◆◆ 方言企画 線路の向こうに咲く花は 参加作品 ◆◆
回送列車はどこへ行く
於來 実里:著

 港町から峠をこえて内陸に入ると、空気が変わる。強烈な潮《しお》の香りが縮むように失せて、木や土やコンクリートの気配がゆっくりとすり寄ってくるのだ。そのようすは霧の晴れ間から新しい景色が現れるすがたに符合して、ふしぎな感覚だった。
 ドアから流れこむ冷気に刺されて、早紀《さき》は長い居眠りから覚めた。バスは終点へついたようだ。窓から外を眺めると、冬はまだ先だというのに、ナナカマドの赤が雪風《ゆきかぜ》に打たれて躍《おど》っていた。札幌には、ときどきこんなことがある。
 かじかむ手をそでに隠して半キロほどの道のりを歩いたあと、早紀は地下鉄の入り口へ飛びこんだ。土曜日の昼間だというのに、始発のホームは妙に静まり返っている。とつぜん横なぐりに吹き荒れた晩秋の雪のせいだったかも知れないし、どうしてこんなところに地下鉄がと思わせる、殺風景な田舎駅のせいだったかも知れない。開通していくらも経たないぴかぴかの地下道には、寂《さび》れたような薄暗さが漂っていた。
(中学までこの町に住んでたんだけどなあ)
 そんなことを思って眺めると、かえって風景がよそよそしく感じられる。エスカレーターを降りて自分の他に人影がないのに気がつくと、早紀はそっとため息をついた。
(こんな細長い場所にひとりで立つのは好きじゃない)
 祖母が死んでひと月になる。なにも変わらなかったように時間が動いているのが、ふしぎで不自然だ。リュックの中の供え物が、背中でカサリとつぶやいた。

 親に内緒で祖母に会いに来たのは、亡くなる日の五日前だった。
「よく来たなぁ、入れ入れ」
 指の曲がった手を突きだして、猿のような手招きだ。「入れ入れ」が「へえれへえれ」に聞こえてしまう。早紀の母は、年寄りのこの仕草や発音が大嫌いだ。
「汚ならしい」
 という言葉がその口から出てきたときの衝撃は、いまだに生々しく思い出すことができる。
「ならお母さんだって、年をとったら汚くなるんだべさ? お婆ちゃんの娘だもね」
 カッとなって言うと、
「お母さんはお金があるし、あんな汚い年寄りなんかならないです!」
 と、小学生のケンカのような口調になった。
 どういう理由で母が生みの親を嫌うのか、早紀には分からない。納得のいく説明を受けたことがないからだ。父がポツリと、
「お母さんも色々あったからな」
 ともらしたことがあるきりだった。
 お金があったら指が曲がらないとでも言うのだろうか? 歯や舌や唇が思い通りの発音を保ってくれるとでも言うのだろうか? 反論したかったが、相手の顔を見てやめた。
 早紀にはアルバイトでためた小遣いがある。祖母に会いたければ、こっそり行けばよいと気づいたのだ。

「ほれ、こっち来て」
 綿のつぶれた座布団を大事そうに出してきて、トントン叩きながら祖母は言った。
「こんだまた何かあったのかい?」
 早紀は首を振った。
「なんもない。ただちょっと会いに来ただけ」
「学校にはついて行かれてるのかい」
「普通くらい」
 照れくさくてぽつりと答える。
(お婆ちゃんの心配のしかた、お母さんと違う)
 成績の良し悪しではなく、孫がみじめな思いをしていないかと気に病むのだ。じっと座ってお茶をいれてもらいながら、早紀は不意に、自分の方は一度もお茶をいれてやったことがないのに気がついた。
 急須《きゅうす》を持った手をとめて、驚いたように祖母が尋ねかけた。
「あれ、あんた泣いてるんでないの?」
「なんも泣いてないよ。コンタクトレンズがずれたんだわ」
「だけどもなんか、元気ないっしょ」
 早紀はもじもじとひざをつかんだ。
「あたし、初めてひとりで来たのに、お婆ちゃんにお土産も持たないで」
「そんなこといいから、いいから」
「でもさあ」
 ぐずぐず言っていると、祖母は得心がいったというような顔つきになって背筋を伸ばした。
「したらほれ、お婆ちゃんあれが好きなんだわ。あんたの好きなあれ」
 早紀は驚いて目をあげた。
「あれってチョコレートパイ?」
「そのなんとかだわ」
「お婆ちゃん、甘い物は嫌いでないの?」
「そんなことないない。これでそこの店いって買ってきてもらうべさ」
 祖母は洋茶棚の引き出しから財布を取り出してきて、千円札を握らせようとした。早紀は笑った。
「お婆ちゃんからお金もらったら、あたしが買ってあげたことにならないっしょ」
 祖母の小遣いを断るのは思いのほかてこずった。わずか数百円を自分のおごりにしようとして奮闘しているうちに、いちばん大事なことが頭から抜け落ちてしまったほどだ。懸命に説得して自分で買ったはいいものの、祖母の甘い物嫌いを思い出したのはちゃぶ台にお菓子をおいたあとのことだった。
 なんの進歩もなく一方的にもてなされ、いれてもらったお茶でチョコレートパイを流しこむと、甘さがのどにつまるようだった。

