もいちどチャンスを

九条忍さんの誕生祝いに貢ぎました


 誰にだって子供をもつ権利はあると思う。こんなところで毎日さえない手荷物預かり係をしているわたしだって、同じことだ。だから体の中に赤ちゃんが宿ったとき、欲しくてつくったわけではないけれど、本当に嬉しかった。思いもかけないことだった。絶対に授かるはずのない体だと思っていたから。このチャンスを逃したら、二度と一生ありはしないだろう。

 それを知ったとき、係長は青くなって怒鳴った。
「冗談じゃない、なんとかしろ!」
 わたしはむっとした。こちらに仕事の不手際でもあれば、もちろん彼は責任を負う。しかしべつだん赤ん坊の父親というわけではない。なんとかしろなどと命令される筋合いはなかった。押し黙って硬直していると、中沢主任も驚いたようすで
「すぐにみんなを呼んで、どうするか決めないと」
 と口走った。
「それより先にすることがあるだろう? こいつに赤ん坊の面倒がみられるわけじゃあるまいし」
「そうだ、ボケッとしている場合じゃないぞ」
 反論しなかったのはおじけづいたからではない。わたしは口が利けないのだ。
 たしかに荷物を預かる以外の能はない。ミルクだってオムツだって、その体じゃまともに面倒をみてやることができないだろう、と言われれば、それまでなのだけれど。
 誰かわたしを助けてはくれないだろうか? 全部ひとりですることができなければ、せっかくの赤ちゃんを無理やり体の中から引きずり出されてしまうのだろうか? 言葉を教える役やあやす役、食事やオムツの世話を、誰か頼まれてはくれないだろうか? こんなことを言う親は、この世にいてはいけないのだろうか?
 それとも言うことさえできないからダメなのか……。頭の中が白くなる。
「いったいどこの誰の子なんだ?」
 苛立ちながら主任が言った。わたしには答えられない。
 髪の長いあの人の子だ。落ち着きなく辺りを見回しながら荷物を預けに来た、あの人だ。たった二回、顔を見ただけだった。神経質そうに上から下までわたしを見回して、いま思えば最初からそのつもりで品定めに来たのだろう。二度目のあとあの人は姿を消し、わたしの体にはこの子が宿った。そうだ。普通なら答えられるはずだ。あの人はどこの誰なのか。
 だけどごめんね、どこの誰でもいいんだよ。興味なんかない。わたしにとって大事なのは、いまここにいる、この子だけ。わたしの中にいるんだよ。
「ぐずぐずしてると手遅れになるぞ。早く赤ん坊をなんとかしないと」
 わたしをよそに、男たちが勝手に相談していた。うるさい親じゃないくせに。お前たちなんか親じゃないくせに。ミルクもオムツも世話しようなんて考えない。この子の存在を必要とすらしていない。なのに世話したくてもできないだけのわたしから取るのか。こんなにも必要としているわたしから、奪うというのか?

 こちらが素直に従わないと知ると、男たちは慌てた。驚愕したと言っていい。無理もないだろう。今日まで黙々と荷物の世話をし続けて、誰からも誉められず顧みられることもなく、それでも嫌なようすのひとつだって見せたことはないのだから。人なみの意志や感情があるなんて、想像もしなかったに違いない。嫌がるわたしを、三人がかりでとり抑えにきた。
「おいおい、なんだか嫌がってるみたいに見えないか?」
 主任が戸惑うと係長が
「落ち着けよ!」
 と一喝した。
「とにかくまず、落ち着くんだ」
 そう言う係長の顔こそ蒼白だ。おびえてさえいるようだった。ことし入った新人などは、半分パニックになっている。
「なんとかしないとお前、このまま放っておいたら大変なことになるぞ」
「そんなこと言ったってどうすりゃいいんです? さっきからこんな状態じゃないですか!」
「落ち着け、落ち着け、落ち着けよ!」
「痛いっ!! かみつかれた!」
「犬じゃあるまいし」
「だってかみつきましたよ、指から血が出ました!」
「いったいどうしたんだ、わけが分からない!」
 なにを不思議があるのだろう? 暴れたってあたりまえだ。この人たちは何を言っているんだろう? わけが分からないのはどっちなのだろう?
 騒ぎを聞きつけて野次馬が集まってきた。助かった! 誰かが止めてくれるかも知れない。

