覗く目

「レッスンで疲れてるんだから、明日にしてくれればいいのに」
 ふくれてぶつぶつ言ったあと、瑞枝《みずえ》はこちらに向き直った。
「舞、かわりに行ってきてくれる?」
「エ、一人で?」
「あたしダメなんだもの、幽霊とか。それじゃあ頼んだわよ」
 返事をする間もない。瑞枝はさっさと姿を消した。
 幽霊が苦手なのはわたしの方だ。知ってるくせに。中学のキャンプのとき、嫌だと言ったのに無理やり墓地に連れて行って笑い者にしたくせに。本当にお化けが苦手なら、どうして瑞枝は一人で墓石のかげに隠れていたりできるのだろう? 待ち伏せしたりできるのだろう?
 それでもわたしは瑞枝に逆らうことができない。弱虫だから。今度だって、ダンスなんか興味ないのに無理やり初心者クラスにつき合わされた。
「申込書にアンタの名前、書いちゃったモーン」
 スパゲティの最後のひとくちをたいらげながら瑞枝がペロリと言ったときも、何も言い返せなかった。
「舞、知ってる? 今度の発表会。この出し物やるとね、知らないうちに群舞が一人増えるんだって。生き霊のとり憑いたアイテムとかもあるのよぉ」
 そう言ってみんなは笑う。キャンプのきもだめしの話を、早くも瑞枝が言いふらしたのだろう。


 事件はダンス教室が安ビルのフロアを借りて、ようやく細々とスタートしたころにさかのぼるという。
「あのころは鏡張りのレッスンルームを夢見ながら、夜のガラス窓に姿を映して練習したもんよ」
 先生は言った。そのころ生徒だった人が今は先生をやっているくらいだから、よほど古い話なのだろう。発表会の練習中に事故が起こった。大道具の衝立《ついたて》が倒れてきて、生徒が下敷きになったのだ。たいして重い衝立ではなかったそうだが、角の部分が後頭部を直撃したらしい。以来そのコは寝たきりになり、生命維持装置につながれることになった。
「いまでも発表会で踊る夢を見続けているんだって」
 瑞枝は言う。
「その証拠に、彼女が最後に練習していたのと同じ出し物をやると、知らないうちに群舞が一人増えるの。写真を撮ると、不自然に小さい子供みたいな頭が群舞のかげに写って、すっごくキモチ悪いんだって。だけど脚の数を数えると、頭の数より一人分すくないっていうのね」
 このほかにも事故にまつわる怪談話がいくつかある。問題の衝立はいまも物置のすみに封印されたように佇んでいるが、そばへよると人の隠れているような気配がする、だとか。ケガをしたコは衝立のかげから躍り出てくる演出だったのだ。その場面を練習していて、事故にあった。
「あの衝立みたことあるけど、一枚板じゃないのよね」
 中級クラスのコが教えてくれた。
「二枚の板が張り合わせてあって、真ん中に隙間があるの。衝立のすぐ後ろは壁のはずなのに、その隙間の向こうから人の姿がチラチラ動くって」
 
 今日のレッスンの帰りぎわ、先生は瑞枝に言った。
「物置から平均台を出してきて、そこに運んでおいてくれないかしら」
 レッスンが終わったあと最後に残っていたわたしたちを見て、二人で運んで欲しいと思ったのだろう。瑞枝はハーイと安く答え、全てを押しつけていった。
 引き受けたのは瑞枝なのに、わたし一人で運べというの? 手伝いすらしないの? レッスンが終わったあとの教室はシーンと静まり返り、人の気配すらない。わたしはみじめな気分になりながら、物置の方へのろのろ歩いていった。
 大丈夫だ。ちょっと薄暗いけれど、真っ暗なわけではない。太陽だって出ている時間だ。大丈夫。大丈夫。
 大丈夫と言い聞かせるごとに、心の中に何かが侵入してくるような気がする。埃とカビの臭いがこもった物置に入ったときには、一瞬たちすくんでしまった。明かりといえば天井近くの小さい窓からはいってくる、ぼんやりとした光だけ。道具類は入り口近くの小打楽器をのぞけば、塵と埃にまみれ、汚れきっている。わたしは思わずせき込んだ。平均台は大きくはないが、マットレスやわけの分からない道具類のかげに隠れて、いちばん奥に突っ込んである。あれを引きずり出さなければならないのか……。
 服が汚れないよう注意しながら、大道具をわきへよける。一人でやるのは本当に大変だ。とにかく重い。だんだん苛々してきて、ついやけ気味に丸めた絨毯を倒すと、バターンともの凄い音がした。
 ──と、その奥に、平均台と並んで大きな衝立がおいてあるのが目に入った。噂のとおり壁ぎわにピタリとついて埃をかぶっていた。真ん中を縦に裂くように走った板の継ぎ目は、想像以上に大きく深い。じっと見つめていると、飲み込まれそうな気がしてくる。わたしは視線をそらし、なるたけ見ないようにしながら、平均台に近づいていった。
 頭蓋骨の内側から、響くような鼓動が聞こえてくる。自分の心臓の音だ。小虫の這うような感覚がざわざわと背筋を襲う。──人の気配。わたしは凍りついた。

 気のせいだ。気配なんてあてにはならない。怖い怖いと思うからだ。呼吸を整えてあたりを見回す。空耳だろうか? どこからか微かな物音が聞こえるような。強く頭を振ってよけいな考えを追い出そうとする。気のせいだ。そんなこと、ありっこない。
 それでも気配は消えなかった。
 見てはいけない。思いながらも衝立の隙間の深い闇を見てしまう。暗い亀裂の奥で、何かが動いた。
 気のせいだ。そばへ寄って確かめればすぐに分かる。衝立の奥はすぐに壁。ほかに何があるというのか。
 いいややっぱり見てはいけない。分かっているのに体が引きよせられていく。確かに何かがうごめいている。確かに何かがいる。引き返せと命令しても、コントロールが麻痺したように足は歩みを止めなかった。
 わたしは隙間に目をあてた。薄暗い闇があるばかりでほとんど何も見えはしない……。ほうら、やっぱり気のせいだった。息をつきかけたとき、何かが目の前でパチリと動いた。

 目だ。目玉がある。向こうがわからこちらを見ている。まばたきと微かに感じられる気配、瞳のにぶい輝き。

 わたしは悲鳴をあげて腰をぬかした。逃げようとしてもがいていると、背後から人の気配が近づいてきて、口を利いた。
「一体なにを騒いでいるんだい?」
 顔をあげると、守衛さんが迷惑そうにつっ立っている。
「なんか倒れるような音がしたと思って見に来たら」
「衝立──」
 わたしは喘いで指さした。
「衝立のかげに人が──」
 守衛さんは眉根をよせて口を曲げる。
「ああ、覗いてしまったわけだ……」
 そう呟くと奥に進んでいき、衝立の裂け目に両手をかけた。裂け目は両側にパクリと割れて、扉のようにひらいていった。
「こりゃあ教室が貧乏で、ダンス用の練習部屋を借りられなかったときの記念品だよ。生徒さん、よくこの前で踊りの練習してたって聞くけど」
 口が利けなくなっているわたしの顔を見ながら、守衛さんはあきれたようにつけ足した。
「しかしアンタも物好きだねえ。三面鏡をこんなところから覗くなんて」