 あのあと祖母は、わざわざキップを買ってこの駅まで送ってくれた。早紀が降りたあと、発車を待ってちょんと座っていた姿が、今でも目に浮かぶ。終点であり始発でもあるこの駅なら、降りずにじっとしていれば再び家へ帰れると思ったのだろう。
 しかし車体は、もと来た方へは戻らなかった。扉が閉まったと思うや内の明かりがふつりと消えて、ねじ曲がったトンネルの奥へとゆるゆる吸いこまれていった。アナウンスの不備だったのか、聞き漏らしてしまったのかは分からない。車掌の見回りにも不手際があったのだろう。回送車になったのだ。
 回送車がどこへ行くのか早紀は知らない。どこへ行くにしろ、普通に考えれば軽く注意をうけて帰される程度のアクシデントだ。駅員が不機嫌であればねちねち言われもするだろうが、親切なら、
「お婆ちゃん、気をつけてね」
 と送り出されるかも知れない。けれど長い車体が蛇のようにうねりながらトンネルに飲みこまれるのを見たとき、胸の中に言いようのない黒い物が落ちてきた。
(追いかけないと!)
 危うく駆け出しそうになりながら、必死に理性で抑えた。
(幼稚園児じゃあるまいし、お婆ちゃんが回送車に乗っちゃったくらいで走り回って騒いだら、バカみたいだわ)
 背中が震えそうになるのを我慢しながら、早紀は「あらまあ」という笑いを装った。普通の人間のように。
 しばらく待ったが、祖母は戻ってこなかった。降ろされたあと、どこか別の出口から帰されたのだろうか。早紀は携帯を持っていない。家に戻ったあと、黙って会いに行ったことがばれるのを恐れながらも、電話のまえで、
「あんときはびっくりしたけど、無事に帰り着いたよ」
 という知らせがくるのを待った。冷静に考えれば、いちいちそんなことを言ってくるはずはないのだが。
(あのとき追いかければ良かった)
 切実にそう思う。追いかけたからといって、五日後に起こった発作を食いとめられたはずはない。回送車の闇の中へ行かせたから命がなくなったのだ、などと言ったら迷信家みたいに思われるだろう。
「行くのが五日あとだったら、お婆ちゃんを死なせなくてすんだかも」
 と言うと、クラスメイトは尋ねた。
「あんたまさか、自分のせいだと思ってるんじゃないべね」
「助けられたか知んない」
 母親の顔色を気にしながらバカみたいに電話のまえに座っていたあのときに、こちらから連絡していれば具合が悪いと分かったかも知れない。そんなことばかりを考えて、くよくよしてしまう。
「あたしもお婆ちゃんをひとりぼっちにした張本人だった」
「なんもあんたのせいじゃないって。元気だしなよ」
「頭で分かってもだめ……お婆ちゃんがかわいそう」
 かすれ声でつぶやいて、早紀は泣いた。
(あのとき回送車を追いかければよかった)
 自分を責める気持ちが、そんなことを思わせるのだろうか。祖母はひとりで死んだ。