「ちょっと、なんの騒ぎなの?」
 四十がらみの太った女の人が眉をひそめて尋ねる。すかさず係長は叫んだ。
「危ないからお客さんはさがっていてください!」
「え、なになに?」
 人ごみの中から若い女の人が進み出て、おずおずと口を差し挿んだ。
「あのう、なんの騒ぎでしょうか。わたしここに荷物を預けたんですけれど……」
 彼女は主任の怒声で飛びあがった。
「今はとりこみ中です! さがっていてください!!」
 見物人は暴れ狂うわたしを遠巻きにして首を伸ばし、目をしばたいて見つめている。これではどちらが加害者か分からない。
 口が利ければ。たったひとこと
「助けて」
 と言えさえすれば、すべてが変わるのに。
 渾身の力と怒りをこめて、わたしは男たちに体当たりを食らわせてやった。自慢じゃないが、体の大きさだけは誰にも負けない。それが思いつく限りの最後の抵抗だった。係長が悲鳴をあげて倒れ、気がつくとわたし自身も地面に転げていた。
「アッ、倒れた!」
 野次馬の中から声があがった。中沢主任が叫ぶ。
「赤ん坊がいるのになんてこったい! おい、だいじょうぶか? 二人とも無事なのかッ?」
 頭の中からすべてが消えて、何も考えられなくなった。
 体の中に赤ちゃんがいるのに、転ぶようなへまをして。……だからわたしではダメなのだろうか。
 お願いだから言って欲しい。間違いは誰にだってある。こういうこともあるよ。それでもあなたは赤ちゃんを愛しているに違いないと……。

 これを逃したら二度とチャンスはないだろう。分かっているのに、抵抗する気力がすうっと消えてゆくのが感じられた。



 冷たい器具を握った手が、ゆっくりと近づいてくる。赤ちゃんさようなら。体中を震わせるとかすかにきしむ音がした。
「ねえ、泣いてるみたいじゃないですか?」
 看護婦さんの声が心なしかにじんで響く。わたしに送られた、たったひとつの同情の言葉だ。器具を手にした男の言葉は容赦がない。
「そっちを抑えててくれないか」
 金属の感触が冷たく全身をつらぬいた。赤ちゃんは取り出された。

 看護婦さんが赤ちゃんを抱いて頬や腕に触れている。見守る人たちに向き直ると、
「みなさん、赤ちゃんはだいじょうぶですよ!」
 と微笑んでみせた。辺りから歓声があがった。
「ああ、良かった!」
「一時はどうなるかと思った」
 後ろの方からやって来た人が立ち止まり、
「どうしたんですか」
 と尋ねかける。
「ひどい母親がいるもんだねえ!」
 興奮しながら男の人がしゃべりはじめた。どんな風に言いふらされようと、じっとこらえるほかはない。
「コインロッカーから赤ん坊の泣き声がしたんだとさ。気がついて助けようとしたら、ロッカーが壊れててね。なんだか急に暴れ狂ったみたいにふたはバタバタするわ、開けようとした人の指は挟まれるわ、あげくの果てに倒れてきて駅員さんが下敷きになるわで、そりゃあもう大騒ぎだったよ。けっきょくロッカーのちょうつがいをドライバーで外して助けたんだけれどねぇ」
 
 虫の唸るようなうわさ話が遠くなる。
 もういちどチャンスが欲しい。誰かあの人を、わたしのまえに連れて来てはくれないだろうか。髪の長い、あの子の母親。彼女が現れて
「赤ん坊はそこのロッカーにあげたんです」
 と証言したら、ひょっとして許されはしないだろうか? わたしが母親になることを。

(壁紙:輝石工房 秋穂さん)

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2002.8.18