食い殺すかも知れないとか、メスが集団で育児放棄をするかも知れないとか、そんなことばかり考えていたらやってはいけない。
「群れの中にいれば安全だよ」
 と囁いてくれる者がなかったら、パニックになってしまう。そういうことから目を逸らすために、あるいは目を逸らしてしまう自分自身から目を逸らすために、祟りや幽霊を持ち出すのかも知れない。慰霊碑を建てるのも法要を行うのも、
「ぶっ壊れた社会はとりあえず修復されたので、性懲りもなくここで生きていきましょう」
「こんなことは過去を含めたアチラの世界の出来事だ。二度と同じことは起こらない、ここは安全だという共通認識をつくりあげ、新たな集団幻想とします」
 という、無意識の決意表明であるかも知れない。たとえそれが、『過去を風化させないために』というきわめて真摯《しんし》な動機から起こったのだとしても、心の守りなしに残酷を直視することはできないのだ。適当な守りがなければ、忘却か無関心か、呪術の世界に走ってしまう。
 同時多発テロが起こったとき、センタービルに突っ込んでいく旅客機をテレビで見ただけで、数日間から一週間ものあいだ、不安感など気分の変調に悩まされた人が、多数いたという。あまりにも酷な事実にあたれば、リアルタイムのニュースではなく、映像がなくとも似たような現象は起こると思う。
「ああ、そういう話はいいから」
 と露骨に避けて通る者の大半は、真性の無関心を抱いているのではなく、かつては
「歴史的事実とやらに向き合ってみようかな」
 と考えた人間だ。向き合った結果、ショックを処理することに失敗してしまった。よほどの覚悟がないとまともには向き合えないし、まともに向き合えばトラウマにもなりかねない。
 受けた衝撃をどうすればよいのか、本当の意味で知っている人はなかなかいない。この手の企画を立てるときに、腕のよいカウンセラーでも連れて行ったらどうかと考えることがある。たとえ焼け石に水だとしても。

 写真を撮り終わってバスに戻ると、居残り組が霊にとり憑かれない方法やまじないについて、情報交換をしていた。全員が妙にかん高い早口で、異様なテンションだ。
「立ち去るときに振り向いちゃダメなのよ。お墓参りのときだってそうでしょう?」
「だれかお塩もってない? 玄関はいるまえに使いたいわ」
「少しなら」
 どうして塩なんか持っているのだろう。ゆでタマゴでも作ってきてたんだろうか。弁当持参の人はいなかったみたいなんだけれど。ひそかに驚いていると、いつの間にか他愛のない怪談話がはじまっていた。
 わたしは少しほっとした。そして、怪『談』というだけでもすでに話だと分かるのに、なんでわざわざ『話』をくっつけて怪談話というんだろうなどと、くだらない考えに没頭した。

    七

 帰宅後、台所から食塩を持ち出して玄関へ引き返し、ビンを振って両肩にかけた。お清めというより自分に味つけしているみたいだ。指でつまんでかければよいのに、どうにも間がぬけていていけない。だいいちあれは家に入るまえにやるから意味があるのであって、いちど台所まで入っちゃったらどうしようもないじゃないか。
 それでもやめることはできなかった。犠牲者だというだけの理由で怨霊あつかいされる人の立場は、なんてことも考えたのだけれど、何かにのしかかられているような気分だ。
 気がつくとわたしは、その何かを振り払うため、親きょうだいから知人にまで尋ね回っていた。
「人柱って、いつまであったことだと思う?」
 友人はすかさず常紋トンネルを持ち出してきて、大正だと言う。戦中生まれの父は江戸時代という意見だったし、母は
「明治って聞いたよ」
 と答えた。昭和と答えた者はひとりもない。朱鞠内の話をすると、みんな一様に驚いた。次に出てくるセリフも、判で押したように決まっている。
「昭和になってもそんな迷信を真にうける人がいたの?」
 このセリフを母の口から聞かされたとき、ついに溜まっていたものが口から出てしまった。小学生だったわたしにタコ部屋の話をしてくれたのが、そもそも母だったからだ。
「迷信深い未開人のやることだって、どうしてみんなそう思うのかな」
「だって迷信じゃないの?」
「人柱は迷信だけれど、それをやる人間の方は必ずしも迷信家じゃないと思うよ。お母さんは分かってると思ってたんだけどな。昭和まであったことだって」
「え、どうして?」
「だってわたし、お母さんの話を聞いたときに『それじゃ人柱は終戦までだな』って思ったんだと思う」
 母は大きく口を開けた。理由がまったく分からない、と顔に書いてあった。
「そんなこと想像もつかなかったわ。どうしてそう思ったんだろうか」
「ウーン、だってね。ケガした人を生き埋めにした話を聞いたとき、それじゃまるで人柱だよ、って思ったし。だから人柱は迷信だからやるんじゃなくて、極限状態だからやるんだなって。
 なによりもあれが利いたと思うわ。『あすこに人柱が埋まってる』とかって噂のある場所、あるところにはあるよね? どう見ても江戸や明治の物じゃなくて、昭和以降だなってところに。子供だったからすっごく怖かったよ。そういうとき大人のひとは、『幽霊なんかいるわけないよ』とは言ってくれたけれど、『人柱なんかあるわけないよ』とは言ってくれなかったもん」
 だからこそ、具体的には聞かされなくとも日本人の無意識は知っていると思っていたのだ。わたしたちが変わらずに臆病で愚かだということを。
 この発想のもとを作った張本人が「昭和」と答えなかったことは、予測し得ないどんでん返しだったと話すと、母はかなり驚いたようだった。

 快く聞いてくれそうな知り合いすべてに朱鞠内湖を語り、下手くそなエッセイにまで書いて、深く刺さった衝撃はようやくやわらごうとしている。あのときポスターが貼ってあった岩見沢の駅は、いまではすっかり新しくなったそうだ。



(壁紙:Studio Blue Moon 蒼い猫さん)

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2004.2.8