 ぼんやり考えていると、風が巻き起こって目のまえに地下鉄が滑りこんできた。人が降りるのを待って乗りこもうとする。と、車内の電気が消えてしゃがれたアナウンスが叫んだ。
「二番ホームに到着した列車は回送列車となります。お客様はお乗りにならないよう、ご注意ねがいます」
(回送列車……)
 気がつかなかった。地下鉄も列車のうちなのか。何度も乗り降りしているのに、ふしぎなことだ。そう思った瞬間、早紀は閉まりかけた乗車口から飛びこんでいた。
 車掌にこっぴどく叱られて追い出されるならそれでよい。どうしても確かめなければならない。これが普通の列車だということを。

 いつもはドアから体を半分だして、乗客の安全を確かめているはずの車掌の姿が見えない。どうして飛び乗りに成功してしまったのか自分でもよく分からなかったが、とにかく早紀は回送車の中にいた。しゅうしゅうと気の抜けた音が響いて、今はこの箱が客を運ぶための入れ物ではないのだと知れる。電灯の消えた列車の中は別世界のように薄暗く、たとえ運転手ひとりであっても、本当に生きた人間がいるのかと思われた。
 息を殺しながら最後列へ歩いていくと、足元のやせこけた人影につまづいた。車掌に見とがめられることを恐れていたせいか、気づくのに一瞬おくれたのだ。
 人影は、
「うっ」
 とうめいた。
「ごめんなさい! だいじょうぶ?」
 あわててのぞきこむと、うずくまっていたのは子供だった。首や耳のうしろなど、薄暗がりで見ても随分きたならしいと思える。早紀はほっと肩をおとしてかがみこんだ。
「どうしたの、あんた。ひょっとして具合が悪いの? それで降りそこなったのかい?」
 子供は、
「ううぅん」
 と、くぐもった返事をした。否定とも肯定ともとれるような曖昧《あいまい》な響きだ。
「ぼくお腹がすいたの。お姉ちゃんもそう?」
「は?」
 お腹がすいたからとは、奇妙な理屈だ。
「あのさ。まさかお腹すいて動けなかったから降りれなかったなんて、言わないべね?」
 子供は不意に顔をあげて早紀を見た。ひそめた眉がもぞもぞ動いて、いぶかるような表情だった。
「お腹すいちゃだめ?」
「だめってことはないけどさあ」
「お腹がすいた」
 早紀は考えてからリュックをおろし、中からチョコレートパイの箱を取りだした。
「あげる、これ」
 子供は目を見開いた。暗がりにも光るほど瞳が潤んで、心底うれしそうだった。
「ほんとう?」
 早紀はうなずいた。子供は勇んで箱をあけようとしたが、すぐに手を止めてじっと下からうかがうようにした。
「どうしたの?」
「あのね。いくつまで食べられる?」
「え?」
「全部くれるわけじゃないでしょ」
「そんな甘ったるいもの全部たべれるの?」
「だってお腹すいてるから」
 答えたあと、子供は再びうつむいた。しばらく迷ってから早紀は言った。
「いいよ、全部たべても」
「ほんと? どうして?」
「どうしてってさ……、あんたが食べたがったんでないの。別に無理してたいらげろとは言ってないさあ」
 子供は菓子箱を抱えこんだ。
「そしたら全部もらった!」
 知らずに早紀は微笑していた。思い出だからといって祖母の嫌いな甘い物を供えに行くのも奇妙な話だ。お菓子はこの子にやって、花でも持っていくのが無難なのだ。
 気がつくと回送車はずいぶん長い距離を走っていた。早紀は少し不安になった。
「この列車、どこまで行くんだべねえ」
 子供はチョコレートにくるまれたパイをほおばりながら、
「分かんない」
 と答えた。
「回送車が引っこむ場所なんて、そんな遠くにあるわけないのに」
「運転手さんに頼んで止めてもらったらいいよ、お姉ちゃん」
「怒られるかなあ」
「そしたらぼく、ハラいたのフリしようか?」
「そんなにパクパク食べて、お腹が痛いはないんでないの?」
「食べすぎで痛いのはどう?」
 早紀は声を立てて笑った。
 突然、車内に大音響のアナウンスが響いた。
「誰か乗ってます! 停車して下さい!」
 笑いでのどつまりを起こしたように、早紀はひくっと言っていた。子供は手をたたいて喜んでいる。
「見つかっちゃった? でも降りられるよね」
「怒られるう」
「ぼくさ、ハラいたのフリしなくていい?」
「あんたみたくちっこいのが余計な細工するもんでないわ。謝っちゃえばいいんでない?」
 前方が明るくなった。トンネルをぬけたのだ。ここが地下鉄のメンテナンス場なのだろう。意外なことにとくべつ変わった施設は見あたらず、いつも乗り降りするホームとたいして違わないような気がする。車掌が顔を出して、
「お客さん。降りてください。ね?」
 と言った。怒ってはいないようだ。
「ごめんなさい、あたしたち」
「いいからいいから。今度から気をつけてね」
「はい」
 急いで降りると、あとから子供の続く気配がした。

 気配がしたと思ったのだ。
 ホームに降り立つと、乗りこんだときと同じように辺りのどこにも人の姿はなかった。いつもの始発駅だ。一本道でユーターンもせずに、どうやって戻ってきたのだろう? あの子供はまだ降りてこないのか? 状況が飲みこめずにきょろきょろしていると、地下鉄のドアがプシュウとつぶやいて閉まっていった。
「待って!」
 早紀は叫んだ。
「中に人が! まだ乗ってるんだから、走らないで!」
 どういうことなのだ? 地下鉄はさっきと同じ方向にすべり出している。レールがどこでループしているにしろ、一本しかないルートをひたすらまっすぐに走り続けて、どうして同じ方角から戻ってこられるのだろう。
(今度こそ追いかけないと!)
 走り出した地下鉄を、早紀は全速力で追いかけた。
「止めて止めて! 子供が乗ってるんだから! 車掌さん、車掌さん!」
 わめきながら手にしたポーチを力いっぱい車窓へ投げつけた。ポーチがバウンドしてホームへ返ってくる。車掌が慌てたように何かを叫び、走りかけの列車はすぐに速度をゆるめて止まっていった。
「まだ人がいるの! 小学生の子! 行かないで!」
 自分の声が猫のようにうなるのを聞きながら、早紀は肩で息をしていた。

 しばらくの間があった。
 顔をあげると、奇妙に薄暗い顔の車掌が目のまえに立っていた。
「だいじょうぶですか、お客さん。危ないからあんなことしちゃだめですよ」
「あたしはだいじょうぶだけれども……」
 車掌の頭が、カクリと落ちたようにうつむいた。なぜか言葉が続かない。言うべきことを思い出そうとして口をぱくぱくさせていると、帽子のつばの下から柔らかい声が響いた。
「あの子もだいじょうぶです。食べ物をくれたんですよね?」
「え」
 予想外の質問にうわずって見つめ返す。音をなくしたホームの中で、早紀は憂《うれ》いたような視線と出会った。
「あたしお菓子を」
 車掌はうなずき、窓へ向かって声をかけた。
「お礼は言ったのかい?」
 早紀は車掌が顔を向けたほうへ目を凝らした。そこにはからっぽの車両があるだけだ。
 と、窓のひとつが理由もなくぼんやりと曇りはじめ、やがてぺたりと子供の手のひらがあとをつけた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
 なにが起こっているのか分からない。混乱しながら振り向いたときには、車掌はドアから上半身をはみださせて発車の合図を送ろうとしていた。
「待って! あの子は?」
「わたしたちを追いかけなくとも、だいじょうぶですから」
「だいじょうぶって、どこへ行くの?」
 車掌は一瞬、目をふせた。
「あのお婆さん、とても喜んでいました。今ごろは穏やかに暮らしているでしょう。あなたにもお母さんにも、きっといいことがありますから」
 発車の合図に車体がうなる。ドアが閉まって車窓は闇になった。
「待ってお願い」
 こぶしを振って早紀は呼んだ。
 白い龍のような姿が走り出す直前、車掌は制帽をとり、胸へあてて静かに黙礼をかえした。回送列車はトンネルの奥へと吸いこまれていった。

2005.3.1
(c)Misato Oki 2005